石動のブログ

アニメやら特撮やら映画やらの感想を書きます。

総括感想『仮面ライダークウガ』 彼が変身したのは、きっと「空我」じゃなくて

 仮面ライダークウガ

 平成ライダー1作目(「平成の仮面ライダー1作目」ではない)にして高い人気をほこり、その人気をもってシリーズへの道を切り開いた作品。でありながら、後の平成ライダーとは一線を画す、孤高の伝説のような扱いを受けている作品。

 自分は『クウガ』が放送していた時代にはそもそも生まれていなかったので、リアルタイムの熱量や視聴者の受け止め方は全くわからない。だけども、『ディケイド』辺りから平成ライダーを視聴し始め、ある程度作品を理解できるようになった『オーズ』辺りで平成ライダーにドはまりし、卒業できないままズルズルとシリーズを追い続ける中で、直接視聴することはなくとも『クウガ』の存在の大きさは常々感じていた。当時熱中していたファンの声に籠っている想いの大きさは勿論、『平成ジェネレーションズFOREVER』等の作品での触れられ方の慎重さが、その印象を与えていた(いやまあ、春映画とかでは他のライダー同様雑な扱いを受けていたけれども……)。

 だから、重い腰を上げ、『クウガ』の視聴を開始しようとした時には、若干の緊張があった。ただテレビを見るだけなのに大袈裟な、と言われるかもしれないが、その時の自分の感情としては「伝説と向き合うぞ」くらいのものにはなっており、緊張するのも当然と言えば当然だったと思う。同時に、自分の中に長らく存在した「数ある平成ライダーの中でも何故『クウガ』は伝説のような扱いを受けているのか」「『クウガ』を伝説たらしめている要素は何なのか」という問いの答えがわかることへの高揚感もあり、それが緊張に拍車をかけていたのだろう。

 そして先日、ついに『クウガ』全話の視聴を終えた。ここからは『クウガ』を見終えての感想を、自分が視聴中に最も強く感じたことを中心にまとめていこうと思う。

 

 

 

S.H.フィギュアーツ 仮面ライダークウガ ライジングマイティ 約145mm ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア

 自分が『クウガ』視聴中に最も強く感じたこと。それは、作品全体にある独特の雰囲気だ。どこまでも「理」を通した、陳腐な表現で言うなら「リアルさ」に溢れた空気と展開とキャラクター造詣が、『クウガ』最大の特徴にして最大の魅力なのだと感じた。

 例えば、作中で「赤の金のクウガ」と呼称される形態、ライジングマイティは、強力なパワーを持って強化された未確認生命体(人々を襲う怪人)にも対抗できる、所謂「強化フォーム」の立ち位置にある。しかし、強力な力には代償が伴うもの、その例外に漏れずライジングマイティにもデメリットがあり、それ自体は多くの作品で(それこそ後の平成ライダーでも)よく見られる要素なのだが、なんとそのデメリットの一つが「あまりに攻撃の威力が高いため敵を倒した際の爆発の規模が大きくなり、それにより周囲に被害が出る」というものなのである。そのデメリットは作中できちんと1エピソードを割いて描写され、登場人物はその存在をはっきりと認識し、そのうえで「強化された未確認を倒すためには、どうしても金の力が必要」「ならば、警察と連携して怪人を人のいない地区へ誘導し、そこで金の力を使用する」と展開していく。

 「怪人は倒されると爆発する」というのは、最近の特撮ヒーロー作品においてはほとんど絶対条件ともいえる要素だ。しかし冷静に考えれば、爆発はその鮮烈さで映像的な迫力をもたらす以上に、「作中世界での二次被害をもたらす可能性のある威力を持った現象」という意味を持つ。端的に言えば、爆発なんて起こったらそれによる犠牲者が出るかもしれないのだ。

 つまり、このライジングマイティの一連の展開は、多くの特撮ヒーロー作品が「理」の面では追求してこなかった(都合で追求できなかった、あえてしなかった)「怪人は倒されると爆発する」の意味を真剣に考え、作中におけるドラマに組み込んだのである。加えてそこには、「人間には太刀打ちできない超常の存在が全力でぶつかり合ったら周囲はどうなるか」という、多くのバトルジャンルの作品が抱えるジレンマをも内包している。

 

