石動のブログ

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総括感想『機動戦士ガンダムSEED』HDリマスター 「進化」と「戦争」の物語として、キャラクターの織りなすドラマとして

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 機動戦士ガンダムSEED

 およそ一年半前、テレビの番組表をぼんやりと見つめていた時、ふとそんな文言が目に入った。

 

 『機動戦士ガンダムSEED』は、2002年に放映されたアニメーション作品だ。ガンダムシリーズの中でも所謂「アナザーガンダム」に分類される作品で、『機動戦士ガンダム』に始まる宇宙世紀とは異なる宇宙で物語は展開する。それまでは、宇宙世紀の作品は「機動戦士」、アナザーガンダムは「宇宙新世紀」などの別の命名、というような法則があったのだが、『ガンダムSEED』は初めてそれを破り、アナザーでありながら「機動戦士」の名を冠する作品となり、そのためか初代ガンダムをオマージュしたような設定や展開が多く見られる。

 と、まるでガンダムシリーズのマニアのように語ってしまったが、自分はそれまで一度もそれらの作品を視聴したことがなかった。正確に言えば、一度初代ガンダムに挑戦して1クールくらいで挫折したことはあったし、『ガンダムビルドファイターズ』などのガンプラに焦点を当てた『ビルド』系列の作品は全作楽しんでいたり(『ガンダムビルドダイバーズ Re:RISE』は本当に傑作)はしていたが、戦争を舞台としたハードな雰囲気を最後まで完走したことはなかったのだ。

 ロボットアニメにリアルな「戦争」を持ち込み、そのフォーマットを広めた金字塔的作品。日本のアニメでも屈指の歴史と作品数と多様さを誇る、そのコンテンツとしての巨大さ。数多の作品でそれぞれの方向性で展開されているであろう、ハードでシビアな人間ドラマ。調べる中でイメージされるそれらの要素に、「オタクならいつか見なくては」と、「明らかにハード路線の自分の好きなやつだから見るべきだろう」とは思いつつも、時々なんとなく気になって調べてみるくらいで(上記の豆知識的なものもその中で知った)、実際に作品に触れることはなかった。

 

 「だから」なのか、「しかし」なのか。番組表の中にその名を見つけ、最近やたらゼロ年代の名作アニメを再放送していた地元のテレビ局が『機動戦士ガンダムSEED』を放送すると知った僕の手は、この機会を逃してたまるかと迷わず番組の毎週録画を済ませていた。これから一年、当時の視聴者と同じペースでこの物語を追っていけることに、初めて『ビルド』シリーズ以外のガンダムを視聴することに、気分は高揚していた。

 そして、『機動戦士ガンダムSEED』の再放送が開始された翌日。疲れた身体を引きずるように帰宅した僕は、手洗いうがいを済ませるなりソファに横になり、横になったままリモコンでテレビの電源を入れた。家のハードディスクはテレビが起動してからも接続するまでそこそこの時間がかかる。「録画」のボタンを連打すると、「もうちょっと待て」の意のメッセージを何度も表示された。何度も表示されて、ある瞬間に、画面が興味のない番組から録画番組のリストに変化する。すぐさま「機動戦士ガンダムSEED PHASE-1」を選択すると、待ちに待った映像が再生を開始した。

 

 

01.PHASE-01 偽りの平和

 遺伝子技術により胎内にいる時から両親の望むような調整を受けてきた「コーディネイター」と、一切手を加えられない形で生まれてきた「ナチュラル」。人間はその二つのそれぞれで構成される「地球連合軍」と「ザフト」に分かれ、血で血を争う戦争を繰り広げていた。

 その戦火が年月を経る毎にどんどん大きくなっていく中、地球の(つまりナチュラルの)中立国オーブのスペースコロニーたるヘリオポリスで平和に暮らしていた少年、キラ・ヤマトは、ヘリオポリスで秘密裏に地球軍の新MSが作られていたこと、それを狙ったコーディネイターの国家「ザフト」が進攻してきたことをきっかけに、地球軍の新MS「ガンダム」に乗る形で戦争に巻き込まれていく。そしてその戦場には彼の幼い頃の親友だった少年、アスラン・ザラザフト軍兵士として姿を見せており、二人はそれぞれ敵対する立場で再会することになる。

 

 「二つの勢力に分かれ、戦争を繰り広げている人類」。「ある日突然、その戦火に巻き込まれる主人公の少年」。「運命のいたずらで敵味方の境界線で分かたれてしまった二人」。『ガンダムSEED』PHASE-1で展開されていたストーリーは、僕がガンダムに求めるハードでドラマチックな要素を全て含み、そのうえでお話としても綺麗にまとまっていた。

 加えてロボットアニメ的な作画も素晴らしく、特にオーブが製造していた地球軍の新MS、その中でも唯一ザフトに奪取されず残り、成り行きでキラが乗り込んでしまった「ストライクガンダム」が炎の中立ち上がるカットのカロリーの高さは最高だった。悲劇性に溢れる物語とかっこいいロボット作画、二つの面で王道を見事にやり切ったその面白さは、ある意味で僕の期待通りだったのである。

 そして、その良い意味で期待通りな、ロボットアクションの中で悲惨な「戦争」を展開していく番組進行は、PHASE-1以降も続いた。『ガンダムSEED』が上手いのはその「戦争」の描き方で、最初の1クールでは変に「戦争」という概念やその定義に迫ることはせず、「ロボットアクション」「メインキャラクターの大半を占める14~16歳頃の少年少女の心情描写」という作品の大きな構成要素で徹底的に「戦争」に関連するものを取り込むことで、そのテーマを物語に昇華している。

 ロボットや戦艦に乗った人間が撃墜により一瞬で命を散らす映像と、戦地に身を置くことでその内にあるものを強く顕在化させてしまう、等身大の少年少女が思い悩み葛藤し感情をぶつけ合う描写。彼らの心の移り変わりとそれが大きく変化するきっかけとなる戦闘(ロボットアクション)を追うだけで、「戦争」の悲惨さが感情として自然に理解されるのだ。

 

