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感想『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』 開き直りと誠実さと

(以下、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』のネタバレ全開の感想になります)

sasa3655.hatenablog.com

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 自分にとってSEEDシリーズは、一概に「好き」とも「嫌い」とも言い難い作品だった。それは良くも悪くも印象に残らないという意味ではなく、むしろ作品に引き込まれ過ぎたあまりの総評だった。

 『機動戦士ガンダムSEED』では、前半で展開された「戦争」の愚かさを描くテーマ性に心を引き込まれた。特に、キラとの打算と依存の関係でもって戦争の愚かさと悲劇性の象徴となり、最終的にはキラの傷となって消えていったフレイ・アルスターというキャラクターには終始目を離すことができなかったし、今でも時々キラと彼女の関係性について考えてしまうほどだ。一方で、終盤でテーマ性の掘り下げの甘い部分が露呈し、しかもその欠点を改善することなくわかりやすい人間ドラマに「置き」にいった姿勢には、心の底から落胆してしまった。

 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』では、「運命」「役割」という劇中設定を活かした要素を付け加えて、前作においてある意味で視聴者に丸投げする形になって終わった「戦争」のテーマを補完せんとする試みに意欲を感じた。こちらにおいても、それらのテーマを体現するシン・アスカという「主人公」に、彼が平和を願う優しい心を少しずつ歪めていってしまい最後には自分の意思ではなく他者の「正義」「役割」を担ってしまう展開に、心を奪われた。同時に、「運命」「役割」を否定するキラ達の「正しさ」を全然信じさせてくれない描写に、シンにキラの提案を無批判で受け入れて同じ間違いを繰り返させる結末に、何故自分の描いたものを最後まで貫かないのかと怒りを覚えた。

 

 そんな、SEEDシリーズの最新作。『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』。

 当時からのファンにとっては約20年越しの、2021年から2023年の2年間を通して再放送でSEEDシリーズを鑑賞し去年はスペシャルエディションも劇場で追いかけた自分にとっては、ここ数年の地続きの物語の決着となる、そんな作品。『FREEDOM』は、一体どんなアプローチでコズミック・イラの物語を締めくくったのか。自分がこの三年間追いかけ続けたシリーズは、どのような結末を迎えるのか。

 それらの問いに対するアンサーはただ一つ。『FREEDOM』は、「愛」の物語だった。

 

 


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 究極のコーディネイターとして作られた、アコードという名の新人類。世界を統治するための存在として生み出された彼らと「母親」であるアウラは、計略によってキラ達の所属する組織「コンパス」の活動を停止させたうえで、彼らによって一度阻止されたデスティニープランを再び提唱する。そんなアコードの中には、ラクスの姿もあった。自分がアコードだったという真実を明かされたラクスと、洗脳能力によって情勢を混乱させられた挙句最愛の人を連れ去られたキラ。しかし彼らは自分の意思を曲げることなく、「愛」によってデスティニープランを否定する。

 20年近くの年月を経て動き出した本作だったが、いざ蓋を開けると、『DESTINY』からダイレクトに繋がる続編であった。それは単に作中の経過時間がたった2年後である、という以上に、『FREEDOM』で展開されたテーマ性までもが、『DESTINY』の延長線上にあるという意味を持っている。上記のあらすじからわかるように、今作は一度問いかけられた「運命」「役割」のテーマを、デュランダル議長の提唱したデスティニープラン(と言っても細部は結構異なったりするのだけど、「運命」に従って生きるという本質は同じである)を、そしてそれらに対するキラ達の否定を、今一度再演せんとする話だったのだ。

 しかし当然、ただ同じことを繰り返しているわけではない。敵の主張もキラ達の決断も大筋では似ているのだが、一点のみ、大きく異なる部分がある。それは、キラ達が「愛」によってデスティニープランを否定しているということだ。『DESTINY』では主張や心情の掘り下げが足りてなさ過ぎて曖昧になってしまった「運命」の否定を、今作は「愛」という概念でもってより具体的に、明確に行っている。

 「愛」と一言に言ってしまうとそれでもまだ抽象的すぎるだろうと思ってしまうが、実際の映画では、その概念に対してキラとラクスの関係性によって肉付けが行われる。お互いのことを誰よりも思い合いながらも、一定のラインを越えることはなかった二人の関係。他の恋愛関係にある登場人物達と比較して抑えられ、なんなら正直自分としては『SEED』でのラクスの描写が薄すぎてどういう関係性なのかわかっていなかった二人に、アコードとしてラクスと人生を共にし世界を統治する「運命」を与えられたオルフェによってメスが入れられる。そして皮肉なことに、オルフェが一歩踏み込んで一度関係を揺るがしたからこそ、キラとラクスはお互いの想いを吐露するに至る。