 このように『クウガ』は、作中での出来事やドラマに、特に多くの特撮ヒーロー作品において「お約束」だと割り切られてしまう要素に、徹底して「理」を求める。怪人が出現した世界では、警察はどのように対応していくのか。怪人に対して、人々はどれほどの恐怖を感じるのか。怪人の存在は、今を生きる若者や子ども達の未来にどう影響するのか。怪人と同等の力と異形の姿を持つヒーローは、人々にどのようにその存在を理解されるか。ヒーローは何故、自分を犠牲にしてまで戦うのか。その全てに「理」の伴った回答を用意し、それを登場人物の紡ぐドラマにのせて描いていく。

 結果、怪人が出現してからの警察の対応は場面が変わる毎の時刻表示に示され、登場人物達が息抜きにプールに遊びに行くと間一髪のところで怪人とすれ違い、病により生きる希望を失った青年は未確認に自己投影に近い幻想を抱き、仮面ライダーは警察に未確認だと認識されて銃を向けられ、主人公・五代雄介の原点は彼のサムズアップの持つ「満足できる行いをした者だけに許されるポーズ」という意味をもって丁寧に描写される。そこにある「理」こそが「リアルさ」であり、『クウガ』に独特の雰囲気を与えているのだ。

 

 

 

EPISODE 19 霊石

 『クウガ』のそんな作風を肌で感じ、その背景にある意図を自分なりに噛み砕くと、冒頭に書いた「数ある平成ライダーの中でも何故『クウガ』は伝説のような扱いを受けているのか」「『クウガ』を伝説たらしめている要素は何なのか」もぼんやりとだが理解できた。『クウガ』にある「理」を追求する姿勢は、後の平成ライダーでは断片的にしか見られない。「独特な」と言ったように、その徹底ぶりは『クウガ』にしかないものなのである。その唯一性が伝説へと昇華し、『クウガ』は見る者の中に残り続けるのかなと思った。

 そして僕自身も、『クウガ』のそんな個性に魅せられることは多かった。先述のライジングマイティ周りの展開は、「五代くんに責任のほとんどを押し付ける形になっていたこれまでから前に踏み出し、警察とクウガが連携を行って被害を抑え未確認を倒す」というドラマとの噛み合い具合も合わせて熱くなったし、「理」を追求する姿勢が後の平成ライダーにも受け継がれる多彩なフォームチェンジ(『BLACK RX』といった先例があるのでフォームチェンジの始まりというわけではないけど)と「仮面ライダー」の由来であるバイクにも表れた結果、両者とも自分の目にはとても魅力的に映った。たとえ派手なフィニッシャーとしての活躍がなくとも、それぞれに「理」をもって役割や特徴を与え、それを完璧に生かすことで「カッコイイ」を生みだせるのだと知った。

 ただ一方で、『クウガ』のそのような個性がマイナスにはたらいてしまっていると感じる部分もあった。

 

 

 このツイートの内容が全てなのだが、『クウガ』は僕の見てきた特撮作品に比べ、話の中の「現実的な世界観での怪人やヒーローの存在」という挑戦の占める割合が大きいのである。同じ平成ライダーで言うと『アギト』なんかは「人間ドラマ:怪人やヒーロー周りのロジック=7:3」である一方で、『クウガ』は「人間ドラマ:怪人やヒーロー周りのロジック=5:5」、もしくは「人間ドラマ:怪人やヒーロー周りのロジック=4:6」の場合が多い。『クウガ』も確かに登場人物の心情や葛藤を描いてはいるのだが、それは「特撮ヒーローでよくある状況を現実に落とし込んだら人々はどうなるか」というシミュレーションの側面が強く、そしてシミュレーションの一環(「理」を求める姿勢のひとつ)である以上、そのドラマは作品の目指す目的ではなく、結果尺も「怪人が現われたら現実にはどう対処するのか」、具体的には「未確認がどのような法則に基づいて殺人を行っているか」「未確認はどのような能力を持っているのか」「その能力に対して、クウガはどのような力をどのように使って対応するのか」への回答という、別の側面からのシミュレーションと同等の長さしか割かれないことが多い。