 そしてそんな1クール目の終わりに差し掛かって、その特徴の一つ「少年少女の心情描写」は様々に絡み合い加熱し、一つの名エピソードを生みだす。自分の中に、『ガンダムSEED』の中でも印象深く残っているそれは、PHASE-10「分かたれた道」だ。

 

 

10.PHASE-10 分かたれた道

 ヘリオポリスの崩壊から、地球軍と合流するために宇宙を旅し続けてきたアークエンジェル。その道中でザフト軍との交戦やユーラシアの軍事要塞アルテミスの陰謀、アクシデントにより宇宙を漂流していたザフトの歌姫ラクス・クラインの救出など様々な出来事に遭遇しながらも、ついに地球が目視できるところまでたどり着いた。

 しかし、アークエンジェルが地球軍の第8艦隊との合流を果たそうとした瞬間にザフト軍の強襲を受け、交戦のさなか地球軍艦隊の一部は撃ち落されてしまう。それにより命を落とした人間の中にはキラと同じ学校に通い今はアークエンジェルを共にする少女「フレイ・アルスター」の父親もおり、「僕が守るから大丈夫」とキラが戦闘前に彼女にかけた励ましの言葉と、彼が実はコーディネイターだったという事実が原因で、キラは彼女に「同じコーディネイターだから手加減したんでしょ!」「この人殺し!」と激しく責められてしまう。

 当然、客観的に見ればフレイのその怒りは筋違いなものだ。戦争はたった一人の人間とMSでなんとかできるほど簡単なものじゃない。キラはその力を尽くして、必死に戦った。できうる限りのことをした。キラの穏やかな性格と彼がずっと平和な日々を暮らしてきたことを考えると、殺し合うことへの苦しみを押さえつけてできることをした(しかし全ては守れなかった)彼は、慰められこそすれ糾弾される謂れはないだろう。

 しかし、キラの視点からすればどうだろうか。戦闘の開始に際して父を心配するフレイを安心させるためとはいえ、確かに自分は彼女に安易な約束をしてしまった。可能な限り抵抗したとはいえ、結局その約束を果たすことはできなかった。

 そして、「同じコーディネイターだから手加減した」という指摘も、全くの間違いというわけではなかったのだ。ザフト軍に所属してヘリオポリスから強奪したMS「イージスガンダム」を駆るかつての親友、アスランと、キラはあの戦場で再び相まみえた。彼との関係が戦う際の足かせにならなかったと、どうして断言できようか。少なくとも自分は、彼を本気で殺そうと思って戦いはしなかった。彼は敵なのに。自分は地球軍で、彼はザフト軍なのに。それこそ、「同じコーディネイターだから手加減した」ということではないのか。

 

 平和な頃に少しの憧れを抱いていた少女に怒りをぶつけられ、キラは苦悩する。自分の立場に、アスランとの関係に、この戦争との関わり方に、苦悩する。その苦悩は、アークエンジェルが劣勢をザフトの歌姫であるラクスを人質にとることで逃れ、さらに彼女を利用しようとしていること、ラクスがアスランの婚約者であること(アスランの父はザフトの国防委員長であり、歌姫の父親とも関係があった)、そしてラクスとの対話を経たことで、一つの覚悟に変わる。キラはラクスをストライクに乗せると、無断でアークエンジェルを出撃した。人質たるラクスを、ザフト軍に返すために。

 何故、キラはこのような行動をとったのか。一見すると、親友サイ・アーガイルが彼を見送る際に「戻ってくるよな」と声をかけたことからも伺えるように、キラがナチュラル、引いては地球軍に見切りをつけ、親友と同族のいるザフトに寝返ったかと思える。しかし、キラの真意は別にあった。ラクスを受け取りに来たアスランの「キラ、お前も来い」という提案に、彼は首を横に振った。

 キラがラクスを受け渡したのは、アスランと対等の関係に……「敵」になるため。コーディネイターとしての迷いを捨てる、戦いへの躊躇いを振り切る、アスランとの決別を告げる。そのために、その中で人質という対等じゃない要素をなくすために、アスランと戦うという事実から卑怯で一方的なそれを排して自分の葛藤に最低限の折り合いをつけるために、彼はこんな行動に出たのだ。自分の差し伸べた手を握ろうとしないキラを、その強い決意を秘めた瞳を、アスランは見た。彼もその決意を受け止め、「次に会うときは敵だ」と、別れの言葉を放った。

 

 これだけ長々と書いたのだから、これ以上語ることはない。「戦争」と、その背景にある二種類の区分間の「壁」……その中で必死に前に進まんとする少年の決断を描いた、名エピソード。1クール目の到達点であったそれは、僕の心に今でも強く残っている。

 

 

13.PHASE-13 宇宙(そら)に降る星

 と、ここで、フレイ・アルスターというキャラクターについても語っておこう。上記のPHASE-10の説明でも出てきた彼女だが、これ以降より一層激しく物語をかき乱し続けていく。『ガンダムSEED』を一番面白くしてくれたのは、間違いなく彼女なのである。急に文脈をぶった切って何を言い出したのかと思われるかもしれないが、要するに、そこまで言ってしまうほど僕はフレイというキャラクターに魅了されてしまったのだ。正直、『ガンダムSEED』はおろか、あらゆる創作作品で一番好きな女性キャラクターかもしれない……。

 

 PHASE-10の行動にも表れているように、『ガンダムSEED』序盤の彼女はひどく平凡な身勝手さを持つ少女だ。ヘリオポリス襲撃の際には自分の身を守ることが第一とはいえ平然と友人を置き去りにするし、アークエンジェルに乗った以降はキラがコーディネイターであることに差別意識を持つわ、余裕のない状況なのにシャワーに浴びたいと駄々をこねるわ、主要キャラでほぼ唯一キラの力になるためアークエンジェルの業務を手伝わないわ、やりたい放題である。

 しかし、その目で父親の乗った艦が宇宙の塵となる瞬間を目撃してから、彼女の中で何かが変わった。正確に言えば内なる差別意識や身勝手さはむしろ大きく増したのだが、その中にあった平凡さがなくなったのである。

