石動のブログ

アニメやら特撮やら映画やらの感想を書きます。

感想 『犬王』 さあ歌おう、確かに有った、誰かの「物語」を

劇場アニメーション『犬王』

 どうも、石動です。

 三か月ぶりのブログ更新。なんでこんな放置してしまったかというと、シンプルに忙しかったのと、年に十本も見たら「今年はたくさん見たな」となる自分にしては珍しく、三月から六月にかけては観に行きたい映画が沢山あったんですね。『ウルトラマントリガー エピソードZ』とか『プロメア』の三周年記念上映とか劇場版『輪るピングドラム』とか『シン・ウルトラマン』とか。映画って、劇場で観るからこその迫力や情報量の多さがある(だからなるべく劇場で観たい)一方、それ故に一本見るだけでもその情報量で脳や目が疲れたり、あと単純にそこそこ遠くへ足を運ぶために身体も疲れてしまう、そんな娯楽だと思ってて。だから一本見たらTwitterに感想だけ放流して爆睡したりで、なんだかんだブログを書く時間がとれなかったというか……(言い訳)。

 

 で、それらの「観たい映画」のひとつが、今回感想を書く『犬王』なんですね。南北朝が統一されんとする時代に、それぞれ別の道から能楽(当時は猿楽と呼ばれていた)の道を進んでいた一人の人間と一人の化け物が出会い、これまでにない旋律・歌声・舞の猿楽で一世を風靡する、犬王という実在の人物を題材にしたお話。古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』を原作にしながらも、その「これまでにない旋律・歌声・舞」を現代のロックバンドのようなサウンド(それを作る楽器自体は琵琶が主体)として表現する、大胆なアレンジを音楽面のコンセプトに制作された作品。

 そんな破天荒なミュージカル映画を手掛けるのは、監督に『夜明け告げるルーのうた』『四畳半神話大系』等の湯浅政明、脚本にドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』『アンナチュラル』等の野木亜紀子、キャラクターデザインに『ピンポン』『鉄コン筋クリート』等の松本大洋、主演に『女王蜂』のアヴちゃんを据えるという最強の布陣。また、制作スタジオのサイエンスSARUは、3月まで同じく古川日出男の訳を原作にした大傑作アニメ『平家物語』を放送していたこともあって、否が応でも期待が高まっていたんですよね。率直に言うと、この布陣の時点でほとんど名作間違いなしとまで思っていて、そういう意味では今年最も楽しみにしていた作品かもしれない。

 

 というわけで、『犬王』を観てきた自分の、個人的な感想をまとめていこうと思います。以下ネタバレ全開ですので、まだ観られてないという方はお気を付けください。

 

 

 

映画『犬王』オリジナル・サウンドトラック

 では最初に、不満だったところについて述べていきます。

 「あの前フリからいきなりけなすんかい」と言われそうですが、実際に劇場で観たところ、前述のような極端に大きい期待に反して、序盤から中盤にかけては割とノり切れないような展開・映像があったんですよね。正確に言えば、冒頭の現代の都市の二次元と三次元が融合したような映像や、盲目の主人公「友魚(途中で友一、友有に改名)」が音で世界を「視る」描写とか、盲目故に友魚が恐ろしい見た目をしたもう一人の主人公「犬王」を恐れることなくそれどころか歌と踊りを交わし合うシーンとか、基本的には楽しんで観ていたのが、中盤のあるシーンで急に頭の中に疑問符が浮かんだと言いますか。

 

 少年の頃、一度だけ相まみえ、友魚は習った琵琶の音色でもって、犬王は独学で身に着けた舞(ダンス)でもって、心を繋いだ主人公二人。それが、年月が経ち成長した姿で再開する。話していく中で、犬王が化け物のような見た目をしていること、芸を極めていく毎にその姿形が変化し真っ当な人に近い形に戻っていくことについて、「無念の中死んだ平家の怨霊が取り憑き、知られることのなかった自分達の物語を語ることを犬王に求めている」「だから物語るための手段たる芸が上達するとその願いが満たされ呪いが段階的に解けていく」という真相が明らかになる。その中で、犬王は怨霊達の「物語」に、友一は数奇な過去を持った犬王のという男の「物語」に、それぞれ運命的なものを見た。そこで二人は、これまでにない斬新な音楽とパフォーマンスでもって、自らの伝えたい「新たな物語」を歌い始める。