 その傾向は、基本4フォームが出揃い、五代くん・一条さんというメイン二人の原点も描写し終えた1クール目の終わり辺りから、ライジング形態が1フォームずつ出てくる3クール目中盤辺りまでに強く表れているような印象を受けた。特に、その傾向の象徴とも言えるのが、EPISODE 17・18で展開された、未確認生命体第26号A「メ・ギノガ・デ」関連のエピソードである。この2話は「ヒーローの復活」をテーマにしており、「メ・ギノガ・デと相対したクウガがその毒性の強い胞子を食らい一時的に死亡状態になるも、霊石アマダムの力で死の淵から蘇り、見事メ・ギノガ・デを打ち倒す」という内容になっているのだが、その描き方が本当に特殊なのだ。

 ヒーローをモチーフにした作品でこういったお話を展開する場合、「仲間達の決死の努力と、彼らとヒーローの間にある強い絆が奇跡をもたらし、ヒーローが蘇る」、「たとえヒーローがいなくとも、いやいないからこそ、残された者達がその意思を継いで脅威に立ち向かい、しかし力及ばず世界が滅びる……直前に、何かしらの要因で蘇ったヒーローが現われる」など、「復活」に何かしらのドラマを付随させるのが普通だろう。「ヒーローがいない」という状況を生かし、登場人物の絆や覚悟を正面から、かつ強調して描写するのだ。

 しかし、『クウガ』EPISODE 17・18では、そのような行いはほとんど映像に表れない。全くないというわけではなく、五代雄介の死を受け止めようとする一条さんや、彼を蘇生するために力を尽くす椿さんの姿は描かれるのだが、それよりも「霊石アマダムの力」「それを伝える古代文字の伝承」に重きが置かれている。

 勿論そこには、『クウガ』なりの理由がある。ここで霊石アマダムの超越的な力を「死すらも乗り越える」と描写することで、その強大な力によって五代くんの身体が完全に書き換わってしまうのではないか、と視聴者に危惧させて「凄まじき戦士」「戦うためだけの生物兵器」関連の展開に説得力を与えているし、椿さんがこのエピソードで五代くんを蘇生させるために施した電気ショックは後の「金の力」の目覚めのロジックを担保している。その背景に推測される「それ以前の特撮ヒーロー作品で、ヒーローの超人性を描くために行われた『ヒーローの復活』展開を、伏線や前フリとすることで物語に組み込みかつ説得力を与える」という「お約束」へのツッコミ殺しとしての意図も含め、『クウガ』の「理」を求める姿勢が現われた結果がEPISODE 17・18なのだろう、とは思う。

 それでも、僕の好みとしては(あくまで好み)、復活や「金の力」のロジックが強引または曖昧になり「理」が失われたとしても、何かしら劇的なドラマを描いて欲しかった。五代くんの死を知らされた時の一条さんの姿を車の窓ガラス越しで撮ることで彼の言葉や声を敢えて遮断して表情だけで語らせる演出や、不完全な「白い四号」の姿での連続キックでメ・ギノガ・デを倒す胸アツな展開など、見所もないわけではないが、それでも不満だった。

 結局五代くんの復活に仲間の力はほとんど関係なかったこと、桜子さんやみのりちゃんに五代くんの復活を信じさせるような言葉をポジティブな演出で言わせたことで「ヒーローの死」の展開にある緊張感が損なわれてしまったこと、肝心の一条さんの「五代雄介の死」への受け止め方がしっかりと描かれなかったこと含め、「ヒーローの死と復活」の持つ意味を生かし切れていないように感じてしまった。個人的には、EPISODE 17・18は「ヒーローが死んで『ただ』復活する『だけ』の話」のような印象を受けてしまった。

 

 

仮面ライダークウガ(6) [DVD]

 つまり僕には、『クウガ』を占めるロジックの割合が合わない場合もあったのである。確かにその展開には「理」があって、その追求の姿勢は読み取れるけど、それでもいまいち面白くない。「そんなすぐに多種多様なフォームを使いこなせるわけがない」というのはわかるが、ひとつの装備やフォームを描くのに時間をかけすぎて、戦闘での使い分けが本格的に始まるのが遅い。古代の種族には独自の文化と言語がありそれが現代人に完全に理解できるはずがないのはわかるが、結局その多くが明確に解説されないまま終わるのは消化不良だ(自分は「本編で明確に説明されていない設定は作品の要素としてあまりカウントしたくない」と思っているので、本編の隅の隅まで一時停止も駆使して見てわかるかどうか、というレベルのグロンギ語と日本語の対応は「明確に解説され」た内には含めていない)。

