石動のブログ

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『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』HDリマスター シン・アスカという主人公への向き合い方

 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』。

 『機動戦士ガンダムSEED』の続編であり、ガンダムシリーズ屈指の問題作。

 

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 僕が去年翻弄された『SEED』に続編があることは、見る前から知っていた。そして、その内容に対する意見が賛否分かれている(オブラートに包んだ表現)ことも、むしろ『SEED』の続編であるという立場以上に知っていた。端的に言うと、叩かれ過ぎていて少し見るのを躊躇していたくらいだった。

 だが、そんな『DESTINY』を、結局僕はまた一年かけて視聴することになった。前作に引き続き地元のテレビ局が再放送をやっていたというのもあるが、それ以上に、良くも悪くも『SEED』に振り回された感情の行き先を探していたのもあるだろう。『SEED』後半の展開への不満に、前半で見せてくれた最高に好みなストーリーに、独自の湿度の高い筆致で描かれるキャラクター描写に、終盤では二の次にされてしまっていた「戦争」「遺伝子」のテーマに、何かしらの「続き」を望んでいたのである。

 見終えた感想としては、見て良かった、とは思っている。うん。見て良かったんだと思う。いや、うん。多分。まあ、断言はできないけど。本当に、見て良かったんだろうか……?

 求めていたものは、ある程度は用意されていた。でもそれ以上に、納得いかない部分も大きかった。好きになれる部分があったからこそ、その要素の取り扱いに多大なる不満を持った。前作もそうではあったけど、『DESTINY』に対しては、「好き」と「嫌い」が表裏一体で存在していた。

 その最たるものに、シン・アスカというキャラクターへの向き合い方がある。僕は、彼のことがとても好きだ。所謂「推し」というやつなのだろう。彼を世に送り出してくれた『DESTINY』には、感謝するしかない。するしかないのだけれど、それと同じくらい僕は怒っている。シン・アスカへの番組の扱いに。

  前置きはこれくらいにしておこう。自分でも、『DESTINY』を見て良かったのか悪かったのか、いまいち判断がついていない。それ故に、自分の番組への思いを整理する必要がある。整理して、自分にとって『DESTINY』がどんな作品だったのかを明確にしておく必要がある。

  以下、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を見て思ったことを記していく。特に、「主人公」であるシン・アスカへの思いを中心に。恐らく、その大半は恨み節になるだろう。ひどく偏った、個人的なあれこれなので、冒頭部分で引いてしまった人はブラウザバック推奨です。

 

 

 

 

01.PHASE-01 怒れる瞳

 シン・アスカは、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の主人公だ。そして今作は『機動戦士ガンダムSEED』の続編なので、シンは「2代目主人公」の立ち位置にあることになる。ただ、シンの場合、その立ち位置にそぐわない、ある意味では正反対のキャラクター性も併せ持っており、一括りに「2代目主人公」と言うことははばかられる。彼はその設定や描写などから、明確に一般的な「2代目主人公」とは異なる立ち位置を確立している。

 

 そんな彼の特殊な立ち位置が最も現れているのが、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』PHASE-1の冒頭、シン・アスカの初登場シーンだ。

 戦場を、ひとつの家族が駆け抜ける。場所はオーブ、時はC.E.71年。前作『SEED』で起こった、オーブと地球連合の戦闘の最中である。協力の要請を拒否し独立を守ろうとしたオーブを、地球連合軍が武力でもって無理やり従わせようとしていた。オーブ軍と、地球連合の命令に背きそこに身を隠していたアークエンジェルは、連合の非道を食い止めるために応戦する。そんな中、前作主人公であるキラ・ヤマトの乗った「フリーダムガンダム」、地球連合軍の主力兵器である「フォビドゥンガンダム」、2機の戦闘の流れ弾が、戦場から逃げようと森を降りていた家族に降り注いだ。

 妹が落とした携帯を拾いに、一人だけ斜面の下に降りていた少年。爆発に吹き飛ばされた彼が起き上がって見た光景は、自分の父母が、大切な妹が、見るも無惨な姿で命を散らす光景だった。家族の死を目の当たりにした少年は、未だ砲撃音の響く戦場の中心で、自らの怒りと絶望を叫ぶ。

 その「少年」というのが、他でもないシン・アスカ。番組開始早々に明かされた彼の過去は、前作の価値観、キラのような主人公達の正義に寄り添うものでは、決してなかった。

 

 一般的な2代目主人公は、差別化を図るため初代と異なる特徴を持つことはありながらも、基本的には前作の登場人物達に憧れや親愛といった、プラスの感情・関係を持っていることが多い。最初はそうでなくとも、自身の未熟さを乗り越え成長していく毎に前作の価値観やキャラクター達の尊さを知り、最終的には彼らの意志を継ぐような立ち位置につくのが定石だ。

 しかし対照的に、シンの物語は前作へのアンチテーゼを示すような叫びから幕を開ける。勿論、最も悪辣なのは力を貸さないからといって武力で従わせようとした地球連合だろう。ただ、オーブのした決断の結果犠牲になった国民も、確かにいたはずなのだ。間違いだと断定するほどのものではないけれど、シンの歩む道の始まりには、形はどうあれ"力"でもって戦う以上は巻き込まれる者もいるという、前作では強く前面に押し出されることのなかった事実が強調されていた。

 

 

02.PHASE-02 戦いを呼ぶもの

 そして、そんなシンの独自の生い立ちは、視点が前作から2年後の現在に移り、本格的に新たな物語が紡がれ始めても彼の物語に大きな影響を与え続ける。

 

 『DESTINY』序盤のストーリーは、前作においてもう一人の主人公であった「アスラン・ザラ」の視点を主として描かれていく。新主人公でありながら物語の語り手とは異なる立ち位置にいるシンは、地球軍に盗まれた新型ガンダムからオーブ首相となった前作ヒロイン「カガリ・ユラ・アスハ」を救うためにMSに乗ったアスランの目の前にザフト軍の新機体「インパルスガンダム」と共に登場し、かつてのオーブの決断に対する怒りからカガリと衝突し、一部のコーディネイターによって行われたコロニー落としによる地球に住むナチュラルの殲滅をアスランと協力して食い止める。

 PHASE-1冒頭の悲劇から約2年、「あの時自分に力があれば」という後悔から、シンは一人で向かった移住先でザフト軍に入隊していた。そしてその過去から、地球連合に抵抗し(どの道連合に加わりザフトと戦っていたらいつかはそうなっていた可能性はあるとはいえ)結果的に国土と国民を焼くことになったかつてのオーブ首脳陣の決断に、オーブという国そのものに、大きな憎しみを抱いていたのだ。

