石動のブログ

アニメやら特撮やら映画やらの感想を書きます。

とある魔術の禁書目録20周年に寄せて 超個人的な禁書語り

 2024年4月10日。

 本日、ライトノベルとある魔術の禁書目録』(以下、「禁書」の略称を使用する)が開始から20周年を迎えた。

 

 禁書が一般的にどんな立ち位置の作品なのか、あらすじはどうか概要はどうか、恐らくこの記事を読んでくださっている方はもう既に知っているだろう。だから、いつもと違ってその説明は省くことにする。

 では、僕は今から何を書こうとしているのか。

 それら問いへの答えはひとつ。「僕の、禁書についての超個人的な思い出を語る」。あくまで僕の思い出を、書く。作品の内容だけじゃなく、時には僕自身の現実の話だってする。いつものは何とか「感想」の体に留めているけど、今回のに関しては完全に自分語りだ。自分の、禁書にまつわる思い出語り。

 だが、そんな超個人的な内容になってしまうのも、ある意味では仕方がないと思う。僕にとって、禁書は人生……そのもの、とは言えないけども。少なくとも、これまで漫然と生きてきた中で決して忘れられないほどの記憶を、無視できないほどの影響を与えられた、そんな作品なのだから。

 

「────心に、じゃないですか?」

 と、なんだか大仰に始まってしまったけど、僕は禁書が開始してからずっとファンだったわけではない。というか、旧約1巻の刊行時にはまだほとんど赤ん坊だ。

僕が禁書に出会ったのは8年前ほどのこと。調べてみると、新約最初の長編「オティヌス編」が終わりを迎えるくらいの頃に、中学校の図書館で、僕は禁書に初めて触れた。

 当時の僕は、学校図書館で本を借りては読むという生活をずっと続けていた。しかも借りた本の内容は、純文学でもハードカバーでもない。ライトノベルに限って、図書館に置いてあったライトノベルを片っ端から、僕は読みまくっていた。一日二冊ほどのペースで。

 なんでそんなことしてたのかと言われると、正直に言ってしまうとわからない。元々小学生の頃から本は好きで、その中でも青い鳥文庫角川つばさ文庫などの児童文学を読むのが好きだった。昔や今がどうかはわからないが、僕が熱心に読んでいた頃の児童文学の新作にはライトノベルっぽい、アニメ的なイラストやキャラクターや設定に比重を置かれた作品(怪盗レッド、妖界ナビ・ルナなど、これもまた青春のバイブル)が比較的多かったように感じる。もしかしたら、その延長線上に本場(?)のライトノベルがあったのかもしれない。あと恐らく、その時のクラスの人気者がアニメ好きで、その原作のライトノベルなんかも好んで読んでいたのにも影響を受けたのだろう。

 ともかく、僕は自由時間のほとんどを費やしてライトノベルを読み漁っていた。朝の読書も休み時間も部活から帰ったあとも、ずっと読んでいた。最初は、そのクラスの人気者が読んでいた『アクセル・ワールド』から。次に、同作者の『ソードアート・オンライン』を。そして三番目に手を出したのが、他でもない禁書だった。

 

とある魔術の禁書目録 (電撃文庫)

 最初に旧約1巻を読み終えた時の衝撃は、今でも覚えている。禁書もクラスの人気者に勧められて呼んだのだが、その頃の僕は結末を早く知りたいあまり小説の最後の方のページを読む前や読んでる途中にチラ見してしまう悪癖があった。その悪癖を旧約1巻にも例外なく適用した結果、終盤のはいむらきよたか(旧約1巻の頃は「灰村 キヨタカ」)先生絵の見開きと、「上条当麻は『死んだ』。」という衝撃的な一文だけ、事前に知ってしまっていた。

 にも関わらず旧約1巻の物語は、結末を知ってしまっている僕をそうとは思えないほどグイグイと引き込んでいった。学生達を超能力者に養成する巨大な学園都市。その最中で跋扈する、科学とは異なる体系を持った魔術師という存在。多くの秘密と闇を抱えた、白い修道服の少女。そして、彼女の影と笑顔に心を奪われた、我武者羅に手を伸ばし続けた、ある一人の無能力者の少年。

 

「───手を伸ばせば届くんだ、いい加減に始めようぜ、魔術師!」

 

 平凡な自分への失望と諦めを滲ませていた彼が、それらを振り切って迷いなくステイルに投げかけた言葉に、ヒーローになってインデックスを救ってやるという誓いに、心が震えた。自分が犠牲になるとわかっていながら歩を進めた覚悟に、頭を揺さぶられた。そして、『死んだ』の本当の意味を、今度はインデックスではなく上条さんが記憶を失ってしまったという結末を知り、想像を上回る衝撃を受けたのだ。

 なんて切ない結末なのかと、そう思った。それと同時に、優しい嘘でビターエンドを取り繕う透明な少年の姿を、美しいと感じてしまった。

 当時はただただ衝撃的で放心していたのだけど、今思うと、僕の創作に対する好みの一番深いところに禁書がかちっとハマったのが、その瞬間だったのだと思う。急に余談が挟まるのだが、僕はこれまでの人生の中で、『仮面ライダーオーズ』だったり、同時期に視聴していたDEEN版『Fate/stay night』だったり、喪失を伴いながらも前向きに日常へと回帰していく結末に脳を焼かれ続けていた。そこで培われた方向性、有り体に言ってしまうと創作作品の好みと完全一致し、僕の好みを決定づけたとどめの一撃が、旧約1巻だったのだ。

 

「傲慢だろうが何だろうが、お前自身が胸を張れるものを自分で選んでみろよ!!」

 そして一度魂をぶん殴られてからは、それはもう夢中になって禁書を読み進めた。旧約の前半の単巻完結、でありながらひとつひとつの密度が高く伏線もキャラクターの変化も世界観の構築も何もかもが詰まった良質なエピソード郡を、今思えば勿体ないほどの速度で読破していった。

 その次に現れるのが、旧約14巻以降の連続性の高い、所謂「神の右席編」と呼ばれるシリーズ。これまでの物語で丁寧に描かれた世界を土台に、巨大な組織どうしの戦いが描かれる。上条さん、そして一方通行、浜面仕上という彼に殴られてヒーローとなった第二・第三の主人公(友達に一通さんが主人公格になった辺りで「これからは三人体制でやってくからね」とネタバレされた時は主人公の上条さん・ヒロインのインデックス・サブ主人公の一通さんの三人体制だと思っていたので、SSで登場した浜面が旧約15巻でヒーローになった時は驚いた)は、自分の意思でもって、右の拳を握り戦場へと飛び込んでいった。

 その果てに、三主人公の中でも物語の核にいる上条さんは、自分がかつてインデックスについた嘘を、それを隠して彼女を救わんとする矛盾と向き合うことになる。旧約のラスボス、右方のフィアンマによって突きつけられたその問いに対して、上条さんは「守りたいから守る」のだという自らの願いを貫き、インデックスに真実を伝えたうえで帰ることを約束した。しかし、『神の力』が北極海接触し地球規模の危機を迎えるのを阻止するために単身要塞と共に突撃して姿をくらまし、そこで旧約の物語は幕を下ろすことになる。

 

 と、ここまで読んで、禁書を読んだことある方は何か疑問に思ったことはないだろうか。ストレートに言うと、原作で屈指の人気を誇る神の右席編の思い出語りがいくらなんでもスッキリし過ぎてないかと、思わなかっただろうか。

 少なくとも、僕が誰か他の人の禁書総括ブログを読んで、もし神の右席編についての記述がこれくらいの文量だけで終わったら、変とまでは言わないまでも「珍しいな」とは思う。だって、ほんとに神の右席編は完成度が高く、人気も高いシリーズなのだから。

 だからそんな自分の感覚に任せて疑問を仮設定して、これまた勝手にその問いに答えてしまうと、「あまり神の右席編に思い出がない」のだ。だから、あれほどの名エピソード郡なのに語りがあらすじだけでさらっと済んでしまったのだ。

 

とある魔術の禁書目録(20) (電撃文庫)

 勿論……というのもおかしいけども、つまらないとか面白くないとか思っているわけではない。神の右席編は、当然その前段階の学園都市編のエピソードも、どれも本当に面白く楽しく読んだ。今でも、それぞれの巻の好きなところなんていくらでも語れる。

 「2巻の透明な少年が上条当麻になるところ……」「9巻の倒れる直前の吹寄視点の上条さんの描写が良いよなあ」「13巻の木原数多、悪役として魅力的すぎる」「15巻の殺伐っぷり最高、浜面VS麦野はベストバウト」「17巻の上→イン過激描写やばい、あとウィリアム=オルフェル来る時の描写かっこよすぎ」「20巻の上条さんが一通さんと自分を重ね合わせながら打ち倒していく展開〜!」「白翼一通さん泣く」。いや、ほんとに。

 ただ思い出と言うと、初めて読んだ時の記憶を探ると、意外なほどに少ないのだ。思い出されるのは大抵二回目以降の記憶で、旧約1巻のような鮮烈な衝撃はどういうわけか見当たらない。今の自分としてはどれも大好きな巻なので甚だ疑問。ただ、色々考えると、たったひとつだけ思い当たる節があったりも。書いててひとつ思い出してきた。

 その「思い当たる節」について書くため、次の話を紹介しようと思う。

 

 今とは違って、中学生の僕には最低限のコミュニケーション力があった。だからそれなりに友達もいたわけなんだが、ある日その中の一人に、どういう流れだったかはわからないが、僕が禁書を読むよう勧めたのだ。学校の図書館で借りればすぐに読めるし、最初の方はそんなに分厚くもないしで、彼は比較的早く読んで感想を聞かせてくれた。

 だが、その内容というのが、「あまり面白くなかった」なんて、その、もう、許せないものだった。いやまあ感性なんて人によるし、今考えるとそんな長くないとはいえ友達の勧めてきた小説数冊を読んでくれただけで偉いなと思ったりもする。ただそれはそれとして、今よりもさらに若き日の僕は彼の感想に憤慨した。納得いかず、反射で理由まで聞いた。「同じパターンの繰り返しじゃん」。それが、彼が簡潔に述べた理由だった。

 いやー、厄介オタクなのと、その子とは後で色々あって割とちゃんと苦手になってしまったことから今書いても少しむむむとなってしまうのだが、しかし言いたいことはわからんでもない。というか、はっきり言ってしまうと「わかる」。禁書は同じパターンの繰り返しでつまらない。つまらないとは思わないけど、言ってること自体は、僕には結構わかってしまう。

 同じパターン。それはつまり、その巻のヒロインと上条さんが出会って、交流をして仲良くなって、でも悲劇的な設定がその娘にあることが明かされて、それに対して上条さんが立ち向かって、異なる正義を振りかざす敵役に説教で矛盾を突いて撃破して、最終的にはヒロインを救う、禁書の基本構造のことを指している。僕は大なり小なり、ほとんどのシリーズものはある程度同じパターンがあってそれを繰り返す(それがシリーズの魅力になっていく)と思っているのだが、その中でもかなり強く固定されたパターンが、禁書には存在する。

 全巻同じというわけでは全くなく、むしろ初期の4巻で早速例外がバンバン出てたりするし、大筋がパターンになってるだけでその中で描かれるキャラクターのドラマや心情描写は丁寧かつ新鮮なものなのだけれど、それでも作劇の要素を要素を分解すると、上記の流れのどれかには基本的に当てはまることが多いのは真実だ。かつての友人は、そんな禁書の性質が合わなかったのだろう。そして中学生の僕の場合も、そのパターンに少しだけの抵抗感があったことを覚えている。

 

 具体的に言ってしまうと、禁書を読み進めていく毎に、かつての僕は上条当麻というキャラクターが苦手になってしまっていったのだ。あれだけ旧約1巻の時は共感し胸を打たれた上条当麻というキャラクターに。その理由は、表面だけ見れば異常なまでにヒロインと出会い彼女達を見捨てることのないヒーロー性と、毎回の彼の敵役への所謂「説教」と、最終的なお約束の大勝利。それらの表面だけを見ると受けてしまう、「完璧超人」「人間らしくない」「物語の舞台装置としてのヒーロー」の印象。要するに僕の場合、禁書のパターンへの拒絶感が上条当麻という主人公への認識に現れていたのだろうと思う。拒絶感が積もりに積もって、上条さんを人間らしくない舞台装置としてのヒーローだと思い込んでしまっていた。

 そして、ここでさっきの話に戻るのだが、そんな主人公なんて物語のド中心にいる存在への苦手意識があったからこそ、初見時の僕は、神の右席編の内容に思い出と呼べるほどの記憶を持たなかったのではないだろうかと考えている。禁書を物凄い速度で読み進めていく中でいつしか上条さんへの認識が歪んでしまって、だからこそ彼の視点で確かに描かれたインデックスとの物語に、諦めず手を取りあって共に戦う「世界」の強さに、初見時は集中することができていなかった。だから、当時の思い出が、初見時の記憶がいまいち強く残っていないのだ。上条さんへの苦手意識に印象を持っていかれてしまって。

 ただ一方で、それとは逆に、僕は二回目以降の読破時の記憶に関しては思い出せてもいる。それはつまり、どこかのタイミングで上記のような不満、それをもたらしている大本の認識が変化したということだ。では一体いつ僕は、素直に旧約シリーズへの「好き」を認識し語ることが出来るようになったのだろうか。

 その答えとなるのが、旧約完結後に始まった新たなシリーズ、『新約 とある魔術の禁書目録』だ。同志をあまり見かけたことがないので言うのに少し慎重になってしまうのだが、僕にとって禁書と言えば新約だった。新約こそ、僕が本格的に禁書に熱中していくきっかけを作ってくれたシリーズなのである。

 

「だったら、俺がお前を助けてやる。世界の全てと戦ってでも!」

 僕が最初に禁書に出会ったのは中学校の図書館だったと書いた。そんな運命の場所であった図書館には、しかし禁書は新約のほんの序盤までしか蔵書がなかった。そこで僕は定期的に通っていた母方の実家、その駅に隣接している大きい図書館で禁書の続きを読むようになった。蔵書も多いとはいえ学校図書館とは利用者が段違いのところでの貸出なので、当然他の人に借りられていることも多発。そうして自然に、禁書を読むペースは落ちていった。

 ラノベを読み漁った三つ目のシリーズでそろそろマイブームが過ぎ去り始めていたこと、と言いながらも学校図書館では次のラノベシリーズとして『灼眼のシャナ』にどハマりしていたことから、旧約を読み始めた頃からは大きくモチベーションとペースを下げての読書だったことを覚えている。なんだかんだで読んではいたので、「面白い」という純然たる事実には気づいていたのだろう。ただ、先述の上条さんへの認識と読書状況の変化によって、旧約終盤に引き続き集中しての読書ではなかったことは想像に難くない。

 だがある日、そんな自分の禁書への態度が一変する。きっかけとなったのは、新約の最初の物語である「オティヌス編」も大詰めの、新約9巻。この巻で、僕は久々に悪癖をやらかしてしまった。「小説の最後を先に読んでしまう」やつ。さっきも言ったやつ。

 その悪癖の結果僕が目にしたのは、その前の巻まで完全にラスボスだったオティヌスを守らんと立ち上がる上条さんの姿。見開き絵まで描かれて、もうほんとに彼はオティヌスを助けるつもりらしい。なんだそれは。率直に言うと、その時の僕は腹を立てた。「今度は世界を壊したやつまで助けるっていうのか」「オティヌスまでヒロインにするつもりか」「その前に立ちはだかる、オティヌスを倒そうとするこれまでの仲間達のような存在に、また説教でもって勝利するのか」「どこまで優しくて、完璧超人で、都合のいいヒーローなんだよ」と。今思えば的外れで理不尽な怒りに駆られて、こうなったらそのまま読み切ってやろうと初めから文字に目を走らせた。そして、その内容に思いっきり顔面をぶん殴られた。

 以下に、過去のブログの文章を引用する。

 

オティヌスの圧倒的な力により「見方が変わった世界」で、あまりにもメタ的な、ある種の反則的な面から否定され、殺されていく上条さん。あまりにもボロボロで、だがそれでも立ち上がる彼に放たれる追いうち。その末にあった、彼のずっと内に秘められていた慟哭。それを知った瞬間に、読者は上条当麻というキャラクターを真の意味で理解することになる。

 

 ……そう。ご存知の通り、新約9巻は、そんな「完璧」に受け取られかねない上条当麻のヒーロー性を、とことんまで揺さぶっていく物語だった。オティヌスによって、世界ごと上条さんは否定されていく。何度も何度も何度も、果ては上条さんにとって一番大事なインデックスの笑顔さえもが、彼の心にヒビを入れる。それで一度心が折れて、それでも見つめ直して立ち上がって、今度は何度も何度も何度も立ち向かってオティヌスさえも理解して、その果てに、自分が本当に求めていたもの──「理解者」に思い至り世界を元に戻したオティヌスに、上条さんは「俺が助けてやる」と告げるのだ。その姿は決して舞台装置などではない。どこまでも揺さぶれた末に、見つめ直した末に、そのうえで彼自身の意思でオティヌスを守ると決めたのだ。