 そのような、直接的にはドラマに関わらない「理」の追求が、「子ども向けの特撮ヒーローもの」という枠に逃げない制作陣の覚悟を示すのだろう。その「理」を追求する姿勢そのものが「お約束」へのツッコミ殺しとして機能し、世界観の確度や、引いてはそこで描き出される制作陣からのメッセージに説得力を与えるのだろう。それはわかる。わかるのだが、どうしても、自分が仮面ライダーに一定の割合で求める「楽しく面白いエンタメ」とは、その姿勢は絶妙に交わってこなかった。

 

 また、「金の力」は総じて爆発の被害が大きいような描写をされているにも関わらず、「紫の金のクウガ」ことライジングタイタンの初登場は普通に街中で、それも付近に人がいる状態で使われている、そしてご都合主義のように爆発の規模は小さく被害は出ていない(ライジングペガサスの初戦は空中で、ライジングドラゴンの初戦は海辺で未確認を撃破したことで、結果的に爆発の被害を免れたような描写をされているので、矛盾はしていない)など、「理」に矛盾が生じてしまっていた点もいくつかあったと感じる。そもそもライジング形態はバンダイの提案した「雷の力を司る最強戦士」の案が元になっていたという噂(ソースは探したけど見つからなかったですすみません)を考慮すると、そのような矛盾は、『クウガ』が「逃げ」として寄りかかるのを避けた、しかし番組の枠組みとしては確かに存在する「子ども向けの特撮ヒーローもの」という縛りにもたらされたものが多かったのだと思う。だってそもそもライジングさえ登場しなければ、玩具や催促の都合さえなければ、そのような矛盾は生じなかったのだから。

(追記:「爆発が大きいのはライジングだからじゃなくてゴ集団だから。ライジングタイタン初登場はメのやつだったから爆発が小さい」と教えてもらいました。理解力のなさを露呈させてしまった……そもそもメとかゴとかよくわかってなかった……「ゴのやつらがどうこう」みたいな台詞あったな確かに……爆発に影響してたのかあの区分け……。

 でも、本編中に言葉でしっかり説明して欲しかったかもです。上で「古代の種族には独自の文化と言語がありそれが現代人に完全に理解できるはずがないのはわかるが」と書いたように、理解力がなさすぎてグロンギのことはほぼわからなかったので、明確な説明が欲しかった……いやその「説明がちゃんとなされる」展開が「理」に反してるので『クウガ』はやらなかったのでしょうが……)

 

 要するに何が言いたいかというと、『クウガ』の「理」を求める姿勢は唯一の魅力を生みだしている一方で、「わかりやすいエンタメ要素の減少」「枠組みとして逃れられない大人の都合との衝突」という代償も伴っていたのである。そして自分には、「魅力」よりも「代償」の方に目が行くことが多かった。というより、その「代償」を顧みない制作の方針に「合わないかもな」と感じてしまった。中盤、1フォームずつライジング形態が登場しとどめを刺す、代わりにフォームの使い分けはほとんど行われない戦闘シーンを見ながら、何の感情も起こらない、凪のような精神状態になったことを覚えている。

 

 そして自分のそんな認識は、ライジング形態が一通り出揃い、警察との連携が可能になり、それらの組み合わせによる「理」に満ちた、かつ見応えのある戦闘シーンが展開されるようになり、ドラマ面でも「敵を暴力で排除するということ」「それにより生まれる苦悩」「『究極の闇をもたらす者』とクウガが同一であることの意味」など本懐のテーマが本格的に明らかになり始めても、変わることはなかった。『クウガ』の戦闘シーンを語るブログを書くほどその面白さに熱狂しながらも、心のどこかでは自分と『クウガ』の相性の悪さを意識していた。たとえ今の作品そのものは楽しめても、中盤で明確に示された制作陣の姿勢に「もうちょっと融通利かせてよ」と思ってしまった以上は溝は埋まらないと、そんなめんどくさいことを考えていた。

 

 ただ、最後の最後で、『クウガ』はその認識を少しだけ揺るがしてくれた。『クウガ』が好きかどうか聞かれたら迷いなく首を縦に振れるような、そんな逆転を起こしてくれた。

 

 

 

