石動のブログ

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感想『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』 物語の結末は、俺が決める

 春映画。

 『スーパーヒーロー戦記』の情報を最初に目にした時、真っ先に頭に浮かんだ単語がそれだった。

 ニチアサで言う「春映画」とは、仮面ライダー生誕40周年記念作品として2011年に公開された『レッツゴー仮面ライダー』を始まりに、毎年春に公開された、歴代の仮面ライダースーパー戦隊が数多く登場する作品群(一応例外もある)を指す呼称だ。この説明だけ聞くと「長い歴史を持つシリーズのオールスター的作品!? すごい面白そう」とワクワクしてしまうのだが、しかしある程度ニチアサ作品に精通している人間のほとんどは理解できるであろう、「春映画」という言葉は常に不安や不信感といった、主によろしくないイメージを伴っている。

 その原因は当然、内容である。ひたすら作品をけなす文章が続くことになってしまうため詳細を述べるのは避けるが、シンプルに、ただ単純に、「つまらない」のだ。それに加えて、歴代のヒーローに対するリスペクトも欠けているような展開が多い。前者だけならともかく、後者は長年のニチアサ作品ファンとしてはなかなか大きいものがあった。僕個人としては、民衆がオーズドライバーを運んでいくシーンで少しうるっときてしまう『レッツゴー仮面ライダー』や、アクションや変身シーンがなかなか見ごたえがあるうえに『ファイズ』アフターとしてはそこそこいい線いってるように感じられる『仮面ライダー大戦』は好きな部類に入ったりするのだが、やはりひとつの作品として見つめると基本的には「よくできてる」とは言い難く、「春映画」という流れに悪いイメージがつくのも詮無い事だと思える。

 そんな「春映画」は、2017年に公開された『超スーパーヒーロー大戦』を最後に(一応、「春映画」の枠としては2018年の劇場版アマゾンズも入ってはいる)消滅した。「なくなったらなくなったで少し寂しいな」という想いがありつつも、桜の開花と共にニチアサファンが東映への信頼度を下げる恒例行事はなくなり、時間は過ぎていった。

 

 そして時は2021年。毎年夏にライダーと戦隊、個別の劇場版を公開していた所謂「夏映画」の枠で、仮面ライダーシリーズの放送開始50周年と、スーパー戦隊シリーズが45作目を迎えたことを記念して、仮面ライダースーパー戦隊の共演作品が公開されることが発表された。そのタイトルは『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』。最初の出された情報が少なかった時期は「現行の二作品だけの共演作品になるのでは?」という予想もあったのだが、予告やポスターが公開されていく度に、『スーパーヒーロー戦記』はニチアサファンが知っている「春映画」に近い様相を呈していった。

 登場する歴代のヒーロー達、またもや出番が多そうな電王勢、だだっ広い場所で一堂に会しわちゃわちゃと戦う戦闘シーンと、とにもかくにもあらゆる要素が「春映画」なのである。最初に『スーパーヒーロー戦記』の予告を目にした際、あまりの「春映画」濃度に胃もたれしたかのような気分になったことを思い出す。

 そんな僕の胸に次に去来した感情は、不安であった。不安とは、言うまでもなく作品の完成度に対する不安である。「またとんでもなくアレな作品を見ることになるのでは…?」という思いが、胸の中に充満していた。

 しかし一方で、正反対のベクトルを持つ感情もあった。作品の内容に対する期待だ。「春映画」の作品群はとても完成度が高いものだとは言えないが、「春映画」という枠から外れれば、最近の東映のオールスター作品は満足度が高いものが多い。『平成ジェネレーションズFOREVER』も『Over Quartzer』も、そしてそれらの映画の大本である『ジオウ』本編も、平成ライダーをそこそこ長い間楽しんできた僕にかけがいのない体験をもたらしてくれた。その他、比較的安定した出来の「夏映画」の時期に公開されるという事実も相まって、僕は意外と大きな期待を『スーパーヒーロー戦記』にかけながら、作品を観られる時を待っていた。

 

 そして、である。先日、ついに『スーパーヒーロー戦記』を観ることができた。公開からある程度間が空いてしまってはいるが、以下にネタバレありで感想を記していく。

 

 

 

スーパーヒーロー戦記

 まず、率直な感想を述べよう。良かった。とても良かった。全体の印象としては、その一言に尽きる。例年で言う「夏映画」の時期に公開された、仮面ライダーとスーパーヒーロー戦隊の記念作品。様々な側面を持つ今作であったが、その多くに真摯に向き合い、作品としての答えを提示できていたように思う。

 その最たるものが、中盤以降の「物語」というワードに焦点を置いた展開である。

 この物語の始まりは、「セイバーの世界のアガスティアベースを守護していたアスモデウスが反乱を起こし、仮面ライダースーパー戦隊の物語が記された禁書が解き放たれたことで、現実(セイバーの世界)と様々な物語の世界が混ざり合ってしまう」というものだったが、実は唯一現実だとされていたセイバーの世界ですらも、誰かに作られた物語のひとつでしかなかった。仮面ライダースーパー戦隊、両方の原作者、物語の「神」である若き頃の石ノ森章太郎少年に様々なヒーローの姿を見せて、彼の描きたいヒーロー像を揺さぶり、彼がヒーローを描かなくさせることでヒーロー達を物語世界から追い出す。それが敵の目的だったのだ。そしてその作戦は、見事に成功してしまう。