 ザフト軍にキラの親友がいる事実を知った際に立ち上った様々な悪感情をきっかけに父の死のショックから回復した彼女は、地球軍第8艦隊に合流したことでやっとアークエンジェルを降りて平和な日々に帰ることができると安心する皆とは正反対に、自ら艦に残りザフトと戦う意思を見せる。父を殺したコーディネイターを、ザフトを許すことはできない。残る理由を問われた際にそう答えたフレイだったが、彼女の真意は別にあった。

 それは、自分という存在を楔にして、キラを戦場に居続けるよう仕向けること。力不足で自分との約束を破ってしまったことは、自分に激しく糾弾されたことは、キラの心の中に消えない罪悪感として残っている。そんな中で自分が艦に残って戦うと言えば、彼は悩んだ末に戦うことを選択するかもしれない。

 さらに、婚約者である自分が残ると言えば、サイも心配してついてきてくれる可能性が高い。サイはキラの親友だ。実際、サイが残ると言い出したことをきっかけに、ヘリオポリスから脱出しアークエンジェルにここまで同乗してきた学生達は、キラの友人達は、艦を降りないと決めた。約束を破ってしまった少女と、ずっと守りたい対象であった(ある意味で彼の戦う理由だった)友人達の決断。ヘリオポリスから救護カプセルで逃げてきた幼い女の子の「守ってくれてありがとう」という言葉が最後の一押しとなり、キラはフレイの狙い通りに再びストライクに乗り込んだ。

 では何故、フレイはそこまでしてキラを戦わせようとしたのか。その答えは単純で、キラとコーディネイターを心の底から憎んでいたからである。自分との約束を果たせず敵軍に親友がいたために手加減した可能性すらあるキラと、実際に父親の命を奪ったザフト軍。両者の背景にある少年の苦悩や「戦争」の構図を無視し、彼女は粘着質な恨みと憎しみを胸の内に抱いていた。

 その結果、「キラを戦場に縛り付け、ずっとコーディネイターを殺し続けるよう操る」「その果てに、精神も肉体もボロボロになって死んでもらう」という目的を持つようになったのだ。キラにその圧倒的な戦闘力でもってザフトへの復讐を代行してもらい、さらに酷使した末の摩耗と死でもって彼個人への復讐とする。そのためなら、自らの全てを差し出すことさえ厭わない。

 だから彼女は、アークエンジェルに戻ったキラを見た瞬間にその身体に抱き着き、さらに口づけまで交わした。だから、その後の大気圏突入時の戦闘で女の子の乗ったシャトルを撃ち落されてしまい悲しみと悔やみに暮れる彼を、自らの身体を差し出すことで慰めた。自分の整った容姿と起伏に富んだ肉体を自覚したうえで、それすらも武器にしてキラを自分の思い通りにしていく。原始的な、しかしそれ故に消し難い性の欲求にまで訴えることで、彼を少しずつ自分に依存させていく。ベッドで彼を抱きしめた彼女は、「私の想いがあなたを守るから」と、呪いの言葉をその耳元で囁いた。

 

 ただ、あくまでこれは僕の解釈に過ぎないのだが、彼女がキラに向けていた感情は、この時点で憎しみと恨み、復讐の対象に向けるそれら以外のものを既に含んでいた。キラがアークエンジェルを戻ってきたことに「私は賭けに勝ったのよ……!」と狂喜する言葉には悲しみが、キラに口づけた唇をそっと指でなぞっている際の表情には戸惑いが、確かに描写されている。

 フレイはキラのことを逆恨みしながらも、様々なモノの狭間に立たされ苦しみ続けるその姿に、無意識のうちに憐憫と愛情を覚えていたのではないだろうか。彼を戦場に引き込み誰よりも深く傷つけながら、同時に彼のことを誰よりも理解していたのではないだろうか。ある意味で、父を失った空白を、彼を想うことで埋めていたのではなかろうか。衝動的で刹那的な肉欲とおぞましく冷徹な打算が交わされたあの夜は、同時に二人がお互いの傷を舐め合った瞬間ではなかったのか。

 

 先ほどのPHASE-10とは真逆の、ドロドロしたものだけで紡がれる二人の物語。感情のままに取り返しのつかないところまで転がり落ちていくその様はどこまでも破滅的で、僕の心を何よりも強く揺さぶってくれた。あまりに「先を見たくなる」二人の関係を描いたうえで、『ガンダムSEED』は新たな舞台、砂漠編へと歩を進める。

 

 

17.PHASE-18 ペイバック

 ザフトとの戦闘の結果、アークエンジェルは大気圏突入を実行することになった。その先で不時着した砂漠が運悪くザフト勢力圏内で、キラ達はそこを支配しているザフト北アフリカ駐留軍、その指令たる「砂漠の虎」ことアンドリュー・バルトフェルドの強襲を受ける。ただ、その砂漠では「明けの砂漠」という組織がザフトに対してレジスタンスを展開しており、その協力を得てアークエンジェルバルトフェルドを撃破し砂漠を突破していくことになる。

 「砂漠編」と言ったものの、『ガンダムSEED』においてそこがメインの舞台となるのはPHASE-16~21のたった6話である。しかし砂漠で巻き起こった出来事は、短い尺ながら非常に大きな影響をキラの中に残し、同時に視聴者に向けて「戦争」の本質に迫った描写を突きつけた。その影響の大きさと描写の追求を象徴したのが、「死んだ方がマシ」という台詞だ。

 

 「死んだ方がマシなのかねえ」。先述の「砂漠の虎」の強襲の際、「明けの砂漠」はアークエンジェルに協力しそれを撃退した。それに対し、バルトフェルドはすぐさま拠点タッシルを焼き尽くすという報復を行ったが、その勢力やアジトをほとんど把握しているにもかかわらずそれ以上の報復はせず、タッシルへの攻撃も人が避難できる時間を確保するような形にしていた。しかし、冷静にそのことを指摘するアークエンジェルクルーや「明けの砂漠」頭領の声を無視し、一部の人間は怒りに任せて報復から帰るザフト軍の後を追い無謀な攻撃を仕掛けた。