 

 そんな彼のキャラクターが他者の視点から描かれる1クール目の時点で、僕は彼の活躍に目を離せなくなっていた。未熟ながらも平和を願って戦いに食らいついてくるシンの姿は、前作の価値観に染まることなく衝突してくる異質さは、アスランという前作の、旧来の視点を介することでむしろより鮮烈に映る。カガリへと叫ばれたオーブへの憎しみを、その裏にある祖国への複雑な思いを、アスランに見せた不器用な優しさを見たこの時点で、僕はうっすらと「シン好きだな……」と思い始めていた。

 そのタイミングで『DESTINY』は、さらに(僕にとって)爆弾のようなお話を投下してくる。PHASE-12「血に染まる海」。シンの物語として、ひとつの分岐点であり、到達点とも言えるエピソードだ。

 

 

12.PHASE-12 血に染まる海

 コロニーの落下に立ち向かった後、シンの所属する部隊の乗った戦艦「ミネルバ」はオーブに停泊し補給を行っていた。しかしその最中、破砕しきれなかったコロニーの破片がいくつか地球に降り注ぎ被害をもたらしたこと、ザフトからガンダム4機を盗み出した地球連合の部隊「ファントムペイン」が撮影していた写真によってコロニー落としコーディネイターの仕業だと世界に知らされたこと、それによりナチュラルの人々の怒りが高まり、「ロゴス」と呼ばれる地球連合を実質的に支配する団体も民衆を煽ったこと。コロニー落としをきっかけに前大戦から溜め込まれていた世界の歪みが爆発し、地球連合ザフトに対して開戦を宣言した。そしてあの時とは違い、オーブも地球連合に参加しザフト軍と敵対した。

 カガリ国家元首にまつり上げながらも、実質的にオーブを支配し地球連合への協力を実行したセイラン親子。彼らの卑劣な策略により、補給を終えオーブを発ったミネルバは大きな危機に直面する。オーブの領海ギリギリに待ち受ける地球連合の艦隊。背後にはオーブ艦隊も迫っており、直接的な砲撃こそしないものの領海から出た瞬間に交戦を始めるつもりなのは目に見えている。そんな絶体絶命の状況、ミネルバが物量の差で当然のように追い詰められていく中、シンの瞳の内で何かが弾け、彼の隠されし力が覚醒した。

 

 「絶望的な戦力差を真の力に目覚めた主人公が覆し逆転する」。一連の展開は一言で言ってしまえばとても王道で、ある意味では使い古されたものだ。特段悪い印象をもたらすわけではないが、逆に心の底から惹き付けられるような斬新さを持つものではない。実際、構図だけで言えばほとんど同じな展開を、僕は他の作品で幾度も見たことがある。

 しかし、「血に染まる海」は、そんなどこまでもベッタベタな筋を、様々な工夫によって唯一無二のものにしていた。少しずつ追い詰められていくミネルバ、その焦りがこちらにまで伝播してくるほどに緊張感のある演出、気合いの入ったロボット作画、地球連合の新兵器として登場したザムザザーインパクト。そして何より、シン・アスカというキャラクターの性質で、物語を何よりも鮮烈に彩っていたのだ。

「オーブは本気で……」

 現国家元首であるカガリに対しては、オーブへの憎しみをぶちまけていたシン。ただ一方で、ミネルバの補給期間中に一人でオーブの浜辺の慰霊碑に向かった彼の姿には、祖国への単なる憎しみ以上の何かを感じさせた。カガリにぶつけたかつてのオーブの決断への非難も、ある意味ではその決断を現トップに肯定して欲しいのではという含みも感じられた。シン自身が自覚しているか否かはわからないが、複雑ながらも思い入れのようなものを持ち合わせていることは明らかだった。そんなオーブが、自分達に刃を向ける。かつての誇りを失って、地球連合と結託し、外道とも言うべき策略を巡らせる。そのことにシンは動揺し、撃墜寸前まで追い込まれてしまう。

 

 まず、ここまでのシンの心理描写が本当に素晴らしい。戦争や理不尽への激情を爆発させる一面や、突っかかるような口調が印象に残りがちなシンではあるが、その裏には、過去に傷を抱えた少年のナイーブな側面を持ち合わせているのだ。アスランと共にコロニーの破砕作業を行った時に見せた不器用な優しさが、直近のエピソードで海辺の慰霊碑を訪れていた描写が、物語の中で明確にキャラクターの象を結ぶ。この場にはこれまでと違ってアスランという視点がなく、ダイレクトにシンの姿が描かれるからこそ(視点の有無という差異で描写に高低差がついたからこそ)、最初に訪れる彼への理解は深いものになる。

「こんなことで……こんなことで俺は!!」

 そして、そこからシンが見せた無双も、何よりも彼というキャラクターに適したものだった。撃墜の直前、妹との思い出と家族の死に面した時の無力感を思い出して体勢を整え、ミネルバから発射されたデュートリオンビームでエネルギーを補給したシンは、単騎でザムザザーを撃破するというジャイアントキリングを遂げる。さらにMSの武装を変更したシンは、対艦刀を装備した「ソードインパルスガンダム」で地球連合軍の艦隊に接近し、再び単騎で敵軍を全滅させた。

 斬る。斬る。斬る。数多の戦艦を対艦刀で、ひとつひとつ切り裂いていくシン。主人公機であるはずのソードインパルスが悪魔のようにすら見えてしまう彼の戦い方は、祖国と敵対したシンの悲壮な激情を何よりも伝えていた。剣に宿る怒りと悲しみは、仲間であるはずのミネルバのメンバーすら圧倒してしまっていた。

 

 シンの隠された繊細な内面。そこから生じる怒りと悲しみの爆発。表裏一体な、両者のせめぎ合い。「血に染まる海」は、これまでのアスラン視点での描写の積み重ねを、そこから視点を外したことによる落差を、敵を撃破する際の戦法を、それを見た周りの人間の反応に至るまで、全てをシン・アスカというキャラクターを作り上げることに動員していた。それ故にこのエピソードはシンの物語のひとつの到達点として、彼を明確に好きになった瞬間として、僕の中に残っている。正直、初見時は彼の悲壮なまでの覚悟に、危うさすら感じさせるそれに、少し泣いてしまった……。

 

 

 