 この展開に、最後の上条さんの決断に、読み終えた時の僕はぶち上がってしまった。なんだこれは。すごいぞこれは。なんでこんなに熱いんだ。何でこんなに胸が熱くなるんだ。信じられないほどに。結果的な形だけ見ればいつものパターンで。最初に事の顛末だけ読んだ時は怒りさえ湧いたけど、でもその時の僕は立ち上がった上条さんの見開きにシビれていて、「それでこそ上条当麻だ」とまで思っていた。それってつまり、僕は上条さんが、禁書が好きだということなんじゃないのか。

 本当に、今でも鮮明に覚えている。ある夏の、土曜日の昼下がり。仕事や習い事で家族が出かけて、誰もいない部屋で新約9巻を読み終えたあの時。その瞬間こそが、僕の魂に『とある魔術の禁書目録』の名前が刻み込まれた、最初の瞬間だったのだと思う。これまで作劇への不満の矛先となっていた上条当麻というキャラクターを理解し、同時に自分が彼のヒーロー性に胸を躍らせているのを自覚して、初めて禁書を真の意味で楽しめるようになったのだ。

 

僕の中での禁書の面白さの定義

 以上の経験から、僕は自分の中で禁書の面白さをこう定義している。

 「真っ直ぐで胸アツなヒーロー活劇と、それを実際に展開する描写の徹底」。

 前者は言うまでもなく、先ほど述べた禁書の持つ強めのパターンのこと。一方で後者は、そのシリーズ・巻によって何が当てはまるかが大きく異なってくる。旧約の大半のエピソードでは、「実際に展開する描写の徹底」は、ドラマやキャラクターを描く筆致の精細さだった。丁寧に伏線を張り、世界観を構築し、キャラクターの心情を描き、それらを王道のエンタメに組み立てていく。それによって、繰り返される禁書のパターンが、根底にある独自の魅力が強く輝いていた。

 ただそれらの描写そのもの・創作そのものの丁寧なテクニック、「王道」をできるほどの完成度の高さを担保しているという事実については、中学生の僕には言語化できるほど理解出来ていなかった。だからこそ、僕はパターンを展開している構図を飲み込むことができずに不満を覚え、それを展開する主人公たる上条さんに苦手意識を持つようになってしまっていた。そこに異なったアプローチで大激突して来たのが、新約というシリーズだったのだ。

 新約9巻の例がわかりやすいように、新約における「それを実際に展開する描写の徹底」は、旧約では顧みられなかった「正しさ」「前提」を揺さぶり、改めて強度を確かめることで行われている。上条さんのやり方が場合によってはとんでもない悲劇をもたらすなんて、普段話している動機のさらに奥の奥にある人間的な本音が何かなんて、必ずしも掘り下げたり描いたりする必要はない。それでも、そこに自ら言及していく。時には王道のエンタメの範囲を出てしまうような展開すら行って、それでも作品内の「正しさ」を揺さぶっていく。

 そして、その揺さぶった末に、それでもそれは正しいと、様々な視点から考えたうえでそれでもこの道を進むのだと、新約は満を持して「真っ直ぐで胸アツなヒーロー活劇」を展開する。執拗なまでに強く揺さぶったからこそ、それでも叫ばれる「助けたい」という思いは、上条さんのヒーロー性は、何よりも輝かしく映る。

 まとめると、そんな揺さぶりからのパターン展開の極地、ある意味で極端すぎてむしろ「わかりやすい」形でもって禁書の面白さと自分が禁書の何を好きだったのかをわからせてくれたのが、新約9巻だったのである。2回目以降は、初回時に「面白い」だけで流していた新約序盤の揺さぶりからのパターン展開の描写、例えば「正義」の象徴のように扱われた後に本人が現れてる新約4巻の上条さんや、新約7巻の暴走する「ヒーロー」達への皮肉的な目線を見せながらも最終的には「守りたい」「救いたい」という思いは尊いはずだという結論を出す展開にも気づけたのだが、初見時に何よりも強く突き刺さってきたのがこの巻だった。

 

「言ったろ、もう終わりだ」

 これが本当にぶっ刺さりすぎて、新約9巻以降、僕は図書館にない場合は待つことが出来ずに新品、お金がない時は中古のものを購入して続きを読むようになっていった。正確に言うと、一度学校図書館にある旧約をちゃんと読み直してから続きを読み始めたのでそれなりに時間はかかったが、それでも熱量は冷めず、むしろ旧約を再読しちゃんと楽しめたことで禁書熱は高まっていた。

 そしてその熱は、続く「上里編」でさらに大きくなることになる。上里編では、鎌池和馬先生があとがきで『聖域』を破壊するという言葉で触れるほどまでに、新約における「揺さぶり」の特徴がパワーアップしていく。「命の危機に瀕したヒロインが周りにいて、善意から彼女を助けた結果慕われるようになる」という作品の構図そのものをメタり出した上里翔流という新たな「ヒーロー」。その在り方に嫌悪を覚える彼の心情の変化と、上里のスタンスと比較し相対化しながら自分自身の「繋がる」性質を理解する上条さん。巻を跨ぐ縦軸のドラマまでもを導入して行われた「揺さぶり」からのヒーロー活劇は大きな賛否両論を生んだが、新約9巻にわからされた僕にとっては終始納得と興奮しかないシリーズだった。

 

新約 とある魔術の禁書目録(22) リバース (電撃文庫)

 そして、上里編を読破した次、新約の締めくくりにして旧約最序盤から続いてきたアレイスター・クロウリーとの因縁に決着が着く「コロンゾン編」にて、僕はついに禁書の刊行に追いつくことになった。刊行に追いついたということは、これまでのように既存の巻を買ったり借りたりして一気に読む、物語の続きをすぐさま知るのはできなくなるということ。しかし、僕にとって続きを待つ時間は全く苦ではなかった。リアルタイムで作品を追いかけられる楽しみも勿論あったが、何よりも、コロンゾン編の物語が長年のファンへのご褒美のような内容だったのである。

 言わばコロンゾン編は、旧約と新約のハイブリッドのようなエピソード郡なのだ。旧約のような丁寧かつ真っ直ぐなエンタメ性と、新約のような大胆なまでの揺さぶりが同じ話の中に綺麗に同居している。その象徴が20巻と22巻リバースで、前者のイシス=デメーテルに取り込まれ攻撃を繰り返すオルソラと「対話」するという文脈ノりまくりの展開の果てに、「武器をとらず言葉だけで多くの人を救ってきた」オルソラの背景でぶん殴ってくる決着には、新旧禁書両者の熱が確かに宿っていたし、後者で「上条当麻」という存在そのものへの揺さぶりを乗り越えた上条さんがインデックスを取り戻し降り注ぐ羽を「右手で弾いた」ラストには、ただただ滂沱の涙を流していた。

 さらっとコロンゾン編をまとめたが、この辺りは刊行速度がそこまで高かったわけではないことも相まって、リアルタイムで追っている間に年月はどんどんと過ぎていっていた。それで年月が過ぎれば同じくらい色んなことが起きるわけで、かつてラノベばかりを読んでいた中学生もどうしようもなく進学だの受験だの青春だのを経験する羽目になっていた。中学校は卒業し、高校にも入学し、お互いに禁書好きという接点から初めての恋人ができ、演劇部に入部したと思ったら部長をやることになり……(ちなみに恋人とは一年前くらいに別れました、自分が悪いんだけど未だに少し悲しい)。

 こうして振り返るとそこそこ忙しかったけど、どんな時も禁書は好きだったし、その新刊の存在に勇気づけられてきた。先ほど演劇部の部長になったと書いたが、何度か脚本を担当することもあり、そこで自分が提出していた脚本には禁書の影響も受けたりしていた。具体的には、高校2年生の頃に書いた、ヒーローの仮面の裏を揺さぶって、でも最後にはヒーローとして再び戦う姿を描いた脚本は、どう見たって新約禁書のオマージュが入っていた。

   このブログに関してもそうだ。高校生で始めた月1未満のブログの更新。その中で度々禁書には触れて、先述したリバースについてはそれなりに語ったりもした。読み返すと今と考え方や捉え方が結構違う記述があり過去の自分と殴り合いになることもなはないけど、それでもその時は本気で禁書について書いていたんだと思う。そうして今、禁書20周年を理由にした自分語りなんてものを、相も変わらずブログに書いている。

 

 

 と、なんだかもう終わった作品の話をしてるような雰囲気が漂っているけど、『とある魔術の禁書目録』は全然終わってない。禁書の最新シリーズ、創約は現在絶賛刊行中、最新刊の10巻は本日発売だ。

 僕の肌感覚だと、新約で作風が変わって読むのをやめた人が多く、でも創約に切り替わってから読めてないという人もそこまでではないがちゃんといるというイメージがある。もしこれを読んでいるあなたの中に、純粋に自分に合わなかったという以外の理由、例えば新約で区切りがついて読む気がなくなってしまったという方がいたら、余計なお節介だとわかったうえで、「絶対読んだ方がいい!」と伝えさせてもらいたい。だって、禁書は今もこんなにも面白い。根底のヒーロー活劇はそのままに、尖りすぎてた(僕はそれが好き)新約よりも真っ直ぐに、けど旧約の二番煎じにならぬよう描写に工夫を凝らされた物語が、あなたを待っている。もし読んでる方でしたら握手です。同士。

 

 というわけで、最後は自分語りなのか創約おすすめブログなのかわからないまとめ方になってしまったが、ここで筆を置こうと思う。

 

 とある魔術の禁書目録、20周年おめでとうございます。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』のキラとアスランの殴り合い(一方的)、エモすぎやしませんか???

 どうも、石動です。

 先日、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の三回目を観に行ったんですよ。前回の感想ブログを書き終えてから初めての『FREEDOM』。といっても三回目なので、流石にそこまで大きな発見とかはないだろうなと高を括っていたんですが。

 あの、その、

 

 

 中盤のキラとアスランの殴り合い(一方的)のシーン、めちゃくちゃ良くないですか?????

 

 

 いや、良いとはこれまでも思ってたんですよ。なんなら、『FREEDOM』でも屈指で好きなシーンだったんですよ。前回の感想ブログでトリにしたくらいには重要で、感動したシーンだったんですよ。

 でも、これまでの視聴ではただただ感情面でぶん殴られていただけというか、恐らくこのシーンがどういう意味を持っていたのかを理解し切れていなかったんですね。本当に良いシーンなのでわからなくても心は十二分に揺さぶられるけど、色々考えるともっと読み取れることがあったんです。ヒルダさんが「修正してやるのが親友の役目さ」なんて台詞を言うので一・二回目の僕の脳みそは「SEEDシリーズ恒例の雑な1st・Zオマージュだ〜! その流れでキラの本音が聞けるの面白すぎるし嬉しすぎる〜!」で思考が止まってたのが、三回目にしてやっと繋がった。

 率直に言うと、このシーン、かの『SEED』の名シーン、「やめてよね」のセルフオマージュになってるんですよ。多分。

 

(「今更!?!?」という言葉は押しとどめてください。自分が一番よくわかってるんで。あと以下、一応予告で出されている以上のネタバレありです)

 

 

16.PHASE-17 カガリ再び

 SEEDシリーズを見ていてあんまわからんという人はいないだろうとは思うんですが、「やめてよね」というのは『機動戦士ガンダムSEED』PHASE-17において、キラがサイに言い放った台詞のことです。全部を書くと、「やめてよね……本気でケンカしたら、サイが僕に敵うはずないだろ……」。自分と許嫁だったフレイが、何故かキラと「そういう関係」になっている。そのことを問い詰めたサイからフレイを庇いながら、キラは冷たくそう言い放つ。

 ただ、これも見ればわかるですけど、キラは本気でこんなこと思ってるわけじゃないんですよね。この時のキラはメンタルがボロボロ。普通の学生だったのがある日突然戦いに巻き込まれ、友人を守るために地球連合の兵士として親友が所属するザフト軍と戦う羽目になり、地球に近づいてやっとのことで平和な日々に戻れるかと思ったら、(自分に選択権はあったにせよ)ずっと戦う理由だった友人達がアークエンジェルに残ったことで選択を余儀なくされる。それで戦うことを選ぶもその決断のきっかけになった女の子は死んでしまうし、そもそも以前より友人からさえもコーディネイターとして見られる扱いを受けててほんとにいっぱいいっぱいで、そこにフレイがつけ込んで優しくして共依存の関係になってる状態。

 そんな時に半ば自棄になって、ずっと兵士として「力」としてコーディネイターとして見られ続けた自分への皮肉のような形で零れたのが、「やめてよね」なんです。キラ的にはむしろ、その後の「フレイは、優しかったんだ……!」「僕がどんな思いで戦ってきたか、誰も気にもしないくせに!」が本音で。

 で、改めて振り返ってみると、キラのこの自分への皮肉・思い込みを完全に否定できた出来事って、SEEDシリーズにこれまでなかったんですよ。「力」としてすら求められてない……というより最悪な思い込みになりかねないことはあっても、その逆には至らなかった。

 

48.FINAL-PHASE 終わらない明日へ

 自分のことで精一杯で腕「力」で負けてしまったこの時のサイは当然無理だったとして、アスランラクスもカガリも、みんなキラのことを一人の人間として愛してはいたけど、明確にこの思いを否定するまでは至らなかった。だってアスランは、『DESTINY』においてキラがシンに負けるとは思ってなかったから。ラクスも、キラが落とされるとは思ってなくて、それで今作『FREEDOM』中盤においてファウンデーションにキラの撃墜許可を出したしまったのだから。

 「やめてよね」の場面に出てくるフレイに関しても、とうの昔にキラのことを理解して愛してしまっていて、というか最初はキラを復讐対象兼復讐を実現するための「力」「道具」として求めていた彼女がほとんど唯一キラの思い込みを否定できる子だったんだけど、声は届かず死んでしまった。フレイの想いはキラを守ったかもしれないけど、キラはフレイの言葉を聞くことは出来なかった。

 実際、最終回のクルーゼとの問答では、キラは(「力だけが、僕の全てじゃない!」に対する)「それが誰に分かる?」「何が分かる」「分からぬさ、誰にも!」に言い返せてない。正確に言うとこの後のやりとりも含めるとその言葉を認めたわけではないんだけど、少なくとも色々なシーンがフラッシュバックしちゃう程度には、「力」として求められた経験が、引いてはスーパーコーディネイターとして望まれたという出生が染み付いてしまってる。

 それで心壊したまま突っ走ってきたのが『DESTINY』から『FREEDOM』中盤までで、多分キラの「君らが弱いから!」は、「やめてよね」の時に抱えてた傷がまだ癒えていないという意味でもあったんですよね。「やめてよね」の時は友人を守る、フレイを守るための「力」として。『SEED』終盤以降(特に『DESTINY』でデスティニープランを否定してから)は、世界を平和にする使命を背負った「力」として、大なり小なり自分を位置づけてしまってる。

 


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 でも唯一、今回はあの時の違う点があるんです。それは、キラが自分の存在意義だと思い込みかけていた「力」でもって彼を圧倒し、ぶん殴ってくれる友達──アスランがいたこと。アスランはほんとに笑っちゃうくらい強くて、キラのパンチを一発をもらうことなく、彼の暴走を納めた(そんなアスランに「隊長は……!」と噛み付いてくれるシンもいる。ちなみに)。

 で、そこで投げかけられるのが、アスランの「ラクスは共に未来に進む者を求めていたんじゃないのか?」だったり、「ラクスさんは確かに平和を求めてはいたけど、誰かに平和をはいとプレゼントされたかったわけじゃない」って台詞なんですよ。アスランに「力」で負けて、仲間達に背中を押されて、やっとキラは世界を平和にする「力」としてラクスの望む平和を与えられなかったという後悔から逃れて、自分の「力」以外の側面を、自分自身で許せるようになってくるんです。

 そしてその果てにキラは、ラクスと「運命」「役割」を超えた「愛」を交わす。立場も何も関係なくただ純粋にお互いを愛していると、この世界を共に生きていきたいと言うことで、ついに「力」という役割から解き放たれて、互いに人間として想い合うことができるようになる。

 こう振り返ると、直接的に言及されてたわけではないけど、フレイの死によって救いの機会を失い続けたキラが、20年越しに呪縛から解き放たれる物語だったんですね、『FREEDOM』。セルフオマージュも「運命」の否定という『DESTINY』の延長線上の取り組みも何もかもと絡めて、キラ・ヤマトという人間の救済も行ってる。とんでもなく綺麗な構造。

 これを踏まえたら、もう死者でしかなくてキラに言葉を伝えられないフレイは、今回出てこないのもしょうがないのかなと少し納得してしまう。呪いから解き放たれたキラを見て満足して成仏しちゃったんじゃないかと、少し寂しくなってしまいました(まあ、それはそれとしてキラがフレイのことを忘れることはないとは思いますけどね!!)。

 

 

 まあちょっと気付くの遅かったなというのは自分的に反省してしまうんですが、それでも考えたことなんでとりあえずブログに書き殴ったのが今回でした。読んでくださりありがとうございます。

 あと何回観るかわからんけど、きっとその度に新たな発見があるんだろうな......!