 どう考えても、現状では敵うわけがない。ザフト軍と「明けの砂漠」には圧倒的な戦力差があり、これまでのレジスタンス活動もある意味「見逃されていた」側面があった。それがアークエンジェルとの戦闘に対する介入で踏み込んだ報復を返したが、それすらも命を直接的に奪うような苛烈なものではなかった。そもそも、砂漠の別の町ではナチュラルもザフトの支配を受け入れある程度の生活をおくっており(「砂漠の虎」に屈したからといって強い迫害や自由の制限を受けるわけではない)、無理してまでそれに反抗する必要があるのかという疑問もある。

 それでも、「明けの砂漠」の戦士達の怒りは収まらない。そちらの方が苦しくないからといって、大切な人や自分を傷つけたコーディネイターに屈することはできない。加減されているからといって、住居を破壊されたことを許すことなどできない。敵わないからといって、この怒りを我慢することなどできない。

 そして自分を攻撃するに至った彼らを見て、バルトフェルドが零したのが先述の台詞なのだ。敵に屈するくらいなら、その支配を受けるくらいなら、胸の怒りを我慢するくらいなら、「死んだ方がマシ」なのか。

 

 

18.PHASE-19 宿敵の牙

 バルトフェルドが抱くその疑問は、キラ達が物資の補給のためにバナディーヤの町に訪れた時、彼らと偶然出会い言葉を交わす中でも言及される。戦争に明確なルールなどない。どちらかがもう片方に屈するまで、終わりなく戦いは続いていく。

 しかし、本当に「どちらかがもう片方に屈する」時など来るのだろうか。「死んだ方がマシ」ならば、たとえ劣勢になってとしても、人々は憎しみと怒りに突き動かされ戦い続けるのではないだろうか。止まることがない以上、どちらかが完全に死に絶えるまで、この戦いは続くのではないか。「君も死んだ方がマシなクチかね?」。バルトフェルドの容赦ない言葉が、「戦争」のさなかにいるキラの心を穿つ。

 ただ、彼が最もキラの中に大きな傷を残したのは、その最期だった。砂漠を突破し紅海を抜けるため、ザフト軍との決戦に臨むアークエンジェルと「明けの砂漠」。熾烈な攻防の末、キラの乗ったストライクは「砂漠の虎」を追い詰めることに成功する。他の機体や艦の状況からしバルトフェルド達に逆転の可能性はなく、彼もそのことをわかっているだろうとキラは矛を収めようとする。しかしバルトフェルドの乗ったラゴゥは動きを止めることなく、どこまでも抵抗を続け反撃を行おうとした。

 それの指す意味は非常に簡単、要するに、彼も結局は「死んだ方がマシ」だったのだ。降伏しアークエンジェルの捕虜になるくらいなら、戦い続けた果てに散ることを望む。それが、砂漠の虎がキラに最後に見せた姿だった。一緒にMSに乗った彼の恋人ごと砂漠の虎を撃破したキラは、「戦争」のあまりのどうしようもなさに、「死んだ方がマシ」だという人間の本質に、悔しさから涙を残す。なんで、どうして、と。自分の今いる場所が終わりのない地獄だと理解した彼は、ただただ砂漠の空に声を浴びせるしかできなかった。

 

 「死んだ方がマシ」と当事者の感覚を的確に表した言葉を象徴的に繰り返し、それによってテーマの本質を非常に「わかりやすく」描き出す。宇宙でのエピソードで「戦争」の中にある少年少女の心情描写を丁寧に描くことで間接的・感覚的に、漠然とした理解を視聴者に持たせてから、「戦争」の本質と恐ろしさを具体的に言葉を用いて訴えかけていく。その手法・番組としてのタイミングの両方で、砂漠編は『ガンダムSEED』でも頂点に位置するほどの技巧が垣間見えるエピソードだった。

 

 

 と、ここまで今作をベタ褒めしてきたが、勿論少しの瑕疵もない完全無欠な作品だったというわけではない。アスラン・ザラというキャラクターには「いつまでナヨナヨしてるんだ」とストレスを感じてしまったし(もう一人の主人公的な立ち位置なので余計に合わなさを意識してしまう)、砂漠編において急にキラがオラついた性格になった描写にも性急さを感じてしまった。

 だが、それらの不満はあくまで「合わないなあ」くらいのものであることが多く、明確な欠点と言えるほどではない場合が大半だった。キラの豹変などはその数少ない例外だったわけだが、アスランに関しては完全に好みの問題である。だからこそ自分は、『ガンダムSEED』に特に大きな不満を覚えることなく(時々「合わないなあ」はありつつも)、ずっと楽しんで見ることができていたわけである。その結果が、ここまでのベタ褒めの流れなのだ。

 

 

27.PHASE-29 さだめの楔(くさび)

 しかし、砂漠編以降、『ガンダムSEED』は少しずつ雲行きが怪しくなっていく。そこから1クールほど、キラ達が紅海を越え中立国家オーブに辿り着き、さらに地球連合に合流するためオーブ領海を出るあたりまで、そこでキラとアスランが死闘を繰り広げた後にキラが生死不明になってしまうところまでは、まだ楽しめていた。

  キラとアスランが決定的にすれ違ってしまうまでの描写が微妙に納得いかないところがあり映像のクライマックス感についていけないところはあった(アスランの同僚のニコルをキラが殺してしまったことが決裂のきっかけだったけど、キラはこれまでにも何人もザフト軍の兵士を殺してきたし、アスランだってそれは承知のはず……正直、決定的な一歩の描写としては弱いなと感じてしまった……一応、戦場に出たキラの友人をアスランが殺したことが最後の和解の可能性を完全に打ち砕いたようには書かれてたが、その前段階がボロボロ……)ものの、基本的には楽しんで見れていた。

 その直後のエピソードも、むしろ胸を熱くして、夢中になって視聴していた。特に良かったのがキラが新MSに乗り換えを行うPHASE-35「舞い降りる剣」で、アスランと憎しみの刃を交えたキラが、偶然ラクスに保護された先で自らの行動と正義を見つめ直し、「戦いを止めたい」という目的を持って新MS「フリーダムガンダム」と共に危機に瀕したアークエンジェルの前に「舞い降りる」場面には心底痺れたし、彼の武装やメインカメラのみを狙い相手の命を奪わない戦い方にも決意を感じ取ることができた(全砲門から発射するハイマットフルバーストですらその方針を徹底しているのが良い)。後で語るが、先述のアスランとの決戦の前に展開されたキラとフレイ、「戦争」の中で依存と打算と呪いで繋がった二人のドラマも素晴らしく、二人の関係を推していた自分としては心を震わさずにはいられなかった。

