石動のブログ

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『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』への恨みを漫画版『THE EDGE』が解呪してくれた話

sasa3655.hatenablog.com

 どうも、石動です。

 上のポストで『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』への恨み節を書き連ねてから、約一ヶ月ちょっと。自分としては、とんでもない文字数で思いを吐き出していく中で、自分の中での『DESTINY』の認識・立ち位置は一応確認できたつもりで。だから、恐らくは劇場版の公開まではブログでは話題にすることはないだろうと思っていたんですね。

 いたんですが、『DESTINY』という作品、やたらにコミカライズが好評で。ひとつがテレビ版と同時並行で展開した、同じくシンを主人公とした(その「主人公」の意味が大分異なるみたいですが……)所謂「高山版」。そしてもうひとつが、このブログで取り上げる、テレビ版の物語を別の視点から描いていく『THE EDGE』。

 本当に、『DESTINY』についての記事や感想を目にする度におすすめされてるので、読んでる中で段々と気になってきてしまったんですよね。しかも、『THE EDGE』の方は電子化されているのもあってか、中古という条件に限れば入手はできそうでしま(一方、高山版は絶版かつ電子版がなく中古での値段が高騰していた……ちなみに『THE EDGE』も紙の新品は見当たらなかった……できれば新品の紙で欲しかった……)。これは買うしかねえと『THE EDGE』の全4巻セットと、そのさらなる番外編集『Desire』2巻セットをポチッて読んだのですが……。

 

 

 

 

 

 いや、そのですね。

 ほんっとうに、ですね。

 

 

 

 

 

 

 めっちゃくちゃ!!!! 良かった!!!!!

   ので!!! 語ります!!!!!

 

 

 

(以下、『DESTINY』漫画版『THE EDGE』について語っていきます。雑な導入ですみません……感謝の気持ちが大きすぎていつもの形式で語るとずっと導入みたいなテンションになってしまうので、今回はトピック毎に分けてみました……よろしくお願いします。

あと追記ですが、12月26日から順次新装版が発売するらしいのでちゃんと買います! 嬉しい!!)

 

 

 

アスラン視点による物語の整理と心情の補完

 まず大前提として、『THE EDGE』は番外編集『Desire』や巻末の挿話を除き、全てのシーンがアスランの視点で展開されていくんですよね。それによって 「アスランの心情描写が増加する」「アスランの知らないところで起こった出来事はカットされる」という変化が起こるのですが、その両者が物語にものすごーく良い方向にはたらいてる。

 前者に関しては当然と言えば当然なんですけど、漫画という媒体を活かしてアスランの心情が非常に細やかに描かれている。カガリを大切に思う心、シンにかつての自分達の姿を重ねて心配する気持ち、しかしそれらを持つが故に決断や行動を焦り衝突を引き起こしてしまう不器用さと、とにかくアスラン・ザラというキャラクターの理解度と描写の丁寧さが凄まじいんですよね。曖昧な描写故にテレビ版では意図がつかみにくかった行動の理由も、独自に描写を追加し受け取り方を限定することでわかりやすくなっていて、アスランの物語としてとっても満足度が高い。

 

 で、一方で後者はどういうこと? 「アスランの知らないところで起こった出来事はカットされる」のが良い方向にはたらくの? と思われそうですが、意外なことに本当にそうなってるんですよ。

 何故かって、まずもって、実はテレビ版から『DESTINY』の視点はアスランにあることが多かった。1クール目なんかはそれが特に顕著で、アスランの視点を介することで新主人公のシンの鮮烈さを印象づけていた。だからなのか、アスラン視点のみに情報をシャットダウンすることで、むしろ作り手の意図が伝わりやすくなってる部分がいくつかあるんですよね、『DESTINY』。そこに作者の久織ちまき先生の巧みな描写と補完が合わさることで、テレビ版が意図していたことが、より短い尺ながら十二分に表現されている。

 

機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE(3) (角川コミックス・エース)