39.PHASE-39 天空のキラ

 と、ここで、『DESTINY』という作品全体の構図をまとめてみることにする。シンという「主人公」を中心に、物語内では様々な陣営の思惑と動きが入り乱れていく。その中でも特に、作中における善悪の構図、「正しさ」の担い手のいる位置が、『DESTINY』における特徴である。

 

 PHASE-12では完全に「正義のザフトVS卑劣な地球連合(オーブ含む)」の様相を呈していたが、以降の展開はそのように簡単な図式では表せない。そこに、前作の主人公である「キラ・ヤマト」やヒロインの「ラクス・クライン」の乗った無所属の戦艦「アークエンジェル」が加わり、戦争は三つ巴の構図へと変化する。アークエンジェル勢は、前作のラストから各々姿を隠し平和な日々を暮らしていたところに何者かの襲撃を受けたこと、同時期にザフトで歌姫として人々の希望になっていたラクスの偽物「ミーア・キャンベル」が現れたこと、セイラン親子の計画した政略結婚から逃れ合流したカガリのオーブへの想いから、ザフトにも地球連合にも与しない第三勢力として、オーブ軍とザフト軍の戦いを止めるために力を奮う。

 要するに、アークエンジェルが飛び立ってからの全体の構図としては、「完全悪かつ超小物で前座の役割しかない地球連合(その中核にいるロゴス)」「正しく見えるがトップである『ギルバート・デュランダル』議長に怪しい描写が垣間見えるザフト」「唯一デュランダルの怪しさに勘づいており、迷いながらも危機感を覚え戦争を止めようとするアークエンジェル」という形になる。

 そして、こうまとめてみるとわかる通り、作中においてヒロイックな立ち位置にいるのはアークエンジェル勢、前作主人公のキラである。ザフトミネルバ)はむしろ、かませのロゴスを撃破した後に隠した歪みを露呈させそうな、黒幕のような雰囲気を見せ始める。彼らに……デュランダルに正義がないわけではないが、その形は大きく歪んだものだと後に明かされることになる。作中における「正しさ」を背負うのは、前作に引き続きキラなのだ。

 そこで、PHASE-12で提示されたシンのキャラクター性が活きてくる。平和を願う心を持ちながらも、間違った方向へと走り正義を歪めてしまう悲劇の少年。涙すら湧いてくるような彼の怒りと悲しみの奔流は、それを体現した悪魔のような戦い方は、彼が堕ちていってしまう未来を密かに暗示していた。彼は確かに「主人公」だが、それは真っ直ぐにヒロイックな活躍を遂げ世界を救う「ヒーロー」としての意味ではない。作品のテーマの負の側面を背負った、過ちの象徴としての「主人公」なのだ。

 

 そうして、シンは心に負った傷故に危うい方向へと足を踏み出していく。自分も何か平和のためにしなければとカガリと別れザフト軍に再び所属した(そしてその瞬間に開戦しオーブと敵対することになってしまった)アスランとの初任務であるローエングリン戦でこそ、彼がアスランに反発しながらも彼の指導を受け健全に成長していく姿が描かれたが、アークエンジェルが参戦してからは、お互いの敵への認識の違いからすれ違うようになってしまう。PHASE-28では、アークエンジェルによる制止を振り切り、かつて地球連合軍にしたように祖国オーブの艦隊を自らの手で全滅させてしまう。

 彼のそんな描写、「正しさ」を伴わない主人公性をどう感じるかは人によって異なるだろうが、僕自身はシンの中の怒りと悲しみに魅力を見ていたので、展開としてはとても納得していた。所謂「解釈一致」というやつで、本来の優しい性格や平和への強い祈りを見せつつも、それ故に感情を爆発させてしまう姿を、毎話毎話息を飲みながら見守っていた。

 勿論悪い方向へと傾いていってるのは肌感覚で感じ取っていたので、シンの危うい描写に対して手を叩いて喜んでいたというわけじゃない。アンチテーゼ的な立ち位置と鮮烈さを間違いだと暗に言われているのは、個人の感情として良くは受け止められない。

 しかしそれとは別に、どうしようもなく、危うさを強調されながらもどこまでも突き抜けていく烈火のようなシンのキャラクター性は魅力的で、物語を「面白く」していた。

 

 そんな、シンに関する描写の「血に染まる海」以降の一貫した方向性。それはヒロインの一人「ステラ・ルーシェ」に関わるエピソードにおいて明確に、 物語の方針として打ち出される。

 

 

26.PHASE-26 約束

 シンがディオキアで出会った、ステラという少女。「死」という言葉を過剰に恐れ、言葉を聞いた途端に怯え出した彼女を、シンは「俺が君を守るから」と抱きしめる。それは落ち着きを取り戻させるための方便だったが、外見年齢の割に幼さとが残るステラの振る舞いに自分の妹の面影を見たことで、彼女の純粋さに触れたことで、シンの中で大きく確かな想いに変化する。

 しかし、ステラを取り巻く環境は、あまりにも厳しいものだった。実は彼女は幼い頃から地球連合軍に教育され、加えて薬物投与を行うことで心身を都合のいい「兵士」へと変えさせられた「エクステンデッド」という強化人間だった。ディオキアで出会い別れた二人が再会したのは戦場で、しかも危うくシンがステラの乗ったMSを撃墜してしまう直前の状況。

 その後彼女はミネルバに保護されるが、連合軍によって調整された身体はその手を長く離れたことで崩壊を始めており命は風前の灯火、しかもその死体はザフトによる連合軍兵士の研究のため解剖に回されることになっていた。ステラの命の危機に、自分の属する軍のしようとしている死後の冒涜に、シンは苦しむ。苦しみ、悩んだ後に、ステラを地球連合軍の元に返すという形で、彼女を生きながらえさせようとする。

 

 まず、この時点で僕はこれまでにないくらいシンの心情描写に心を奪われていて。シンも進んでこの行動に出たわけじゃない。本当は、自らの手でステラを守りたかったはずだ。そのために、何かを守れる力を手に入れるために、ザフト軍に入隊したのだから。

 それでも、シンはステラを地球連合軍のもとに送り届けた。自らの弱さを、理想と現実の距離を、今の自分では彼女を救えないという現実を受け止め、それでも彼女を救うための行動に出た。「死なせたくないから返すんだ!」「だから絶対に約束してくれ! 決して戦争とかモビルスーツとか、そんな死ぬようなこととは絶対遠い、優しくて温かい世界へ彼女を返すって!」。彼女を受け取りに来た「ネオ・ロアノアーク」に真意を告げる言葉には、隠しようのない悔しさと、それを踏み越えたうえでの強い覚悟があった。