 

 そんな、二人が「犬王」「友有」という名を名乗り活躍、一気に注目と人気を集めていく(そして芸を極めることで少しずつ犬王の姿が人間に近づいていく)シーンで、二人のライブとそれを受けた世間の反応を交互に描く手法がとられるんですけど、その尺があまりに長すぎるんですよね。手法自体は別に珍しくもない、「挿入歌がかかって登場人物達が送る年月をダイジェスト的に描写する」というアニメ映画における王道を、お話の中核にある二人の「物語」「それを語る歌」「猿楽」と絡めてやっただけなんですけど、あまりに長々とその流れをやるものだから、結果的に中だるみのような退屈さを生んでしまっている。

 映像や音楽もその退屈さに拍車をかけるような作りで、歌のメロディも特に激しい転調をするわけでもなく繰り返すように進行していってしまうし、後のシーンに向けて溜めるためか、ライブ演出もある程度はっちゃけつつも最低限の時代設定は守るようなテイストに抑えられてしまっている。一連の流れでは友有と犬王が交互に自身の演目を演る形になっているのですが、特に友有パートの単調さ(ほぼ同じ旋律の曲を二、三回歌詞だけ変えてフルで歌う、犬王と違って「演目」というより「曲」の側面が強いせいで派手な演出も少ない)が辛くて……。

 

 

犬王 壱

犬王 壱

 いや勿論、それだけ長々とやる意図はわからないでもないんですよ。二人の熱唱する歌詞をよく聴くと強いメッセージ性と物語性、「滅びてしまった平家の怨念を語る」「そんな犬王の力強い姿を共に見届けようと民衆に呼びかける」という意味を含んでいて、それらが交互に展開されることで重層的に絡み合い、「物語ること」が中心にある作品のテーマと二人の関係性を確かに表現する。だからきっと歌詞をしっかり聞かせる意図として、あの長さになったのだろう。また、このシーンは物語における最初の見せ場、話が一気に進む場面なので、あまりさらっとやってしまうと映画として歪になってしまうのだろうなというのも、観ていてなんとなく理解できる。

 

 それでもやはり、友有の心情描写が微妙にあっさりしている(犬王の怨霊関連の話の中で父母の呪いから解き放たれたが故に自分のやりたいことを始めたのかな、とは思う)ために展開に置いて行かれてしまうような感覚が、歌っている間には二人の心情描写を一切しないことで拍車がかかってしまっているのも含め、体感15分くらいあったあのシーンは不満が多かったな、と。意図は飲み込めても、それでもやはり極端すぎないか、と思ってしまいました。5分とかそのくらいの長さだったら良かったんだけど……アヴちゃんと森山未來さんの歌声や楽曲そのものはめちゃくちゃ良いだけに、非常に勿体ない……。

 

 

 

劇場アニメーション「犬王」誕生の巻

 ただ、です。ただ、なんですよ。ここからは褒めのパートに入るわけですが、逆説的に言うと、明確な不満はそこくらいで。それ以外のシーンはむしろ全て良かったんですよね、『犬王』。前半で「おおっ」となった部分は先ほど書いたのですが、後半はそれを遥かに凌駕する勢いで情緒を揺さぶってくるようなお話と演出が展開されていく。誇張抜きで、スクリーンに映し出される全ての映像に、例外なく見惚れ、圧倒されてしまう。

 その中でも一番好きなのが、次のシーン。

 

 全国にその名を轟かせた犬王と友有の「友有座」が、時の将軍たる足利義満の妻の要望を受け、御所でパフォーマンスを行うことになる。その背景には犬王の人気に嫉妬した猿楽の一派である比叡座の当主と、ある理由で友有座を邪魔に思っていた足利義満の陰謀が絡んでいて、まだ呪いが解けていない化け物の顔を隠すための能面を最後には外して歌うよう、犬王は命じられる。それを知ったうえで、化け物の顔を見られたら忌み嫌われ処刑されてしまうことを知ったうえで引き受けた犬王だったが、演目が中盤に差し掛かっても平家の怨霊はいつものように喜ばず、呪いも解けてくれない。

 何を怨霊達は求めているのか。一体何が足りないのか。怨霊達は、自分達平家の「物語」が語られていることを望んでいる。ならば足りないものは「物語」、まだ拾えていない「物語」、それは一体、誰の「物語」なのか。