感想『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』 開き直りと誠実さと

(以下、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』のネタバレ全開の感想になります)

sasa3655.hatenablog.com

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 自分にとってSEEDシリーズは、一概に「好き」とも「嫌い」とも言い難い作品だった。それは良くも悪くも印象に残らないという意味ではなく、むしろ作品に引き込まれ過ぎたあまりの総評だった。

 『機動戦士ガンダムSEED』では、前半で展開された「戦争」の愚かさを描くテーマ性に心を引き込まれた。特に、キラとの打算と依存の関係でもって戦争の愚かさと悲劇性の象徴となり、最終的にはキラの傷となって消えていったフレイ・アルスターというキャラクターには終始目を離すことができなかったし、今でも時々キラと彼女の関係性について考えてしまうほどだ。一方で、終盤でテーマ性の掘り下げの甘い部分が露呈し、しかもその欠点を改善することなくわかりやすい人間ドラマに「置き」にいった姿勢には、心の底から落胆してしまった。

 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』では、「運命」「役割」という劇中設定を活かした要素を付け加えて、前作においてある意味で視聴者に丸投げする形になって終わった「戦争」のテーマを補完せんとする試みに意欲を感じた。こちらにおいても、それらのテーマを体現するシン・アスカという「主人公」に、彼が平和を願う優しい心を少しずつ歪めていってしまい最後には自分の意思ではなく他者の「正義」「役割」を担ってしまう展開に、心を奪われた。同時に、「運命」「役割」を否定するキラ達の「正しさ」を全然信じさせてくれない描写に、シンにキラの提案を無批判で受け入れて同じ間違いを繰り返させる結末に、何故自分の描いたものを最後まで貫かないのかと怒りを覚えた。

 

 そんな、SEEDシリーズの最新作。『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』。

 当時からのファンにとっては約20年越しの、2021年から2023年の2年間を通して再放送でSEEDシリーズを鑑賞し去年はスペシャルエディションも劇場で追いかけた自分にとっては、ここ数年の地続きの物語の決着となる、そんな作品。『FREEDOM』は、一体どんなアプローチでコズミック・イラの物語を締めくくったのか。自分がこの三年間追いかけ続けたシリーズは、どのような結末を迎えるのか。

 それらの問いに対するアンサーはただ一つ。『FREEDOM』は、「愛」の物語だった。

 

 


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 究極のコーディネイターとして作られた、アコードという名の新人類。世界を統治するための存在として生み出された彼らと「母親」であるアウラは、計略によってキラ達の所属する組織「コンパス」の活動を停止させたうえで、彼らによって一度阻止されたデスティニープランを再び提唱する。そんなアコードの中には、ラクスの姿もあった。自分がアコードだったという真実を明かされたラクスと、洗脳能力によって情勢を混乱させられた挙句最愛の人を連れ去られたキラ。しかし彼らは自分の意思を曲げることなく、「愛」によってデスティニープランを否定する。

 20年近くの年月を経て動き出した本作だったが、いざ蓋を開けると、『DESTINY』からダイレクトに繋がる続編であった。それは単に作中の経過時間がたった2年後である、という以上に、『FREEDOM』で展開されたテーマ性までもが、『DESTINY』の延長線上にあるという意味を持っている。上記のあらすじからわかるように、今作は一度問いかけられた「運命」「役割」のテーマを、デュランダル議長の提唱したデスティニープラン(と言っても細部は結構異なったりするのだけど、「運命」に従って生きるという本質は同じである)を、そしてそれらに対するキラ達の否定を、今一度再演せんとする話だったのだ。

 しかし当然、ただ同じことを繰り返しているわけではない。敵の主張もキラ達の決断も大筋では似ているのだが、一点のみ、大きく異なる部分がある。それは、キラ達が「愛」によってデスティニープランを否定しているということだ。『DESTINY』では主張や心情の掘り下げが足りてなさ過ぎて曖昧になってしまった「運命」の否定を、今作は「愛」という概念でもってより具体的に、明確に行っている。

 「愛」と一言に言ってしまうとそれでもまだ抽象的すぎるだろうと思ってしまうが、実際の映画では、その概念に対してキラとラクスの関係性によって肉付けが行われる。お互いのことを誰よりも思い合いながらも、一定のラインを越えることはなかった二人の関係。他の恋愛関係にある登場人物達と比較して抑えられ、なんなら正直自分としては『SEED』でのラクスの描写が薄すぎてどういう関係性なのかわかっていなかった二人に、アコードとしてラクスと人生を共にし世界を統治する「運命」を与えられたオルフェによってメスが入れられる。そして皮肉なことに、オルフェが一歩踏み込んで一度関係を揺るがしたからこそ、キラとラクスはお互いの想いを吐露するに至る。

 これまでお互いに立場や負い目から気持ちを押し込めてしまっていた二人だったが、立場も役割も関係なくお互いを愛していると、愛しているから共にいたいのだと、ついに気持ちを通じ合わせることができたのだ。迷いを振り切り、躊躇いなく手を取りあった二人は、今まさに確かめた「愛」によってオルフェの示す「ラクスとオルフェで世界を統治する存在になる」という「運命」を否定する。

 「正しい」側にいながらむしろそのせいで「正しさ」を描くための道具になりがちで、人間として尊重されることが少なかった二人の関係に向き合い、さらに「運命」の否定に接続しかつて足りなかった「正しさ」の根拠を補完する。そんな取り組みこそが、今作の本懐だった。

 

去り際のロマンティクス

去り際のロマンティクス

 映画館でその結論を見届けた際に最初に零れたのは、ただただ「ありがとう」という感謝だった。

 上記のように、僕が『DESTINY』で大きく不満を持ったものの一つは「キラ達の正しさを正しいとは思えない、そのような描写が成功しているとは思えない」ということ。それを自覚したうえで、主要となるキラとラクスの関係性でもって補い再提示する。かつて描いたものを否定はせず、確かな力強さでもってこちらに投げつけてくる。真っ直ぐに投げつけてくれる、そんな心地よさと納得が、今作にはあった。作劇の技巧としても、キャラクターに対する向き合い方としても、あまりにも巧く、あまりにも真摯な姿勢を感じた。

 率直に言うと、あんなにも愛憎入り乱れた感情を抱いていたにも関わらず、今作を観てその気持ちの大半は浄化されてしまったのである。素直に、良かった。素直に、嬉しかった。SEEDシリーズを見てこんな気持ちで終われることがあるなんて、思いもしなかった。

 ただある意味では、それも当然のことなのだ。『DESTINY』はそもそも、『SEED』の足りなかった部分を様々に補完してくれた作品だった。その補完の中で、姿勢は理解出来たものの描写が追いついてこなかったというある種の「失敗」の象徴が、「運命」のテーマだった。

   それはつまり、その「失敗」さえ覆すことが出来れば、印象としては大きくプラスに傾くということなのだ。そして今作は、「失敗」の覆しを成し遂げた。言葉にするのは簡単だけど、でも決して楽じゃない道のりを、最後までしっかり歩みきったのだ。ならば、その姿勢に感謝を示すことこそあれ、不満を抱えることなどないだろう。少なくとも自分の気になっていたことを誠実に描いてくれたのだから、満足するしかないだろう。

   今ならばきっと、『SEED』も『DESTINY』も、もっとフラットな気持ちで楽しめる。そこにある描写は変わらないけど、一度救われてしまったらもう負けなのだ。惚れてしまった方の弱みなのだ。

 最後に、もう一度感謝の言葉を残しておこうと思う。ありがとう、SEEDシリーズ。三年間、本当に楽しかったです。

 

 

 ……いや。

 

 

 

 

 ……いや、その。

 

 

 

 

……その、なんというか。

 

 

 

 

 

 やっぱり……。

 

 

 

 

 

 

 ぜっっっっったいに、こんなテンションで振り返る作品じゃない!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

描き方が馬鹿過ぎる!!!

 別に、上記までの感想が間違ってるというわけではないんですよね。実際に、『FREEDOM』の根本はしっかりと、「運命」の否定という土台の上に成り立っている。ただ、あんな真面目ぶって書くような描き方ではなかったというか、書いててその語り口は間違ってないか?とさえ思ってしまうというか。

 そもそも、あらすじをまとめている時点でちょっと馬鹿なところが出ていたとも思うんですよね。洗脳能力って何? そもそも「運命」を否定するのが「愛」って、簡単に書くけど実際のお話でどうそれを台詞にするの?

 前者はもう何も言えることがなくて、アコード達は人の心を読むことが出来て、かつある程度までなら干渉もできるという設定があるんです。一応はシリアスにリアリティライン高めにやってきたSEEDシリーズでそんな馬鹿なと思うけど本当にそうで、何ならアコード間でテレパシーを使えてしまうのだから仕方ない。演出も古のニュータイプ描写を何の捻りもなく現代の映像で模倣しているようなものだし、洗脳能力を使うときは「闇に墜ちろ!」なんて直球の表現を大真面目な顔して言うし、はっきり言って無茶苦茶だ。そもそも、アコードの設定自体がテーマの話を整理するために無から生えてきたもので、作中の彼らの所業もあまりにあくどく、少し「気持ちよく倒せる敵」「総括をするために出てきた敵」過ぎるきらいがある。リアリティラインを半ば無視した設定と、あまりに恣意的な敵の存在が、強引すぎる作劇を象徴している。

 後者もほんとにそのままで、オルフェとアグネスのアプローチによって画面が無理矢理恋愛ドラマじみたアレになり、その中でキラとラクスが「運命」に対する結論を出すことになる。何なら終盤は、ラクスに想いを伝えられて舞い上がってるのかわからないけど、全然関係ないガチの戦闘中にキラが急に「僕には武器がある!」「ラクスの愛だ!」とまで言い出して、ラクスは本当にキラに強化パーツを届けに来て、ドッキングして一つの機体を操ったりする。言葉通り、「愛」の力でオルフェ達の主張を打ち砕くんです。『SEED』から恋愛関係のもつれで「戦争」のテーマを描いたりしていた(そして僕もフレイが好きなようにその話運びこそSEEDシリーズだとは思ってる)ので最後に「愛」の話に帰結するのはらしくはあるんですが、それはそれとしてめちゃくちゃだよ!!! 描き方もこれまでと違ってなんか浮かれてるよ!!!!

 

強行

強行

 今作の性質の悪いところが、恐らくはその無理矢理感を自覚したうえでやっていること。話運びが恣意的過ぎることも、アンサーの描き方があまりに無理矢理なのも、作る側はわかっている。わかったうえで、「今作はこういうアンサーを出すんじゃ!!」「これがこの作品の正しさだ!!!」と一種の開き直りを見せている。

 でもだからといって、その開き直りが欠点になるというわけでもないのが本当に良くない。『DESTINY』では、なんなら『SEED』においても、SEEDシリーズの描く「正しさ」は見ていてどこか首をかしげるようなものがあった。番組が「正しさ」として描いているのはわかるけど、それをそのまま飲み込めるまでは、これまでの描写では辿り着いていないことが多々あった。

 そんなSEEDシリーズが、劇場版の大舞台でなんか開き直ってるんですよ。もう露骨なまでのやり方で、「正しさ」を「正しさ」として描いているんですよ。キラ達の武力がやばかったり、最終的にアコード達は全滅するようにそれに相反する価値観には異常に狭量だったり、根本的な「正しさ」の問題点は、性格の悪さは変わってないんです。変わってないんですけど、ここまで堂々と自信に満ち溢れた筆致で描かれては、「そうか……お前はそれが言いたいんだな……!」と受け入れるしかない。細かい不満や違和感はそれでも出るけれど、えげつないスピード感と怒涛の如く押し寄せるサービスシーンでまあいいかと満足してしまう。結局は無理矢理な感覚まで制作側の思い通りで、しかも知らず知らずのうちに僕もその思惑に気持ち良く乗っかってしまっていることに気付くんです。

 だから、上記のテーマ周りの話だけでは『FREEDOM』を語り切ることはできないと思うんです。少なくとも僕は、全然語り足りていない。もっともっと、悪態をつきながら今作を褒めたたえたい。きっと、そういう語り方をするのが正しいんだと思う。実際にお出しされた描写の一個一個にキレて爆笑して涙して、そういうことを語った方がいいんだと思う。

 なので以下、好きなシーン語ります!!!

 

カップリング描写!!! 公式最大手!!!

 真っ先に言いたいのが、こう、みんな色ボケ過ぎだ馬鹿野郎!!

 キラとラクスは言うまでもないんですが、全体的に今作はみんな色ボケしてます。いやまあ前半までは大人しめなんですが、終盤で急にはっちゃけはじめます。

 その中で一番印象的だったのがアスランカガリ。自分は『DESTINY』はちゃんと二人の話をしてたし破局もしてないだろと思っていたのですが、今作はよく言われる噂を取っ払おうという意思すら感じるイチャイチャでした。アスランが後半まで出てこないうえにカガリがオーブの国家元首として頑張ってるので絡み自体は少ないんですが、最終決戦でアスランが急にカガリのエロい妄想をし始めたりします。それで心を読むアコードの能力を翻弄して、カガリによる機体の遠隔操作で裏をかいて一撃入れたりします。戦闘が終わった後もお互いに送ったお守りと指輪をネックレスにしてるのを見せ合ったり、とにかく一回一回の破壊力が凄かったですね。それでアスランに尽くしてるメイリンはどういう心情なんだよ(素直な疑問)。

 というかカップリング描写の話題からはそれてしまうんですが、今作のアスランは中盤に登場してからずっと大暴れですごかったです。そもそも初登場が赤いズゴックに乗った状態でキラやシンをボコったブラックナイトスコードとわたりあうシーンなのが強すぎて笑うし、キラとの殴り合いで一発ももらってないのが面白すぎるし、なんか異様にシュラを煽るし、ズゴック割れたと思ったら中からインフィニットジャスティスガンダム弐式が出てきたり、頼りになり過ぎた結果なんか唯一無二の存在になってる。お前がナンバーワンだ。

 少し真面目な話をすると、シュラへのラストアタックを決めた時の台詞も印象的でした。「強さは力じゃない! 生きる意思だ!」。カガリに言われた「生きる方が、戦いだ!」を意識した台詞なのは明らかで、やっとアスランの中でひとつの答えが出たんだなって……。

 

ロボットアクションでのうがとける

 ストライクフリーダムガンダム弐式!! デスティニーガンダムSpecⅡ!! インパルスガンダムSpecⅡ!! デュエルブリッツガンダム!! ライトニングバスターガンダム!! マイティーストライクフリーダムガンダム!!(語彙崩壊)

 もう、観てる時の脳内はこんな感じでした。最序盤の主題歌が流れながらの戦闘も導入として素晴らしかったですが、やはり一番テンションが上がったのは後半の総力戦。一度敗北したキラ達が、次々とかつての機体のアップデート版に搭乗するファンサービスには、否が応でも心が震える。

 インパルスは公開前に情報が出ていて、ストフリとインジャもこの展開で流石に出ないことはないだろうと思っていたので、それらよりも意表を突いて出てきたデュエルとバスターが個人的には良かったですね。なんかしれっと核動力に換装してるのは条約ワロタといったところなんですけども。まあ敵がレクイエム使ってきたんだからしょうがないか。

 

出撃!デスティニー

出撃!デスティニー

 あとやっぱり、デスティニーの大活躍も外せません。本編ではデスティニープランを象徴するような機体で、かつシンがこれに乗ってる時はメンタルがずっと最悪で活躍がかなり限られた不遇の主役機でした。そんなんなので良い思い出ないしシンは乗らないんじゃと思ってたんですけど、そんな文脈をぶった切って、かつてないほどの活躍を見せてくれたんですよね。長距離ビーム砲にアロンダイトパルマフィオキーナに、本編で印象的だった(でもなかなか決まらなかった)武装をフルで活用し、そのうえでブラックナイトスコード四人を無傷でボコボコにしてたのが超かっこよかったです。

 「前はジャスティスだったから負けたんだ!」「デスティニーなら、お前らなんかに!」という台詞も、シンの機体への信頼と変わらぬアスランへの反骨精神を象徴しているようでニヤついてしまいました。あんまり絡みなくとも、こういうところで関係性を見せてくれるのが好き。