 軍人としては銃殺刑になってもおかしくない行動だとしても、結局は問題の先延ばしに過ぎないにしても、無力さをかみ締めながらそれでもできることをしたシンの姿は、何よりも尊く映った。「少年が大切な人を敵に預けることで救おうとする」「その中で自分を取り巻く不本意な現実を受け止める」「協力した友人が彼に『お前は帰ってくるんだな?』と聞く(今回はミネルバの同僚である「レイ・ザ・バレル」が協力した)」など、前作のPHASE-10においてキラがラクスをザフト軍に送り届けた展開と意図的に重ね合わせるような脚本含めて、感動してしまった。

 

 

34.PHASE-34 悪夢

 しかし同時に、これはあくまで転落への前フリでしかないとも理解していた。その後ステラは当然「優しくて温かい世界」などには行かず、地球連合軍による抵抗勢力圏への報復に駆り出され、「デストロイガンダム」の力で何万人もの人々を虐殺することになってしまう。シンがなんとか一時は彼女の説得に成功するものの、ある不幸な偶然をきっかけに再び暴走し、虐殺を止めに来たフリーダムによって引導を渡される。自分の目の前で命を散らしたステラ。彼女の亡骸を胸に抱えたシンは、かつてのオーブの時と同じように、自らの無力さを叫んだ。

(一連の展開について、シンの行動が虐殺をもたらしたとよく言われるが、たとえステラがいなくても別のエクステンデッドがデストロイに乗って報復攻撃をしていただけなので、僕はそうは思わない。多分そういうシンの過ちの描写の意図があるだろうというのはわかるけど、ステラの状況が詰みすぎてて「じゃあシンはステラが衰弱死してその後ザフトに解剖されるのを黙って見てればよかったの?」と思ってしまうので、自分はその意図を汲み取ろうとは思えない。「虐殺が起こったのはシンのせい」ではなく、「シンはステラに虐殺を担わせてしまった」ならまだわかる)

 そして、ここから一気にシンは深みへ転がり落ちていく。介錯をしたフリーダムに逆恨みとも言える憎しみを抱き、「キラは敵じゃない!」と二人の戦いを止めようとするアスランとの関係も少しずつ悪化させていく。ついには、キラの存在を邪魔に思ったデュランダル議長の命令でフリーダムと死闘を繰り広げた後に撃墜、その一件から議長に疑いを抱いた結果ザフトから脱走するに至ったアスランも、彼に協力していた士官学校のクラスメイトかつ艦の仲間だった「メイリン・ホーク」諸共、迷った末に自らの手で落としてしまう。(……まあ、どちらも主人公補正で生きていたけど)。

 

 繰り返し言うように、僕はシンの怒りと悲しみに、危うさに魅力を覚えていた。だから、その性質が物語の中で顕在化し始める展開そのものは、とても好みのものだ。フリーダムVSインパルスは執念で実力差を覆して勝ち取った勝利に圧倒されたし、アスラン撃墜も、何だかんだ言いつつちゃんと信頼を寄せていた彼を倒すことに葛藤する際の心理を表したコックピットの演出、メイリンの姉の「ルナマリア・ホーク」にそっと「ごめん......」と漏らしてしまう弱さや、泣き出す彼女を涙ながら抱きとめた後に改めて「平和な世界を作る」と誓う描写、シンの心の傷と苦しみをストレートに反映した彼の新機体「デスティニーガンダム」の血涙を流しているようなマスクデザインと、ありとあらゆる要素に納得と興奮を感じていた。

アスランとの関係は一見完全に破綻してしまっているようにも見えるけど、所々でシンが彼に期待を投げかけるような描写があるんですよね。よく言われる「昔は強かったってやつ?」も心の底から馬鹿にした言い方ではなく、どこか上の空な口調)

 

 ただ、だからといって、番組全体に一切の不満がないわけではなかった。むしろ最初に仄めかしたように、僕は『DESTINY』に対する文句は沢山ある。そもそも、物語の構図にまあまあの不満を持ち続けていたのだ。そしてその不満はこの辺り、シンの闇堕ちが決定的になったPHASE-34以降から、シン個人の魅力だけでは押し切れないほどに多く大きく表出していく。

 

 

08.PHASE-08 ジャンクション

 まず、その「不満」について述べよう。端的に言うと、僕は作中での善悪の勢力図に納得していなかった。恐らく作中・制作側としては「正しい」ものとして描いているアークエンジェル勢の行動を、どうしてもそうは思えなかったのだ。

 最初に、キラ達が再びアークエンジェルに乗り込むことになった経緯について。正体不明の敵勢力によって、ラクスの命が狙われる。そこでキラは、彼らの駆るMSを撃破するために、ラクス達が隠し持っていたフリーダムに乗り込み再び戦場に出る。そして戦闘後、デュランダルが彼女の命を狙った可能性を疑い、アークエンジェルとして中立の立場で戦争に介入していくことを決める。決めるのだが、まずこの時点で疑問符が浮かんでしまっていた。

 「核動力を積んでるフリーダムを隠し持ってるような人間なら、そりゃ命も狙われるだろ」と、そう思ってしまったのだ。キラ達がデュランダルに疑いを持ったのはラクス襲撃と偽物のラクスたる「ミーア・キャンベル」のプラントでの台頭が同タイミングだったからであり、また(明確な描写はないが)恐らくその疑いは当たっていた。ただ、疑問が正鵠を射ていたとしても、疑念の理由が襲撃そのものだけじゃなかったとしても、 「核積んだ軍の機体を違法に持ち出してしかも修理までしていた民間人……」が初見時の思いだった。フリーダムに核動力が積まれているのがただの背景設定だけじゃなく、前作ではしっかりと重みのある要素として描かれていたからこそ、一連の展開には違和感を感じてしまった。

 正確に言えば、前作で描かれたラクスの超然とした価値観、それをアスランに説く姿の迫力を考慮すれば、ラクスがキラと平穏に暮らすために姿を隠すことを選んだ際、「野望を持った人間の襲撃を受けるかもしれない」という懸念からフリーダムを持ち出すのは考えられない行動ではなかった。むしろ、「力」を持つことへの信頼の強さは、たとえ後に安穏を妨げる原因になりうる可能性がありながらも「力」を手元に置いておかなければすまなかった危うさは、全てを忘れてキラとの日常を暮らす決意を出来なかった弱さは、『SEED』の断片的な描写から僕が得たラクス像と一致していた。