 これまでお互いに立場や負い目から気持ちを押し込めてしまっていた二人だったが、立場も役割も関係なくお互いを愛していると、愛しているから共にいたいのだと、ついに気持ちを通じ合わせることができたのだ。迷いを振り切り、躊躇いなく手を取りあった二人は、今まさに確かめた「愛」によってオルフェの示す「ラクスとオルフェで世界を統治する存在になる」という「運命」を否定する。

 「正しい」側にいながらむしろそのせいで「正しさ」を描くための道具になりがちで、人間として尊重されることが少なかった二人の関係に向き合い、さらに「運命」の否定に接続しかつて足りなかった「正しさ」の根拠を補完する。そんな取り組みこそが、今作の本懐だった。

 

去り際のロマンティクス

去り際のロマンティクス

 映画館でその結論を見届けた際に最初に零れたのは、ただただ「ありがとう」という感謝だった。

 上記のように、僕が『DESTINY』で大きく不満を持ったものの一つは「キラ達の正しさを正しいとは思えない、そのような描写が成功しているとは思えない」ということ。それを自覚したうえで、主要となるキラとラクスの関係性でもって補い再提示する。かつて描いたものを否定はせず、確かな力強さでもってこちらに投げつけてくる。真っ直ぐに投げつけてくれる、そんな心地よさと納得が、今作にはあった。作劇の技巧としても、キャラクターに対する向き合い方としても、あまりにも巧く、あまりにも真摯な姿勢を感じた。

 率直に言うと、あんなにも愛憎入り乱れた感情を抱いていたにも関わらず、今作を観てその気持ちの大半は浄化されてしまったのである。素直に、良かった。素直に、嬉しかった。SEEDシリーズを見てこんな気持ちで終われることがあるなんて、思いもしなかった。

 ただある意味では、それも当然のことなのだ。『DESTINY』はそもそも、『SEED』の足りなかった部分を様々に補完してくれた作品だった。その補完の中で、姿勢は理解出来たものの描写が追いついてこなかったというある種の「失敗」の象徴が、「運命」のテーマだった。

   それはつまり、その「失敗」さえ覆すことが出来れば、印象としては大きくプラスに傾くということなのだ。そして今作は、「失敗」の覆しを成し遂げた。言葉にするのは簡単だけど、でも決して楽じゃない道のりを、最後までしっかり歩みきったのだ。ならば、その姿勢に感謝を示すことこそあれ、不満を抱えることなどないだろう。少なくとも自分の気になっていたことを誠実に描いてくれたのだから、満足するしかないだろう。

   今ならばきっと、『SEED』も『DESTINY』も、もっとフラットな気持ちで楽しめる。そこにある描写は変わらないけど、一度救われてしまったらもう負けなのだ。惚れてしまった方の弱みなのだ。

 最後に、もう一度感謝の言葉を残しておこうと思う。ありがとう、SEEDシリーズ。三年間、本当に楽しかったです。

 

 

 ……いや。

 

 

 

 

 ……いや、その。

 

 

 

 

……その、なんというか。

 

 

 

 

 

 やっぱり……。

 

 

 

 

 

 

 ぜっっっっったいに、こんなテンションで振り返る作品じゃない!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

描き方が馬鹿過ぎる!!!

 別に、上記までの感想が間違ってるというわけではないんですよね。実際に、『FREEDOM』の根本はしっかりと、「運命」の否定という土台の上に成り立っている。ただ、あんな真面目ぶって書くような描き方ではなかったというか、書いててその語り口は間違ってないか?とさえ思ってしまうというか。

 そもそも、あらすじをまとめている時点でちょっと馬鹿なところが出ていたとも思うんですよね。洗脳能力って何? そもそも「運命」を否定するのが「愛」って、簡単に書くけど実際のお話でどうそれを台詞にするの?