 

 自分が『ガンダムSEED』に対して決定的な違和感を抱いたのは、上述の名エピソード「舞い降りる剣」の次の回、PHASE-36「正義の名のもとに」である。

 

 

34.PHASE-36 正義の名のもとに

 プラントに戻ったアスランは、自分の婚約者であるラクスが、ザフトに反旗を翻した裏切り者として命を狙われていることを知る。先日行われたザフト軍による大規模な地球軍の奇襲攻撃「オペレーション・スピットブレイク」は、情報漏洩により失敗に終わった。何故かその作戦の詳細を知っていた地球連合上層部が、攻撃を受けるパナマ基地付近にある程度の戦力を置いて一定数のザフト軍を戦場の奥まで出撃させ、その後に戦略兵器「サイクロプス」を起動するという作戦をとり、結果攻撃軍の大半はその兵器の威力により死亡してしまったからである。ラクスは、作戦の情報を地球連合に漏らした犯人だと疑われており、加えてザフトの新MS「フリーダムガンダム」を何者かに渡した疑いもかかっていた。

 

 ラクス・クラインは、平和を願うザフトの歌姫である。父親がプラント最高評議会会長という立場にいるために一定の権力を持ちうる可能性はあるが、それでも歌姫という立場は変わらない。加えて、『ガンダムSEED』の1クール目において登場した際の描写でもその立場やイメージ通りのキャラクターが提示されており、天然気味な言動やアスランのことを話す語り口からは、とてもじゃないがオペレーション・スピットブレイクの情報を漏らし両軍に重大な損害をもたらす姿は思い浮かばない。

 PHASE-10で自分の身柄を返却した帰りのキラのストライクを撃墜しようとするザフト軍を押し留めたり、アスランとの戦いで傷を負ったキラを一時的に保護した期間には彼と「平和」「戦争」の在り方について言葉を交わしたりもしたが、あくまでそれは平和を望む心故の迫力や達観であり、彼女は物理的に世界に反旗を翻すようなタイプの人間ではない……そう、僕は思っていた。

 だから、この回のAパートの展開を見た時は、「まさか」と思った。まさか、そんなわけがない。恐らく、真の黒幕が彼女に罪を着せたのだろう。彼女は一切騒動には無関係であり、それをアスランが救出する。確かにフリーダムをキラに渡したのは事実だが、それは平和のためであって、彼女は無暗に世界を混乱させようなどとは思っていない。そういう筋なのだろうと、半ば確信を持っていた。

 しかし、PHASE-36のBパートでアスランの前に姿を現した彼女は、明らかにこれまで描写されてきたものとは違う雰囲気をまとっていた。どこか超然とした振る舞いで、「戦争」に翻弄されているアスランに厳しい言葉を投げかけ、その行動の是非を問うた。いや、それだけなら、まだ僕は混乱しないで済んだだろう。キラに対して似たようなことをやっていたし、これくらいなら、まだ理解の範疇にある。

 だが、ラクスはさらに多くの当惑を、僕にもたらした。オペレーション・スピットブレイクの情報漏洩への関与を「私じゃない」と直接的に否定せず、さらに自分を追ってきたザフト側の追手がどこからか現れた別の勢力の戦闘員に射殺されても何の動揺も見せないというイメージと異なる姿を見せ、最後には戦闘員達と共にどこかに立ち去って行ったのである。その言動はラクスのこれまでの描写と決定的に違えるものであり、加えて何かしらの第三勢力のリーダーになっているような描写すら存在した。正直、初見時には「ヒロインだとばかり思ってたんだけど、もしかして彼女ラスボスなのか……?」と困惑の極みに至ってしまった。

 だって、もし本当にラクスがオペレーション・スピットブレイクの情報を漏らしていたとしたら、彼女は間違いなく「悪」と呼称できるような存在になってしまうからである。狙いが何だったかのかは知らないが、その行動の結果、作戦の攻撃軍の八割もの人間が残酷にもその命を奪われた。それだけならまだ地球連合に与しただけと言えるが、その八割を逃げられない位置まで誘い込むために、何も知らされず数多の地球軍の兵士も犠牲になっている。今回の情報漏洩は、両軍の人間の命を無暗に散らすような、そんな結果しかもたらしていない。キラがアスランとの決戦とラクスとの対話で辿り着いた「戦争を止める」という目的、その表れとしての不殺主義とは、その性質は全く異なる。ラクスの願いは平和などではなく、破滅的なものだということになってしまう。

 

 

 ↑ 『ガンダムSEED』PHASE-36を見て混乱する男の図

 そして、PHASE-36の問題点である「ラクスが明確に情報漏洩への関与を否定せず、さらに真の犯人が誰かも描かれない」「ラクスのキャラが急に変わったように見える」「そんな風に全く信用できない状態にもかかわらず、ラクスの言動や思想が正しいもののように描かれている(PHASE-36ではアスランの考えに影響を与えた)」の三つは、以降も改善されることはなかった。改善されることがないまま、彼女は一部のコーディネイターと結託してプラントから脱出し、地球連合から中立をやめるよう要求されたのを拒否したオーブに協力し両軍のどちらにも所属しない立場から平和を求めていったアークエンジェルと合流し、キラとの関係を深めメインヒロインの座に就き、物語の最後までその位置で平和を説き続けた。

 「明確に否定せずともラクスじゃないことくらいわかるだろ」という反論も、あるかもしれない。確かに、ラクスの描き方がこれまで通りであったら、明確な否定がなくとも彼女を最終回までずっと疑うことはなかっただろう。しかし、疑いがかかったのと同じタイミングで彼女は急に言動を変化させ、あまつさえ一定の権力を保持していることが判明したのだ。そのような変化があり、さらにその理由や背景・内面が詳細に描写されていない以上、彼女というキャラクターに対する信頼や積み重ねは自分の中では無に帰したと言ってもいい。彼女を信頼することなどできるはずもないし、そのうえ明確な否定もないのなら、「つまり漏らしたのはラクスだったんだな」としか思えない。