 だから、僕が違和感を覚えたのは、「ラクス達がフリーダムを隠し持っていた」事実そのものではない。そのことを棚に上げ「どうしてラクスが狙われたんだ......?」とデュランダルへの疑いに繋げる物語の流れ、ラクスを中心としたアークエンジェル勢の「力」を当然とする価値観に一切の疑問を見せず、当然の「正しさ」にする番組の方針に、ずっと不満を持っていた。そもそも、先述のキラ達が「正しさ」を担っている構図が、僕にはどうしても「そんなに正しいかな......? こっちもこっちで危うくない……?」と感じてならなかった。

 

 

41.PHASE-42 自由と正義と

 勿論、始まりが曖昧な疑念であるが故に、キラ達もそれを明確な根拠としてデュランダルを糾弾することはしない。キラが「自分達がしているのは本当に正しいことなのか」と悩む描写があったり、前半の彼らは比較的抑え目だ。いや正確に言うとオーブ軍に停戦を呼びかけ従わない場合は全軍の武装を破壊しにかかる行動自体は滅茶苦茶なのだが、先述のように彼らの中にも迷いがありその後の振り返りでも「間違い」だと反省していたこと、アスランが一度その行為を咎めること、その反論の際に上述のデュランダルの怪しさを指摘しておりそれ自体は間違っていないことから、なんとかギリギリバランスはとれている。

 しかし、その時ですら僕は若干の違和感を感じていたのだから、シンが明確に闇堕ちし、デュランダルの隠された計画が明らかになり、同時にキラ達の背負う「正しさ」とヒーロー性が顕在化してからの違和感は尋常ではなかった。とにかく、ありとあらゆる描写が「合わない」「惜しい」。

 全部しっかり語ってると永遠に続くので、以下に箇条書きにして綴る。

  • 途中、デュランダルはある程度コーディネイターの暴走やロゴスの卑劣な行いを事前に知っており、あくまで始まりは人々の憎しみからだった今回の戦争の責任と罪悪感を全てロゴスに押し付けることで民衆の支持を得ていたことがわかるのだが、それを指摘するキラ達の描き方があまりに下手。各国のインフラなどを担っているという存在の必要性を加味しても尚絶対悪だと言える、そのレベルの外道な行いをロゴスがしているのは事実にも関わらず、アークエンジェル勢が不自然なまでにロゴスの非道に反応しないでデュランダルの危うさのみを指摘するので、彼らの意見にいまいち共感できない。
  • また、デュランダルの実施した、全人類の遺伝子情報を分析し最も適した役割を与え教育することで各々の苦しみや衝突をなくし平和を導く計画、「デスティニープラン」への反論にも、キレがない。デスティニープランの危うさはデュランダルの台詞などから理解できるのだが、一応それは平和を目的にした計画であり、「正しさ」を担う以上は明確な反論と否定をして欲しい。が、とにもかくにもその内容がふわふわしていて、見ていて一向に「デスティニープランの何がどう悪いのか」「各々のキャラクターがどういう経緯でその意見を持つに至ったか」を言ってくれない。
  • ザフトが新型MSを開発したのを批判していたカガリが、父親が自分のために隠していたとんでもパワーMS「アカツキガンダム」を見て感涙する展開を中心に、武力を持つことに関する描写がやたらアークエンジェル勢だけ甘い。『この扉開かれる日の来ぬことを切に願う』とはあったので多分「残した」というより「残さなければならなかった」(カガリもそのことを理解している)なんだろうけど、それならそれでそういう意図をより強く示して欲しい。回想シーン差し込みで序盤のカガリの発言を切り抜くとか……。
  • そもそもこういった「わかりやすく悪いやつ(ロゴス)がいるけど実はそれも利用されてるだけで真の黒幕(デュランダル)がいた」的なお話をやるなら、少なくともロゴスの撃破までデュランダルを味方サイドとして描き倒してから真の目的が明らかになる、もしくは最初から対立するままならデュランダル側の理由や正義も掘り下げて「正義VS正義」の構図を強調するのが普通だと思うのだけど、何故か両者を中途半端に折衷しているせいで無駄に展開が複雑になっている。シンプルに、物語として巧くない。

 

 ……長々と書いてしまったが、要するに、「キラ達の正義も危うさを抱えたものに見える」「にも関わらず、番組側がその補足も何もすることなく、無理やり絶対的な『正しさ』としてゴリ押ししている」、結論として「番組としてはキラ達が『正しさ』として描いているが、僕にはその意図に描写がついてきているとは到底思えなかった」ということである。

 最も大きな不満が二番目で、デスティニープランは是非が問われるような計画ではあるが、「放っておくとすぐに絶滅戦争が起こってしまうほど憎悪渦巻く『SEED』世界(確かにデュランダルが泳がせ利用した側面もあるかもだが、プラント落としも開戦も人々の憎しみが起こしたものである)に平和をもたらす」という観点で見ればこれ以上の方法はない。それがデュランダルの過去の経験からもたらされた偏ったものだと視聴者が知っていたとしても、ある程度「正しい」と受け止める余地のある彼の正義を否定するには、明確な反論・反証が必要になる。しかし何故だか『DESTINY』におけるキラ達はそれをせず、出来損ないのポエムのようなふわふわした台詞でデスティニープランを受け入れない決意を示す。そんな具体性を欠いた反論では、デスティニープランにある確からしさを打ち負かすことはできない。

 

 勿論、別にキラ達に正義がないとは思っているわけではない。危ういながらも、絶対的な正義とは思えなくとも、彼らは自分のやるべきことをしようとしてる。彼らが迷いながらも進んできたことは、僕もわかってるつもりだ。実際、キラがアスランに背を押されラクスを助けに宇宙を駆けるPHASE-39の展開には、素直に感動してしまった。

 だから、彼らの「正しさ」の根拠を、危ういながらも確かな正義があるのだという主張を描きたいなら、そうすればいい。デスティニープランへの明確な反論を、彼らの「正しさ」が納得いくほどに強く理解されるエピソードを、描けばいい。だというのに、それをしなかった。 それさえしてくれれば納得できたのに、何故かしてくれなかった。キラ達の言動が全体的にふわふわしていた結果、前作でラクスがそうだったように、アークエンジェル勢全体が番組の「正しさ」を描くための道具としてしか見られていないように感じてしまった。「シン個人の魅力では押し切れないほど」とは書いたけど、むしろ「正しさ」の側がそう思わせてくれないことで、作中でのシンを中心としたザフトに対する否定的な描写にも納得できないように感じてしまった。