 前者はもう何も言えることがなくて、アコード達は人の心を読むことが出来て、かつある程度までなら干渉もできるという設定があるんです。一応はシリアスにリアリティライン高めにやってきたSEEDシリーズでそんな馬鹿なと思うけど本当にそうで、何ならアコード間でテレパシーを使えてしまうのだから仕方ない。演出も古のニュータイプ描写を何の捻りもなく現代の映像で模倣しているようなものだし、洗脳能力を使うときは「闇に墜ちろ!」なんて直球の表現を大真面目な顔して言うし、はっきり言って無茶苦茶だ。そもそも、アコードの設定自体がテーマの話を整理するために無から生えてきたもので、作中の彼らの所業もあまりにあくどく、少し「気持ちよく倒せる敵」「総括をするために出てきた敵」過ぎるきらいがある。リアリティラインを半ば無視した設定と、あまりに恣意的な敵の存在が、強引すぎる作劇を象徴している。

 後者もほんとにそのままで、オルフェとアグネスのアプローチによって画面が無理矢理恋愛ドラマじみたアレになり、その中でキラとラクスが「運命」に対する結論を出すことになる。何なら終盤は、ラクスに想いを伝えられて舞い上がってるのかわからないけど、全然関係ないガチの戦闘中にキラが急に「僕には武器がある!」「ラクスの愛だ!」とまで言い出して、ラクスは本当にキラに強化パーツを届けに来て、ドッキングして一つの機体を操ったりする。言葉通り、「愛」の力でオルフェ達の主張を打ち砕くんです。『SEED』から恋愛関係のもつれで「戦争」のテーマを描いたりしていた(そして僕もフレイが好きなようにその話運びこそSEEDシリーズだとは思ってる)ので最後に「愛」の話に帰結するのはらしくはあるんですが、それはそれとしてめちゃくちゃだよ!!! 描き方もこれまでと違ってなんか浮かれてるよ!!!!

 

強行

強行

 今作の性質の悪いところが、恐らくはその無理矢理感を自覚したうえでやっていること。話運びが恣意的過ぎることも、アンサーの描き方があまりに無理矢理なのも、作る側はわかっている。わかったうえで、「今作はこういうアンサーを出すんじゃ!!」「これがこの作品の正しさだ!!!」と一種の開き直りを見せている。

 でもだからといって、その開き直りが欠点になるというわけでもないのが本当に良くない。『DESTINY』では、なんなら『SEED』においても、SEEDシリーズの描く「正しさ」は見ていてどこか首をかしげるようなものがあった。番組が「正しさ」として描いているのはわかるけど、それをそのまま飲み込めるまでは、これまでの描写では辿り着いていないことが多々あった。

 そんなSEEDシリーズが、劇場版の大舞台でなんか開き直ってるんですよ。もう露骨なまでのやり方で、「正しさ」を「正しさ」として描いているんですよ。キラ達の武力がやばかったり、最終的にアコード達は全滅するようにそれに相反する価値観には異常に狭量だったり、根本的な「正しさ」の問題点は、性格の悪さは変わってないんです。変わってないんですけど、ここまで堂々と自信に満ち溢れた筆致で描かれては、「そうか……お前はそれが言いたいんだな……!」と受け入れるしかない。細かい不満や違和感はそれでも出るけれど、えげつないスピード感と怒涛の如く押し寄せるサービスシーンでまあいいかと満足してしまう。結局は無理矢理な感覚まで制作側の思い通りで、しかも知らず知らずのうちに僕もその思惑に気持ち良く乗っかってしまっていることに気付くんです。

 だから、上記のテーマ周りの話だけでは『FREEDOM』を語り切ることはできないと思うんです。少なくとも僕は、全然語り足りていない。もっともっと、悪態をつきながら今作を褒めたたえたい。きっと、そういう語り方をするのが正しいんだと思う。実際にお出しされた描写の一個一個にキレて爆笑して涙して、そういうことを語った方がいいんだと思う。

 なので以下、好きなシーン語ります!!!

 

カップリング描写!!! 公式最大手!!!

 真っ先に言いたいのが、こう、みんな色ボケ過ぎだ馬鹿野郎!!

