石動のブログ

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感想『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』 「欲望」と「利害で繋がる信頼関係」とその果てにあったもの

 僕は、『仮面ライダーオーズ』が好きだ。

 怪人と仮面ライダーの「お互いが利用し合う」ヒリついた関係、変身アイテムであるメダルの所持状態が毎週のように入れ替わる争奪戦、そのメダルを組み合わせて何百ものパターンが実現されるフォームチェンジで魅せる戦闘シーン、映像を彩るアップテンポなスカっぽい劇伴。思いつくままに並べるだけでもこれだけの独自要素が挙げられるということからも、『オーズ』の強烈な個性が窺える。自分が『オーズ』に初めて触れたのは随分前のことだが、今でも『オーズ』を追い続けた一年の衝撃と興奮を鮮明に思い出せるほどに、その個性が記憶に焼き付いている。

 

 

 

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 そんな個性溢れる『オーズ』だが、僕はその中でも特にある二つの要素が作品としての面白さに直結していると考えている。「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」「映司とアンクの関係」。その二つの要素が『オーズ』を『オーズ』たらしめ、同時に見る者を(というか僕を)熱狂させてきたのだ。

 

 『オーズ』の作劇の根本には、「欲望」がキーワードとして存在する。古代から復活した『オーズ』の怪人は「欲望」の意味を持つグリードの名を冠し、自分達を構成するメダルの「欲望」の力で人々からヤミーという下級の怪人を生みだす。ヤミーは自分を生みだした人間の「欲望」に従って行動し、それを満たすことでメダルを生成し、そのメダルを取り込んでグリードは力を蓄えていく。主人公にして仮面ライダーたる火野映司はその脅威から人々を守るために、中途半端な形で復活してしまったグリードであるアンクは自分の立場と力を考慮して他のグリードを出し抜くために、手を組んでヤミーや他のグリードと戦っていく。

 その戦いの中で、登場人物達は自分の「欲望」と向き合っていくことになる。ヤミーを生成するもとになる「欲望」の持ち主であるエピソード毎のゲストキャラは、手段を選ばないヤミーの姿を見たり、触媒として取りつかれたり、一緒になって暴走する中で映司などの説得を受けたりすることで、自分の「欲望」の暴走を客観視しその正体を知り、そのうえで現実の中で折り合いをつけていく。アンクは人間の身体にとりついたことで生きることの喜びを知り、ただのメダルの塊でしかないグリードから脱し命を手にしたいと望みその方法を探っていく。所謂正義のヒーローであり、「欲望」なんて世俗的なものからはかけ離れているように見える映司も、過去守ろうとした少女に手が届かず、それ以来自分の「欲望」を見つけられなくなってしまったことが明かされ、彼は忘れた自分の「欲望」を思い出そうとしていく。

 『オーズ』が特殊なのは、一般的には良くないものとされることの多い「欲望」を肯定的に描いていることである。上記の映司のエピソードで自分の欲望を思い出す取り組みが試みられていることや、「欲望こそ人の生きるエネルギー!」という鴻上会長の特徴的な台詞からわかるように、『オーズ』の世界観は欲望を、人の根源にあり、生きていく(未来へ進んでいく)のに必要不可欠なものだと定義している。

 一見欲望の抑制が訴えかけられているように見えるゲストのドラマも、欲望そのものを否定することがなく(たとえ倫理に反するような欲望であっても、その存在そのものを否定することはない)、「現実の中で折り合いをつけていく」ことが重く描かれる。「現実の中で」という点が重要で、全てを救いたいという一般的には「正義」とされるようなものも、命を得たいという利己的なものと同じ「欲望」の言葉で表現されていることからもわかるように、「欲望はそれぞれが持つ強い願いであり、それそのものには善悪も是非もない」「欲望の正体と強さを知った上でそれをどう受け止め、どう現実で満たしていくかが重要」というのが、『オーズ』の背景にある思想なのだ。だから、怪人に翻弄される一般人も、人間の感覚を知ってしまったアンクも、ヒーローたる映司も、自分の「欲望」と「それを現実で満足に満たせる方法」と向き合わざるをえなくなる。