 単純に物語が下手くそなのか、何か大人の事情でそうなってしまったのか。後半のアークエンジェル勢の描写には、僕は「何がしたいのか」と問いただしたい気持ちだ。(こちらに関しては)やりたいことはわかっている。わかっているからこそ、何故そんな描き方になってしまったのかと、心の底から疑問に思う。

 

 そう、「何がしたいのか」。劇中でアスランがシンに投げかけた言葉に似ているが、この文章の本旨は、僕が最も『DESTINY』に不満を覚えたのは、その「何がしたいのか」という困惑だ。その困惑が、最後の最後でシン・アスカ本人にも及んだことだ。前作では物語終盤での取捨選択の内容で自分の求めていたものが失われてしまった、という部分に不満を持ったが、これから書く展開に関してはそもそも納得できるだけの意図を見出すことができなかった。キラ達の描写は具体性のないというお話としての巧拙の問題だったが、シンに訪れたのは、ただただ意図が読めないという形での困惑だった。「やりたいことはわかるがそうはならんだろ」ではなく「お前は一体、何がしたいんだ!」と言いたくなってしまう展開が、シンの物語の先に待っていたのだ。

 

 

スペシャルエディションIII 運命(さだめ)の業火

 キラ達が危うさを見せながらも絶対的な「正しさ」であり続ける一方、シンのドラマも、番組終盤においてクライマックスを見せる。前述したシンの「作品のテーマの負の側面を背負った、過ちの象徴としての「主人公」」の特性、彼の転落でもって物語の本懐を、「役割」「運命」というテーマを提示する試みが明確に展開されていくのだ。

 

 デュランダルがロゴスを撃破し、その過程で他の勢力の力を削いで自分の野望が通りやすい状況を作りあげたうえで宣言した、全ての人間に遺伝子から分析した「役割」を与え「運命」を決定する計画、「デスティニープラン」。アークエンジェル勢と彼らに合流したアスランは、セイラン親子から取り戻したオーブの力でもってその野望に立ち向かう。

 一方で、シンはデスティニープランに従うか否かに苦悩していた。ザフト軍の兵士としてロゴスを倒した彼だったが、それは戦争の引き金を引き、さらにステラのようなエクステンデッドを生み出した彼らを許せないと思っていたから。彼らがいたままでは平和は訪れないと、そう確信していたから力を振るったに過ぎない。

 しかし、いくら平和を求めていたとはいえ、全ての人間の人生を「運命」「役割」によって決定づける、なんてことをすぐに飲み込むことはできない。むしろ彼個人の感覚としてはそんな人の「未来」を奪うようなシステムに違和感を感じていたし(デスティニープランを聞いた時の反応が明らかに戸惑いの方が大きい)、またそれを実現するために反対する人々を虐殺しなくてはいけないことに、その代表国たるオーブを滅ぼさなければいけないことにも躊躇いを覚えていた。だが、自分の中に明確な「平和」のビジョンを、自らの正義を持つことが出来なかったシンは、それ故に自分の感覚を言葉にすることが、デスティニープランに正面から反論することが出来なかった。

 そして、親友たるレイのデスティニープランを信じる言葉、明かされた彼の(前作ラスボスのクルーゼと同じ人間の)クローンという境遇、彼の残り少ない寿命を受けて、シンは心の底から納得いかないままデスティニープランの実現のために戦うことを決める。その先でデスティニープラン、それに従わない人々を粛清せんとデュランダルによって放たれんとする軌道間全方位戦略砲「レクイエム」を止めに来たアスランと交戦し、完膚無きまでの敗北を喫することになる。

 

 

49.PHASE-50 最後の力

 ラスト3話におけるシン関連の展開は、『DESTINY』のテーマをまさに体現したものといってもいいだろう。

 自分の正義を持つことが出来ない状態で、 デスティニープランに与したシン。この「正義を持つことが出来ない状態」のお膳立てが徹底していて、『DESTINY』はここまでの道のりで、シンにステラと同じエクステンデッドが乗っているであろう地球連合軍の「デストロイガンダム」の撃破をまかせ、一方でかつての上司のアスラン・祖国のオーブ・ステラを殺したフリーダムといった、彼にとっての「過去」の象徴たる存在を倒すことは許していない。この結果、シンは信頼していたアスランに続き、ステラと同じ存在をこの手で倒すことになる。それによりシンは心にさらなる負担を抱え(エクステンデッドとステラのことを知った時に「アビスガンダム」のパイロットも同様の存在である可能性を考えているので、デストロイの時だけ気づかなかったとは思えない)、かつ「過去」を振り切って「平和」「戦争のない世界」のために全てを犠牲にするほどの覚悟も決められなかった。その描写の全てが、シンに自分自身の正義を確立させないような方向に誘導している。

(あと多分、人々の中の憎しみや当事者としての意識に目を向けず、議長に言われるまま「戦争は全てこいつらのせい」だとロゴスを撃ったのも「自らの正義を持てていない」描写の一環。一環なのだが、デュランダルの想定通りとはいえ自らの意思で一方的に開戦し、敵対国に勧告なしに攻撃を行い多くの民を殺し、終盤にはザフトのコロニーを一つ破壊した彼らはどんな背景があれ滅ぼすべき絶対悪にしか見えないので、僕は制作側のその意図を汲む気にはなれない。悪いのはロゴスじゃなくてロード・ジブリ―ルともよく言うけど本編内の描写を見るには......彼の開戦の提案を止めるに至らなかった時点で......)

 そして満を持して、シンに迷いを抱えたままデスティニープランに服従させる。しかし、それは他者に求められた「正義」と「役割」を行っているに過ぎなくて、本当は正しいとは思えていなくて、その迷いから彼はアスランの言葉に反論できず、果ては錯乱したような描写でもって敗北してしまうのだ。親友から託された使命を貫くことも本当は好きだったオーブのために戦うこともできなかった(デスティニープランの失敗とオーブの無事を同時に悟った時の絶望とも安堵ともつかない表情が本当に......)という結末は、他者の「正義」「役割」を演じることの愚かさを、自分自身の正義を見つけなければならないというメッセージを、何よりも体現していた。

 

 「役割」「運命」。それこそが、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の核にあった言葉だ。デュランダル議長によって「ラクス・クライン」「プラントの歌姫」という「役割」を与えられた後に凶弾に斃れてしまったミーア・キャンベル、「運命」を決定するデスティニープラン、前作のラスボスたるクルーゼが叫んだ果てしなく「未来」を望む人間の罪深さ、そしてそれに対抗するキラ達の「未来」への祈り。