 キラとラクスは言うまでもないんですが、全体的に今作はみんな色ボケしてます。いやまあ前半までは大人しめなんですが、終盤で急にはっちゃけはじめます。

 その中で一番印象的だったのがアスランカガリ。自分は『DESTINY』はちゃんと二人の話をしてたし破局もしてないだろと思っていたのですが、今作はよく言われる噂を取っ払おうという意思すら感じるイチャイチャでした。アスランが後半まで出てこないうえにカガリがオーブの国家元首として頑張ってるので絡み自体は少ないんですが、最終決戦でアスランが急にカガリのエロい妄想をし始めたりします。それで心を読むアコードの能力を翻弄して、カガリによる機体の遠隔操作で裏をかいて一撃入れたりします。戦闘が終わった後もお互いに送ったお守りと指輪をネックレスにしてるのを見せ合ったり、とにかく一回一回の破壊力が凄かったですね。それでアスランに尽くしてるメイリンはどういう心情なんだよ(素直な疑問)。

 というかカップリング描写の話題からはそれてしまうんですが、今作のアスランは中盤に登場してからずっと大暴れですごかったです。そもそも初登場が赤いズゴックに乗った状態でキラやシンをボコったブラックナイトスコードとわたりあうシーンなのが強すぎて笑うし、キラとの殴り合いで一発ももらってないのが面白すぎるし、なんか異様にシュラを煽るし、ズゴック割れたと思ったら中からインフィニットジャスティスガンダム弐式が出てきたり、頼りになり過ぎた結果なんか唯一無二の存在になってる。お前がナンバーワンだ。

 少し真面目な話をすると、シュラへのラストアタックを決めた時の台詞も印象的でした。「強さは力じゃない! 生きる意思だ!」。カガリに言われた「生きる方が、戦いだ!」を意識した台詞なのは明らかで、やっとアスランの中でひとつの答えが出たんだなって……。

 

ロボットアクションでのうがとける

 ストライクフリーダムガンダム弐式!! デスティニーガンダムSpecⅡ!! インパルスガンダムSpecⅡ!! デュエルブリッツガンダム!! ライトニングバスターガンダム!! マイティーストライクフリーダムガンダム!!(語彙崩壊)

 もう、観てる時の脳内はこんな感じでした。最序盤の主題歌が流れながらの戦闘も導入として素晴らしかったですが、やはり一番テンションが上がったのは後半の総力戦。一度敗北したキラ達が、次々とかつての機体のアップデート版に搭乗するファンサービスには、否が応でも心が震える。

 インパルスは公開前に情報が出ていて、ストフリとインジャもこの展開で流石に出ないことはないだろうと思っていたので、それらよりも意表を突いて出てきたデュエルとバスターが個人的には良かったですね。なんかしれっと核動力に換装してるのは条約ワロタといったところなんですけども。まあ敵がレクイエム使ってきたんだからしょうがないか。

 

出撃!デスティニー

出撃!デスティニー

 あとやっぱり、デスティニーの大活躍も外せません。本編ではデスティニープランを象徴するような機体で、かつシンがこれに乗ってる時はメンタルがずっと最悪で活躍がかなり限られた不遇の主役機でした。そんなんなので良い思い出ないしシンは乗らないんじゃと思ってたんですけど、そんな文脈をぶった切って、かつてないほどの活躍を見せてくれたんですよね。長距離ビーム砲にアロンダイトパルマフィオキーナに、本編で印象的だった(でもなかなか決まらなかった)武装をフルで活用し、そのうえでブラックナイトスコード四人を無傷でボコボコにしてたのが超かっこよかったです。

 「前はジャスティスだったから負けたんだ!」「デスティニーなら、お前らなんかに!」という台詞も、シンの機体への信頼と変わらぬアスランへの反骨精神を象徴しているようでニヤついてしまいました。あんまり絡みなくとも、こういうところで関係性を見せてくれるのが好き。

 こうやって振り返って見ると、ちょいちょい書いたようにツッコミどころも満載なんですよね、MSの出番周りも。それでも盛り上がりに飲み込まれることができたのは、先述のようなファンサービスの密度があってこそ。機体の搭乗だけでなく、デスティニー・インパルス・ゲルググが出撃する際に『出撃! インパルス』のアレンジが流れたり(ほんとに好きなんだあの劇伴、あと曲名見たら『出撃! デスティニー』で泣いた)、マイティーストライクフリーダム完成時に『Meteor -ミーティア-』が完璧なタイミングで流れたり、音楽面も終始完璧でした。

 

シン・アスカに対するモヤモヤと満足

 デスティニーガンダム続きで書くんですけど、『DESTINY』のラストシーンの最悪さの印象から一番不安だったシンの扱いも、観ている間ずっと釘付けになってしまいました。