 こうやって振り返って見ると、ちょいちょい書いたようにツッコミどころも満載なんですよね、MSの出番周りも。それでも盛り上がりに飲み込まれることができたのは、先述のようなファンサービスの密度があってこそ。機体の搭乗だけでなく、デスティニー・インパルス・ゲルググが出撃する際に『出撃! インパルス』のアレンジが流れたり(ほんとに好きなんだあの劇伴、あと曲名見たら『出撃! デスティニー』で泣いた)、マイティーストライクフリーダム完成時に『Meteor -ミーティア-』が完璧なタイミングで流れたり、音楽面も終始完璧でした。

 

シン・アスカに対するモヤモヤと満足

 デスティニーガンダム続きで書くんですけど、『DESTINY』のラストシーンの最悪さの印象から一番不安だったシンの扱いも、観ている間ずっと釘付けになってしまいました。

 まず何が良かったって、今作のシンは皆に可愛がられる後輩としての立場が強調されているんですね。一人で戦うキラに「オレ信頼されてないのかな……」とぼやき、自分がディスられてるとも知らずアグネスとルナマリアの会話に「何の話?」と割り込み(立食パーティーの食事で皿一杯に盛ってるのがかわいい)、後半初めてキラに信頼でもって戦闘を託されて大喜びし(アスランにもヒルダにもルナマリアにもメイリンにすら微笑ましく見られているのが立場を表しているなあと)、ムウと「おっさん!」「おっさんじゃない!」というやりとりを交わす。もうこれは、シンをずっと好きだった身としては喜ぶしかない。シンがかわいいのは俺もわかってたので。

 

 ただ正直に言うと、デスティニーに乗り込むくらいまでは、喜びつつも少し物足りない、複雑な気持ちでシンを見守ってたんですね。何故かって、今作のシンは、テーマや物語の本筋に関わっているわけじゃない。キラとラクス以外の味方は基本そうなんだけど、あくまで頼りになる仲間達の一人のような扱いで、ドラマというドラマも展開されない。

 あと、僕がシンを好きになったのは、本当の優しくかわいい少年としての性格が、悲しみと怒りによって刺々しく突っ張ってしまうところだったのもモヤモヤの理由でした。その矛先が前作主人公達にも遠慮なく向けられるからこそ、僕はシンの言動に鮮烈さを覚えた。そんなシンが前大戦のことをあまり引きずらずコンパスの面々にかわいがられているのは、成長かもしれないけど、僕の最初の「好き」とは異なるものでした(今更だけどキモい言い回しだな……)。なんというか、マスコット化したような印象を受けてしまったんですね。

 僕が『DESTINY』ラストで一番許せなかった、シンが結局は他者の正義を無批判で受け入れる過ちを繰り返してるという点も、変わらないどころか加速してるし。前はデュランダルとレイの正義を代行してたのが、今もその先がキラに変わっただけに見えちゃうし。

 

 しかし、その先で描かれたシーンで、僕のそんなモヤモヤは綺麗さっぱり晴れてしまいました。具体的には、相手どっている四人のアコード達が能力でもってシンを惑わそうとする場面。シンの精神に干渉した(「闇に墜ちろ!」)彼らは、シンの心の中でステラの姿を見る。ステラはシンを守ろうと怪物に姿を変えてアコード達を恐怖させ、それを受けた彼らは思わず「こいつの闇は深すぎる……!」と漏らす。

 描き方はギャグみたいなんですけど(正直ここでふざける意味はないのでこれに関しては普通にモヤモヤはしてますがそれはそれとして)、アコード達の台詞の通り、この場面ではシンの心の闇が直球で描かれているんですよ。すっかり更生してかわいいだけの後輩のようになっていたシンだけど、その心の中にはまだ、ステラを失った悲しみと怒りが残っている。それはきっと、マユも両親も、レイも同様に。その事実をぼかしながらも描いてくれたのが、シンにちゃんと向き合ってくれてるように感じて、本当に嬉しかった。

 

Meteor -ミーティア-

Meteor -ミーティア-

 そして、シンが同じ過ちを繰り返してる問題も、今作終盤において少しだけ解決を見る。『DESTINY』ではふわふわした言葉で否定されていた「運命」が、「愛」によって再び、より明確に否定される。これってつまり、作中の「正しさ」が「愛」という具体性を得たということで、「運命」を背負ってきたシンへの視線にも変化が訪れるって意味なんです。

 かなり無理矢理な納得のさせ方だけど、「悲しみを残しながらも、自分を愛してくれる皆と一緒に人生エンジョイしてるシンもちゃんとテーマを体現してることになるのでは……?」と、そう思えてくる。ルナマリアがシンへの想いをアグネスに当然のように告げたことや、ラストシーンにおいてかつて望まぬまま守ることになってしまったレクイエムを自分の手で破壊し今度はオーブを守れたことで、その解釈の余地はどんどんと大きくなる。確かに他者の正義に従ってしまっている側面はあるかもしれないけど、少なくとも『DESTINY』と違ってシンが「守りたい」と望んでいるもののために戦えているということが重要なのではないかと、そう思えてくる。

 ものすごくめんどくさくて遠回りなロジックなんですが、そう考えたうえで二回目の視聴に臨んだところ、序盤でアグネスにデュランダル議長の手駒となっていたことを指摘され曇る場面があったことを思い出しました。自分が勝手にモヤってただけで、『FREEDOM』はシンをマスコットになんてしていなかった。ちゃんとシンに向き合ったうえで、前向きに仲間と頑張ろうとするシンの姿を描いていたのだと、そう気づけました。だからこそ、最高潮でデスティニーに乗って無双するシーンに、心の底からノれたんです。

(先ほど『Meteor -ミーティア-』の話もしましたが、そのサビの部分にシンの活躍が当てられてたのもめちゃくちゃ良かったです。物語の主題ではあったけどもそれ故にまともな活躍が少なかった彼が、挿入歌に合わせてヒロイックに活躍する光景が見られるなんて……)

 

キラ・ヤマトというキャラクターについて

 本作の滅茶苦茶を許せた一番大きな理由は、彼の本音がやっと聞けたからなんだと思います。最後に、それについて語って終わろうかなと。

 どのシーンのことかというと、物語の中盤、一度敗北したキラが弱音を漏らし、アスランと殴り合いになる場面。シリアスな雰囲気で滅茶苦茶な話をやっているのに不安を覚えた前半と、物語の本懐を明かすと同時に自棄のようにファンサービスをふりまき始めて混乱した後半の、ちょうど転換点になるタイミング。そこでキラは、ファウンデーションに立ち向かわんとする仲間達とは対照的に、「どうせ無駄だよ」と後ろ向きな言葉を零す。さらにはアスランの激昂に反論する中で、「ラクスは僕を捨てた!」なんて子どもみたいな泣き言を、「しょうがないじゃないか、君達が弱いから!」なんて横柄な物言いを、仲間の皆にぶつけてしまう。

 

 『SEED』終盤、特に『DESTINY』でのキラは、心に傷を負いながらも戦うことを選んだこと、また圧倒的な力をそのために手に入れたことで、どこか人間離れした振る舞いに見えることがありました。『DESTINY』の最後では世界まで背負ってしまって、表面だけ見れば、もう悟ってしまったのかとすら思うほど。

 でも当然、そんなことはないんです。キラはただ大切な人が傷つくのが嫌で、黙って見ているのが嫌で、苦しみながらも自分のできることをしようとしていただけ。本質は『SEED』の頃から何も変わっていない、戦いが嫌いで、でも大切な者を守りたい、普通の青年がキラ・ヤマトなんだと。そんな彼が一人で抱え込んで、終わらない争いに疲弊して、ラクスには伝えたい言葉も言えずに離れ離れになってしまって、その末に出たのが、「しょうがないじゃないか、君達が弱いから!」なんです。これほどに傲慢で、愚かしくて、独りよがりな言葉を、キラはまだ秘めていた。持っていてくれた。

 

 その事実で、それを描いてくれたことで、やっと自分の中でSEEDシリーズ最後の一ピースがハマったように感じました。「正しさ」を描くための道具ではない、一人のキャラクターとして尊重されたキラが、やっと見られたと感じました。

 正直に言うと、キラの話をするならフレイにも言及してくれとか、そんな未練も少しはある。偏った視点からの不満は、どうしても出てしまう。

 でもやっぱり、こんな真摯な姿勢には文句は言えない。ここから一気にファンサービスとテーマの補完と共に物語を繰り出されたら、勢いに任せたの無茶苦茶さも、細かい不満も、全てに目をつむってしまう。

 最初にアコード達の設定や作劇はあまりに恣意的に過ぎるという感想を書きましたが、同時に『FREEDOM』は、20年間育ててきたキャラクターに対しては、とことん誠実に向き合っていました。キラも、シンも、アスランも、カガリラクスも。

 そのことに、やっぱり改めてお礼を言いたいです。ありがとうございました。最後までなんだかんだ言ったけど、やっぱりSEEDシリーズ大好きです……。

 

 

 

 

 

 というわけで、『FREEDOM』感想でした。書きたいことは大体書き尽くしたので、この辺で筆を置こうと思います。書いている内に盛り上がり過ぎていつにもましてキモいノリの文章になってしまいましたが、最後まで読んだくださりありがとうございます。二部構成的な書き方なのに最終的な文言がどちらも感謝の言葉になってしまったのは、それだけ僕が今作を楽しめたということの証なんだと思います。心の底から楽しめたし、心の底から感謝が湧き上がってきた。だから、何の憂いもなく、SEEDシリーズとお別れできます。

 買っててよかった、デスティニーのHGCE。

 

 

 

 

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2023年に見た新作アニメ・特撮で特に良かったものをまとめる

 どうも、石動です。

 いよいよ2023年もあと一日。というか、今書いてる時点であと一時間です。毎度毎度滑り込みになってしまいますね……。

 いつもは見た作品を全部語っていくのですが、今回は時間がないのとそんな作品数を観れてないのあって特に良かったものだけ語っていきます。では、今年見た新作アニメ・特撮のまとめ、やっていきます!

 

映画編

グリッドマン ユニバース

グリッドマン ユニバース

 実質的には描かれることがなかった響裕太本人の物語も、彼から一時の青春を奪ってしまったグリッドマン個人の罪悪感の行方も、そんな人間的なグリッドマンの描写から導き出される(本編では唐突なオマージュにしか見えなかった)「限りある命」のメッセージの再提示も、肥大化した「グリッドマン」というコンテンツに対しての(本編の裕太達が作り物だった真実を絡めた)総括も、ラストのアカネの世界で実写を導入した『SSSS.GRIDMAN』と違って「グリッドマンなのに2次元のアニメ」だということに意味を持たせられなかった『SSSS.DYNAZENON』の描写の補完も、言うまでもなく『SSSS.GRIDMAN』と『SSSS.DYNAZENON』のクロスオーバーも、何もかもを2時間でやりきった怪作にして快作。今年も色んな作品を摂取したけど、最強のエンタメは間違いなくユニバースだったと断言出来る。

 これだけの要素を入れても破綻することなく、むしろグリッドマンの罪悪感と「限りある命」のメッセージのように各々がドッキングする形で補い合ってひとつの物語になっているのが本当にすごかったなあと。エンディングで流れる「僕に見せて 君だけのユニバース」があまりにも本作の本質を示してるおかげでエンドロールですら作品の要素を束ねて殴ってきてたし。カオスなのにまとまっていてやりたいことも明確で、常に満足感がマックスになるとんでもない映像作品でした。ガチの傑作。

 

映画 仮面ライダーギーツ 4人のエースと黒狐

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 『ギーツ』本編は個人的にかなり評価に困る作品で、年末の種明かしや英寿VS景和で最高潮に盛り上げて、年明けからいざ突入した2クール目もバラエティ豊かな展開で楽しませてくれていたのが、天国と地獄ゲーム辺りから様子がおかしくなり、創世編で明後日の方向にかっとんでいった……という印象。

 具体的には、「願い」というテーマ自体はそれまでと変わらないのに、その出力の仕方がどこかおかしいなと感じたんですね。必要ないレベルまで「ゲーム」に拘り続けたり、「願い」に対する追求が仲間内の都合いいものしかなくいまいち掘り下げられてなかったり、景和関連の話はずっと進んでるんだか進んでないんだかがわかりにくかったり、またそれら三つの要因が重なった結果最終決戦の唐突さと盛り上がらなさが過去最高に達したり(本当に幸福の上限が決まってる世界だとは思ってなかったので英寿がルールを書き換えたカタルシスも感じられなかった、というか創世の力のルールもわからん)、とにかく口を開くと文句しか出てこない印象で。最終回を見るまでは「まあ最後の最後で世界改変のインパクトを見せてくれるでしょ」と思って気にならなかったのが、消化不良過ぎるオチで一気に吹き出てしまって……。

 ただ、同じくらい良いところも確かにあったとも思うんですよね。特に、前半のデスゲームとかリアリティショーとか現代風のワードが飛び交うヒーロー番組としては斜に構えた(それもライダーらしくて良かったんだけども)雰囲気から、同じ設定のまま使い方を変えて「本気で願って、仲間と共に前に進んでいけば、願いは必ず叶う」という子ども向け番組らしい真っ直ぐなメッセージに帰結したことはかなり良かったと思います。「じゃあ敵側の倫理に反するような願いはどうなるの?」みたいなツッコミに対する反論は用意されていないのはやはり気になるものの、「願いは叶う」ということだけは叫ばれるので、とりあえず言いたいことは伝わってくる。英寿の創世の力の「自分だけの力じゃダメで、誰かの強い願いを受けて初めて発動できる」という設定・仲間達がぶつかり合いながらも同じ願いに向かって協力していく構図もちゃんとテーマに対応していて、それらが一体となったメッセージには確かな力が宿っている。

 で、やっと映画本編の話になるんですが、そんな『ギーツ』の良いところが詰まってたのが『4人のエースと黒狐』だったと思うんですよね。英寿を「知恵」「力」「運」「心」に4分割して弱体化、各個撃破し取り込んでいくメラの作戦を用いて「英寿の本質は知恵でも力でも運でもない」「願いを持ち、他者と繋がられる心こそが、本質なんだ」と「願う心」の大切さを伝え、そこに仲間達やオーディエンスとの関係を絡めることで英寿達を応援する観客までも巻き込んで「共に同じ願いのために協力する」構図を作り上げていく。テレビ本編だと気になってしまったテーマそのものの掘り下げの甘さも、尺の短さとスピード感も相まって気にならない。映画という作品媒体と、脚本によって用意されたテーマを描くギミックが上手くはたらき、『ギーツ』らしさを残しながらも非常に満足できる内容に仕上がっていた。

 テレビ本編よりも後の時系列なことも含めて、『ギーツ』単体での最後の大舞台がこの作品で本当に良かったなと思います。本編には納得できなかった自分も、こちらを最後だと考えればもう少し心穏やかに『ギーツ』とさよならできる気がする。

 

SEEDシリーズ スペシャルエディション HDリマスター

機動戦士ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディション 砕かれた世界 [DVD]

 『DESTINY』を見終わり、作品な対する複雑すぎる思いをブログにぶつけ、その中の恨みを漫画版『THE EDGE』に解呪された。その付近で新作劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の公開が発表された……というのが今年の出来事。この絶妙なタイミングの良さに個人的に運命すら感じてしまって、その縁もあって(体調不良で見に行けなかった最後の『自由の代償』を除いて)全てを映画館で見届けたSEEDシリーズの総集編。

 逆に言えばそういった偶然の一致がなければ恐らく見ていなかった作品群だと思うんですけど、思ったよりも色んなものを自分に与えてくれました。単純に、総集編として尺がない『SEED』も比較的余裕のある『DESTINY』もどちらも(前者は一本の作品としてのまとめを、後者は原作の描写の補完を)かなり頑張ってて見応えあったし、その内容からブログに書いたような気づきも得られた。あとやっぱり、『SEED』『DESTINY』を追った一昨年・去年に続いて約一年をかけて追いかけたことで、『FREEDOM』への期待とSEEDシリーズへの思い入れを深くしてくれました。

 もうあと一ヶ月、完結編に望むのみ。期待も不安も沢山あるけど、SEEDシリーズ、最後の最後まで付き合います!!