 確かに、人は愚かかもしれない。これからまた、争いを繰り返してしまうかもしれない。それを止めるためには、飽くなき「未来」への欲望を、それぞれに「役割」を与え「運命」を決定する(与えられたものだけをさせ希望を抱かなくする)ことでなくすしかないのかもしれない。それでも、きっとそんなのは間違ってる。人間は、自分自身の手で望む「未来」を掴み、「運命」を切り開いていかなければならない。

 そんなメッセージの負の部分、反論されるべき「役割」の愚かさの象徴だと考えると、シンは何よりも「主人公」だった。人間はこんな道を歩んではいけない。こうなってはいけない。こうならないように、自分自身で「未来」を切り開かなければならない。全てを失ったシンも、きっと、ゼロから自分の足で歩き出すのだ。

 そういうやり方でそういうテーマを描きたいならやっぱりもっと明確に台詞にしてデスティニープランを否定すべきだろ(人に役割を与え道具のように扱うデスティニープランを否定する側のアークエンジェル勢が皮肉にも番組の「正しさ」を描くための道具になっているせいで説得力がないし、そのせいで感情としてもシンが「正しさ」にボコられるのに納得できない)とか、「未来」がどうのこうのっていうのは結局前作と同じ話なんだけどわざわざもう一回やる意味あるのかとか、友のために戦うというのはそこまで否定されることなのかとか、途中で書いたようにロゴス関係は流石に無理があるだろとか、色々言いたいこともあったが、少なくともシン・アスカの「主人公」性の決着としては、最低限満足のいく結末だった。

 

 ……だったはず、なのだが、上記のお話には続きがある。2005年の放映時にシンの敗北とデスティニープランの終焉で幕を閉じた『DESTINY』だったが、2006年から2007年にかけて新規カットを追加しアフレコも再度行われた総集編であるスペシャル・エディションがテレビ放送・DVD発売され、さらに2013年から2014年にかけては作画や画質や演出の修正・追加を行ったHDリマスター版が放送された。その試み自体は前作でもされていたことではあるものの、『DESTINY』では加えて、最終回を中心とした総集編とその後を描いた新作映像による特別編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY FINAL PLUS〜選ばれた未来〜』も放送されている。

 その「新作映像」、FINAL PLUSで描かれた最終回の「その後」こそが、僕が一番「何がしたいのか」と不満を覚えた部分なのだ。

 

 

50.FINAL PHASE 選ばれた未来

 追加シーンの内容としては非常に簡単で、戦争の決着後アスランの手でザフトから一時離脱しオーブを訪れたシンが、慰霊碑の前で何も得られなかった先の大戦の後悔を叫ぶ。そこにキラが訪れ、一度シンが殺したフリーダムのパイロットという立場でありながらも彼に手を差し伸べるのだ。シンは差し伸べられた手を涙ながらにとり、「いくら吹き飛ばされても、僕らはまた花を植えるよ」「一緒に戦おう」という提案に頷き、顔も知らないまま争いあっていた二人はついに和解を果たすのだった……。

 

 ……いや、少し待って欲しい。そんなことがあっていいのか。こんな展開があのラストの先にあっていいのか。これをやってしまっては、『DESTINY』が一年かけて積み上げた物語が、シンが歩んできた道が、丸々無駄になってしまうのではないか。

 話(というか僕の解釈)を整理しよう。シンが敗北したのは、自分の正義を持てず他者に与えられた正義(役割)を演じてしまったから、なはずだ。その敗北が、他者の役割を演じることの愚かさを、(逆説的に)自分の手で未来を見つけることの大切さを、体現していたはずだ。

 が、これではシンは、何も変われないということになってしまう。だってシンは、未だ自分の正義を持てていない。そんな状態で、殺されそうになったのに手を差し伸べてくれるキラの優しさに感動し尊敬し、彼の提案をそのまま受け入れてしまっては、それはキラという他者の正義を模倣しているということになる。シンはかつての過ちを、そっくりそのまま繰り返していることになる。

 極論だが、シンの場合、「正義」の成否や「未来」の内容は関係ないのだ。自分自身で抱いた正義でもって、自分自身の望む未来を切り開けるか。他者の正義を無批判で受け入れ、(自分の中に確かにあるはずの「正義」「未来」を明確な形で認識する前に)他者の望む未来に賛同してしまうか。デュランダルの手駒になってしまっていた時は後者だった。この追加シーンも、本質的にはそれらと何ら変わりはないだろう。大戦の決着から間もない時なのだから、シンが自身の正義を見つけられていないのは当然そのまま。そしてキラもデュランダルも、シンにとっては他者でしかないのだから。

 

 追加シーンは尺も台詞も少ないため、明確にこうだと定まった解釈はないのだろう、とは思う。もしかしたら、シンがずっと探していた自分自身の正義を、望む未来をキラが提示してくれた(敵対こそしていたものの二人が望んでいたものは同じだった)ということなのかもしれない。もしかしたらキラが提示したのは「平和を目指す」ということだけで、その明確な形はシンやキラやアスランがこれから共に見つけていくのかもしれない。

 だが、それでも。それでも僕個人としては、この追加シーンには困惑しかなかった。このシーンの時系列がもっと先で、何だかんだを経て成長したシンが自分自身の正義を見つけ、そのうえでキラの手を握るのなら、わかる。もっと「共に未来をみつけよう」的なニュアンスが強調されていたなら、まだ飲み込める。だが、「終戦直後のただ後悔と悲しみしか持てていない状態のシンに」「キラの寛容さと理想に感動し救われたような表情で」「彼の提案に頷かせる」というのは、どうなんだ。

 彼に与えられた結末として納得いかないという感情は、引いてはこの作品全体への不審に繋がる。シンの物語を通して他者の役割・正義を演じることの愚かさを描いたはずなのに、それに真っ向から反するようなシーンをわざわざ完全新規で追加されてしまっては、「何がしたいのか」と思わざるを得ない。描き方や内容の是非に関しては不満こそあったものの、何とかギリギリで「でも一本筋は通してたよね」と思っていたのが、一瞬でひっくり返ってしまった。

「お前が欲しかったのは、本当にそんな世界か!」

 最終決戦でアスランに投げかけられたこの問いの答えが、いつかシン自身によって返される。物語全体としても、シン・アスカというキャラクターへの向き合い方としても、それ以外の可能性はあってはならないと、僕はそう思う。

 