 色々調べるとどうにも今作のラスボス「ラウ・ル・クルーゼ」が情報漏洩の犯人だったらしいのだが、それならそうと具体的に、明確に描いて欲しかった。最低限、「私ではありません」的な露骨な台詞でも何でもいいから、ラクスに否定させて欲しかった。

 

 そもそもラクスは、メイン主人公&ヒロインの四人(キラ・アスランラクス、加えてこれまで話すタイミングがなかったため割愛していたが「カガリ・ユラ・アスハ」というヒロインがおり、砂漠編やそれ以降の展開で大きな存在感を見せていた)の中でも、元々出番や内面描写が少ない方だった。1クール目はともかく、砂漠編でも海上でのエピソードでもオーブ編でも出番はほとんどなく、内面に深く踏み込んだ描写なんてものは皆無だった。

 そんな彼女に、作中で肯定される価値観や「正しさ」を全て背負わせる。彼女の説く言葉が、とる行動が、ほぼ無批判で作品の「正しさ」に直結する。一人のキャラクターに「正しさ」を全て委ねて描く手法自体は否定しないが、それをやるにはあまりに彼女への向き合い方が不誠実だった。彼女の「正しさ」以外の少女としての側面もほんの少し描きはしたが描写の数は圧倒的に少なかったし、その「正しさ」の根底にあるものに至ってはほとんど触れられなかった。

 つまり『ガンダムSEED』は彼女に、「正しさ」を描く舞台装置以上のものをほとんど与えなかったのだ。その結果が上記のような困惑と不満であり、それはラクスというキャラクターというよりかは、『ガンダムSEED』という作品全体の不備と言えるだろう。

 

 

46.PHASE-48 怒りの日

 そして、ラクスの描き方に見られた作品の不備や不誠実さは、物語終盤において他の面にも影響を与え始める。

 

 例えば、アークエンジェルを追ってきた地球連合の三機のガンダムを駆る戦士達の背景。彼らは精神や肉体を何かに冒されることで能力を強化している描写を継続的にされ、作中で「コーディネイターでもナチュラルでもない」的なことまで言われたにも関わらず、その設定や過去に一切触れることなくアークエンジェルについた者達によって倒されてしまう。はっきり言って、こんな背景も何もかもを無視した雑な処理の仕方をするくらいなら何も仄めかすべきではない、そう感じてしまった。

 例えば、「砂漠の虎」ことアンドリュー・バルトフェルドの扱い。終盤、彼は実は生きていたことが判明し、ラクス達と共にアークエンジェルに協力することになる。あくまで個人的な思い入れの話だが、砂漠編でその台詞や顛末で「戦争」の本質を体現した彼は、それだけで非常に完成されたキャラクターだった。そんな完成されたキャラクターを生き返らせ、さらには味方にまでしてしまう展開は、僕にとって所謂「解釈違い」だった。

 例えば、最終盤で明かされるキラの出自。彼は、ただのコーディネイターではなかった。特別に研究され、人類の夢と未来を背負わされた実験の成功例、スーパーコーディネイターだった。訳あって今の両親のもとに預けられ平和に暮らしていただけで、本当は誰よりも特別な存在だったのだ。その真相や明かされる際の演出自体は衝撃的だし、そこに至るまでの導線も(実は双子の兄妹だった)カガリ方面からちゃんと提示されてはいた。ただ、細かいところの描写がなく、全体的にぼんやりとしてしまっているのだ。キラを作った者達は何者だったのか、どういう経緯でヘリオポリスにいたのか、そもそもスーパーコーディネイターとは何なのか。想像で補完するには、描かれていない空白が大きすぎる。

 最後に、そのキラの真相とラスボスたるクルーゼの設定から引き出される、この作品のテーマ。ある有名なナチュラルの兵士が、自らの命を絶やさないために作ったクローンである、クルーゼ。不完全な技術と利用されるためだけの目的の中で生まれた彼は、科学技術を発展させ夢や未来へと突き進んでいく人間の性(さが)を憎悪していた。だから、無暗に戦闘を拡大させ人類を争わせようと画策していた。

 彼の目的は、これまで『ガンダムSEED』の中にあった二つの大きな要素、「戦争」と「人類の進化」を結び付けている。ナチュラルとコーディネイター旧人類と「進化」した人類がお互いに反目し、「戦争」を繰り広げる。そして、「進化」も「戦争」も、人間の夢へと突き進んでいく性からもたらされるものなのだ。より高みへ、より先へ。どこまでも求め続ける業こそが「進化」をもたらし、それによって分断と「戦争」が起こるのだ。

 ただ、この二つの要素の融合についても、若干の唐突感は否めない。提示されるテーマの片翼を背負っているキラの出自自体が上記のようにふわふわしたものだし、加えて二つの内「進化」の話題に関してはこれまであまり掘り下げられてこなかった。「戦争」は1クール目と砂漠編の巧な描写によってその重みを確保していたが、ナチュラルとコーディネイターという枠組みに対する追求や問いの提示はされてこなかったのである。確かにこの二つをドッキングして語ることには一定の納得感があったが、物語としてその展開に値しうるほどの前フリをできていたかというと、ノーと言わざるを得ない。

 

 勿論、全部が全部「合わなかった」とは言わない。人間ドラマの面では終盤の展開も見事で、自分の立場と感情の板挟みになった末に戦争を煽る側の人間と共に自らを撃たせたナタル、その過程でアークエンジェルの皆を庇って散ったムウ、かつて同じクルーゼ隊だった立場から言葉を交わし共に戦うディアッカイザーク、そして中盤で敵の立場で出会ってから少しずつ距離を縮めていたアスランカガリの辿り着いた結末など、キャラクターの最期や決断にはどれも胸を打たれた。

 先ほど不満の一つの挙げた「人類の進化」「戦争」のテーマも、性急さこそあったものの最低限の描写と結論は提示できていたように思う。オーブの首脳陣の意思を継いで、そして戦いの中で自分が至った結論として、ナチュラルとコーディネイターの戦争を、悲劇の連鎖を止めようとするキラ。その前に、逆に人類を争いの一途へと導こうとするクルーゼが立ちはだかる。その激闘の末にクルーゼに勝利するも、戦争で破壊された施設やMSの残骸の中をボロボロのフリーダムに乗った状態で漂いながら、キラは「どうして僕達は、こんなところまで来てしまったのだろう」と零してしまう。そこで物語は幕を下ろす。