 個別感想記事はこちら。作品としては、一貫したテーマに基づいてまとめられ『暁の車』と共にエンドロールに突入する演出も良かった『遥かなる暁』、『DESTINY』序盤の間延びした部分をカットし上手いことトロだけ残した『砕かれた世界』、シン・キラ・アスランのそれぞれの決意と新機体の登場をモノローグの追加といった補完で丁寧に描いた『運命の業火』が好きです。

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シン・仮面ライダー

シン・仮面ライダー

 先ほど今年最強のエンタメは『グリッドマン ユニバース』だったと断言したのですが、もし一番刺さった作品はどれかと聞かれるとシン・仮面ライダーと答えざるを得ない。それくらい、この作品の本郷猛の姿が自分に突き刺さったんですね。ブログの方では色々と理屈っぽいことを書いたし、実際そっちの方面でもラストシーンはじんわりきたのですが、それと同じくらい、本郷猛という一人の「人間」、そして「ヒーロー」の物語に感動しました。重ね重ね、庵野監督には感謝しかないです……。

 個別感想記事はこちら。

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テレビ編

仮面ライダーガッチャード

第14話「パクっとレックス! キケンなエックス」

 最近の生きる希望。

 最初の3話くらいは設定は曖昧だわ宝太郎からケミーへの感情の根拠が欠けてるわそれらの欠点を覆すほどの目新しさもパワーもないわでかなり不安な新番組でしたが、4話で独自のアオハルっぽい路線を強調した辺りでそれらの欠点が改善され始め、さらに次のプロレス回で突き抜けた明るさと馬鹿らしさと真っ直ぐさを見せつけられて一気に虜になってしまいました。以降の回も、少年とケミーの友情のエピソードを通して宝太郎のスタンスが明らかになるサボニードル編、「運命の出会い直し」があまりに良すぎた修学旅行編、巨大な絶望とそれを乗り越える熱さを見せてくれたドレッド編、宝太郎とケミーの過去を匂わせながらもしっかり新フォームと仲間との協力で盛り上げたエックスレックス編と、とにもかくにも打点が高い。

 面白さを構成する要素の多くがものすごーく真っ直ぐ(夢に向かって頑張る若者達、主人公とポケモンライクなモンスターたるケミーの絆、敵も味方も総動員でぶつかり合う緊張感あるバトル、しっかりと文脈や物語を踏まえて盛り上がる新フォームの登場)なのが自分の中の深いところに突き刺さってしまうのか、毎週毎週見せ場の場面で少しうるっと来てしまいます。最初に言ったようにかなり生きてる理由の大半を占めてるし、とにかく毎週日曜日が楽しみで。冬映画に2号ライダー登場をサプライズで仕込んで正史にもガッツリ組み込んだり、でありながら翌週の放送では映画にすら出てなかったガッチャードデイブレイクのもう一段階のサプライズを仕組んでいたり、テレビ番組としてもリアルタイムに楽しませようという意図が強く見えるのも嬉しいところです。

 

暴太郎戦隊ドンブラザーズ

スーパー戦隊シリーズ 暴太郎戦隊ドンブラザーズ Blu-ray COLLECTION 1

 去年はランキングで第1位にあげた作品。今年の放送分はクライマックスの部分のみになっていて、序盤から中盤までの単発エピソード重視の作風とは少し異なる形式のお話が多かったのですが、それでも一切失速することなく最後まで駆け抜けてくれました。

 というか、(自分で言ったことですが)失速とは本当に真逆で、むしろ終盤になったことでそれまでとは違う縦軸のドラマの結実と、ヒーロー番組としての盛り上がりと、それまでと同じ破天荒なキャラクターによる謎に綺麗なところに収まるドラマを全部見せてくれるようになったってのが個人的な感覚なんですよね。細かい設定を言外に匂わせながらもパワープレイで押し通した獣人関連の話も、ついに手を取り合って共に戦うドンブラザーズ&脳人三人衆(タロウとソノイと犬塚の同時変身がかっこよすぎる……)も、ヒーローとしての役割を終えて記憶をリセットされたタロウが、またはるかと出会い「縁」を結ぶ結末も、あまりに雑多で濃厚な味付けに最後まで翻弄されました。

 個人的に一番刺さったのがラスト2・3話の展開で、ドンブラザーズは縦軸の要素がありながらも単発の回でヒーロー達の日常を描いてきた作品だから、ラストも強大な敵との決戦ではなく各々の人生の転機を描くというのがかなり納得できました。さっき言ったタロウもそうだし、犬塚&雉野の恋愛関係がビターながらも確かに真に迫るリアルな終幕を見せたの美しくて、やっぱ「人間」の話を書くと井上敏樹さんの横に出る人はいないな……と。

 とにかく、一年間ありがとうごいました。楽しかった……!

 

お兄ちゃんはおしまい!

「お兄ちゃんはおしまい!」Blu-ray BOX 下巻(法人特典なし) [Blu-ray]

 「こんな分かりやすく女の子が可愛いだけのアニメなんて見ないね!」。そう思ってた時期が、僕にもありました。

 冗談でも誇張でもなく、ほんとに最初の3話が放送されてた辺りは上記のような逆張り精神を発揮していたのですが、どうにもタイトル的にTSものらしい、流れてくる可愛い茶髪(?)の女の子は成人男性らしいという情報、そして少しばかり気になって調べたところで判明した原作が基本全話無料で読めてしまうという事実から、まんまと原作を読んでハマり当然アニメにもどハマりした次第です。でした。

 いやー、やっぱりTSって良いですよね。「結局は男じゃん」ってよく言われるし実際その通りなので合わない人がいるのはわかるんですけど、でも男なのが良いんですよ。成人男性が女の子になって表面上は反発しながらも可愛くなることに喜びをどんどん感じていくのが良いんですよ。わかりますか!この良さが!!! おにまいの場合はそこに機能不全気味だった家族(兄妹)の関係の再構築と、成人男性のかなり無理やりな社会復帰が描かれてるので、萌えだけじゃなく物語もちゃんと見応えあるのが良いところ。

 で、アニメはそんな原作を1クールの尺で兄妹の物語にめちゃくちゃ丁寧に落とし込んでいて、とにもかくにも素晴らしい出来でした。キャラデザが原作とかなり異なるのもアニメとしての動きを優先したのかなと個人的には納得できたし、その甲斐あってかアニメーションは少し過剰ながらも見応えあって良かったし、何よりみはりとまひろの関係性に着目した再構成が本当に上手くてただただ満足。来なくても十二分に綺麗に終わってるけど、2期来てもええんやで……?

 

アンデッドアンラック

「アンデッドアンラック」Blu-ray BOXⅠ

 アニメ放送記念でやってた原作一挙無料開放の際に友人に勧められ、しかしその時期は忙しくて期間内に走りきることが出来ず、でも気に入ったのでアニメは見てみようと手を出した作品。原作の確か10話くらいしか読めずに終わったんですが、そんな後半ほぼ初見の身でもめちゃくちゃ楽しめるほど面白かったです。

 ゲームを意識した(のかな?)分かりやすくも奥深い設定、「何かしらのルールを否定する否定者」VS「ルールそのものであるUMAと、世界にルールを付け足していく神」という単なる能力バトルに終わらない構図と、まず原作の時点から面白すぎる作品なのですが、アニメではそこに見応えのある演出という魅力が新たに追加されるんですね。別に超作画というわけじゃないんだけど、コンテや音響や場面の区切り方がとにかく心地いいし、シーンに合わせて繰り出される工夫ある画面のバラエティもとても楽しい。無理に画面をエフェクト盛り盛りにしたり超作画にしたりで逆に見にくくなったりすることなく、演出とアングルで魅せていく方針がとても上手くいっているように感じました。

 その象徴がOPの映像で、女王蜂の楽曲『01』のオシャレさも合わせてここ数年でも特に好きなレベルのOPでした。何回もリピートして聴いて見てしまう……。

 

 

 

 というわけで、今年見た新作アニメ・特撮のまとめでした。時間もあるけどやっぱり記事にできるほどの量をまともに見れなかったということなので、来年はもうちょい色んな作品を見られるように頑張りたいですね。新作以外でも水島版ハガレンWIXOSSアニメやピンポンアニメくらいしか見られなかった(そうやって見た作品が本当に刺さったのですが)し……ウテナとかキングゲイナーとかGガンダムとか見たい……。まずは1月に待望の『SEED FREEDOM』の公開があるので、全力でSEEDシリーズの最後を楽しみたい!

 今年もありがとうございました。しれっと5周年を迎えた石動のブログを、来年もよろしくお願いします。

『NARUTO -ナルト-』 好きなシーンランキング!!!

 どうも、石動です。

 

sasa3655.hatenablog.com

 前回『NARUTO』の総括ブログを書いてから結構経ちましたが、今回は個別シーンの感想です。やっぱり少年漫画である以上は瞬間瞬間の盛り上がりは大事ですし、総括では取りこぼしてしまった部分についても語っていこうかなと思います。

 というわけで、早速『NARUTO』好きなシーンランキング、行きます! 「シーン」という大雑把な括りなので、ものによって長かったり短かったり戦闘シーンだったりそうじゃなかったり「シーン」の指す範囲が曖昧だったりしますが、とにかく好きなシーンを語っていきます!

 

(あと一応、このランキングは比較や順位付けによって特定のシーンを貶めたりする意図は勿論ありません。あくまでお遊びとして、そして個別のシーンを語るための形式として、ランキングを楽しんでいただければ幸いです)

 

 

第10位 サイ編のラストシーン

NARUTO―ナルト― モノクロ版 35 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 サイ、総括ブログでは1ミリも触れられなくてごめん……。

 ナルト・サクラ・サスケに続く、新第七班のメンバーたるサイに関するエピソードのラストシーンですね。最初はナルトともサクラとも衝突ばかりで、裏ではダンゾウと繋がり怪しい動きすら見せていた彼が、兄であるシンとの過去の思い出や、いくつかの戦いを経て彼らとの友情を育み、ついに真の意味での「仲間」になる。本当は繋がりを求めていたサイがそれを思い出せた、そんなシーン。

 お話の内容自体もとても好きなんですが、自分的には一番刺さったのはラストシーンの演出。サイが望んでいた他者との繋がりを手に入れられたということを、サイがナルトやサクラのことを見ている窓に「仲間」と書かれた絵巻をかける(窓から見える風景を絵に見立ててタイトルをつける)動作で表現するのが、本当に何度読んでも染みてしまうんですね。サイの忍術やシンとの過去で重要な意味を持った「絵」の要素を活かしに活かして余韻を残す演出があまりにも良すぎる……と。初期は言葉としてしか理解していなかった「仲間」を、サイが本当に手に入れられたんだなというのも感慨深くなれる。

 『NARUTO』、映像的な表現を追求した結果わかりにくかったりシュールになってしまったりする場面もなくはないんですが、それと同時に岸本先生の抜群の演出力が発揮された名シーンも数多くある。その演出力の高さの象徴として、自分の中でこのシーンは記憶に残ってます。ここで友情を深めたサイが、後にナルト・サクラ・サスケの関係に変化をもたらしてくるのも好き。

 

 

第9位 旧第七班VS大筒木カグヤ

NARUTO―ナルト― モノクロ版 71 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 総括ブログでもちょっとだけ触れましたが、カグヤ戦、ラスボス戦としてあまりに完成度が高すぎる。自分が最終決戦に求めてるものが大体ありました。『NARUTO』はレンタルで読んだのですが、このバトルの大半が収録されている七十一巻は読み終えた翌日くらいに書店ですぐに買いに走りました。それくらい、自分のラスボス戦の理想に近くて。

 まず、参戦するのが旧第七班+改心したオビトなのがあまりにも良い。初期のメンバーに、罪を犯してしまったオビトが贖罪の機会を果たすと同時に未来を託す。そして託された第七班が、最高のチームワークで最悪の敵を倒す。その構図が、王道だけれど何よりも納得がある。

 加えて、参戦した四人全員が、自分の能力を活かした活躍をしてるのも良いんですよね。六道の力を手に入れたナルトとサスケは言わずもがな、終盤では置いてかれ気味で影も少し薄かったサクラも、百豪のチャクラでもって別空間に飛ばされたサスケの救出に活きてくる。そしてカカシは、オビトに託された写輪眼でもって、「写輪眼のカカシ」というかつての異名に違わない実力を見せつける。神威を連発しまくる姿は流石にやりすぎに見えるしオビトから託される展開もかなりオカルトなんだけど、個人的にはそれでもカカシの個性とオビトとの関係を活かしてくれたことが嬉しかった。

 いやとにかく、本当に理想のラスボス戦でした。

 

 

第8位 ナルトVSサスケ(サスケ奪還編)

NARUTO―ナルト― モノクロ版 27 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 イタチへの復讐のため他者との繋がりを断ち切らんとするサスケと、やっと手に入れた繋がりに手を伸ばすナルト。友情で結ばれた二人が、かつてマダラと柱間が決着をつけた終末の谷で、対峙する。

 総括ブログの方では全体の流れの中で「繋がり」に対するアンチテーゼを示したシーンとして触れましたが、その役割抜きにしても、ナルトとサスケの関係の最初の決着としてあまりに好きすぎる。良すぎる。

 このバトルの良さを構成する要素って二つあると思っていて。ひとつがお話の軸となっているサスケの心情描写の丁寧さ。家族との折り合いに悩んだり、それでも兄と父の背中を追いかけたり、等身大で普通の人生を、必死に生きてきたサスケの少年時代。それを描いたうえで、ある日突然イタチによるうちは一族の虐殺で全てを失ってしまう様を、過去回想でもって本当に丁寧に描いている。だからこそ、サスケの復讐への悲愴な覚悟に、どうしようもなく感情移入してしまう。

 そしてそのうえで、そんなサスケの復讐の意思を縛っていた、ナルトとの繋がりを描く。湿っぽいという形容する似合うくらいにエモーショナルな演出で二人の関係が今一度描かれるのですが(ナルトとサスケが互いを似た者同士として意識していたの、最高の湿度)、むしろそれほどまでじゃないとこれまでの二人には釣り合わないという説得力があるんですよね。だって二人は、仲間として多くの苦難を乗り越えてきたのだから。

 そんな、サスケの中の相反する二つの要素を独自の筆致でとことんまで描き切ってくれたことに、自分は胸を打たれてしまいました。心情描写の丁寧さが凄まじいのも『NARUTO』の良いところだよなー。

 

 

第7位 ネジVS鬼童丸

NARUTO―ナルト― モノクロ版 22 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 サスケ奪還編、先ほど語ったように最後のナルトVSサスケは本当に好きな一方で、実はその過程のバトルはあまり刺さらないのが多かったんです。「せっかく同期の実力者を集めたチームで出撃したのに、結局は『ここは任せて先に行け』が多すぎてチームプレイもへったくれもなくなってる」「大蛇丸の手下を倒す方法で『命をかけて実力を解放して相打ちを狙う』でチョウジとキバが被ってる」というのが気になって、正直中盤まではあまり集中して読めていなかった。最終的には、チームプレイのなさはリーダーとなったシカマルの司令塔としての未熟さなんだと回収され、バトル内容の単調さも終盤のリーや我愛羅の参戦による盛り上がり、先述のナルトVSサスケのエモさで押し切られる形にはなるのですが、そんな風に不満が多かったサスケ奪還編中盤で個人的に唯一ぶっ刺さったのがこのバトル。

 白眼による圧倒的な視界把握能力を持つネジと、単純な速度と殺傷力では勝る鬼童丸。そんな拮抗した実力の二人が、その平等な関係をスキをついてつき崩さんと、互いの能力や意図を探り合う攻防がとにかく面白いんですよね。他の戦いが割とゴリ押し要素の占める割合が多かっただけに、細かく定義された能力の中での削り合いと読み合いが本当に見応えがあって。加えて、作中の瞳術だとどうしても写輪眼や輪廻眼の方にお株を持ってかれがちだった白眼のチート性能も存分に発揮されていて、そういう意味でも満足度が高い。

 あとやっぱり、決着の時のネジの「オレは常に天才と呼ばれてきた…だから負けるわけにはいかない」「凡小なオレを天才と信じているあいつらの為にもな…!」が良すぎるのも大きいですねえ。総括の方で書いたように、ネジというキャラクターにはかなり思い入れがあるので特に刺さる。この台詞が最期の時のにも繋がってくるのがね……。

 

 

第6位 ロック・リーVS我愛羅

NARUTO―ナルト― モノクロ版 10 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 ロック・リー。どうしても青年編以降の本筋への関わらなさすぎて総括の方ではあまり話題に出来なかった彼なんですけど、それでもらなんとか一言言及をねじ込んだように、自分めちゃくちゃ好きなんですよ。『NARUTO』でも一二を争うくらいに好きなキャラクターで。そんな彼が主に活躍を見せていた少年編、その中でも屈指の盛り上がりを見せる戦いがここでランクインです。

 いやー、やっぱりベタだけどいいんですよね。この時点での我愛羅は格が違う強さを持っていて、それこそナルトでもサスケでもかなうかどうか……というレベルだったのに、リーが決死の覚悟でもって立ち向かう。それまでは大蛇丸の手下にとどめを刺し切れなかったり、その暑苦しい性格も相まって魅力的だけど実力では一歩届かないくらいのポジションだったリーが、自身の限界を解き放って我愛羅を圧倒する。その力はとんでもない代償を支払ってのものなのですが、そのベタな設定もやはり刺さる。

