石動のブログ

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とある魔術の禁書目録20周年に寄せて 超個人的な禁書語り

 2024年4月10日。

 本日、ライトノベルとある魔術の禁書目録』(以下、「禁書」の略称を使用する)が開始から20周年を迎えた。

 

 禁書が一般的にどんな立ち位置の作品なのか、あらすじはどうか概要はどうか、恐らくこの記事を読んでくださっている方はもう既に知っているだろう。だから、いつもと違ってその説明は省くことにする。

 では、僕は今から何を書こうとしているのか。

 それら問いへの答えはひとつ。「僕の、禁書についての超個人的な思い出を語る」。あくまで僕の思い出を、書く。作品の内容だけじゃなく、時には僕自身の現実の話だってする。いつものは何とか「感想」の体に留めているけど、今回のに関しては完全に自分語りだ。自分の、禁書にまつわる思い出語り。

 だが、そんな超個人的な内容になってしまうのも、ある意味では仕方がないと思う。僕にとって、禁書は人生……そのもの、とは言えないけども。少なくとも、これまで漫然と生きてきた中で決して忘れられないほどの記憶を、無視できないほどの影響を与えられた、そんな作品なのだから。

 

「────心に、じゃないですか?」

 と、なんだか大仰に始まってしまったけど、僕は禁書が開始してからずっとファンだったわけではない。というか、旧約1巻の刊行時にはまだほとんど赤ん坊だ。

僕が禁書に出会ったのは8年前ほどのこと。調べてみると、新約最初の長編「オティヌス編」が終わりを迎えるくらいの頃に、中学校の図書館で、僕は禁書に初めて触れた。

 当時の僕は、学校図書館で本を借りては読むという生活をずっと続けていた。しかも借りた本の内容は、純文学でもハードカバーでもない。ライトノベルに限って、図書館に置いてあったライトノベルを片っ端から、僕は読みまくっていた。一日二冊ほどのペースで。

 なんでそんなことしてたのかと言われると、正直に言ってしまうとわからない。元々小学生の頃から本は好きで、その中でも青い鳥文庫角川つばさ文庫などの児童文学を読むのが好きだった。昔や今がどうかはわからないが、僕が熱心に読んでいた頃の児童文学の新作にはライトノベルっぽい、アニメ的なイラストやキャラクターや設定に比重を置かれた作品(怪盗レッド、妖界ナビ・ルナなど、これもまた青春のバイブル)が比較的多かったように感じる。もしかしたら、その延長線上に本場(?)のライトノベルがあったのかもしれない。あと恐らく、その時のクラスの人気者がアニメ好きで、その原作のライトノベルなんかも好んで読んでいたのにも影響を受けたのだろう。

 ともかく、僕は自由時間のほとんどを費やしてライトノベルを読み漁っていた。朝の読書も休み時間も部活から帰ったあとも、ずっと読んでいた。最初は、そのクラスの人気者が読んでいた『アクセル・ワールド』から。次に、同作者の『ソードアート・オンライン』を。そして三番目に手を出したのが、他でもない禁書だった。

 

とある魔術の禁書目録 (電撃文庫)

 最初に旧約1巻を読み終えた時の衝撃は、今でも覚えている。禁書もクラスの人気者に勧められて呼んだのだが、その頃の僕は結末を早く知りたいあまり小説の最後の方のページを読む前や読んでる途中にチラ見してしまう悪癖があった。その悪癖を旧約1巻にも例外なく適用した結果、終盤のはいむらきよたか(旧約1巻の頃は「灰村 キヨタカ」)先生絵の見開きと、「上条当麻は『死んだ』。」という衝撃的な一文だけ、事前に知ってしまっていた。