 最終的に彼自身は守りたい者を守れずに心身共に摩耗してしまったという経緯含め、人類の夢を託されたスーパーコーディネイターである彼が自身の存在や世界に疑問を呈するビターな結末は、最低限『ガンダムSEED』のテーマ性を投げ捨てはしない意思を感じさせてくれた。

 

 また、個人的に刺さったという話で言えば、前半で語ったキラとフレイの関係性の迎えた終わりも、ひたすらに納得と満足に満ちたものだった。

 

 

26.PHASE-28 キラ

 先述のような経緯で、打算と依存の関係を構築したキラとフレイ。しかしその関係性も永遠には続かない。元婚約者のサイがフレイを取り戻そうとストライクに乗ろうとして失敗してしまった事件、その時にフレイが「馬鹿……」と言いつつも涙を流していた姿を見たことをきっかけに、キラはフレイの中の割り切れていない感情と狙いに気付き始めてしまった。加えて、砂漠での戦いで「戦争」のどうしようもなさを深く知ってしまったこと、そこで出会ったカガリと友好な関係になり一人に依存する状態を脱したことから、キラは少しずつフレイとの関係に疑問を感じていく。

 ではフレイの方はどうかというと、対照的に、少しずつキラに惹かれていってしまっていた。僕の解釈では彼女はキラを利用しようと口づけを交わした辺りから本当に愛していたわけだが(強火)、明確に自分の中の好意を感じてしまうほどに、自分が復讐の対象であり道具でもある少年を愛してしまっているとわかるほどに、その感情が大きくなっていったのである。確かにサイへの未練や想いも残ってはいたが、それ以上に、「戦争」の中で傷つき抗うキラに悲哀を見てしまった。そして彼女本人はそれを受け入れることができずに、少しずつ精神の均衡を崩していった。

 段々と情欲への依存を脱し現実を見つめ始めた少年と、自分の中で大きくなる愛情に気付きつつも認めようとしなかった少女。そんな二人がずっと繋がっていられるはずもなく、オーブを旅立つ際の会話で、これまでの関係性は決定的な破綻を迎えてしまう。

 諸事情あってオーブにいる家族との最後の面会に行かなかったキラを見て両親のいない自分を気遣ったのだと誤解したフレイは、「辛いのはあんたの方でしょ!?」「可哀そうなキラ……独りぼっちのキラ……戦って辛くて……守れなくて辛くて……すぐ泣いて……だから……だから! うぅ……なのに! なのになんで私が! あんたに同情されなきゃなんないのよ!」と、キラに対するアンビバレントな感情を爆発させてしまう。それを見て全てを悟ったキラは、「もう終わりにしよう」「間違えたんだ、僕達」と一つの終わりを告げた。

 

 もうこれだけで二人の歪な関係性に心を乱された者としては大興奮で、テレビ画面を見つめながら息を飲んでその破滅を見守っていた(自分は二人の「絶対に幸せにはなれないだろうな」と思わせるズブズブの関係が好きだったので、二人の関係が破綻するのはむしろ「アリ」)わけだが、『ガンダムSEED』はさらなる罰と終わりを二人に与える。上記の会話の後にキラはニコルを誤って殺害してしまいアスランとの決裂を決定的にし、それを経たうえでのアスランとの死闘でキラは生死不明になってしまう。その決裂と死闘の間に、二人は帰ってから改めて話し新しい関係を再び作っていこうと約束したが、それが果たされることはなかったのだ。

 何故かというと、それがキラとフレイが面と向かって言葉を交わした最後の瞬間だったからである。その後フレイは、父親がザフト軍との戦闘で死亡しその報いのため軍に志願したという経歴をプロパガンダ的に利用できると地球連合に目をつけられたことでアークエンジェルから離れ、さらにオペレーション・スピットブレイクの折にその境遇に目を付けたクルーゼに身柄を拘束されてしまう。キラがフリーダムに乗ってアークエンジェルに合流した時、既にそこに彼女の姿はなかった。

(ちなみに、クルーゼ隊にいる時のフレイは「コーディネイターばかりの中に一人ナチュラルがいる」、長らくキラがあった「ナチュラルばかりの中に一人コーディネイターがいる」という状況とまるっきり逆であり、その中で生活しコーディネイターの「生」と接したフレイはキラのことを誰よりも理解している、という解釈がある。個人的にはそう言い切るのは描写が少なすぎると感じるが、確かにそのような意図はあったように思う。意図はあったが描写が足りてない・追いついていないパターン。)

 二人の物理的な距離はまだまだ縮まらない。フレイ自体が長らく主だった出番がなくキラはその所在を知ることすらできず、クルーゼが捕虜を返却するという名目で彼女に核ミサイルのデータを持たせ宇宙に放流した際も、データに興味を持った地球連合に邪魔をされキラは彼女を救出することはできなかった(終盤悟ったみたいな性格になったキラが、この時ばかりはめちゃくちゃに取り乱すのが最高)。彼女を拾った艦はアークエンジェルを追ってきた地球連合の「ドミニオン」で、あろうことか現状の敵の元にフレイは預けられてしまったのである。

 

 

48.FINAL-PHASE 終わらない明日へ

 そして、最終話。ナタルとムウの犠牲を経てアークエンジェルドミニオンを撃破、一部を除いた乗員は脱出ポットで離脱し、その中にはフレイの姿もあった。彼らが宇宙を漂う中、キラとクルーゼの決戦が始まる。

 この世界の全てを恨み、キラに対しても自分と同種の絶望を抱かせようとするクルーゼは、キラの大切な人が乗った脱出ポットをついでのように撃ち落そうと攻撃を行う。キラは応戦しながらそれを防ぎ、ついに救出ポットの窓とフリーダムのカメラ越しに二人が再開を果たす……その瞬間に、クルーゼの乗った「プロヴィデンスガンダム」のドラグーンがキラの守りを突破し、救出ポットをその一撃が貫いた。キラの視界のまさにその中心で、フレイは炎に包まれ命を散らした。