 最終的にリーは敗北してしまい、しかも忍者として戦うことができない身体になってしまう(それが綱手と合流後の治療のエピソードに繋がる)のですが、それでもやはり、リーの活躍は自分の心を熱くしてくれました。リー自体の努力でもって限界を突破していくのが非常にらしくて良いなあと。こういう、実力差を覆して格上をあっと言わせる展開、好きです。

 

 

第5位 ナルトVSサスケ(ラスト)

NARUTO―ナルト― モノクロ版 72 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 言わずもがなのラストバトル。

 これまためちゃくちゃベタではあるんですけど、こういうのが、ほんとに、好きなんですよ……。同じ舞台で、しかしどうしようもなく時間が経って力も覚悟もより強くなった二人がぶつかり合う構図も、大筒木カグヤというラスボス戦を乗り越えた先にライバルとの決着をつけるクライマックスも。で、そのうえで、単なる僕の「好き」で留まらず、『NARUTO』の最後の決着として120点の描写をしてくれたのが本当に嬉しくて。
 孤独だった少年時代から努力でもって皆との繋がりを紡ぎ認められていったナルトと、普通の子どもだったのに全てを失いそのうえで様々な出来事を経て「自分と他者の繋がりを全て断ち切る」「過去との繋がりを断ち切って新しい時代を作る」という理想を持つに至ったサスケ。少年編では孤独を抱えていた二人の「繋がり」の話として展開された物語が、火影へのスタンスを通じて作品のテーマである「継承」の対比と重なってくる構図には膝を打ちました。

 加えて、それでも最後にはナルトとサスケの関係性に帰結してくるのが、自分としては感謝と納得しかなかったです。「サスケは友だからこそナルトを討つ」「ナルトはただ純粋な友情からサスケに手を伸ばす」構図を最後まで変えず、サスケのナルトに対する感情の変化を語ったモノローグで締めた結末が、とにかくナルト×サスケの個人としての繋がりや友情を忘れずに丹念に描き続けた『NARUTO』の最後の戦いとしてあまりに真摯であまりに相応しかったと思う。血で若いの印を結ぶ演出も湿度高すぎて好き……。

 

 

第4位 忍連合軍VSオビト

NARUTO―ナルト― モノクロ版 64 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 総括ブログの方では、オビトの言葉とネジの死を通して描かれる「継がれたものを取りこぼしてしまったら」「繋がりを失ってしまったら」という恐れと、その痛みを受け入れ「忍び耐え」たうえで前に進んでいくというナルトの答え、「継承」のテーマに関わるそれらに注目して語ったこのシーン。でも一方で僕的には、先ほど触れたロック・リーの青年編唯一にして作中でも屈指の活躍としても、一連の流れがめちゃくちゃ好きなんですよ。ヒナタの言葉を受けて悲しみを乗り越えたナルトが九尾のチャクラを皆に分け与え忍連合全体を強化・皆と共にオビトに対して一気に反撃に出る中で、最後にナルトの横にリーが立つ。

 同じ班の仲間として、お互いに認め合うライバルとして、これまで共に戦ってきたリーとネジ。そんな仲間の死を前にリーは悲しみに沈んでしまうもののの、逆に仲間でライバルだったからこそ、生前の彼の想いを継いでオビトへの反撃の最後の一撃を担うんですよね。少年編では我愛羅との決戦にその時の代償を治すための手術、死のリスクがあるそれを乗り越えてのサスケ奪還編での加勢と、同期だとナルト・サスケ・サクラに次ぐレベルの活躍を見せていただけに青年編の影の薄さはほんとに残念だったんですけど、自分的にはこれだけで割と許せるくらいには満足してしまいました。若干唐突だったネジの死もリーの悲しみを通してやっと肉付けされたような感触もあるし、少年編でしっかり描かれていた二人の関係性をここに来て活かしてきたのにも素直に燃える。

 色々言われがちなシーンでもあるんですが、僕はやはり好きだと言わざるを得ない。自分自身のテーマに向き合ってくれて、リーにネジとの関係性を踏まえた活躍を与えてくれて、本当にありがとう……。

 

 

第3位 ナルトVS我愛羅

NARUTO―ナルト― モノクロ版 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 自分に共感しながらも似た環境を自らの努力で覆してきたナルトの言葉と想いが我愛羅に伝播する結末、それとヒルゼンが自らの死にすら臆すことなく受け継がれていく「火の意志」を語る場面が並行することで「継承」のテーマの証明になる演出が最高だということは総括で語ってしまったのでもうそれ以上言うことがないんだけど、本当に良いんですよ、このシーン。中忍試験編から通しで入ってきて、とにかく盛り上がりに盛り上がった木ノ葉崩し編のラストとして、一切の失速を感じさせず、しかしあまりにも綺麗にズバッと物語をオトす手腕に何度読んでも惚れ惚れしてしまいます。

 最初に言っておくと、トップ3は全部総括ブログでも触れたシーンになるので文字数が少ないです!!

 

 

第2位 ナルトVSペイン

NARUTO―ナルト― モノクロ版 48 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 個人的にあまり戦闘シーン自体は好みではなかったんですけど、その後のペインこと長門との対話が深く深くぶっ刺さったのでこの順位に。そもそも自分は「平和のために何かを犠牲にせんとする敵」「それでも大切なものを失わないまま平和を作ってみせると未来に誓う主人公」の構図が好きなのですが、少年編から描いてきた自来也というキャラクターと、彼らを取り巻く関係性の中であそこまで丁寧に描かれてそりゃ好きにならないわけないよね……と。

 主人公につけられた「ナルト」の名前が大きく意味を持って読者に突きつけられる展開もとにかく良くて、あんまり名前上がらないけど個人的には作品のタイトル回収(と言っていいのかはわからないけど)の中でもかなり印象に残ってます。先述の通り戦闘シーンはしっくり来なかったから爆発力こそ感じられなかったものの、その綺麗すぎる決着にじんわりと余韻が染みていくような名シーンでした。

 

 

 

 

そして、栄えある(?)第1位は……!

 

 

 

 

第1位 ナルトVSネジ

NARUTO―ナルト― モノクロ版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 やっぱりこれよ。やっぱりこれなんすよ。総括ブログと全く同じになってしまうけど、やっぱりこのシーンは外せない。今回読み返すことになった以前に確か原作『NARUTO』を少し読む機会があって、その時もこのシーンで感動した覚えがあるから実は期待したうえで読んだりしていたのですが、それを上回る感動と気づきを僕にくれました。自分と似た面を持ち世界に絶望した誰かに対して、ナルトが努力と成長でもって変わる世界を指し示していく。『NARUTO』の根本的な面白さとメッセージを内包した物語はあまりにも一挙手一投足に痺れるほどのパワーを持っていて、台詞に、構図に、戦術に、片っ端から心を動かされる。

 きっとずっと、僕は二人の戦いを見届けた時の熱を忘れないだろうなあと思います。

 

 

 

 

 以上、『NARUTO』好きなシーンランキングでした。書く前からなんとなくわかっていましたが、後半からは一度触れたものばかりになってしまいましたね。まあ好きなシーン語るだけの話だから当然と言えば当然なのか……? まあとにかく、そんな感じの出来ですが楽しんでいただければ幸いです。

 とりあえずは『NARUTO』を語り切れて、満足……!

総括感想『NARUTO -ナルト-』 あまりにも真摯な、ナルトという少年の「成長」と「継承」の物語

NARUTO―ナルト― モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 どうも、石動です。

 

 突然なんですが、実は自分、あんまり漫画というコンテンツが得意じゃないんですよね。嫌いとかそういうわけじゃなくて、有名どころでもマイナーどころでも読んでるものが少ないというか。好きな漫画はあるし面白そうなのを見かけたら読んでみようかなとは思うのですが、如何せん数が少なく興味も薄く、漫画特有の要素に関する読み方や語り方も知らない、といったイメージで。

 で、そんな中で珍しく興味を示して読んでみたのが、今から語ってく『NARUTO』なんですね。しかも今回が完全に初めてというわけじゃなく、昔確か妹がハマったのにつられてアニメは終盤だけ見た覚えがあるし、映画『BORUTO』は劇場で観てその完成度の高さに唸った覚えがある。というか、その記憶を頼りに映画『BORUTO』を再視聴して感動し、続いてTVアニメ版・漫画版の『BORUTO』にも手を出し、そこで「流石に前作も見ておかないと……」&友人の激推しにより読み始めたというのが今回の経緯なんですけども。

 そんな、自分にとって知らないとも知ってるとも言えない『NARUTO』という作品。かつての思い出と今ハマってる作品の前作としての立場が交差する認識の中で、自分は『NARUTO』をどう受け止めたのか。このブログで言うとアニメ版『真月譚月姫』を読んだ時のような微妙な状況ですが、だからこその理解や感覚もあるだろうと思うので、つらつらと全体の感想を書いていこうと思います。

 

(以下、ネタバレ注意です。また、今回は総括感想ということで、個々のエピソードというよりは全体の流れについて書いていこうかなと思います。個々のエピソードについては、ベストバウトランキング!やベスト場面ランキング!みたいなのをまた個別に書こうと思うので、ぬるっと物語的に重要な場面がスルーされてもご容赦ください……)

 

 

 

「先代のどの火影をも超えてやるんだ!!!」

 まず最初に『NARUTO』という作品の構造を示しておくと、主に三部で全体が構成されているんですよね。物語の始まりである「少年編」と、そのテーマや世界観により迫っていく「青年編」と、全ての決着をつける数日間の大戦を非常に長いスパンで描ききった「忍界大戦編」。

 そして当然、一巻から順番に読んでいくと、最初に少年編の物語が読者には提示される。ただ個人的な感想としては、その本当に序盤の序盤は、波の国編くらいまでのお話は、正直に言ってしまうと印象が薄くて。

 かといって、面白くないかと言われると全然そんなことはないんですよね。里で孤独に生きてきたイタズラ小僧のナルトが唯一の恩師であるイルカ先生の言葉を受けて立ち上がる最初のエピソードも、下忍となった先での「うずまきナルト」・「春野サクラ」・「うちはサスケ」の第七班に対する「はたけカカシ」のチームワークを大切なものとした教授も、任務の中で描かれる忍の厳しさも深まっていくナルトとサスケの距離も。全ての描写を非常に丁寧に積み上げて、良い意味で王道な物語が積み上げられていく。その筆致は、見ていてとても満足度が高い。

 ただ自分としては、いまいちこの作品をどう読めばいいのか、ということが分かっていなかったんですね。ナルトが主人公で彼が成長していく様を描いているのはわかるけど、その成長が一体どこに向かっているかわかっていなかった。火影を目指しているのはわかるけど、じゃあ火影になるとはどういう意味なのか、どうやったらナルトがそこに辿り着けるか、今思えば確かにあったはずの描写を掴めてなかった。それは主に自分のせいと、序盤の『NARUTO』がナルトやサスケといったメインキャラクターの関係性・魅力を主に描くことに注力していたからということだと思います。

 そして、そんな面白さを感じながらもふわふわした感覚でいたところから一転、自分を一気に夢中にさせてくれたのが、少年編中盤の中忍試験編と木ノ葉崩し編なんです。

 

 

「分身の術は……オレの一番苦手な忍術だったんだ」

 木ノ葉隠れの里と砂隠れの里で合同された中忍試験。その二日目。裏に潜む抜け忍「大蛇丸」の暗躍や厳しい試験内容を打ち破り、ナルト達第七班はトーナメント戦に進出し勝ち抜いていた。

 その中で、ナルトは同じ木ノ葉の忍である「日向ネジ」と相対する。彼は、日向という木ノ葉でも名門の一族の分家であり、一族特有の「白眼」の能力と身につけた柔拳を組み合わせ相手を戦闘不能に追い込む圧倒的な強さを持つ。そして、その実力故に「日向始まって以来の天才」と呼ばれた彼は、同時に本家の当主を守るために分家だからと自らの父が身代わりにされた過去から、この世界は才能と運命で全て決定づけられているという諦観を持ち、自分よりも弱い者を「才能がない」と見下し切り捨てるような生き方をしていた。ナルトは、ネジが本家でありながら実力に欠ける「日向ヒナタ」の努力を無碍にしたことから彼の価値観に反感を持ち、かつて落ちこぼれと呼ばれていた身で彼に真正面からぶつかっていく。

 

 ナルトとサスケに追いつかんとするサクラの覚悟だったり、そんな彼女と親友だからこそ正面から殴り合う幼馴染の「山中いの」だったり、このエピソードから新しく登場した「ロック・リー」の真っ直ぐで熱いキャラクター性だったり、個人的に中忍試験は全体的に見所が多いなと思っていて。大蛇丸の手下がコンタクトをとってくるところなんかは「味方が殺される直前で他の登場人物が乱入し間一髪助かる」展開をやりすぎてダルく感じたりはしましたが、それ以外の様々な登場人物による激突をすごく楽しんで読んでいたんですね。そんな盛り上がりが頂点に達するのが、冒頭で要約した2日目のナルトVSネジのマッチアップで。

 里の多くに「落ちこぼれ」でありながら九尾を内に秘めた危険物として扱われてきたナルトと、「天才」と褒め称えられてきたものの日向では分家という立場にいるネジ。どこか正反対のようで、似てもいる二人の戦いの中で、才能とか運命で全てが決まっているなんてそんなことはないと、たとえ落ちこぼれでも努力をし続けることで変われると、ナルトはネジの諦めを自分の力でもって覆していく。勝利を引き込んだ、今やナルトの代名詞とも言える影分身の術が、元々は「一番苦手な術だった」だったことで彼の努力と変わる現実を象徴する描写を最後に見せつける完璧な結末も含めて、このエピソードの全てに心を打たれたんですね。

 

NARUTO―ナルト― モノクロ版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 で、単に心を打たれただけなら読んでる最中の感覚はそれ以前の読み方がわかっていなかった状態と同じなのですが、自分はここに来て初めて『NARUTO』の骨子のひとつを理解できたんですね。それは、「落ちこぼれで里からも疎まれていた少年が、努力によって自分を乗り越え皆に認められる」という構図。冷静に思い返したら最序盤からずっと示され続けていたそれに、「努力」とそれによる「変化」を強調した一連の展開を見ることで、やっと気づけた。

 そしてその気づきは、これまでの展開への納得や今読んでる部分への没入に限らず、物語の続きへの興味にも繋がっていく。ナルトが努力によって何かを変えていく。今回は単純な実力と心意気の面が主に押し出されていた(勿論、最後に明かされたネジの父親が自分の意思で身代わりになったという真相から、大きな意味での「運命」の否定にはなってる)が、今度はどんな要素から『NARUTO』の骨子となる構図が作られていくのか。中忍試験編から登場していた、ナルトと同じく化け物を内に宿すキャラクター「我愛羅」のことを考えると、もしかしたら次は仲間や里のみんなとの関係性でそこに至るんじゃないか。もしそうなら、具体的にどんな結論でもって我愛羅にナルトの言葉をぶつけるのか。

 一度注目すべき点がわかるだけで、物語を読むうえでの視野が一気に広がったんですね。加えてそれは、単に自分がテーマやメッセージを意識して作品を見がちだという以上に、これまでの『NARUTO』が(僕が気づけなかっただけで)常に一貫した姿勢でナルトの道のりを描いてきたという意味を持っていて。その事実に対する気づきもあって、個人的にナルトVSネジは『NARUTO』でも屈指の思い入れのあるベストバウトになってます。

 

 

「お前の気持ちは…なんでかなぁ…痛いほど分かるんだってばよ…」

 そして、その次に続く(というか中忍試験の途中で乱入する形で始まった)木ノ葉崩し編でも、『NARUTO』はその骨子を一貫して示し続けていくんですよね。

 その一つは先ほど自分が思い浮かべた我愛羅関連の展開で、当然予測される展開への期待を裏切らず、ナルトは自分と似た境遇の我愛羅に共感しながらも、仲間を思い信頼し関係を変えていくことの大切さを胸に抱いて彼に立ち向かう。見事我愛羅を打ち破り、そのうえで孤独に囚われ周り全てを憎んでいた彼を変えた決着は、ナルトと我愛羅の物語であると同時に、『NARUTO』の「落ちこぼれで里からも疎まれていた少年が、努力によって自分を乗り越え皆に認められる」構図のひとつの実現でした。九尾を身に宿しているという自身の呪いを乗り越えてナルトが積み重ねてきた仲間との友情が、我愛羅の心を救ったのだ……。

(テーマがどうこう骨子がどうこうとは関係ないんですけど、ナルトVS我愛羅、二人がそれぞれ口寄せしたガマブン太と守鶴で大怪獣バトルを繰り広げるのがわかりやすくスケールアップした感じがしてめちゃくちゃ好きです。それを実現するために、新たな師匠「自来也」の指導を受けて、ナルトが九尾からチャクラを引き出せるようになったという変化も成長の証として象徴的)

 