 

 そして、そんな『オーズ』の中で、個々のゲストキャラよりも連続性と重みが大きい縦の軸で「欲望」というテーマを背負っていたのが、映司とアンクの関係性なのだ。先述したように、映司とアンクはそれぞれ別の目的を達成するために、お互いに利用し合うために、協力関係を結んだ。それ故に常にお互いから目を離せないようなヒリヒリとした空気を伴い、お互いの目的の方向性の違いから衝突することがありながらも、「あくまで利害と損得で繋がっている」という前提を守ったうえで、少しずつ信頼関係が築かれていった。

 その果てに、映司は「どこまでも届く俺の腕」、アンクは「命」と、それぞれの目的の先と根源にあった「欲望」を見つける。ただそれでも、二人の関係の底にあるものは変わらなかった。一度は独りよがりに突っ走ったせいで関係が破綻したが、それでも最後には「利害で繋がる信頼関係」に戻ってきた。

 最終的に、映司の欲望は「誰かと手を繋げばどこまでも届くかもしれない」という形で、アンクの欲望は「他者と交流し関係の中に在ることで結果的に『生きる』ということを実現する(その象徴が他者に死を認められることで生の証を得る、というラスト2話での結論)」という形で、それぞれ他者との関係の中に満たし方を見つけ、『オーズ』の物語は完結した。「お前を選んだのは、俺にとって得だった」の台詞にもあるように、そこに辿り着く過程には当然、他者として欲望のために手を結んだ二人の「利害で繋がる信頼関係」があった。

 つまり、映司とアンクの関係は、「手を繋ぐという手段を共有することで、それぞれ自分の欲望を現実の中で実現していた」という点で、欲望そのものを否定せずその満たし方を重要視する『オーズ』の世界観の一つの理想となっていたのだ。「二つの要素」とは書いたが、「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」と「映司とアンクの関係」は密接に絡み合い、不可分な関係として物語の中に存在していた。テーマとして存在する思想と、それを実際に表現する物語の要素。その完璧な構造に僕は胸を熱くし、心を打たれた。

 

 

仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー

 そんな風に『オーズ』を理解していたからこそ、近年の『平成ジェネレーションズFINAL』や『ジオウ』オーズ編における『オーズ』の扱いに関しては、若干の……いや相当の不満を覚えていた。端的に言えば、映司とアンクの関係の描き方が、あまりにも「エモ」に寄りすぎだと感じたのである。

 確かに、二人の信頼関係は『オーズ』の魅力の大部分を担っていただろう。だから、客演の際にその部分をピックアップするというのは、わかる。『MOVIE大戦 MEGA MAX』で天才的な手法で示唆された「いつかの明日」をファンへの必殺カードとしてちらつかせたくなるのは、わかる。本編最終回で二人の「利害で繋がる信頼関係」は一応の決着をみたのだから、別にそこから映司の「アンクを蘇らせる」という目的だけを抜き出して湿度高めに描いたって、理屈としておかしくないというのは、わかる。

 しかし、先ほど2000字もかけて(前置きの長さではない)書いたように、「映司とアンクの関係」と「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」は、『オーズ』本編では絶対の関連を持っていた。テーマを表現するために、二人の関係がある。二人の関係が完璧な精度で描かれることで、テーマが厚みを持って視聴者に伝えられる。極端に言えば、「欲望」という強いテーマ性が根底にありそれを貫いたからこそ、二人の信頼関係は「結果的に」エモくなったのだと、僕はそう考えていた。

 だから、「欲望」に対する追求がほとんど見られず、「目的として」湿度の高いエモを狙いに行っている近年の『オーズ』には、僕の心はどうにも震えなかった。「手を繋ぐ」のはあくまで欲望を満たすための賢く現実的な手段の一つだということを完全に忘れ、最終回の構図のみを模倣する『平成ジェネレーションズFINAL』のオーズパートに、冷めた視線を投げかけてしまった。