物語から消滅し、現実に戻った飛羽真が見たのは、当たり前の日常の中で、幸せそうに生きる仲間達の姿だった。世界の命運をかけて戦うことも、人を守るために命を散らすことも、仲間に刃を向けあうこともない。圧倒的な「現実」が、そこにはあった。

 まずここで、「なるほどこう来たか」と思った。物語の中のヒーロー達は、戦うことを強いられる。それは逃れられない運命であり、その運命を課しているのは作品を作っている作者そのものだ。何故、登場人物達は作者の描いた運命という戦いに身を投じる必要があるのだろう。この創作における矛盾は、この映画の序盤で飛羽真が小説家という職業について述べる台詞で示唆されており、それをメタ的な視点で見事に展開に昇華している。そして、この作品はさらに向こう側へと畳みかけていくのだ。

 現実の中で、飛羽真はヒーローとは異なった物語を描いている章太郎少年に出会う。彼がヒーローを描かなくなった理由。それは、正義だって悪になりうるということがわかってしまったからであった。暴力は悪いこと。それならば、平和のためとはいえ暴力をふるうヒーローも悪なのではないか。ならば、自分の描きたかった「ヒーロー」とは、一体全体なんなのか。

 正義と悪の同質性。しかし飛羽真は、それこそが章太郎少年が描きたいヒーロー像なのだと言う。正義にも、悪にもなる。そんな「人間」としてのヒーローを、その手で作っていけばいい。

 その言葉で自分の描くべきものを見つけた章太郎少年は、机の上で必死にペンを走らせ始める。それと同時に、飛羽真も横に並んで物語を書く。確かに、物語を作っていくのは物語の世界における「神」たる作者だ。だからといって、登場人物である飛羽真もその命令のままに動くわけじゃない。「物語の結末は、俺が決める」。飛羽真が本編で幾度となく叫んできたその言葉の通りに、飛羽真は自分達の物語を紡いでいく。

 この、メタ的な意味での「物語」と『セイバー』における「物語」を重ねた回答に、たまらなく感動したのだ。言うまでもなく「ヒーローの根源にある悪との同質性」は石ノ森ヒーローの象徴的要素だし、自分以外に決められた結末や悲劇的な運命に立ち向かうのは本編で飛羽真がずっとやってきたことだ。また、自分の物語に向き合い、自分の手で結末を掴み取ろうとする飛羽真の姿勢を「作者の意図とは関係なくキャラクターが勝手に動き出す。それが僕の目指した物語だ」と創作論的な観点で肯定するのも、「物語の登場人物は、自分の物語から逃げちゃいけないと思う」という飛羽真の台詞で先ほどの矛盾に関する問いへの答えを出すのもとても良くて、記念作品としても『セイバー』の劇場版としても、非常に満足できた。

 

 

 

SPARK Movie Edit(『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』主題歌)

 一方で、良かった部分に匹敵するほど巨大な欠点が存在したことも事実だ。その最たるものが映像や演出面で、全体的に戦いにくそうな場所で殴り合ってるシーンが多くて戦闘がいまいち盛り上がらないし、本編とは全然声が違うレジェンド達が決め台詞のようなそうでもないような言葉を叫びながらわちゃわちゃ戦う最終決戦は雑どころの騒ぎじゃないし、戦隊はレッドしか出さない方針と前半で消されたオリキャスレジェンドにレッドが一人もいないのがぶつかり合った結果「彼らのリベンジはないの……?」とモヤモヤが発生してしまっていた。

 大絶賛したストーリー面も尺不足を感じる箇所があり、アスモデウスの反乱の動機がわからないのはまあ置いておくとしても、飛羽真が一度は受け入れた現実から物語に戻ることを決める時の心情変化も描いてほしかった。記念作品としても『セイバー』の劇場版としても完成度は高いが、時間があれば全体的に影が薄かった『ゼンカイジャー』の劇場版としての満足度も高まっていたのかなと思う部分もある。

 他にも、映画そのものとは関係のない話になってしまうが、『スーパーヒーロー戦記』終了後のリバイス特別編はワクワクを感じさせつつも何かしっかりしたお話を展開するわけではないため、「『スーパーヒーロー戦記』の余韻を壊してまでサプライズであれだけの尺かけてやる必要あるか?」という感情もある。

 

 ただ、物語の本懐が見えてくるまでの推進剤としてのおとぎ話に合わせたコスプレレジェンドの登場や『セイバー』本編で長らく見れていなかったフォームの出演、そして何より、1号がバイクに乗って現れるシーンや、アスモデウス仮面ライダースーパー戦隊を無意味だとする言葉への「意味がなかったらこんない続くわけないじゃん」という反論、章太郎少年に本郷武(藤岡弘、さんでもあるかな?)が言った「あなたの物語は、子ども達に影響を与え続けます」という台詞が、先述の作品のメインテーマと共に、数多の欠点よりも力強く輝いて見えた。シンプルに言うと、泣いてしまったから僕の負けなのである。

 

 

 というわけで、僕の総合的な感想としては、『スーパーヒーロー戦記』は最高の傑作だった。一人のファンの不安を消し飛ばし、期待の遥か先を行く作品だった。確かに結構な濃度で「春映画」でもあったが、それ以上に真摯な面が大きかった。

 『スーパーヒーロー戦記』はあくまで両作品のアニバーサリーイヤーであったからこそのもので、この先しばらくは仮面ライダーにおいてもスーパー戦隊においてもオールスター映画は制作されないだろう。しかし、一生来ないというわけではあるまい。いつかまた、歴代のヒーロー達が一堂に会す時。再びこのようなシリーズの本質を問い直す作品が作られると想像すると、今からでもワクワクが止まらない。