NARUTO―ナルト― モノクロ版 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 ただ、木ノ葉崩し編で示される『NARUTO』のテーゼはナルトVS我愛羅だけじゃないんですね。木ノ葉崩しというのは大蛇丸と砂隠れの里によって仕掛けられた文字通り木ノ葉を潰すためのテロのようなもの。だから「油女シノ」や「奈良シカマル」といったサブキャラクターも砂隠れの忍との戦闘で活躍が見せられるわけだけど、やはり一番の見所は計画の首謀者たる大蛇丸と木ノ葉の忍のトップたる三代目火影猿飛ヒルゼン」の戦い。両者の凄まじい忍術での一進一退の攻防や、かつて師弟関係だった二人の過去も非常に見応えがある中で、さらに『NARUTO』はもう一つ作品の骨子となる要素を打ち出してくる。

 それは、「継承」というテーマ。『NARUTO』に存在するそれが初めて明確に示されるのが、この戦いなんですね。自らの命を犠牲に大蛇丸の両腕を持っていき彼のアイデンティティたる忍術を使えなくしたヒルゼンに対して、それでも火影殺しには成功したしあなたがいなくなった後に腕を治して再び襲撃すれば全てが終わると言う大蛇丸。しかしヒルゼンは自らの死にすら悲観することなく、自分が過去から受け継いできた、仲間と共に里を守っていく「火の意志」は受け継がれていくと、次は継いだ誰かがお前を阻むと笑う。その場面と同時に先ほどのナルトが我愛羅を打ち破る場面が同時に映されるという形で、「継承」のテーマが、過去から未来に想いが引き継がれていくということが描かれる。

 この展開を初めて読んだ時、自分は描き方があまりに見事だと感じたんですよね。新たに示された作品のテーマに、ナルトの成長の構図を重ねていく。ヒルゼンの言葉と同時にナルトの勝利を描く演出は、単にナルトのような次世代に火の意志が受け継がれたということだけではなく、ナルトの仲間を思う心が我愛羅にも伝播した結末でもって、「意思が伝わっていく(受け継がれていく)」ことの証明にもなっていく。ナルトの成長はこれまでずっと一貫して描かれてきたからこそ、それとドッキングして語られる新たなテーマには唐突感はなく、むしろ説得力と納得でもって受け入れられる。

 あと、そんな細かい理屈は置いておいても、「継承」というテーマの普遍性、それを描くヒルゼンのドラマに心が打たれました。先述のシノやシカマルの活躍も嬉しかったし、戦いのスケールの大きさもそうだし、編単位だと木ノ葉崩し編が一番好きかもしれない……。

 

 

「賢いってのがそういうことなら…オレは一生バカでいい…」

 そうして無事に作品のテーマと骨子を理解して以降の物語は、格段に飲み込みやすく読むことが出来ました。四代目火影候補となる「千手綱手」を探す綱手捜索編も、親のいなかったナルトが新たに師匠となった自来也の元で愛情と修行を受け成長していく様と、綱手を通してかつて火影の夢を持ちながら散っていった先輩達の意志が伝えられる展開に着目することで、物語に感情移入して楽しむことが出来ました。

 ただ一方で、同時にこんな疑問も抱きつつあったんですよね。『NARUTO』のナルトの成長物語としての側面と、「継承」の物語としての側面。前者は火影になるまでの道のりはまだまだ遠いから全然やりようはあるけども、後者はどうなんだろうか。「継承」というテーマに対しては、木ノ葉崩し編で描かれたヒルゼンの言葉で、もう既にアンサーを示せてしまっているのではないか。「火の意志は受け継がれていく」。あの劇的な展開で描かれた結論はあまりにもドラマチックで強度が高くて、それ故に果たして以降の展開で「継承」についてそれ以上の山場を作れるのかと思ってしまったんですよね。綱手捜索編は明らかにクライマックスに向けての繋ぎのエピソードだったから良かったけど、これから訪れるであろう少年編のクライマックスでは、引いてはその先にある青年編では(朧気な記憶で少年編と青年編があることは知っていた)、一体どんな問題提起と落としどころを見せるのか。

 しかし、一読者が思う疑問など、当然物語側もちゃんと想定しているわけで。綱手捜索編以降の展開で、『NARUTO』は「継承」のテーマに対して様々なアプローチをしかけて掘り下げていくんですよね。二番煎じになんてなることはなく、むしろこちらの想像を上回るほどの誠実さで、「継承」することの意味を考え出力していく。

 

 まず、少年編のクライマックス。『NARUTO』少年編最後の物語では、初期から第七班の仲間としてナルトのライバルとして活躍してきたサスケを焦点として、「継承」や他者と繋がることへのアンチテーゼが示される。かつて慕っていた兄の「うちはイタチ」によって自分以外の一族全員を殺されて以来、彼はずっと兄への復讐を誓っていた。ナルト達との交流の中で少しずつ絆されていって、復讐以外を顧みないような姿勢は変わりつつあった彼だが、先の戦いでのナルトの急成長やナルトを訪ねてきたイタチとの再会を経たことで、再び復讐の意志を強めていく。そしてついには、中忍試験の際にその才能に目をつけて接触してきていた大蛇丸の誘いに乗り、サスケは抜け忍になってしまう。

 わざわざそんな危うい道を行った理由はただひとつ。彼にとって、過去から連綿と受け継がれていく火の意志も、その「継承」を促す他者との繋がりも、復讐の意志を鈍らせる余計なものだった。むしろ、うちは一族の持つ固有能力たる写輪眼の強化系たる万華鏡写輪眼の「最も親しい友を殺す」という開眼条件を考えると、友のナルトを殺すことはサスケの復讐に必要なことだった。

 サスケが全てを奪われた一夜の丁寧な回想でもって彼の復讐の決意の強さを示したうえで語られる決別の言葉は、何よりも変え難い重さを持っていた。同時に、一度サスケに敗北し彼の決意の強さを知っても尚、里から彼が抜け忍として扱われても尚、ずっと孤独だった自分の掴んだ繋がりを裏切りたくないと、親友を闇から救い出そうとするナルトの忍道も、サスケのアンチテーゼを経たからこその説得力を持っていた。

 

NARUTO―ナルト― モノクロ版 28 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 実は後々めちゃくちゃ重要になってくるカカシの過去エピソード『戦場のボーイズライフ』を挟んだ後の青年編では、「継承」についてさらに異なるアプローチがとられていく。ナルトの言葉を受けて人を愛する心を取り戻し風影となった我愛羅にまつわるエピソードや、シカマルとその師「猿飛アスマ」のエピソードというように、ナルト以外のサブキャラクターでも「継承」のテーマを掘り下げていく試み。少年編から暗躍していた組織「暁」の本格参戦や、その目的の中で明かされる「尾獣」「人柱力」といった用語、「忍」という戦闘を代行する存在の必要とされる、争いの絶えない世界の仕組み。それらの設定の開示と同時に、物語そのものもテーマも厚みを増して描かれていく。

 そしてそんな、青年編以降激しくなったテーマの追求とナルトの物語としての盛り上がりは、暁の最後の正式メンバー「ペイン」、彼との決着で最高潮に高まるんですね。自来也という同じ師を持つペインとナルト。過去の経験から戦争による憎しみの連鎖を支配によってなくそうとした、そのために人間らしい情も捨てて自来也を自分の手で殺した兄弟子に対して、ナルトが示した答え。

「続編はオレ自身の歩く生き様だ」「それがナルトだ」

 一時はヒナタを傷つけられた憎しみで九尾の力に飲まれてしまった彼が、自分を止めてくれた父親「波風ミナト」の想い、彼が自来也の書いていた小説からとった「ナルト」という名前、自来也が小説の中や弟子達への言葉で見せていた未来への祈りを受けて、その続きを自分自身の人生でもって描いていくと、自分が憎しみの連鎖を断ち切って平和を作って見せると、ペイン──長門に宣言した言葉は、本当に尊いものだった。『NARUTO』というタイトルの意味と重ね合いながら、自来也という過去との「繋がり」の中で「継承」と火影になって世界を平和にせんというナルトの決意を示す展開は、何よりも作品の本質を体現していた。

 

 文字数がとんでもないことになってしまいそうだったなので一気にまとめてしまいましたが、本当に、少年編終盤〜ペイン来襲までの物語・テーマのうねりってすごすぎるんですよね。特にクライマックスでの長門との対話が何よりも素晴らしくて、単純に自来也の想いを受け継ぐというだけでなく、彼の小説が重要な要素として活かされてくるのがに、思わず「そう来たか!」と膝を叩いてしまいました。「争いばかりの世界に力でもって安寧をもたらそうとするラスボスに、主人公が未来の可能性を示して説得する」というのはド王道中のド王道なんですけど、その描き方があまりに丁寧で真摯で説得力に溢れていて……あと『BORUTO』の、「そう、俺は火影を目指すわけじゃねえ。それは父ちゃんの物語だ」「オレの物語はここから始まる」とか、「名前」を奪われてなお「オレがうずまきボルトだ、クソったれ」と立ち上がる第一部ラストの展開とか、これを意識したものなんだなって感慨深くなって……。

 

 

「自分を信じてみようと思うんだ。里の皆に信頼されてる自分ってのをよ」

 で、あともうひとつ語りたいのが、『NARUTO』の持つ真摯さ。先ほどもその表現が出てきたように、僕は『NARUTO』の全編に対して非常に真摯な物語だという印象を持っているんですね。作品の中で描かれる世界、世界の中で生きていくキャラクターに、とにかく真摯に向き合ってる。物語の都合でキャラクターを歪めたり誘導したりというのがほとんどなく、都合が悪いことからも決して逃げはしない。正確に言えばこの後の忍界大戦編での「ヤマト」や「みたらしアンコ」のアイテムみたいな扱いや青年編での第七班・第十班以外のナルトの同期の影のうすさなど、出番という意味では思うところはあれど、メインとなるキャラクターの心情、特にナルトに関してはとことん真摯に向き合ってる。

 その特徴はここまでのキャラクター描写にも見られるのですが、それ以上にペイン編以降の展開で目立ってくるんですよね。ここからナルトは、師や友に恵まれ前に進めた自分とは対照的に、復讐に突き進んだ先で里のために自らを犠牲にしたイタチの真実を知り兄にそんな決断をさせた里を憎む方向へと突き進んでしまったサスケと、彼を想いながらもナルトのために全てを断ち切ろうとするサクラを止め、自分がサスケの憎しみの全てを受け止めることを誓うことになる。それと同時に暁を裏から操っていた「うちはマダラ」の宣戦布告による忍界大戦が起こり、その初日の修行で強さを手に入れるために自らの闇と、「幼い頃は九尾を身体に封印された身だったために迫害されてたのに、今は里の英雄だと手のひら返しで称えられている」という事実と向き合うことになる。

 前者も後者も、ナルトに関わるどうしようもない現実にスポットを当てた展開なんですね。前者は、かつてサスケを連れ戻すと決意した時からどうしようもなく過ぎてしまった年月を。後者は、ナルトの孤独を強調するためか第1話で示されていた描写を。メタ的な意味では、前者はともかく後者は都合が悪いから触れないこともできるのに、そうはしない。自分の描いたものから一切逃げることなく、真正面から向き合ったうえで答えを、それでも「里の皆から信頼されている」ということを軸としたナルトの他者と自分への赦しを描いてる。

 そうまで真摯に向き合われると、一読者としてもすごく嬉しいし、自然と作品への愛や思い入れも大きくなっていくんですね。ナルトの物語として妥協が全くないというのが、読んでいて本当に安心できたし、作品を楽しめた要因でも大きなものなんじゃないかなと思います。

 

 

「だから忍び耐える者…忍者なんだろ俺達は」

 長く続いてきた『NARUTO』の物語も、忍界大戦でいよいよクライマックスを迎える。結構世間的にはその長さから苦言を呈されがちな忍界大戦編なのですが、個人的にはかなり楽しんで読むことが出来ました。週刊連載で追いかけるのでなく後追いで駆け抜けたからという以上に、やはり、「周りから認められていくナルトの忍道」「継承」という作品のテーマを、「真摯」な態度で最後まで貫き続けてくれたからこそ、一切の落胆なく熱中できた。

 というわけで最後に、終盤の怒涛の展開の中で、自分が一番心打たれたものについて語って終わりにしようと思います。僕が、作中でもトップクラスで真摯な眼差しでナルトの成長と「継承」を見つめ弾き出されたものだと勝手に思っている展開。先ほど語った『NARUTO』の真摯さの象徴のように感じているのは、ネジの死周りの描写です。

 勿論(と言っていいのか……?)、これまでの『NARUTO』感想で数多語られてきたように、ネジの死自体には「唐突だな」という感覚は否めない。これはネジに限らないことだけど、青年編では少年編と異なりシカマル属する第十班を除いたナルトの同期のほとんどがまともな出番も活躍もなく、そんな中で突然物語の重要な場面に出てきて死んでしまっても、はっきり言って気持ちがついていかない。こういう役回りがあると想定していたなら、ちゃんと物語の中でネジというキャラクターにもっと存在感を持たせておくべきだったとは、思う。思うんですが、それ以上に、その後の展開、ネジの死をいかにしてナルトが乗り越えていくかという部分には、本当に胸を打たれてしまったんです。

 

 自分の攻撃からナルトとヒナタを庇って死んだネジを前に、同じくナルトのために死んだ数多の忍連合の死体を前に、暁を裏から操っていたうちはマダラ……のフリをしていた「うちはオビト」はこう語る。「”仲間は絶対殺させやしない”と言ったお前のその言葉…さあ…辺りを見て…もう一度言ってみろ」「これからコレが続く…お前の軽い言葉も理念も偽りになる」「ナルト…この現実に何がある!?」。

 かつて自分の身を犠牲にカカシを救い、想い人だった同じ班の仲間「のはらリン」を守ることを写輪眼と共にカカシに託したオビトは、その後リンが忍同士の戦いの中で命を落としてしまった真実を知り、世界に絶望していた。争いと憎しみが渦巻く不安定な現実をなくし、皆を理想の夢の世界に閉じ込める「無限月読の術」を発動せんとする彼は、いわば作品の「継承」とナルトの成長の中で重要視されてきた他者との関係に対するアンチテーゼなんですね。かつてのサスケよりも苛烈な形での。

 ここで『NARUTO』はオビトを通してナルトに語りかける形で、自らの「想いは継がれていく」という言葉に一度クエスチョンを投げかけている。「じゃあ、もし意志を継いだ誰かが失敗したら、どうなってしまうのか」「その繋がりは呪いとなり、渡した者にとっても継いだ者にとっても辛いだけなんじゃないか」と。そして、主人公たるナルトも、ネジの死をもって尊い想いが必ずしも全て守られる訳ではない冷たい現実を知ることになる。

 

NARUTO―ナルト― モノクロ版 64 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 まず、この問いかけの時点であまりにヒリついた追求を感じました。『NARUTO』の持つ真摯な姿勢。都合の悪いことから逃げず、むしろ真正面から取り上げてナルトにぶつけていく描き方。オビトの言葉は極端ではあるけれど、でも「継がれたものを取りこぼしてしまったら」「繋がりを失ってしまったら」という脅えは、確かに誰の中にもあるものです。ナルトが親と自来也からもらった名前を大切にしていたのとは対照的に「うちはマダラ」を名乗り穢土転生で本物のマダラが現れた後も自らを何者でもないと呼んだり、その一方で幼い頃の性格や夢はナルトそっくりだったり、オビトとナルトの対比・重ね合わせが徹底していたことも相まって、彼の問いかけは本当に心にのしかかってくる。

 だがそれでも、ナルトの心は折れることはなかった。ヒナタの叱咤を受け、仲間達の想いを背負って、再び立ち上がった。確かに、現実には痛みも悲しみも溢れている。きっとこれから平和を目指す道のりの中にも、いくつもの別れは待ち受けている。でも、だからこそ、本物の痛みを胸に抱いて前に進みたい。その痛みと傷に耐えて、受け止めて、前に進むことこそが、「忍び耐える者」──忍としての唯一の道なのだから。そう言って、オビトの示す夢幻に包まれて全てを忘れる選択肢を真正面から断ち切った。

 

 先ほど語った問いかけの緊張感を踏まえて示されたこのアンサーに、自分としてはただ感涙でした。「忍」という作品の核となる要素と、何よりナルト自身の成長でもって、「継承」「繋がり」に提示されたアンチテーゼを乗り越えていく。痛みも悲しみも、むしろそれこそが過去との「繋がり」なのだとネジの記憶を胸に刻みつけるナルトの姿には、見惚れるしかなかった。展開としては王道なんですけど、それをテーマとキャラクターを絡めてここまでやり切ったことに、拍手を送りたい。前述した・また後述するサスケからのアンチテーゼにはナルトとサスケの関係に着目したエモーショナルな決着を見せるからこそ、ここでどこかロジカルな形で壁を乗り越えるアンサーには、それとは別種の熱が籠る。