EPISODE 48 空我

 『仮面ライダークウガ』EPISODE 48「空我」。ついに、未確認生命体第0号「ン・ダグバ・ゼバ」が動き出す。彼はアメイジングマイティに変身し立ち向かった五代くんを下し、その目の前で多くの人々を殺戮した。その圧倒的な力を目にした五代くんは、ダグバを倒すには「聖なる泉枯れ果てし時」「雷光の如く出」ずる「凄まじき戦士」になるしかないと決心し、決着をつけたらそのまま旅に出ると仲間達に別れを告げていく。最後に一条さんに感謝の気持ちを伝えた彼は、「じゃあ、見ててください。俺の変身」と、「凄まじき戦士」、アルティメットフォームに変身し、雪山の頂上でダグバと殴り合う。その身体からが赤い血が噴き出し、瞳からは涙が溢れていた。

 「仮面ライダー」であるクウガの力が、「怪人」である未確認生命体(グロンギ)と同じものであることは、ずっと描写されてきた。未確認の腹にも、クウガと同じく霊石が埋め込まれている。未確認も実は人間態が本当の姿で、霊石の力で怪人態に「変身」しているのだ。彼らが物語中盤から使用し始めた小さな物体を分子レベルで変化させ武器にする能力はクウガの持つ武器化の力と同じ原理だし、極めつけに未確認生命体第46号「ゴ・ガドル・バ」はクウガと全く同じ「青の力」「緑の力」「紫の力」「金の力」を使用して人々やクウガを傷つけた。

 しかし、力は同一のものであったとしても、クウガと未確認には大きな違いがある。それは、力を振るう動機だ。未確認は「自分の笑顔のためだけに」、ゲゲルを楽しむために力を振るい、罪のない人々を殺戮した。クウガこと五代くんは「みんなの笑顔のために」、理不尽に殺され絶望に沈んでいく人々を未確認の魔の手から守るために力を振るい、多くの人々を救った。逆に言えば、EPISODE 35「愛憎」で描かれたように、その動機の底にある善意や優しさが怒りや憎しみに呑まれてしまったら、クウガは未確認と同一の「怪人」に堕ちてしまう。完全に怒りや憎しみに身を任せてしまった、「聖なる泉枯れ果てし時」に変身する本来の「凄まじき戦士」、「究極の闇をもたらす」ダグバと同格とされる存在、「戦うためだけの生物兵器」こそが、その極地なのだろう。

 だが、クウガが五代くんである限り、そんな事態はありえない。彼はもう、善意も優しさも忘れない。激情に飲み込まれたまま戦うこともない。霊石は、使う者の意思に従って力をもたらす。だから、五代くんなら大丈夫だ。「みんなの笑顔のために」「できる限りの無理をする」と誓った彼なら、大丈夫だ。実際、彼の変身した「凄まじき戦士」は古代の時とは異なる姿だった。いつもと同じ、赤い目をしていた。彼は理性を、善意と優しさを持ったまま、「凄まじき戦士」になったのだ。彼は、「戦うためだけの生物兵器」にはならなかった。

 確かに、その言葉は正しいかもしれない。力そのものは悪ではなくて、それを振るう動機こそが重要なのかもしれない。怒りに任せて未確認を串刺しにしてしまっても、未確認を倒すためといって「神経断裂弾」という恐ろしい兵器を生みだしてしまっても、それを使ってまだ自分の手では誰も殺していない未確認を危険性のために殺害しても、間違いへの道を一歩進んでしまったとしても。そこで踏みとどまり、考え、優しさを忘れない、未確認のようにはならない方向へと進めば、注意し続ければいいのかもしれない。

 でも、たとえみんなの笑顔のためでも、誰かを守るためでも、戦うことは苦しい。人の形をしたモノを殴るのは、痛い。生物をその手で殺すことは、辛い。たとえ未確認が完全な悪であっても、暴力で物事を解決することは、悲しい。

 そもそも、未確認を殺すことも、完全に「正しい」なんて言える行為だったのだろうか。未確認は「自分の笑顔のためだけに」、理不尽に暴力を振るう。でも、彼らだってクウガに自分が殺される危険性は理解していたはずなのだ。理解したうえで、彼らの言語で作り上げた彼らなりのルールを課して、ゲゲルを行っていたのだ。未確認生命体第3号「ズ・ゴオマ・グ」が何かに怯えるようにして、強迫観念に駆られるようにして力を求めていたことも考慮すると、それはもう、グロンギの「文化」と呼べるものなのではないだろうか。『クウガ』はよくその当時の事件や世相を反映した「理解できない暴力との戦い」と言われるが、相手方の事情の一切を「理解できない」と切り捨て暴力で排除するのは、果たして正しい行いと言えるのだろうか。