 故に当然、『オーズ』の10周年を記念した新作『復活のコアメダル』が作られることを知った時は、胸の中には不安しかなかった。「いつかの明日」を擦る宣伝文句を、「アンク復活」を高らかに歌った予告を見て、その不安はどんどん膨れ上がっていった。正直、「ファンだから観に行くけど期待はできないかな」と思っていた。どうせ「欲望」というテーマへの言及や、それを体現する存在としての二人の「利害で繋がる信頼関係」を描くことはなく、「利害で繋がる信頼関係」とは一見似ていながら根本の目的(物語の中での存在意義、「欲望」への追求かエモの獲得か)が全く異なる、湿度高めな「映アンの再開」を提示するためだけの物語なのだろうと、そう思っていた。

 

 だが、つい先日、『復活のコアメダル』を観終えて劇場を後にした僕の胸の内は、見事なまでに晴れやかな気持ちで満たされていた。なんなら涙さえ流していた。嬉しかった。『オーズ』が最後にこの作品を送り出してくれたことが、嬉しかった。自分の熱狂した『オーズ』を見せてくれたことが、嬉しかった。

 なんてことはない。自分の公開前の不安は、杞憂でしかなかったのだ。『復活のコアメダル』は、『オーズ』は、僕が一番求めていたもの、映司とアンクの「利害で繋がる信頼関係」が体現する「欲望」について、見事なまでに当時に近い熱量で描いてくれた。

 

 

(以下、『復活のコアメダル』のネタバレがあります)

 

 

 

最終話「明日のメダルとパンツと掴む腕」

 『復活のコアメダル』では、『オーズ』本編から十年が経った世界が描かれる。そこでは、蘇った「王」、古代オーズがグリード達を引き連れ、世界を自分のものにしようと欲望のままに侵略を行っていた。その結果文明は崩壊し、人類も少ない生き残りだけになってしまった。何らかの要因で復活したアンクはその脅威に対抗するために、古代オーズの攻撃から少女を庇って生死不明になった、そして自分を蘇らせたであろう映司を探し始める。

 しかし、物語中盤、映司は少女を庇った際に肉体的にはほとんど死亡してしまい、予告などで姿を見せていた彼は鴻上会長が造った人造グリード、ゴーダがその身体を乗っ取っていたものだと判明する。加えて、かつての映司の「力が欲しい」という欲望を満たそうと暴走するのに抗ってゴーダから弾き出され意識が戻った映司の回想から、アンクが蘇ったのは映司が死に際にそれを願い、自分の命を捧げたからだということが語られる。「これが俺の最後の戦いだ」と死期を悟ったような顔で語る映司を見て、アンクはその願いを認め、変身した。

 


 先述したように、本編の映司とアンクは、「利害による信頼関係」で繋がっていた。お互いに異なる欲望を持ちながらも、現実の中で賢くそれを満たすために手を取った。幾度となく衝突したけれど、その長い戦いの日々が少しずつ信頼が積み重ねていった。その背景には、常に「損得と利害で繋がっている」という前提が存在して、だからこそ二人の関係は強固なものになっていった。

 「利害と損得で繋がっている」「それぞれ自分の欲望を満たすために背中を預けている」。それはある意味で、最もお互いの欲望の強さを信じているということだ。だって、もし相手が目的をすぐに変えてしまったら、その欲望を諦めてしまったら、関係は即座に破綻する。こいつは絶対に諦めないと。こいつは自身の欲望を貫き続けると、そう確信することが出来なければ、異なる欲望を持った相手と手を繋ぐことなんて出来ない。映司はアンクのメダルと命への執着を信じていたし、アンクは映司の「手を伸ばす」姿勢を信じていた。そして、それぞれの欲望が衝突しない範囲内では、相手の欲望を尊重していた。

 その信頼が最初に迎えた「終わり」が、『オーズ』本編の最終回だった。「お前がやれって言うなら、お前が本当にやりたいことなんだよな」「アンク、行くよ…」。映司がアンクの欲望を認め、その言葉通りにタジャドルコンボに変身する際に発したこの台詞には、利害という信頼で結ばれていた二人の関係性が、端的に現れている。

 

 

 

 