 にも関わらず旧約1巻の物語は、結末を知ってしまっている僕をそうとは思えないほどグイグイと引き込んでいった。学生達を超能力者に養成する巨大な学園都市。その最中で跋扈する、科学とは異なる体系を持った魔術師という存在。多くの秘密と闇を抱えた、白い修道服の少女。そして、彼女の影と笑顔に心を奪われた、我武者羅に手を伸ばし続けた、ある一人の無能力者の少年。

 

「───手を伸ばせば届くんだ、いい加減に始めようぜ、魔術師!」

 

 平凡な自分への失望と諦めを滲ませていた彼が、それらを振り切って迷いなくステイルに投げかけた言葉に、ヒーローになってインデックスを救ってやるという誓いに、心が震えた。自分が犠牲になるとわかっていながら歩を進めた覚悟に、頭を揺さぶられた。そして、『死んだ』の本当の意味を、今度はインデックスではなく上条さんが記憶を失ってしまったという結末を知り、想像を上回る衝撃を受けたのだ。

 なんて切ない結末なのかと、そう思った。それと同時に、優しい嘘でビターエンドを取り繕う透明な少年の姿を、美しいと感じてしまった。

 当時はただただ衝撃的で放心していたのだけど、今思うと、僕の創作に対する好みの一番深いところに禁書がかちっとハマったのが、その瞬間だったのだと思う。急に余談が挟まるのだが、僕はこれまでの人生の中で、『仮面ライダーオーズ』だったり、同時期に視聴していたDEEN版『Fate/stay night』だったり、喪失を伴いながらも前向きに日常へと回帰していく結末に脳を焼かれ続けていた。そこで培われた方向性、有り体に言ってしまうと創作作品の好みと完全一致し、僕の好みを決定づけたとどめの一撃が、旧約1巻だったのだ。

 

「傲慢だろうが何だろうが、お前自身が胸を張れるものを自分で選んでみろよ!!」

 そして一度魂をぶん殴られてからは、それはもう夢中になって禁書を読み進めた。旧約の前半の単巻完結、でありながらひとつひとつの密度が高く伏線もキャラクターの変化も世界観の構築も何もかもが詰まった良質なエピソード郡を、今思えば勿体ないほどの速度で読破していった。

 その次に現れるのが、旧約14巻以降の連続性の高い、所謂「神の右席編」と呼ばれるシリーズ。これまでの物語で丁寧に描かれた世界を土台に、巨大な組織どうしの戦いが描かれる。上条さん、そして一方通行、浜面仕上という彼に殴られてヒーローとなった第二・第三の主人公(友達に一通さんが主人公格になった辺りで「これからは三人体制でやってくからね」とネタバレされた時は主人公の上条さん・ヒロインのインデックス・サブ主人公の一通さんの三人体制だと思っていたので、SSで登場した浜面が旧約15巻でヒーローになった時は驚いた)は、自分の意思でもって、右の拳を握り戦場へと飛び込んでいった。

 その果てに、三主人公の中でも物語の核にいる上条さんは、自分がかつてインデックスについた嘘を、それを隠して彼女を救わんとする矛盾と向き合うことになる。旧約のラスボス、右方のフィアンマによって突きつけられたその問いに対して、上条さんは「守りたいから守る」のだという自らの願いを貫き、インデックスに真実を伝えたうえで帰ることを約束した。しかし、『神の力』が北極海接触し地球規模の危機を迎えるのを阻止するために単身要塞と共に突撃して姿をくらまし、そこで旧約の物語は幕を下ろすことになる。

 

 と、ここまで読んで、禁書を読んだことある方は何か疑問に思ったことはないだろうか。ストレートに言うと、原作で屈指の人気を誇る神の右席編の思い出語りがいくらなんでもスッキリし過ぎてないかと、思わなかっただろうか。

 少なくとも、僕が誰か他の人の禁書総括ブログを読んで、もし神の右席編についての記述がこれくらいの文量だけで終わったら、変とまでは言わないまでも「珍しいな」とは思う。だって、ほんとに神の右席編は完成度が高く、人気も高いシリーズなのだから。