 まず何が良かったって、今作のシンは皆に可愛がられる後輩としての立場が強調されているんですね。一人で戦うキラに「オレ信頼されてないのかな……」とぼやき、自分がディスられてるとも知らずアグネスとルナマリアの会話に「何の話?」と割り込み(立食パーティーの食事で皿一杯に盛ってるのがかわいい)、後半初めてキラに信頼でもって戦闘を託されて大喜びし(アスランにもヒルダにもルナマリアにもメイリンにすら微笑ましく見られているのが立場を表しているなあと)、ムウと「おっさん!」「おっさんじゃない!」というやりとりを交わす。もうこれは、シンをずっと好きだった身としては喜ぶしかない。シンがかわいいのは俺もわかってたので。

 

 ただ正直に言うと、デスティニーに乗り込むくらいまでは、喜びつつも少し物足りない、複雑な気持ちでシンを見守ってたんですね。何故かって、今作のシンは、テーマや物語の本筋に関わっているわけじゃない。キラとラクス以外の味方は基本そうなんだけど、あくまで頼りになる仲間達の一人のような扱いで、ドラマというドラマも展開されない。

 あと、僕がシンを好きになったのは、本当の優しくかわいい少年としての性格が、悲しみと怒りによって刺々しく突っ張ってしまうところだったのもモヤモヤの理由でした。その矛先が前作主人公達にも遠慮なく向けられるからこそ、僕はシンの言動に鮮烈さを覚えた。そんなシンが前大戦のことをあまり引きずらずコンパスの面々にかわいがられているのは、成長かもしれないけど、僕の最初の「好き」とは異なるものでした(今更だけどキモい言い回しだな……)。なんというか、マスコット化したような印象を受けてしまったんですね。

 僕が『DESTINY』ラストで一番許せなかった、シンが結局は他者の正義を無批判で受け入れる過ちを繰り返してるという点も、変わらないどころか加速してるし。前はデュランダルとレイの正義を代行してたのが、今もその先がキラに変わっただけに見えちゃうし。

 

 しかし、その先で描かれたシーンで、僕のそんなモヤモヤは綺麗さっぱり晴れてしまいました。具体的には、相手どっている四人のアコード達が能力でもってシンを惑わそうとする場面。シンの精神に干渉した(「闇に墜ちろ!」)彼らは、シンの心の中でステラの姿を見る。ステラはシンを守ろうと怪物に姿を変えてアコード達を恐怖させ、それを受けた彼らは思わず「こいつの闇は深すぎる……!」と漏らす。

 描き方はギャグみたいなんですけど(正直ここでふざける意味はないのでこれに関しては普通にモヤモヤはしてますがそれはそれとして)、アコード達の台詞の通り、この場面ではシンの心の闇が直球で描かれているんですよ。すっかり更生してかわいいだけの後輩のようになっていたシンだけど、その心の中にはまだ、ステラを失った悲しみと怒りが残っている。それはきっと、マユも両親も、レイも同様に。その事実をぼかしながらも描いてくれたのが、シンにちゃんと向き合ってくれてるように感じて、本当に嬉しかった。

 

Meteor -ミーティア-

Meteor -ミーティア-

 そして、シンが同じ過ちを繰り返してる問題も、今作終盤において少しだけ解決を見る。『DESTINY』ではふわふわした言葉で否定されていた「運命」が、「愛」によって再び、より明確に否定される。これってつまり、作中の「正しさ」が「愛」という具体性を得たということで、「運命」を背負ってきたシンへの視線にも変化が訪れるって意味なんです。

 かなり無理矢理な納得のさせ方だけど、「悲しみを残しながらも、自分を愛してくれる皆と一緒に人生エンジョイしてるシンもちゃんとテーマを体現してることになるのでは……?」と、そう思えてくる。ルナマリアがシンへの想いをアグネスに当然のように告げたことや、ラストシーンにおいてかつて望まぬまま守ることになってしまったレクイエムを自分の手で破壊し今度はオーブを守れたことで、その解釈の余地はどんどんと大きくなる。確かに他者の正義に従ってしまっている側面はあるかもしれないけど、少なくとも『DESTINY』と違ってシンが「守りたい」と望んでいるもののために戦えているということが重要なのではないかと、そう思えてくる。