 わかっている。わかっている。それが綺麗事でしかないのは、わかっている。どう言い繕っても、どんな事情があったとしても、たとえ「文化」であったとしても、自分に対して何の危害も加えない、罪のない人々を殺すのは間違っている。未確認は間違いなく「悪」と呼ばれる存在だ。それを前にいちいち説得を試みても、その間に死人がどんどん増えていくだけなのだ。そもそもそれが「文化」であるならば、説得を試みる(「文化」を尊重せず価値観を押し付ける)ことも倫理的な問題を抱えていることになる。

 それでも、「できることなら」と思ってしまうのだ。暴力を用いることなく、拳を握ることなく、誰も傷つくことなく。本当の意味で「みんなの笑顔」を作って終われたらと、祈ってしまうのだ。少なくとも、最初の変身では戦う覚悟が完全には決まらず不完全な姿になってしまった五代くんは、未確認と拳を交えた時の感触を「好きになれない」とこぼした五代くんは、そんな綺麗事を間違いだと断ずるような人間ではないはずなのだ。少なくとも、彼は暴力を痛くて辛くて苦しいと、ずっと感じ続けていたはずなのだ。

 でも、現実は綺麗事では動かない。綺麗事のようにはならない。五代くんは戦う覚悟を決めなければならなくなったし、未確認をいかにして殺すかを考えなくてはいけなくなったし、「強くなりたい」と願わざるをえなくなったし、「好きになれない」感触とずっと向き合っていかなければならなくなった。たとえそこに守れた笑顔があったとしても、理想を否定し拳を握ることは、彼にとって苦しみでしかなかった。彼は、普遍的な優しさと過酷な現実の間に酷い矛盾を抱えなくてはいけなくなったのだ。

 

 

仮面ライダークウガ Blu-ray BOX 3 <完>

 ダグバとの決着のタイトルとなっている、「空我」。言うまでもなく「クウガ」の漢字表記だが、その意味は劇中では説明されない。それ故に、様々な解釈の余地が残されている。

 作中で希望の象徴として語られた青「空」をもたらす、「我」。「空」のように穏やかな優しさをたたえた、「我」。単純に、エンディングの『青空になる』になぞらえた表記というだけ、とも考えられるだろう。

 その、数多ある解釈の可能性の中。僕は、「空我」というタイトルを目にし、そのエピソードの迎えた結末を見届けたところで、ふと一つの回答が自分の中に浮かんでいることに気付いた。「空我」。「空」っぽの、「我」。

 「空(から)」とは、何も考えていないということだ。何も考えず、何も悩まず。ただ粛々と、目的のために手足を動かす。「空我」はきっと、「戦うためだけの生物兵器」、本来の意味での「凄まじき戦士」を意味しているのだなと、そう思った。

 もし「空我」になることができたら、五代くんはどれほど楽だっただろう。きっと「空我」には、感覚も思考もない。「戦うためだけの生物兵器」なのだから、そんなものは必要ない。そうなればきっと、未確認を殴る時の「好きになれない」感覚は感じずに済んだだろうし、未確認を暴力で排除することに何の苦しみも感じなかったはずだ。怒りや憎しみに全てを委ね、思考と葛藤を放棄すれば、優しさと現実のジレンマを抱えることもなかったはずだ。「戦うためだけの生物兵器」となった自分がダグバを撃破した後に人間に牙を剥くかもしれないけど、一条さんに破損した霊石を撃ってもらえれば止まるだろう。出力された形が怒りや憎しみであっても始まりが「みんなの笑顔のため」であるなら、力そのものが悪ではないのなら、別に「空我」になるのも間違いではない。