 だからそんな自分の感覚に任せて疑問を仮設定して、これまた勝手にその問いに答えてしまうと、「あまり神の右席編に思い出がない」のだ。だから、あれほどの名エピソード郡なのに語りがあらすじだけでさらっと済んでしまったのだ。

 

とある魔術の禁書目録(20) (電撃文庫)

 勿論……というのもおかしいけども、つまらないとか面白くないとか思っているわけではない。神の右席編は、当然その前段階の学園都市編のエピソードも、どれも本当に面白く楽しく読んだ。今でも、それぞれの巻の好きなところなんていくらでも語れる。

 「2巻の透明な少年が上条当麻になるところ……」「9巻の倒れる直前の吹寄視点の上条さんの描写が良いよなあ」「13巻の木原数多、悪役として魅力的すぎる」「15巻の殺伐っぷり最高、浜面VS麦野はベストバウト」「17巻の上→イン過激描写やばい、あとウィリアム=オルフェル来る時の描写かっこよすぎ」「20巻の上条さんが一通さんと自分を重ね合わせながら打ち倒していく展開〜!」「白翼一通さん泣く」。いや、ほんとに。

 ただ思い出と言うと、初めて読んだ時の記憶を探ると、意外なほどに少ないのだ。思い出されるのは大抵二回目以降の記憶で、旧約1巻のような鮮烈な衝撃はどういうわけか見当たらない。今の自分としてはどれも大好きな巻なので甚だ疑問。ただ、色々考えると、たったひとつだけ思い当たる節があったりも。書いててひとつ思い出してきた。

 その「思い当たる節」について書くため、次の話を紹介しようと思う。

 

 今とは違って、中学生の僕には最低限のコミュニケーション力があった。だからそれなりに友達もいたわけなんだが、ある日その中の一人に、どういう流れだったかはわからないが、僕が禁書を読むよう勧めたのだ。学校の図書館で借りればすぐに読めるし、最初の方はそんなに分厚くもないしで、彼は比較的早く読んで感想を聞かせてくれた。

 だが、その内容というのが、「あまり面白くなかった」なんて、その、もう、許せないものだった。いやまあ感性なんて人によるし、今考えるとそんな長くないとはいえ友達の勧めてきた小説数冊を読んでくれただけで偉いなと思ったりもする。ただそれはそれとして、今よりもさらに若き日の僕は彼の感想に憤慨した。納得いかず、反射で理由まで聞いた。「同じパターンの繰り返しじゃん」。それが、彼が簡潔に述べた理由だった。

 いやー、厄介オタクなのと、その子とは後で色々あって割とちゃんと苦手になってしまったことから今書いても少しむむむとなってしまうのだが、しかし言いたいことはわからんでもない。というか、はっきり言ってしまうと「わかる」。禁書は同じパターンの繰り返しでつまらない。つまらないとは思わないけど、言ってること自体は、僕には結構わかってしまう。

 同じパターン。それはつまり、その巻のヒロインと上条さんが出会って、交流をして仲良くなって、でも悲劇的な設定がその娘にあることが明かされて、それに対して上条さんが立ち向かって、異なる正義を振りかざす敵役に説教で矛盾を突いて撃破して、最終的にはヒロインを救う、禁書の基本構造のことを指している。僕は大なり小なり、ほとんどのシリーズものはある程度同じパターンがあってそれを繰り返す(それがシリーズの魅力になっていく)と思っているのだが、その中でもかなり強く固定されたパターンが、禁書には存在する。

 全巻同じというわけでは全くなく、むしろ初期の4巻で早速例外がバンバン出てたりするし、大筋がパターンになってるだけでその中で描かれるキャラクターのドラマや心情描写は丁寧かつ新鮮なものなのだけれど、それでも作劇の要素を要素を分解すると、上記の流れのどれかには基本的に当てはまることが多いのは真実だ。かつての友人は、そんな禁書の性質が合わなかったのだろう。そして中学生の僕の場合も、そのパターンに少しだけの抵抗感があったことを覚えている。