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 『復活のコアメダル』は、一度完結した『オーズ』の物語の続きを作るにあたって、二人の関係性のその部分に着目した。お互いの欲望を信頼し、尊重する。そこにピントを合わせ、再び『オーズ』を紡いだ。

 映司は、手を伸ばした。最期の最期まで、後悔しないために手を伸ばし続けた。戦いの中でかつて手が届かなかった「少女」をその目で見て、古代オーズの攻撃から彼女を庇った。その結果彼の命は風前の灯、時間経過による死を待つだけの状態になってしまった。

 だが、手を伸ばしたこと自体に後悔はない。ただひとつ心残りがあるとすれば(古代オーズのことも気にはしていたと思うが、死にかけの彼にどうにかできることではないし、アンクを助けることで結果的にそれは解決される)、それはアンクのこと。自分の目の前で死んだ相棒のこと。ずっと修復する方法を探し求めていた、彼の意志を宿したコアメダルのこと。映司はその手にメダルを掴み、「甦れ」と願った。そして、その強い願いの力で、アンクのコアメダルは復元された。

 それにより、彼の欲望は満たされた。彼は、満足した。かつて手が届かなかったものを救い、ずっと追い求めた相棒のいる「いつかの明日」に辿り着き、心の底で囚われ続けていた業から解放された。そして同時に、その欲望を満たすために(少女に手を伸ばした結果として)自分の命を支払ったことを、決して後悔しなかった。それはつまり、結末を受け入れて死ぬことを望んだ、ということだ。

 だから、アンクと共にゴーダを撃破した後、映司はアンクを自分の身体から「追い出した」。理屈としては、アンクがそのまま取りついていれば、現状を維持することはできるだろう。本編の泉信吾の例を鑑みれば、そのまま身体を生かし続ければ、いつか完全に生き返る可能性もあるだろう。しかし、彼はそのことを拒否した。彼は「都合のいい神様」じゃない。一人の人間だ。だからこそ、他者の要望(「何としてでも生の可能性にしがみついて欲しい」というような)に関わらず自分自身の欲望を満たそうとするし、望む欲望の中身によっては、「(あの危機的な状況で)少女に手を伸ばす」という欲望を満たすためには、相応の対価を必要とする。映司は、そのことを覚悟していた。その対価を覚悟し、受け入れ、当然のものだと理解していた。「楽して助かる命はない」と、誰よりも理解していた。

 だからこそ彼は、「一人の人間として」、「自分のために」、「自分の欲望を追求し続けた結果として」、死んだ。彼の欲望を満たすということは、対価を認めることとイコールだったから。そういう意味では、「手を届く限りまで伸ばして生き続け、最期にアンクに看取られながら逝くこと」が、(古代オーズの攻撃で致命傷を受けた後の)彼の「欲望」だったのだから。

 その欲望を、『オーズ』は、『復活のコアメダル』は認めた。確かに『オーズ』本編では「手を繋ぐ」ことが彼の欲望へのアンサーとして提示されたが、それはあくまで欲望を満たすために取りうる賢い手段のひとつでしかない(だからこそ良い、と僕は思う)。欲望の中身や当人の意識や状況によっては他の手段をとることはありうるし、当然「手を離す」自由も存在するし、そこに対価だって伴うことはある(そもそも、『オーズ』本編は「欲望そのものに善悪も是非もない」「欲望こそが人の生きるエネルギー」という意味で欲望を肯定しているのであって、「どんな欲望も望めば満たされるしそれが生きることに繋がる」と欲望の無条件かつ完全な肯定はしていない)。独りよがりに力を求めた過去の映司の否定、という意味を彼の欲望から生まれたゴーダの撃破に持たせることで本編最終回を尊重しながら、映司に自分の欲望を満たすことを許したのだ。