 その最たる例が作中における善悪の構図の流れで。『DESTINY』には、「明らかな完全悪である地球連合・ロゴスと、それを倒すために戦いを始めたザフト」「しかし、その裏で本当に手を引いていたのはザフトのデュラダル議長だった」という構図があるんですけど、テレビ版ではシン・キラ・アスランの三視点での出来事を平等に描いていたこと、「正しい」側にいたキラ達の描写にキレがなかったことで、その把握・納得が無駄に難しくなってしまっていたんですね。

 しかしそれをアスラン視点にまとめると、「ユニウスセブン以降の出来事でデュランダルを信頼し、ザフトに復隊する」→「ザフトの指令に従って各地で地球連合と戦う」→「そこにかつての戦友の乗ったアークエンジェルが乱入、加えてキラの口からコーディネイター部隊によってラクスの命が狙われたことが明かされ、そこからデュランダルへの疑念を募らせていく」→「エンジェルダウン作戦後のデュランダルの『役割』への考え方、暗殺されそうになった事実から彼の目的を知り、完全に決裂する」という順になる。

 これが物凄くわかりやすい「あからさまに悪いやつ(ロゴス)がいるけど、その裏にはさらなる黒幕(デュランダル)がいた」構図の提示で、初めて読んだ時ちょっと感動しちゃって。アスラン視点だと、感情の側面からもこんなにすっと入ってくるんだなと。テレビ版、まあキラ達が「正しい」ということなんだろうけど、納得がいかない……みたいな状態だったので。

 

 他にも、テレビ版ではシンの敗北でもってその反証とした「運命」「役割」のテーマに関しても、アスラン視点だからこそのアプローチでしっかり描かれている。純粋に平和を願い、皆の力になりたいと思っていただけのミーアは、「ラクス・クライン」という役割を議長に与えられたことでそれに固執するようになってしまい、ついにはラクスを「偽物」だと叫び撃とうとするまでに歪んでしまった。デスティニープランによる平和を実現する「力」という役割に従って、自らのオーブへの思いもアスランと戦うことへの葛藤も全て否定したシンは、精神を摩耗させ、最後には仲間であり恋人であるはずのルナマリアに刃を向けてしまった。

 その姿を、深く関わったアスランの視点から描き、最後にデュランダルへ「戦士だとか…誰かの代わりだとか…目をふさいで役割を与えるばかりで…!」「彼らの心がきしみ叫んでいたことを、あなたは知っていたのか!?」とぶつけることで、「運命」「役割」への反証とする。とにもかくにも、作品のあらゆる要素に対して、「アスラン視点」という大前提を有効に使って描写を行っていく作品が『THE EDGE』なんですね。執念さえ感じられるほどの徹底ぶり。

 

 

テレビ版のツッコミどころへの言及

 そしてその執念は、この特徴にも表れていました。

 テレビ版のブログの方でも一部書いたのですが、『DESTINY』という作品はちょっと多すぎるくらいのツッコミどころを持っていると思っていて。しかも単なる整合性に関するツッコミどころじゃなくて、作中における「正しさ」を担うアークエンジェル勢についてのツッコミどころ。「ヒロイックな立ち位置にいるけど、これは普通に良くないのでは?? 意図した描写ならいいんだけど、でも作中の誰もが当たり前のように受け止めてるからただの歪みになってるよ??」……そういう形のツッコミどころ。見ていて疑問符を浮かべざるを得ないそれらに対して、『THE EDGE』は明らかに自覚的にフォローを行っていく。

 例えば、アークエンジェル勢によるデスティニープランへの明確で的確な反論。例えば、シンから受け取ったステラを戦場に送り死なせてしまったことへのネオ(ムウ)の後悔。例えば、ロゴスのプラントの破壊という非道に対するアークエンジェル勢への反応(今作のアークエンジェル勢、プラントが破壊されたことにちゃんと怯え動揺してくれるんですよ……何言ってるかわからないと思うけど、テレビ版は何故かそれを見てみんな平気な顔で、かつヒロイックな演出で、「デュランダルのデスティニープランを止めるぞ!」って展開になるんですよ……「まずロゴス倒すぞ!」ですらなく……デュランダルの計画のうちと知っていたとしてもそうはならんて……そこが変わってたのが本当に良かった……)。それら全てに、最低限の回答や改変でもって違和感をなくしていく。