 

 具体的に言ってしまうと、禁書を読み進めていく毎に、かつての僕は上条当麻というキャラクターが苦手になってしまっていったのだ。あれだけ旧約1巻の時は共感し胸を打たれた上条当麻というキャラクターに。その理由は、表面だけ見れば異常なまでにヒロインと出会い彼女達を見捨てることのないヒーロー性と、毎回の彼の敵役への所謂「説教」と、最終的なお約束の大勝利。それらの表面だけを見ると受けてしまう、「完璧超人」「人間らしくない」「物語の舞台装置としてのヒーロー」の印象。要するに僕の場合、禁書のパターンへの拒絶感が上条当麻という主人公への認識に現れていたのだろうと思う。拒絶感が積もりに積もって、上条さんを人間らしくない舞台装置としてのヒーローだと思い込んでしまっていた。

 そして、ここでさっきの話に戻るのだが、そんな主人公なんて物語のド中心にいる存在への苦手意識があったからこそ、初見時の僕は、神の右席編の内容に思い出と呼べるほどの記憶を持たなかったのではないだろうかと考えている。禁書を物凄い速度で読み進めていく中でいつしか上条さんへの認識が歪んでしまって、だからこそ彼の視点で確かに描かれたインデックスとの物語に、諦めず手を取りあって共に戦う「世界」の強さに、初見時は集中することができていなかった。だから、当時の思い出が、初見時の記憶がいまいち強く残っていないのだ。上条さんへの苦手意識に印象を持っていかれてしまって。

 ただ一方で、それとは逆に、僕は二回目以降の読破時の記憶に関しては思い出せてもいる。それはつまり、どこかのタイミングで上記のような不満、それをもたらしている大本の認識が変化したということだ。では一体いつ僕は、素直に旧約シリーズへの「好き」を認識し語ることが出来るようになったのだろうか。

 その答えとなるのが、旧約完結後に始まった新たなシリーズ、『新約 とある魔術の禁書目録』だ。同志をあまり見かけたことがないので言うのに少し慎重になってしまうのだが、僕にとって禁書と言えば新約だった。新約こそ、僕が本格的に禁書に熱中していくきっかけを作ってくれたシリーズなのである。

 

「だったら、俺がお前を助けてやる。世界の全てと戦ってでも!」

 僕が最初に禁書に出会ったのは中学校の図書館だったと書いた。そんな運命の場所であった図書館には、しかし禁書は新約のほんの序盤までしか蔵書がなかった。そこで僕は定期的に通っていた母方の実家、その駅に隣接している大きい図書館で禁書の続きを読むようになった。蔵書も多いとはいえ学校図書館とは利用者が段違いのところでの貸出なので、当然他の人に借りられていることも多発。そうして自然に、禁書を読むペースは落ちていった。

 ラノベを読み漁った三つ目のシリーズでそろそろマイブームが過ぎ去り始めていたこと、と言いながらも学校図書館では次のラノベシリーズとして『灼眼のシャナ』にどハマりしていたことから、旧約を読み始めた頃からは大きくモチベーションとペースを下げての読書だったことを覚えている。なんだかんだで読んではいたので、「面白い」という純然たる事実には気づいていたのだろう。ただ、先述の上条さんへの認識と読書状況の変化によって、旧約終盤に引き続き集中しての読書ではなかったことは想像に難くない。

 だがある日、そんな自分の禁書への態度が一変する。きっかけとなったのは、新約の最初の物語である「オティヌス編」も大詰めの、新約9巻。この巻で、僕は久々に悪癖をやらかしてしまった。「小説の最後を先に読んでしまう」やつ。さっきも言ったやつ。