 そして、『復活のコアメダル』のその結論を体現したのが、火野映司という人間の欲望への向き合い方を最後に示したのが、アンクというキャラクター、否、映司とアンクの「利害で繋がる信頼関係」だ。繰り返し言うように、利害と損得で手を組んでいるということは、ある意味でお互いの欲望を最も信じ、尊重しているということ。『オーズ』最終回で映司がそうしたように、アンクは相棒の「手を伸ばす」欲望を、そこに必然として伴う対価の容認を、結果的(あくまで結果的)な意味での「手を届く限りまで伸ばして生き続け、最期にアンクに看取られながら逝く」願いを、認めた。かつて利害の一致で「手を繋ぐ」関係にあったからこそ(この意味でも本編最終回を尊重している)、結果としてお互いの欲望を信じ尊重したからこそ、最期までその関係を貫き続けた。

 「それがお前の願いなら…映司、行くぞ」。映司の身体に乗り移ったアンクが、タジャドルコンボエタニティに変身する。その奇跡の力で、ゴーダを圧倒するアンク。その横に映司の幻影が立ち、共に戦う。

 台詞も映像も、映司がアンクの欲望を尊重しタジャドルコンボに変身した時と対になるように、アンクの決断と戦いが演出されていく。その完璧な対の構造は、これが本編最終回の立場を入れ替えた再演であることを意味し、同時に映司とアンクの関係の本質を、「利害で繋がる信頼関係」を、お互いの欲望を信じていることを、雄弁に語っていた。

 「お前を選んだのは、俺にとって得だった」。そんな再演の果てに、アンクはゴーダを撃破し、「世界の危機」という映司に後悔を残しうる事象は除かれる。それにより映司は満足して死を迎え、アンクはそれを看取り、「利害で繋がる信頼関係」は物語の中で最後まで貫かれ、貫かれたことによって火野映司の「欲望」というテーマは完成を迎える。そこで、『復活のコアメダル』は幕を下ろす。

 

 

 

第1話「メダルとパンツと謎の腕」

 利害と損得という前提を守ったうえで映司とアンクの関係を描き、それが物語における「欲望」への追求の役割を担う。テーマという目的と、キャラクターの関係性という実際の手段が不可分に結び付き、相互作用的にそれぞれの説得力と重みを増していく。そんな『オーズ』における基本構造、「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」「映司とアンクの関係」という二つの要素の関係が、『復活のコアメダル』では非常に高い精度で実現されていた。

 その根本にある「ある意味でお互いの欲望を信じ尊重している」という解釈が突然現れたものではなく、(先ほど言及した本編最終回以外にも)タジャドルコンボ初登場回の「性格は信用できないんですけどね」「映司が生きてれば必ず来る」「ヤミーを倒すっていう一点でだけ、あいつの行動を信用できるんですよね」とお互いの欲望の強さを信じて別々に敵地に向かう展開に既に表れていたことからも含め、本編に真摯に向き合ったうえで、新たな物語を作ったことが伝わってきた。

 そのことに、僕はたまらなく感動した。「欲望」への向き合い方に脳を揺さぶられたような衝撃を受け、どうしようもなく熱狂した『オーズ』が最後に帰ってきたと、帰ってきてくれたと、そう思った。『オーズ』の根本の部分が、エモの前提にあった「欲望」の描き方が、ここ十年の湿度の高い雰囲気から一気に当時のヒリついた空気感に振り戻してくれたことが、たまらなく嬉しかった。

 

 勿論、それを実際に作品の形に落とし込むことで、短い尺やVシネの予算規模との関係で、物語を展開するための設定そのものの説明を中心とした「理屈」や「本編との整合性」が大分割り切った作りになったり、映像にいまいち迫力や説得力がなかったり、様々な問題点が生まれたことも確かだろう。

 また、『オーズ』本編が震災の影響で映司が死ぬラストから前向きなものに変更されたという経緯を鑑みて、十年前と同じく陰鬱な話題ばかりが飛び交う今、もう一度希望に満ちたものを提示することはできなかったのかという意見も、若干ながら共感できる部分がある。

 

 

 

 

 それでも僕は、「10周年」という最後のタイミングで、『オーズ』がその「らしさ」を突きつける作品を作り上げてくれたことに、心からの称賛と感謝を述べたい。この作品で『オーズ』が迎える終わりに、物語が前に進んだことに、心からの祝福を述べたい。

 ありがとう。おかえり。そしてさようなら、『仮面ライダーオーズ』。