 自分の中では、カガリが自分の父親がとんでも兵器であるアカツキを残していたことへの感情の描写が一番印象に残りました。

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE Desire』 Desire : 2「獅子の娘」より

 テレビ版から『この扉開かれる日の来ぬことを切に願う』はあったので、心から望む形ではなく、もしまた"力"が必要になってしまった時のためにアカツキという兵器が残されたというのはなんとなく理解できたのですが、それを受け止めるカガリの心情はあまり深掘りされていなかった。その結果、カガリが心の底から感動してアカツキという"力"を手にしたように見えて、僕は「アークエンジェル勢にだけ”力”の描写が甘くないか…?」と感じてしまっていたのですが、『THE EDGE』はより深く彼女の内面に踏み込んでいく。

「…流れ込んでくる」

「これを残した…いや、残さなければならなかった、お父様の想い…すべてが」

 誰よりもオーブの平和を願っていた父が「残さなければならなかった」力。黄金に光り輝くカラーリングとは裏腹の国家元首としての苦悩を、カガリアカツキの中に見る。見たうえで、それでも国を守るためにはと、「お父様は信じて託してくれたのだ」と、自分の手でその力をとる。

 未熟だったカガリが、かつての父に並んだこと。そこに残されていた葛藤と信頼に涙を流したこと。それらを踏み越えて、国家元首として先陣を切ると決意したこと。

 テレビ版がこの展開で表現したかったものが、よりダイレクトに、わかりやすく描かれる。かつては理解し切れなかったそのメッセージに、それが何よりも純粋な形で描き出されたことに、感動してしまったんですよね。不満があったからこそ、そこを自覚して越えてきてくれたことに胸を打たれた。

 

 『THE EDGE』が素晴らしいのは、あくまでテレビ版の意図を尊重し向き合ったうえで、 よりわかりやすく明確な形に補完・改変を行っていること。先述のアスランの心情やデスティニープラン周りもそうなんですが、テレビ版を否定してオリジナルの物語を紡ぐのではなく、テレビ版の要素を魅せるために多くの工夫がなされている。『THE EDGE』は、「テレビ版より漫画版の方がよくできていて面白い!」ではなく、「そうか……テレビ版のあれはこういう意図で……『DESTINY』はこういう話だったのか……」という感慨を与えてくれる。勿論あくまでひとつの受け取り方に過ぎない(4巻辺りのあとがきにもそう書かれている)けど、それでもとても真摯に原作によりそった描き方になっている。

 「読むことで原作の理解度が高まる」「理解度が高まったことで、作品全体をより好きになれる」。そういう意味で『THE EDGE』はとても正しくコミカライズしてると、僕はそう思うわけです。

 

 

 

シン・アスカという人間への手厚すぎる描写

 ただ一方で、「原作の意図を補完と改変で明確にする」以上のものを感じる部分もあるんですよね。むしろ良い意味で、「ここまでのもので魅せてくるのか〜!」となるような例外が、『THE EDGE』には存在する。

 それが、シン・アスカというキャラクターの心情描写。『THE EDGE』では、最後にアスランの前に立ちはだかる(MS戦の)ラスボスとして、テレビ版における主人公として、シンにもアスランと同じくらい丁寧な描写がされているんですね。というか、僕がシンを好きすぎて視点が偏ってるのもあって、なんならアスランよりも凄まじい熱量が筆に迸ってるように見える。

 その熱さは彼の描写の全てに見られるくらいなのですが、やはり全体を通して行われる自分の「力」に絶望していく描写が、テレビ版の域を超えたレベルにあるように、最も熱が迸ってるように見えました。

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE』 PHASE : 20「─未来─ TOMORROW」より