 その悪癖の結果僕が目にしたのは、その前の巻まで完全にラスボスだったオティヌスを守らんと立ち上がる上条さんの姿。見開き絵まで描かれて、もうほんとに彼はオティヌスを助けるつもりらしい。なんだそれは。率直に言うと、その時の僕は腹を立てた。「今度は世界を壊したやつまで助けるっていうのか」「オティヌスまでヒロインにするつもりか」「その前に立ちはだかる、オティヌスを倒そうとするこれまでの仲間達のような存在に、また説教でもって勝利するのか」「どこまで優しくて、完璧超人で、都合のいいヒーローなんだよ」と。今思えば的外れで理不尽な怒りに駆られて、こうなったらそのまま読み切ってやろうと初めから文字に目を走らせた。そして、その内容に思いっきり顔面をぶん殴られた。

 以下に、過去のブログの文章を引用する。

 

オティヌスの圧倒的な力により「見方が変わった世界」で、あまりにもメタ的な、ある種の反則的な面から否定され、殺されていく上条さん。あまりにもボロボロで、だがそれでも立ち上がる彼に放たれる追いうち。その末にあった、彼のずっと内に秘められていた慟哭。それを知った瞬間に、読者は上条当麻というキャラクターを真の意味で理解することになる。

 

 ……そう。ご存知の通り、新約9巻は、そんな「完璧」に受け取られかねない上条当麻のヒーロー性を、とことんまで揺さぶっていく物語だった。オティヌスによって、世界ごと上条さんは否定されていく。何度も何度も何度も、果ては上条さんにとって一番大事なインデックスの笑顔さえもが、彼の心にヒビを入れる。それで一度心が折れて、それでも見つめ直して立ち上がって、今度は何度も何度も何度も立ち向かってオティヌスさえも理解して、その果てに、自分が本当に求めていたもの──「理解者」に思い至り世界を元に戻したオティヌスに、上条さんは「俺が助けてやる」と告げるのだ。その姿は決して舞台装置などではない。どこまでも揺さぶれた末に、見つめ直した末に、そのうえで彼自身の意思でオティヌスを守ると決めたのだ。

 この展開に、最後の上条さんの決断に、読み終えた時の僕はぶち上がってしまった。なんだこれは。すごいぞこれは。なんでこんなに熱いんだ。何でこんなに胸が熱くなるんだ。信じられないほどに。結果的な形だけ見ればいつものパターンで。最初に事の顛末だけ読んだ時は怒りさえ湧いたけど、でもその時の僕は立ち上がった上条さんの見開きにシビれていて、「それでこそ上条当麻だ」とまで思っていた。それってつまり、僕は上条さんが、禁書が好きだということなんじゃないのか。

 本当に、今でも鮮明に覚えている。ある夏の、土曜日の昼下がり。仕事や習い事で家族が出かけて、誰もいない部屋で新約9巻を読み終えたあの時。その瞬間こそが、僕の魂に『とある魔術の禁書目録』の名前が刻み込まれた、最初の瞬間だったのだと思う。これまで作劇への不満の矛先となっていた上条当麻というキャラクターを理解し、同時に自分が彼のヒーロー性に胸を躍らせているのを自覚して、初めて禁書を真の意味で楽しめるようになったのだ。

 

僕の中での禁書の面白さの定義

 以上の経験から、僕は自分の中で禁書の面白さをこう定義している。

 「真っ直ぐで胸アツなヒーロー活劇と、それを実際に展開する描写の徹底」。

 前者は言うまでもなく、先ほど述べた禁書の持つ強めのパターンのこと。一方で後者は、そのシリーズ・巻によって何が当てはまるかが大きく異なってくる。旧約の大半のエピソードでは、「実際に展開する描写の徹底」は、ドラマやキャラクターを描く筆致の精細さだった。丁寧に伏線を張り、世界観を構築し、キャラクターの心情を描き、それらを王道のエンタメに組み立てていく。それによって、繰り返される禁書のパターンが、根底にある独自の魅力が強く輝いていた。