 そこで犬王と友有は、他でもない自分達の「物語」を、過去を回顧する。そもそも、友有の───友一の、友魚の物語は、平家と共にあった。代々壇ノ浦に沈んだ平家の遺物を拾ってきた、そんな漁師の家に生まれた。そしてある日、三種の神器を求める北朝の者に頼まれ、かつて安徳天皇と共に沈んだ天叢雲剣を引き上げ、その呪いから父母の怨念による復讐が始まった。

 しかし、これは既に語られた「物語」だ。友有自身も覚えているし、観客も映画の序盤でそれを知っている。では足りないのは、まだ明かされていない、犬王の「物語」。

 

 

竜中将

竜中将

  • 犬王(CV:アヴちゃん) & 友有(CV:森山未來)
  • アニメ
  •  
  • provided courtesy of iTunes

 もう、ここまでの流れで既にちょっと泣きそうなってしまったんですよね。

 絶体絶命の危機を迎えた二人が全力のパフォーマンスを行い、しかしただ歌い踊るだけでは呪いを完全に解くまでは至れず焦り、満たされない怨霊達の声を聞く中で、「自分自身の物語」という正解に至る。その過程が、一つの演目の中で表現されていく。最初はしっとりした曲調で軽やかに舞うも、怨霊達がいつものように喜んでいないことに気付き、その焦りの発露と同時に曲調と演出が一気に、水上でのバレエから色とりどりの照明が瞬く中のダンスミュージックに変化する。さらに場面が過去の回想へと移る際にも、歌からインストゥルメンタルへと音楽がシームレスに交代する。映像(「聴こえるはずの声が何故か聞こえぬ」のような歌詞を含む演目内容)と二人の心情がミリ単位の見事なシンクロを遂げる演出に、観ている側は一カットも、一音たりとも逃せないほど夢中にさせられる。

 シンプルに、映像単品で見ても満足度が非常に高いのが良いんですよね。曲調の変化はどことなくボヘミアン・ラプソディみたいで面白いし、その変化の前後が「舞と情景で魅せる普遍的な美しさの表現」「原色のサーチライト(スポットライト?)とその光の中でシルエットになって踊り狂う、ド派手なインパクトをもたらす現代的な表現」というように、その方向性・時代設定のイメージとの一致の度合いの二面において対照的になっているのも楽しい。そこに友有の過去回想のエモーショナルな演出と「これまで誰かの物語を伝えようと歌い舞ってきた二人が、ここに来て自分自身へと焦点を当てる」「それこそが残された平家の物語の最後のピースだった」という展開の熱さ、ドラマとのシンクロが乗っかってくるのだから、もう、言葉にならないような没入を感じるんですよね。

 

 そしてその勢いのまま、謎が多かった犬王の「物語」が語られる。犬王が平家の怨霊に呪われた理由。それは、比叡座の当主───犬王の父親が、芸を極め皆に評価されることを望むあまりに呪われた能面の力に頼り、その要求のままにまだ母親のお腹の中にいた犬王を代償として差し出したからであった。能面は犬王の父親にまだ語られていない平家の「物語」を、新たに琵琶法師達が拾った「物語」を殺し奪うという形で入手させていく。その奪った「物語」を利用した犬王の父親は猿楽の世界で成り上がり、最後の代償となった犬王は彼に「物語」を奪われた平家の恨みにより化け物へと姿を変えた。

 

 「芸能を極めるのと名声を得るのだけを目的に他者の物語を奪い、私利私欲をもって語る」「全ての物語を自分のものにしようとするが、それらはどこまでいっても誰かの物語でしかなく、自分の物語ではない」。ここまでの『犬王』で描かれてきたものとまさに正反対な犬王の父親と、その執念に呪われた犬王。

 しかし犬王は、そんな自分の「物語」を、迷いなく物語る。平家の「物語」と深く関わっていた、ある意味でその一部となっていた「物語」を、枠にとらわれない音楽と舞で表現し、その存在を世界に知らしめる。自分自身の名を、滅びてしまった平家の声を、高らかに歌う。それにより平家の「物語」を語り尽くし呪いを解く姿が、「物語ることの意義」をこれでもかと表現した展開が、父親との対比でもって、より深くこちらの胸に突き刺さってくる。