「俺だって!! 守りたかったさ、俺の"力"で、すべてを!」

「だけど…俺が撃ってるのは敵じゃないって、撃つのは奪うことだって…"力"で解決できることなんて何もないって!! アンタが俺に言い続けてきたんじゃないか!!」

「できるようになったのは、こんなことばかりだ…っ!」

 シンは、アスランが投げかけた「”力”を手にした時から、今度は自分が誰かを泣かす者となる」「ただ闇雲に”力”を振るえばそれはただの破壊者だ」という忠告を覚えていた。覚えていたからこそ、自分に出来るのは自分と同じ人間を撃つことだけだという結論に、全てを救う平和は自分では成せないという事実に絶望し、デスティニープランを実現させるための”力”という他者に与えられた「役割」に傾倒してしまっていたのだ。その絶望の背景には、自分の手にした力ではステラを救えなかったことが、アスランとぶつかるばかりで正面から話し合えないまま一度手にかけてしまったことが、大きく後を引いているのだろう。

(『Desire』の描写を含めると、アスランからの忠告に裏切り者の撃墜とオーブへの侵攻が重なった結果、「撃とうとする敵もまた人間だ」「でも戦う以外に平和のための選択肢はない」「たとえ敵を撃ちたくなくても、全てを選べないなら戦うしかない」と自らの感情を押し殺し自分を無理やり納得させたと捉えられる。テレビ本編では曖昧な描写なせいでいまいちラインが繋がらなかった、シンとアスランの間で交わされた「”撃つ”ことの意味」に注目した展開)

 僕は、「シンがアスランに助けを求めることが出来なかった」ことや先述のシンの心情の変化の流れはともかく、最終的な着地点である「アスランの不器用な言葉がシンを絶望させていた」はテレビ版の意図の提示を超えた、濃度の高い「解釈」に近いと思う(テレビ版の描写の曖昧さを鮮明にしたと考えても、やはりここだけ先述の「テレビ版の意図を分かりやすく提示する」のラインを超えていたと感じた)んですよね。思うんですけど、 同時にその解釈はどこまでもシンというキャラクターに、彼のアスランとの関係に向き合った結果だとも感じていて。

 加えて『THE EDGE』では、アスランが「力で撃った誰かもまた自分と同じ人間なのだ」とシンに投げかける場面が原作から露骨に増量してるんですよね。確実に意図したうえで、読者にアスランがシンに”撃つ”による解決の無意味さと恐ろしさを説いていたことを印象づけてる。

 それにより、アスランとの最終決戦にてシンが「撃つことで解決できることなんて、本当はひとつもない」という言葉に絶望していた事実が明らかになる場面で、読んでる側には衝撃と納得が同時に訪れる。テレビ版で明確に示されたものではないけれど、その告白に唐突さを感じることは全くない。むしろ、丁寧に前フリされ、クライマックスで爆発する見せ場として、物語を彩っている。

 そんな、何よりも真摯な解釈と、それを強引に突っ込むのではなく、物語の一要素に昇華する創作的な技巧が合わさっているからこそ、ラインを越えていても自分の中で違和感より納得が先行したんだと思います。

(シンが「力がなきゃ自分すら守れない」と子どもに銃の使い方を教えていたのを、ステラの死の直前には「子どもに銃なんか持たせちゃいけませんよね」「俺達で、戦争を終わらせるんですよね」と自分の力で平和を作ると考え方を変化させていた(それがあるからこそ自分ではステラを救えなかった絶望が際立ち、また誰かの代わりに戦うという構図への前フリにもなっている)描写も入れていたし、とにかく創作が上手いんですよね……)

 

 

ありがとうございます(土下座)

 で!!! それで!! それでですよ!!! なんか急に本文も見出しもノリがおかしくなったなと思われるでしょうが!!! あまり気にしないでいただいて!!!

 ここまで『THE EDGE』の好きなところ、感動したところを語ってきて!!! その中で何度も「特に」「一番」と強調を用いたんですけど!!!!

 ぶっちぎりで好きな場面を!!! 語ります!!! 先ほど紹介した、ライン越えしてるけどその真摯さと丁寧さによって納得せざるをえない、原作にはないシーン・解釈の一つとして!!! 『THE EDGE』の!!!! 最後の場面のひとつを!!!!! デスティニープランが終焉を迎え、レイとタリアとデュランダルが炎の中に消え、戦場を離脱したアスランがボロボロのシンに手を差し伸べる、そして……!!!!!