 ただそれらの描写そのもの・創作そのものの丁寧なテクニック、「王道」をできるほどの完成度の高さを担保しているという事実については、中学生の僕には言語化できるほど理解出来ていなかった。だからこそ、僕はパターンを展開している構図を飲み込むことができずに不満を覚え、それを展開する主人公たる上条さんに苦手意識を持つようになってしまっていた。そこに異なったアプローチで大激突して来たのが、新約というシリーズだったのだ。

 新約9巻の例がわかりやすいように、新約における「それを実際に展開する描写の徹底」は、旧約では顧みられなかった「正しさ」「前提」を揺さぶり、改めて強度を確かめることで行われている。上条さんのやり方が場合によってはとんでもない悲劇をもたらすなんて、普段話している動機のさらに奥の奥にある人間的な本音が何かなんて、必ずしも掘り下げたり描いたりする必要はない。それでも、そこに自ら言及していく。時には王道のエンタメの範囲を出てしまうような展開すら行って、それでも作品内の「正しさ」を揺さぶっていく。

 そして、その揺さぶった末に、それでもそれは正しいと、様々な視点から考えたうえでそれでもこの道を進むのだと、新約は満を持して「真っ直ぐで胸アツなヒーロー活劇」を展開する。執拗なまでに強く揺さぶったからこそ、それでも叫ばれる「助けたい」という思いは、上条さんのヒーロー性は、何よりも輝かしく映る。

 まとめると、そんな揺さぶりからのパターン展開の極地、ある意味で極端すぎてむしろ「わかりやすい」形でもって禁書の面白さと自分が禁書の何を好きだったのかをわからせてくれたのが、新約9巻だったのである。2回目以降は、初回時に「面白い」だけで流していた新約序盤の揺さぶりからのパターン展開の描写、例えば「正義」の象徴のように扱われた後に本人が現れてる新約4巻の上条さんや、新約7巻の暴走する「ヒーロー」達への皮肉的な目線を見せながらも最終的には「守りたい」「救いたい」という思いは尊いはずだという結論を出す展開にも気づけたのだが、初見時に何よりも強く突き刺さってきたのがこの巻だった。

 

「言ったろ、もう終わりだ」

 これが本当にぶっ刺さりすぎて、新約9巻以降、僕は図書館にない場合は待つことが出来ずに新品、お金がない時は中古のものを購入して続きを読むようになっていった。正確に言うと、一度学校図書館にある旧約をちゃんと読み直してから続きを読み始めたのでそれなりに時間はかかったが、それでも熱量は冷めず、むしろ旧約を再読しちゃんと楽しめたことで禁書熱は高まっていた。

 そしてその熱は、続く「上里編」でさらに大きくなることになる。上里編では、鎌池和馬先生があとがきで『聖域』を破壊するという言葉で触れるほどまでに、新約における「揺さぶり」の特徴がパワーアップしていく。「命の危機に瀕したヒロインが周りにいて、善意から彼女を助けた結果慕われるようになる」という作品の構図そのものをメタり出した上里翔流という新たな「ヒーロー」。その在り方に嫌悪を覚える彼の心情の変化と、上里のスタンスと比較し相対化しながら自分自身の「繋がる」性質を理解する上条さん。巻を跨ぐ縦軸のドラマまでもを導入して行われた「揺さぶり」からのヒーロー活劇は大きな賛否両論を生んだが、新約9巻にわからされた僕にとっては終始納得と興奮しかないシリーズだった。

 

新約 とある魔術の禁書目録(22) リバース (電撃文庫)

 そして、上里編を読破した次、新約の締めくくりにして旧約最序盤から続いてきたアレイスター・クロウリーとの因縁に決着が着く「コロンゾン編」にて、僕はついに禁書の刊行に追いつくことになった。刊行に追いついたということは、これまでのように既存の巻を買ったり借りたりして一気に読む、物語の続きをすぐさま知るのはできなくなるということ。しかし、僕にとって続きを待つ時間は全く苦ではなかった。リアルタイムで作品を追いかけられる楽しみも勿論あったが、何よりも、コロンゾン編の物語が長年のファンへのご褒美のような内容だったのである。