 でも、五代くんはその道を選ばなかった。その道の方が、伝承通りの「聖なる泉枯れ果てし時」に「凄まじき戦士」になり未確認を殲滅する道の方が遥かに簡単な道のりで、遥かに楽な方向に向かっていたのに、そちらへ進まなかった。人々を殺戮したダグバへの怒りと憎しみに飲み込まれそうになるのを押し留め、優しさと善意を胸に、「俺の変身」をした。彼は、伝承通りの「空我」ではなく、僕達のヒーローに、彼だけの「仮面ライダークウガ」に変身した。きっとそれこそが、ジレンマを前に思考を止めず、暴力で敵を排除することに苦しみ続け、痛みと矛盾を抱えて進んでいくことこそが、唯一「正しい」と言えることなのだと信じたから、そうしたのだ。

 雪山での殴り合い。その果てに、イメージなのか実際そうなったのか、五代くんとダグバは生身の姿に戻る。殴り合いを続ける二人。ダグバは、笑っていた。楽しいから、笑っていた。五代くんは、泣いていた。「空我」にならず、「我」を「空(から)」にせず、暴力を悲しいと思っていたから、泣いていた。その涙は、彼の覚悟の証だった。

 

 

仮面ライダークウガ Blu‐ray BOX 1 [Blu-ray]

 その姿が、痛くても辛くても矛盾を抱えても、正しく、そして優しくあろうとする五代くんの姿が、たとえ完全な答えのない不可能性に満ちた問いであっても向き合い続ける彼の姿が、『仮面ライダークウガ』という番組そのものに重なって見えた。この一連の展開も、特撮ヒーローやバトルものの多くが抱え続ける「結局は暴力で解決している」というジレンマから逃げずに立ち向かう、『クウガ』の「理」を求める姿勢によって作られたものだが、物語の中に描かれたメッセージが、番組としての覚悟や方針と繋がったのだ。

 「理」を追求することには、代償が伴う。わかりやすいエンタメ要素が排される場合も多いし、「子ども向けの特撮ヒーローもの」としての事情と衝突し矛盾が生まれる可能性だってある。偉大な先輩達が切り開いてくれた立場やフォーマットがあるのだから、それに準じてもいいんじゃないか。ある程度、フィクションとしての嘘をついてもいいだろう。先輩と同じ道を行くのにもそれはそれで別の困難が伴うだろうけど、わざわざ新しい挑戦をする必要はないはずだ。より楽な方向に、苦しくない方向に逃げたって、誰も文句は言わないよ。このジレンマとも言える命題は、もう努力でどうにかならない範囲も含んでいて(故にこれまでの多くの作品、先輩達はその追求をあえてしなかったともとれる)、正解なんて結局出せないのだから、立ち向かう必要なんてない。

 それでも、『クウガ』は「理」を求め続けた。「怪人を倒したら爆発する」ということの意味を考え、近い視点から人々の恐怖を見つめ、警察の怪人への対応を大きなリアリティを持って描写し、怪人が人を殺す世界の閉そく感と未来への絶望を真正面から描き、仮面ライダーと警察の関係は段階を経て進めていき、主人公を完全無欠のヒーローにはせず、「ヒーローの復活」もしっかりと物語に取り込み、ヒーローが解決手段とする暴力の本質も逃げずに語った。作品で描く全てに、真摯であろうとした。嘘ではなく真実を語る世界と展開を構築してこそ、メッセージには力が宿ると信じたから。その方針が、何よりも正しいと信じたから。

 完全に好きになることはできなかったけど、言いたいこともそこそこあったけど、その姿勢は、五代くんと同様に逃げることをしなかった制作方針は、確かに「正しい」と。間違っていないと、EPISODE 48を見終えた僕は、そう思えた。最後まで貫き通されたらもうお手上げだと、観念した。好みとかそういうものを越えて、作品に惚れてしまった。

 だからしょうがない。こんなのはもう、好きになるしかない。たとえ何があっても中盤で感じた不満はなくならないけど、作品を語る口調にはどうしても熱が籠ってしまう。総括すると、結局「面白かった」という結論に帰結するしかないと。そのことを実感しながら、僕は今『クウガ』の総括感想を締めようとしている。

 

 

 

 今や僕にとって、『クウガ』は「孤高の伝説」ではない。神経質なまでに「理」という正しさを求め続けた、少し融通が利かない困ったやつ。しかしその姿勢は誰にも真似できないもので、それ故に、彼はあんなにもかっこよく見えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関連記事

sasa3655.hatenablog.com

sasa3655.hatenablog.com