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE』 PHASE : 20「─未来─ TOMORROW」より

「…ひとりで立てます」

 ひとりで、たてます……

 ひとりで、立てます……!!!

 

 そうだ、それが欲しかったんだ! 『DESTINY』ブログでも書いたけど、シンは自分自身の足で立ち上がらなくちゃいけないんだ!! テレビ版でも漫画版でも、彼は他者に与えられた「役割」「正義」を演じてしまったから!! だから、今度こそ自分で望むものを、貫く正義を、実現したい未来を見つけなくちゃいけないんだ!!! ここで誰かに示された正義や未来に着いていくなんて、そんなことあっちゃいけないんだ!!! キラだろうがアスランだろうがデュランダルだろうが関係ないんだ!!! 自分自身の手で、未来を探して、掴む!!! それこそ、それだけが重要なんだから!!!!

 一見、またアスランと手を取り合えていない意味で同じ過ちを繰り返してるようにも見えるけど!!!! やっぱりそこは違うんだよ!!!! シンとアスランがすれ違い続けたのは、手を取り合えなかった以上に、お互いに本音でぶつかり合えなかったからなんだから!!!! シンとアスランは既に最終決戦で真正面からぶつかっていて、だからもう二人の間に壁はないのだから!!!! そんなシンが、言う、言葉は!!!!

 

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE』 PHASE : 20「─未来─ TOMORROW」より

 ひとりで!!! 立てます!!! アスランの手をとらずに!!!! 差し伸べた手を跳ね除けて!!!!立てるって!!!! シン!!!!! 『THE EDGE』!!!!!ありがとう!!!!!!

 

 

 

機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE(4) (角川コミックス・エース)

 ……テレビ版の放送とこちらの連載の時系列はよくわかってないので、別にちまき先生はそういう意図ではなかったのかもしれないし、この後にFINAL-PLUSの追加シーンがあるのかもしれません。でも、それでも、自分の解釈に近いものを見せてくれたことが、本当に嬉しかった。

 シンの敗北でもって、「役割」を演じることの愚かさを、デスティニープランの欠陥を示すという試み。それ自体には納得していたからこそ、FINAL-PLUSでシンがキラの下にくだってしまったことに納得がいっていなかった。どれだけ頭を捻っても、他の解釈をひねり出そうとしても、キラの言葉に感謝し感動し感涙し、その手を握るシンの姿は、デュランダルの操り人形になってしまっていた時と同じ過ちを繰り返しているようにしか見えなかった。シンは自分自身で「正義」と「未来」を見つけなければならないはずだから、相手が誰であろうと、その「正義」を無批判で受け入れていいわけがないと思った。

 そんな、僕が『DESTINY』で一番納得いってなかった部分を、『THE EDGE』は「…ひとりで立てます」でもって解消してくれたんです。FINAL-PLUSを見届けたあの時からずっと心の中に残っていた呪いを、シンが自分自身の足で立ち上がる結末によって解呪してくれた。この台詞のおかげで、ずっと納得いってなかった結末に少しだけ折り合いが付けられるような気がして、自分の中の呪いを解いてくれた気がして、ただただありがとう……と。

(2024年3月11日追記:

実際に新装版では最終回の後にテレビ版のFINAL-PLUSにあたるエピソードがまんま追加されていましたが、シンが「…ひとりで立てます」をした後の和解なので、展開の納得度がダンチでした。シンがキラの手を取る時の表情がキリッとしてるのも良い改変。やっぱりシンが一度自分の足で立ち上がったって事実が大事なんすよ......「シンがキラの手をとった」のが問題なんじゃなくて、「終戦直後の未だ自分の正義を見つけ出せていないシンがキラの提案を無批判で受け入れる」ことが嫌だったので……個人的には追加されない方が嬉しかったけど.......)

 

 

 

 

 というわけで、以上、『THE EDGE』の感想でした。若干唐突ですが、一番語りたいことは語れたので、筆を置かせていただきます。

 今は素直に、『SEED』劇場版を楽しみに待てています。

 

 

 

もう一段階解呪されました

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