 言わばコロンゾン編は、旧約と新約のハイブリッドのようなエピソード郡なのだ。旧約のような丁寧かつ真っ直ぐなエンタメ性と、新約のような大胆なまでの揺さぶりが同じ話の中に綺麗に同居している。その象徴が20巻と22巻リバースで、前者のイシス=デメーテルに取り込まれ攻撃を繰り返すオルソラと「対話」するという文脈ノりまくりの展開の果てに、「武器をとらず言葉だけで多くの人を救ってきた」オルソラの背景でぶん殴ってくる決着には、新旧禁書両者の熱が確かに宿っていたし、後者で「上条当麻」という存在そのものへの揺さぶりを乗り越えた上条さんがインデックスを取り戻し降り注ぐ羽を「右手で弾いた」ラストには、ただただ滂沱の涙を流していた。

 さらっとコロンゾン編をまとめたが、この辺りは刊行速度がそこまで高かったわけではないことも相まって、リアルタイムで追っている間に年月はどんどんと過ぎていっていた。それで年月が過ぎれば同じくらい色んなことが起きるわけで、かつてラノベばかりを読んでいた中学生もどうしようもなく進学だの受験だの青春だのを経験する羽目になっていた。中学校は卒業し、高校にも入学し、お互いに禁書好きという接点から初めての恋人ができ、演劇部に入部したと思ったら部長をやることになり……(ちなみに恋人とは一年前くらいに別れました、自分が悪いんだけど未だに少し悲しい)。

 こうして振り返るとそこそこ忙しかったけど、どんな時も禁書は好きだったし、その新刊の存在に勇気づけられてきた。先ほど演劇部の部長になったと書いたが、何度か脚本を担当することもあり、そこで自分が提出していた脚本には禁書の影響も受けたりしていた。具体的には、高校2年生の頃に書いた、ヒーローの仮面の裏を揺さぶって、でも最後にはヒーローとして再び戦う姿を描いた脚本は、どう見たって新約禁書のオマージュが入っていた。

   このブログに関してもそうだ。高校生で始めた月1未満のブログの更新。その中で度々禁書には触れて、先述したリバースについてはそれなりに語ったりもした。読み返すと今と考え方や捉え方が結構違う記述があり過去の自分と殴り合いになることもなはないけど、それでもその時は本気で禁書について書いていたんだと思う。そうして今、禁書20周年を理由にした自分語りなんてものを、相も変わらずブログに書いている。

 

 

 と、なんだかもう終わった作品の話をしてるような雰囲気が漂っているけど、『とある魔術の禁書目録』は全然終わってない。禁書の最新シリーズ、創約は現在絶賛刊行中、最新刊の10巻は本日発売だ。

 僕の肌感覚だと、新約で作風が変わって読むのをやめた人が多く、でも創約に切り替わってから読めてないという人もそこまでではないがちゃんといるというイメージがある。もしこれを読んでいるあなたの中に、純粋に自分に合わなかったという以外の理由、例えば新約で区切りがついて読む気がなくなってしまったという方がいたら、余計なお節介だとわかったうえで、「絶対読んだ方がいい!」と伝えさせてもらいたい。だって、禁書は今もこんなにも面白い。根底のヒーロー活劇はそのままに、尖りすぎてた(僕はそれが好き)新約よりも真っ直ぐに、けど旧約の二番煎じにならぬよう描写に工夫を凝らされた物語が、あなたを待っている。もし読んでる方でしたら握手です。同士。

 

 というわけで、最後は自分語りなのか創約おすすめブログなのかわからないまとめ方になってしまったが、ここで筆を置こうと思う。

 

 とある魔術の禁書目録、20周年おめでとうございます。