 要するに僕は、『DESTINY』の迎えた結末に、そこで描かれたシンの未来に、何一つとして納得いっていないのである。むしろ、キラ達を「正しい」ものとして描きたいという意図が暴走した結果、シンの物語や番組のテーマを否定するようなシーンが追加されてしまったのだと、そんな陰謀論じみたことさえ思っている。

 

 

48.PHASE-49 レイ

 最初に話題にしたように、『DESTINY』という作品は、前作『SEED』が賛否ありながらもその知名度・作品の展開規模が圧倒的な所謂「人気作」だった反動か、それと比較して余計に批判がされやすい立ち位置にある。本当に知名度が高いためファン層も広く、そのため批判の内容も各々の作品観によって千差万別なのだが、以前、このような文句を目にしたことがある。

「SEEDは続編で台無しになった」

「DESTINYは蛇足」

 改めて、僕個人は、作品全体で考えればそうではなかったと思う。別に前作『SEED』も完全無欠ではなく、むしろブログに書いたように僕にとっては複雑な感慨をもたらした作品である。はっきり言って山ほど不満はあったし、その中には『DESTINY』である程度解消されたものもあった。

  前作では仄めかすだけした後に雑に処理した地球連合の強化人間をしっかりとドラマに取り込んでくれたこと、アスランがちゃんとダメなやつだと描いてくれたこと(前作からそういう認識だったので意図的にダメなやつ描写してくれたのは解釈一致だった、ラクスとの奇妙な関係やカガリへの想いの描写といい今作のアスランはかなり扱い良いと思う)、前作ではほとんど「正しさ」を描く道具としての扱いしかしていなかったラクスのパーソナルな部分にほんの少しだけ触れようとした気配があったこと。『DESTINY』をやった意義は、間違いなくある。

 先ほどは「「未来」がどうのこうのっていうのは結局前作と同じ話なんだけどわざわざもう一回やる意味あるのか」と書いてしまったけど、恐らく、前作で若干唐突気味になってしまった、尚且つこちらに投げかける(ある意味で丸投げする)形で終わった人間の「未来」を改めて「遺伝子」というシリーズの根本要素を用いて描くというのも、今作の意義の一つではあったはずだ。

 その描き方は僕にはとても巧いとは感じられなかったけど、それでもやりたいことはギリギリで伝わってきたし、その過程で生まれた「運命」「役割」という負の対比は、それを背負ったシンというキャラクターの激しさは、とても魅力的だと感じた。激しさと危うさをもって突き進んだ先でステラの死やアスランの撃墜を迫られて迷いを抱えてしまう繊細さに、「運命」のメッセージにその迷いが接続された終盤の展開に、心打たれた。前作の感想ブログの結論が「自分が最も夢中になったテーマへの追求が終盤では二の次にされていて悲しい」だったからこそ、今作で一歩踏み込み、その時に足りなかった「遺伝子」要素をデスティニープランによって補完したうえで、改めてテーマを描こうとしてくれたのは嬉しかった。

 

 ……だが、ダメだ。色々理屈をこねてはみたけれど、なんとか別の言葉を紡ごうとはしてみたけれど、結局はひとつの答えに収束してしまう。ならば、何故シンをキラに下らせてしまったのか。なんであんなシーンを追加してしまったのか。新たに生まれたものを、描ききったはずのテーマを、何故無理やりに前作の価値観に取り込ませ、自ら意義と積み重ねを否定し矛盾してしまうのか。

 そもそも、作品自体のテーマの話を抜きにしても、シンがキラに下る展開は嫌だ。だって僕がシンに見た魅力の原点は、冒頭でも書いたように、続編主人公でありながら前作の価値観と火花を散らし突き進んでいく鮮烈さなのだから。その姿勢が一人の人間としてどこまでも丁寧に表現されたからこそ、彼を好きになったのだから。

 前作のアンチテーゼ的な立ち位置にいるキャラクターが結局は仲間になって仲良しになってしまうというのが、根本的に間違っていると思う。シンの立場がたとえ否定されるために設定されたものだとしても、あそこまで番組に対立する価値観を苛烈に貶めるのは作品として狭量に過ぎると思う。

 せめて、否定した後に彼がどの道を行くかくらいは彼自身に任せるべきだと、余白くらいは残すべきだと思う。シンの行動を「間違い」だと設定するのはまだ試みとしてわかるけど、ならばこそ余計に、彼の性質と彼を物語の推進力としてここまで描いてきたことの責任をとって、せめて「間違い」の果てまで突き抜けさせてあげるべきだったと思う。

 

 

 ……やはり、『SEED』に引き続き、『DESTINY』も僕にとっては色んな意味で複雑で、色んな意味で大きな作品なのだろう。本編を見終えてから約一か月が経ち、そろそろ最終回直後の大荒れな気持ちも落ち着いただろうと思い書き始めたのだが、後半の話に差し掛かってからは鼻息が荒くなってしまった。

 普段から自分の感情や見方を整理するためにブログを書いているけれど、そういう意味ではお手本のように気持ちが整理される体験だった。『DESTINY』は、それほどまでに様々な感情を抱かせる作品だった。

 うまく、まとめの言葉が見つからない。見つからないが、自分の『DESTINY』への感情が、SEEDシリーズとの関係がわかったので、そろそろここで筆を置こうと思う。きっと僕にできるのは、こんな風に自分の感情を整理していくことだけなのだ。

 シン・アスカというキャラクターは、好きだ。今まで見た創作作品のキャラクターでもトップクラスに好きで、いつまでもその生き様を見ていたい。彼の体現している「運命」の描写も、『SEED』終盤ではおざなりにされていたテーマへの追求を感じられて、そこは本当に感謝している。でもだからこそ、『DESTINY』での彼の描き方には、追加シーンには、そこで発生したメッセージの大きな矛盾には、納得できない。それが、僕が『DESTINY』に抱いている感情。

 FINAL-PLUSの追加シーンはどこまでいっても公式で、だから覆されることなんてなくて(一度お出ししたものをなかったことにされても困るけども……)、いつか公開される『SEED』劇場版も、きっとその「納得できない」話を前提に進んでいく。だからその時も、こうやって整理して折り合いをつけていそうな予感がある。同じようなことを、『SEED』の頃から言っているようなことを、また書いている気がする。

 

 最後に改めて。これは感想というよりは、ただの一オタクの恨み節です。多分、お気持ち表明というやつです。作中の展開やテーマの説明は、僕個人の解釈に過ぎません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少しだけ解呪されました

sasa3655.hatenablog.com

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