 ものすごくめんどくさくて遠回りなロジックなんですが、そう考えたうえで二回目の視聴に臨んだところ、序盤でアグネスにデュランダル議長の手駒となっていたことを指摘され曇る場面があったことを思い出しました。自分が勝手にモヤってただけで、『FREEDOM』はシンをマスコットになんてしていなかった。ちゃんとシンに向き合ったうえで、前向きに仲間と頑張ろうとするシンの姿を描いていたのだと、そう気づけました。だからこそ、最高潮でデスティニーに乗って無双するシーンに、心の底からノれたんです。

(先ほど『Meteor -ミーティア-』の話もしましたが、そのサビの部分にシンの活躍が当てられてたのもめちゃくちゃ良かったです。物語の主題ではあったけどもそれ故にまともな活躍が少なかった彼が、挿入歌に合わせてヒロイックに活躍する光景が見られるなんて……)

 

キラ・ヤマトというキャラクターについて

 本作の滅茶苦茶を許せた一番大きな理由は、彼の本音がやっと聞けたからなんだと思います。最後に、それについて語って終わろうかなと。

 どのシーンのことかというと、物語の中盤、一度敗北したキラが弱音を漏らし、アスランと殴り合いになる場面。シリアスな雰囲気で滅茶苦茶な話をやっているのに不安を覚えた前半と、物語の本懐を明かすと同時に自棄のようにファンサービスをふりまき始めて混乱した後半の、ちょうど転換点になるタイミング。そこでキラは、ファウンデーションに立ち向かわんとする仲間達とは対照的に、「どうせ無駄だよ」と後ろ向きな言葉を零す。さらにはアスランの激昂に反論する中で、「ラクスは僕を捨てた!」なんて子どもみたいな泣き言を、「しょうがないじゃないか、君達が弱いから!」なんて横柄な物言いを、仲間の皆にぶつけてしまう。

 

 『SEED』終盤、特に『DESTINY』でのキラは、心に傷を負いながらも戦うことを選んだこと、また圧倒的な力をそのために手に入れたことで、どこか人間離れした振る舞いに見えることがありました。『DESTINY』の最後では世界まで背負ってしまって、表面だけ見れば、もう悟ってしまったのかとすら思うほど。

 でも当然、そんなことはないんです。キラはただ大切な人が傷つくのが嫌で、黙って見ているのが嫌で、苦しみながらも自分のできることをしようとしていただけ。本質は『SEED』の頃から何も変わっていない、戦いが嫌いで、でも大切な者を守りたい、普通の青年がキラ・ヤマトなんだと。そんな彼が一人で抱え込んで、終わらない争いに疲弊して、ラクスには伝えたい言葉も言えずに離れ離れになってしまって、その末に出たのが、「しょうがないじゃないか、君達が弱いから!」なんです。これほどに傲慢で、愚かしくて、独りよがりな言葉を、キラはまだ秘めていた。持っていてくれた。

 

 その事実で、それを描いてくれたことで、やっと自分の中でSEEDシリーズ最後の一ピースがハマったように感じました。「正しさ」を描くための道具ではない、一人のキャラクターとして尊重されたキラが、やっと見られたと感じました。

 正直に言うと、キラの話をするならフレイにも言及してくれとか、そんな未練も少しはある。偏った視点からの不満は、どうしても出てしまう。

 でもやっぱり、こんな真摯な姿勢には文句は言えない。ここから一気にファンサービスとテーマの補完と共に物語を繰り出されたら、勢いに任せたの無茶苦茶さも、細かい不満も、全てに目をつむってしまう。

 最初にアコード達の設定や作劇はあまりに恣意的に過ぎるという感想を書きましたが、同時に『FREEDOM』は、20年間育ててきたキャラクターに対しては、とことん誠実に向き合っていました。キラも、シンも、アスランも、カガリラクスも。

 そのことに、やっぱり改めてお礼を言いたいです。ありがとうございました。最後までなんだかんだ言ったけど、やっぱりSEEDシリーズ大好きです……。

 

 

 

 

 

 というわけで、『FREEDOM』感想でした。書きたいことは大体書き尽くしたので、この辺で筆を置こうと思います。書いている内に盛り上がり過ぎていつにもましてキモいノリの文章になってしまいましたが、最後まで読んだくださりありがとうございます。二部構成的な書き方なのに最終的な文言がどちらも感謝の言葉になってしまったのは、それだけ僕が今作を楽しめたということの証なんだと思います。心の底から楽しめたし、心の底から感謝が湧き上がってきた。だから、何の憂いもなく、SEEDシリーズとお別れできます。

 買っててよかった、デスティニーのHGCE。

 

 

 

 

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