 

 本当に、最高としか言いようがないんです。「思い出さえも夢のあとさき」……犬王が自らの「物語」を語る歌詞はローテンポ故の確かな力強さを持つ曲調と合わせてあまりに情緒に訴えかけてくるし、加えて犬王の真実に関しても、映画冒頭の意味深な描写と「犬王は平家の亡霊に呪われており、その声を聞くことができる」という根幹の設定、前半の「都で平家の物語を集めている者が襲われているらしい」という噂……それらが一本の線となって繋がる伏線回収的なカタルシスを伴っているわけで、一連のシーンを見ているときの興奮は筆舌に尽くしがたいほど。とにかく、ただただ素晴らしい……。

 

 

犬王 エンディングテーマ

犬王 エンディングテーマ

 で、さらに言うと、この映画の凄いところは、上記のシーンで抱えたここまでの熱量を一切覚ますことなく、ラストシーンまで駆け抜けるところなんですよね。個人的な「好き」で言えばここが頂点だけど、物語としては一切勢いを殺すことなく完結する。先ほど言ったように、不満なところは中盤の例のシーン「だけ」と断言できるほどに、速度を落とさない。

 平家の「物語」をまとめることで南北朝を統一するほどの権威を示す、だから自分がまとめさせた以外の「物語」は「正しくない」「存在しない」ものであるため語ることを禁ずる…という足利義満のスタンスで犬王の父親とは異なる方向性での「物語ること」へのアンチテーゼを示すのには痺れたし(あと『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』じゃん……義満、常盤SOUGOじゃん……ってなった、胡乱)、仲間達を半ば人質にとられ義満に屈する犬王と最期まで自分で決めた名を名乗る(平家の「物語」を拾うことを否定しない)友有には泣いたし、結果友有を失った犬王が、たった一人で義満のために「伝統的な」舞を踊るシーンにも(犬王の顔が能面のように無表情なのが辛くて辛くて……無音の演出にも震えた)、「犬王達の演目の内容は、一切現代には残っていない」という無慈悲な事実にも、胸がつまった。

 

 そして、最後。現代で亡霊となり彷徨っていた友有の前に、ずっと彼を探していた犬王の亡霊が現われる。「名前(を元のものに)変えてたのかよ、わからなかったぞ」「お前は友有だろ」。その二言で、友有は怨念にまみれた出で立ちから、犬王と同じ子どもの頃の姿に戻る。笑顔を交わした二人は、初めて出会った時のように琵琶の音色と舞を交わし、夜空へと舞い上がっていく……そこで、『犬王』は終わる。

 

 

 

犬王 アニメーションガイド

 勿論、前半で述べたように、『犬王』は完璧な映画だとは言えない、とは思う。いくらそれ以降のシーンが良かったからといって不満は消えるわけではないし、その不満は無視するには大きすぎる。そもそもの話として、室町時代設定の古典なのにロック、というコンセプト自体がまあまあ好き嫌い別れそうだなというのもある。Twitterで「犬王」と検索すると、サジェストに真っ先に「微妙」と出るのもまあ、全く理解できないとは言えない。

 ただ、「犬王達の元ネタになった音楽は幕府によって完全に規制されたため、現代に全く伝わっていない=誰も絶対にあのような音楽ではなかったと断言することはできない」とそのコンセプトにも一応この話だけなら成り立つ理屈を付けていること、どうしようもなく制作陣の実力の高さを理解させてくれるアニメーションの完成度、そして「物語ること」の尊さをここまで突き詰めて描いてくれたお話の素晴らしさに(お話の筋的にはビター寄りなオチなんだけど、それを死後の二人の再開と、「そんな犬王と友有を題材にした映画が作られた」「公開されることで忘れられた二人の『物語』は多くの人に知られた」という作品そのものの事実で一気に裏返してくるのが天才)、めちゃくちゃに感動してしまったんですよね。少なくとも、根本にあるテーマはほとんど完璧に近い形で描かれている。個人的には、その点を高く評価したいというか、個人の感覚としてぶっ刺さったというか……。

 

 ということで、『犬王』、個人的には2022年どころか人生においても記憶に残り続けるような傑作でした。久しぶりに書いたせいで文章が大分とっちらかってしまいましたが……とりあえず読んだ方に『犬王』の面白さが伝わってくれれば……。