 その後、フレイは「私の本当の想いが、あなたを守るわ」と語り掛けながら光となって消え、キラは激闘の末にクルーゼを撃破する。ここのシーンは監督の発言も相まって解釈が分かれており、よく見るとキラとフレイの間に会話が成立していないなど、「実はキラにはフレイの霊体は見えておらず、声も聞こえていない」ともとることができる内容となっている。

 ただ、自分にとって聞こえてようが聞こえてなかろうが割とどちらでも良くて、「キラの目の前でフレイが死んだ」ということが重要なのである。最期の声の認識の有無に関わらず、キラはフレイを守り切れなかったことを一生後悔し続けるだろう。何かをきっかけに思い出す必要すらないほど、彼女の最期はキラの脳裏に強く焼き付いただろう。ラストシーンの茫漠とした表情と言葉にも表れているように、フレイを失った直後の彼はほとんど抜け殻のようなものだっただろう。

 

 つまり、かつて情欲と依存でもってキラを戦場に縛り付けたフレイというキャラクターは、彼の目の前で散ることで、彼の中に「呪い」・絶望へと縛り付ける「鎖」という形で一生残り続けるという結末を迎えたのである。

 過去の過ちを、そして最初にあったどうしようもない関係を考えると、二人が幸せに結ばれるはずはない。しかし、キラとフレイの関係と愛情は誰よりも重く深いもので、それを作品の推進力として描いた以上は、その性質と物語内での位置エネルギーに見合った劇的な活躍を、話の核になりうるほどの扱いを与えなければならない。そのような物語としての義理と二人の関係性にどこまでも真摯に向き合った結果が、この「フレイはキラの中に呪いとして残り続ける」結末なのだ。

 永遠性と影響力という観点で見ればある種何よりも強い、「呪い」という愛の形。それをキラとフレイに与えてくれたことに、二人をキャラクターとして誰よりも尊重してくれたことに、自分はたまらなく感動した。二人の歪な関係に魅入られた者として、これ以上満足できることはない。この結末は、どんなものよりも「解釈一致」な代物だった。

 

 

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 ただ、キラ×フレイなどの人間ドラマの完成度の高さにも、見ている最中にはどこか違和感のようなものを感じていた。上手く言い表すことができないが、先ほど述べた不満との兼ね合い、とでも言うべきか。テーマを漠然とした描写やこちらへの問いかけで終わらせながら、人間ドラマにだけはしっかりした着地を用意する番組としての方針に、「置き」に行くような感覚を見てしまったのである。

 最低限、大失敗だけはしないようにしよう。テーマに関しては中身が「進化」「戦争」と問いかけをしやすいものでいざとなれば視聴者に委ねる形で終わることができるから、人間ドラマの方に力を入れよう。もうあまり尺は残ってないので、テーマや本懐の部分はイメージが湧くくらいの要素に留め、キャラクター達の顛末を描くことに全力を尽くそう。

 

 確かに、その「置き」に行く方針は、ある程度の成功を成し遂げてはいただろう。実際、ラクス関連以外の人間ドラマはちゃんと着地できていたし、キャラクターの心の動きさえちゃんとしていれば番組としての視聴後感も極端に悪くはならない。テーマに関しても別に全部放り投げたわけではなく、最低限「考えさせられる」と言えるものにはなっていた。

 また、別にそのような要素を取捨選択する舵取りを批判するつもりもない。変に全部100%の力と尺でやろうとして空中分解するよりは、遥かに良かったとは思う。僕自身は、その方針はむしろ「正しい」ものだと感じている。

 

 しかし、僕が『ガンダムSEED』の前半、特に砂漠編までの熱中して画面に張り付いていた時の視聴感と、終盤のそれでは、確かな違いがあったことは否定できないのだ。終盤の展開に、テーマへの向き合い方に、前半ほどの熱量を抱けなかったのは確かなのだ。先述したラクスへの扱いに代表されるようないくつかの大きな欠陥や不満など、その理由には様々なものが挙げられるが、最も大きいのはやはり「置き」に行った、テーマよりも他のものを優先した番組方針だった。

 繰り返し言うが、取捨選択自体には何の不満もない。ただ『ガンダムSEED』の場合は、前半で僕が最も魅力に感じていた要素を、「捨」の方に回していたのだ。丁寧な描写と技巧によって描かれる、「戦争」という大きなテーマ性。人間ドラマもロボットアクションも、全てはそれに向けて収束していく。そのあまりの追求ぶりに、そのあまりの巧さに、僕は夢中になっていた。そんな風にこちらに魅せてくれたテーマ性を、終盤の『ガンダムSEED』は二の次に回していた。

 だから結論としては、ただ「合わなかった」ということなのだろう。別に、テーマ性だけが前半の全てだったわけでもない。数多ある要素の中で僕が特に惹かれたものと、番組が終盤で優先したものが、ただ一致しなかっただけ。あくまでこれは、一視聴者に「合わなかった」というだけの話なのである。

 

 

 いや、ここまでの文字数を語ってしまうということは、その「合わなかった」事実を通り越しても、僕は『ガンダムSEED』が好きなのだろう。実際今でもフレイ・アルスターというキャラクターのことは定期的に語りたくなってしまうし、この感想自体も最終話を視聴してから半年経った今になって急に思い立って書いたものである。清濁併せ、『ガンダムSEED』は確かに自分の中に残っている。

 きっと今後も、PHASE-1を視聴する時のワクワクを、前半の展開に翻弄された日々を、「舞い降りる剣」の時の興奮を、ラクスが豹変した時の困惑を、バルトフェルドが再登場した時の残念な思いを、キラとフレイの結末に涙を流したことを、何かあるごとに思い出すのだろう。

 

 僕にとって、初めて完走したガンダム作品。でありながら、それ以上の思い出と傷を自分の中に残した作品。フレイからキラに対する感情とは違うけど、定期的にその素晴らしさと不満を同時に語ってしまう、ひどくアンビバレントな思い入れこそが、自分の『ガンダムSEED』に対する感情の全てなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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