 あとこの場面、自分的にはナルトが「らしく」前に進んだということが本当に理解出来るのが嬉しいんですよね。ナルトは昔は孤独だったが故に、やっと掴んだつながりに対しては依存に近い執念を見せている部分もあった。良くも悪くも、サスケを追いかけていたことなんかに対してもその傾向は含まれていたのですが、この展開でナルトは、「繋がりを決して離さない」根本は守りながらも、ネジや仲間達を失ってしまったことをちゃんと受け止めている。きっと少年時代には受け止め切れなかった重みを、確かに。ネジの死を前に一度は心折れそうになってしまっていたように、本当に大きな悲しみがあったけど、そのうえで痛みを繋がりとできている。

 そこに至るまでにはきっと、一度サスケを抜け忍にさせてしまったこと、ペインとの戦いの中で憎しみの連鎖を知ったこと……これまでの全てが影響しているはずなんです。それを想うと、テーマの掘り下げとしての意味も含んだ色々が一気に染みてくる。また、最初の方で述べたようにネジとナルトの関係性は自分に『NARUTO』の読み方を教えてくれた思い出深いものなので、(その死自体には不満はあるけれど)彼の最期がここまで大きな意味を持つことに個人的な感慨も抱いてしまう。

 自分的に、一連の流れは忍界大戦編、引いては『NARUTO』という物語でも特に強く、心に残っています。

 

NARUTO―ナルト― モノクロ版 72 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 そうして、「ナルトの成長」でもって「継承」のテーマを「真摯」に描き出す名シーン、自分的には『NARUTO』に熱中するきっかけをくれたキャラクターの死を経て、長く続いた『NARUTO』も終わりへと向かっていく。

 自らの過ちを認められたイタチと、彼の答えによって今の自分を見つめ直し新たな目標を立てたサスケとの再会・共闘には、イタチからサスケへのコミュニケーションに思うところがあっただけに、改めて告げられたイタチの最後の言葉に心が震えた。

 オビトとの決着は、青年編で同期のほとんどが空気なせいでみんなの力を合わせる展開に重みがなかったのが残念だったけど、「同期の皆が九尾の尾の一本一本となりサスケの須佐能乎は鎧となり皆で必殺技を放つ」「十尾と化したオビトにそうして穿った穴から綱引きで尾獣を取り戻す」という画は最高にキマっていて無理矢理にテンションをぶち上げられた。

 開示された大筒木インドラ・アシュラの因縁には、「やりたいことはわかるけどそれ(インドラの魂が宿ってた)じゃナルトが落ちこぼれって設定が台無しにならないかな!? というかナルトの道のりが運命づけられてたみたいで普通に嫌!」となりつつも、チャクラという根本の設定まで巻き込んで決着をつけんとする作品の覚悟を感じた。

 その登場こそ唐突だったもの(オビトとリンの人生を利用したマダラもまた誰かの道具だった、というのが大事なのはわかる)、規模のでかい能力に対して旧第七班+ナルトに想いを託したオビトが個性をフルに活かして立ち向かう大筒木カグヤ戦は、最終決戦としてとても盛り上がった。

 かつてと同じ終末の谷で、あの時以上に孤独へと突き進むサスケとそれでも友情で手を伸ばすナルトの戦いは、二人の「繋がり」が火影へのスタンスを通じて再び「継承」の対比と重なってくる構図は、最後にナルトとサスケの関係性に帰結したエモーショナルな結末(サスケのモノローグで締めたのが個人としての尊重の何よりの証)は、最後の戦いとして何よりも相応しかった。

 そして物語のエピローグ、火影となったナルトが五影会談に向かう場面で、物語は幕を下ろす。忍界大戦を経て手を繋いだ五里。それでもまだ山積みな問題を解決し、里のみんなの未来を守っていくために、ナルトは今日も火影として立っている。

 

 振り返ると『NARUTO』という物語は、道筋自体はとても王道なものだったと思います。一人だった少年が、努力と成長でもって仲間との絆を掴み取り、皆に認められていく。その感想を語っていくにあたって何度も「王道」という表現を用いた。目新しさよりは、安心感や既視感の方が勝る筋ではあった。

 でも同時にこれまで語ってきたように、『NARUTO』はナルトの努力と成長を何よりも丁寧に、彼が掴み取る絆を「継承」のテーマとして何よりも一貫して描いていった。その真摯な姿勢があったからこそ、最終回、ナルトが息子の「うずまきボルト」の悪戯を注意する場面で、思わず涙がこみ上げる。今度はナルトがそちら側に回ったんだと、ナルトは多くの想いを引き継いで大人に、火影になったのだと、彼らの物語が「人生」として受け止められる。

 色々語ったけれど、自分にとって『NARUTO』はとても真摯な物語でした。

 

 

 

 

 

 

 というわけで、とりあえずは最後まで語り終えたところで、筆を置こうかなと思います。長期にわたって連載していた作品なので、どこを語るかどこを語らないかという部分がすごく難しかったのですが、自分なりに注目してきたところが何とか伝われば幸いです。

 あと、全部読んだうえで改めてきっかけとなった映画『BORUTO』を見たのですが、もう、なんというか、感無量としか言いようがなかったです。読んでよかった、『NARUTO』。次は好きなシーントップ10を書こう。

sasa3655.hatenablog.com

 

 

 

おまけ

(ナルト×サクラという既に可能性を絶たれた幻想を、そうと知ったうえで追いかけてしまった者の末路)

(最初は「サクラは全然サスケのこと好きなまま」と理解していたのに、青年編初期の二人の危うさを伴った関係性とヤマトの発言に脳をやられてしまって、最終的に亡霊と化したという経過が非常にわかりやすいですね)

『機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディション完結編 鳴動の宇宙』を見て、気づいたこと

機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディション完結編 鳴動の宇宙 [DVD]

 お久しぶりです、石動です。

 本当にひっさびさの更新になってしまいました。忙しいことには忙しいけどTwitterは普通に触れるくらいの忙しさで、テレビはともかく映画は月2くらいのペースで見てたのに、気がついたら半年近い時間が経ってたんですよね。ただただ自分の怠惰が憎い。憎いので、なんとか何か書かないと。

 と思って絞り出したのが、今回のブログになります。内容は、さきほど言ってた「映画」について。新作劇場版公開を記念して、8月から9月にわたって劇場公開されていた『機動戦士ガンダムSEED』の特別総集編(一部新規パート)「スペシャルエディション」、そのHDリマスター版について。個人的にSEEDシリーズはここ2年ほどに渡ってハマり続けた、直近のブログでも書いていた作品なので、比較的書きやすいかなあと。あと、見ていて単に面白かったというだけでなく、『SEED』に対する自分の認識、特に個人的に微妙に感じていた終盤に対して色々気づくことがあったので、それを中心に書いていこうかなと。スペシャルエディション自体は15年近く前の作品ですが、僕は今回初めて観たので、初見感想として楽しんでいただければ幸いです。

 

 

 

 

スペシャルエディションで通されていた「軸」

 総集編って、普通の映画とは違う意味を持つと思うんですよね。いや正確には本質は同じなんだろうけど、見る側の認識が違ってくる。少なくとも僕は、総集編映画を見る時は基本的に原作を知った上で観ている。知ったうえで、既にある原作をどう規定通りの尺に落とし込み、さらに一本の作品としての「軸」を作るのか、そこに主に興味を持って見ている。

 で、そういう視点で見ると、三部作の内最初の二部作『虚空の戦場』と『遥かなる暁』に関しては、かなり良い出来になっていました。テレビ本編の全50話を約1時間半×3に分けるという尺的に余裕がない状況の中、しっかり一本の映画としてのテーマを設定していた。

 

Zips

Zips

 『虚空の戦場』は、テレビシリーズの開始から砂漠編までを一気に駆け抜ける中で、キラとフレイのどうしようもない依存関係が軸になってました。どちらかと言うと「戦争」というテーマによっていた序盤のお話を、その愚かさを体現した二人の過ちによってはっきりと主張する意図が見られた。シーンの取捨選択だけでなく、キラとフレイが体を交わす場面、フレイにはおぞましい打算があり、今キラが砂漠で戦っているのはその呪いを受けてしまった結果だと明かされる場面、まさかのそこで西川貴教のかっこいい挿入歌がかかる演出含めて、『SEED』序盤の核を守ったまま再構成しようという意思が感じられた。

 次の『遥かなる暁』では、キラとアスランの「かつて親友だったが陣営の違いで敵対してしまった」という関係性の行く先が全編にわたって描かれる。一度は憎しみ殺し合うまでいってしまった二人が、ラクスやカガリとの言葉を受けて、戦場にてついに友として手を取る。二人の衝突と和解を通して、平和のための対話・相互理解の可能性が示されているんですよね。二人によるオーブ脱出というクライマックスから、一気に『暁の車』でエンドロールに突入する結末も、映画としての満足度を高めていました。

 

 勿論、尺の厳しさに影響を受けたことで、流石に見ていて気になる点も出ていました。『虚空の戦場』では砂漠編の内容がびっくりするくらい薄く話の核となる「死んだ方がマシ」関連の展開も要領を得ないほどになってしまっていたり、『遥かなる暁』でもキラとアスランの和解を接着するのに大きな役割を果たしていたカガリとキラの繋がりが描かれていなかったり(というか紅海編全体にまともな尺が割かれてない、前作でフックとなってたフレイとの破綻も雑め、でも「どうしてあんたななんかに同情されなくちゃなんないのよ!」を入れてくれたのは本当にありがとう......)。

 でも、それでも尚、単品の作品としてもしっかり楽しめるほどに、『虚空の戦場』と『遥かなる暁』には自覚的な軸の意識があったと感じたのです。軸を中心に非常に綺麗にまとまっていることで、そういった細かい不満は吹き飛んだんですね。

 

 

鳴動の宇宙』の「軸」のなさ

 で。さっきから『虚空の戦場』『遥かなる暁』ばかり話題にしているけど、じゃあ肝心の完結編『鳴動の宇宙』はどうなんだって話なんですけど。

 率直に言うと、ないんですよ。軸。一本全体に筋を通すような何か。前二作から一転、『鳴動の宇宙』には、そういうものが一切ない。

 一応、「激化する戦争による悲劇をその手で止める」という筋、キラ達の目的自体は共有されている。その目的を中心に、アスランは父との対話を試みて失敗し、ラクスはプラントを抜け出してキラ達と合流し、熾烈な戦いの末にムウとナタルは散り、イザークディアッカはかつての仲間として言葉を交わし、クルーゼは世界を滅亡の道へと進め、キラは真実とフレイの死に苦悩しながらも「守りたい世界」を守る。戦争は激化し、それに応じてキラ達のドラマもより大きく動くわけだから、盛り上がることには盛り上がる。

 でも、前二作のような軸はなく、むしろそれらのドラマ・真実・バトルは、個々で発生し個々で解決していく。それら全てが絡み合って何かしらの、例えば今回の重要トピックで言えばキラの出自から明かされる「戦争と進化した人類」のテーマを補強することは、ないんですよね。

 そしてそのために、『鳴動の宇宙』は全編にわたってふわふわとした視聴感をこちらに提供してくるんですよね。明確な軸がないためにどこに視点を当てればいいのかわからないまま、それ単体では劇的で熱量のあるシーンがスクリーンには映し出される。僕は、そんな自分と作品の絶妙な温度感の差に『SEED』終盤を思い出し「やっぱり合わないんだよな終盤......」と最初はなったのですが。

 ですが冷静に考えると、これって単に自分と『SEED』終盤の相性が悪いってだけの話じゃないんですよね。むしろその逆で、「総集編にすると三部作で唯一軸が作れなかった」という『SEED』終盤の事実の意味・理由が、その性質を体現しているかのような。

 

 

 要するにこのツイートの通りなんですけど、『SEED』終盤ってある種の消化試合なんじゃないかと思い至ったんですよね。少なくとも、僕にとっては。

 

 『機動戦士ガンダムSEED』という物語の本懐。僕にとってのそれは「戦争」というテーマについての、人間の理解と不理解の話なのだけれど、そのテーマ自体は、終盤に来る前に既に描ききってしまっている。物語開始時点で示されたキラとアスランの関係が、キラが自分の意思で大切なものを守るためだけに戦うようになり、アスランが父親の正義を盲信することをやめて、まっさらな状態での友情と対話に帰結した時点で、明確な答えは出てしまっている。

 だからそれ以降の展開は、アズラエルなど明らかにわかりやすく倒しやすい「悪」が出てきて戦闘を牽引するようになってからの物語は、あくまでコーディネイターやキラに関わる設定、「戦争」のテーマを描く過程で展開されたキャラクターの関係性と人間ドラマ、激化の一途を辿る戦争の結末…...これまで描いてきた要素に決着をつける、そういう意味での「消化試合」なんですよね。勿論それらの要素がむしろ本懐だという人もいるだろうけど、僕は以前語ったように『SEED』の「戦争」に関わる描写の一体感と熱量に魅力を感じていたから、そこが終わってしまうと「なんか違うな」と感じてしまう。物語としての細かい不満や不誠実さ以上に、番組の方向性にしっくり来ない感覚を覚えてしまう。総集編としてまとめた時に、軸がなくふわふわしているように見えてしまう。「戦争」に対する答えをキラ達が出して、じゃあ実際にどうするかという話はテーマそのものの発展とは違うものだから、以前ほどの興味を持てなくなってしまう。

 勿論他にも理由はありますが、だからこそ僕は『SEED』終盤に「置きに行く」感覚と不満を感じてしまったんだなと。

 

 

 あくまで僕自身の内面での受け止め方の話なんですが、『SEED』終盤に関するこの構造に気づいた時、かなり大きな納得がありました。終盤に対する不満はかつて色々こねくり回して書いたけど、他にもこんな理由があったんですね。

 これに気づけたのは総集編という、作品の一部を切り取って再編集・圧縮したものを一気に駆け抜ける形式ならではだったので、本当にスペシャルエディションを見てよかったなと。作品として楽しんだと同じくらい、自分の中ではこの気づきをもたらしてくれのが大きかった。『SEED』終盤に対するモヤモヤが、また幾ばくか晴れたような気がします。

 

 

その他気づいた点

 それ以外にも、スペシャルエディションで改めて一気見して気づいたこと一覧。

  • 序盤の展開で意外とフレイとラクスの交流も描かれてる。特に父親を助けるために自分を人質にとったフレイ、直後に父親の死を目の当たりにした時の彼女の悲鳴は、割とラクスに影響を与えてたのかなーと。戦争のどうしようもなさを知ってはいたけど、そこで苦しみ憎しみ合う人間の心にはあの時初めて直で触れた的な。
  • テレビ版では少なくかつ間が空いていた出番が、あまり削られず総集編の中の短いスパンで出てくるからなのか、これに限らずラクスの心の動きをかなりちゃんと追えた気がする。初見時はあんまなんとも思わなかったフリーダム譲渡が今見ると激ヤバにしか見えなかったり、逆にただ混乱しかなかった「正義の名のもとに」に当たるお話も、落ち着いて見るとラクスが対話の中でアスランに個人的な期待や感情を投げかけてたり、印象が変わったシーンもいくつかあった。
  • 終盤のキラ、フレイの存在と彼女の言葉がほとんどトラウマになってるんだなあ。勿論一人の人間として約束通りまた話したいとは思ってるけど、それ以上に心の奥底にフレイの呪いが刻みついてしまってる。目を覚ました時に、こちらを心配そうに覗き込んでるラクスにベッドの上で自分に覆い被さるフレイを幻視してしまう描写、罪も業も深すぎて興奮した…...。
  • マリュー、これナタルアズラエルを止めてたこと最後まで知らず、むしろ卑劣な攻撃の結果ムウを殺した相手として憎んでる可能性あるな…...本当は全く逆なのに、全然対話できずすれ違い撃ち合ってしまうの、本当に『SEED』って感じ……あとあれで何故か生きてるムウは反省して。
  • キラとラクスが良い雰囲気になる度に気を回してどっかに行くアスラン、面白い。二人がイチャついてるのを窓越しに見て切なそうな表情はするのでラクス自体には微妙な未練はなくはないのも面白い。

 

 

 

 というわけで、以上、『SEED』スペシャルエディションの感想でした。SEEDシリーズ、TVシリーズだけでも良くも悪くも感情をかき乱されて、なんとか最後まで見終わったと思ったらコミカライズでも魅せられて、総集編にまで味がするとは思わなかったです。スペシャルエディションで気づいたこと、個人的にはかなり『SEED』の自分の関係が理解できたような気がして。なんだかんだ言いつつSEEDシリーズのことは嫌いである以上に好きなので、より深く理解する機会が得られて本当に良かったです。というところで、今回は筆を置かせていただきます。

 

 今週観た『DESTINY』のスペシャルエディション第一部もめちゃくちゃ面白かったし、本当に底が深いコンテンツ…またそっちも感想書くかもしれない…...。

 

 

 

 

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