石動のブログ

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感想『小説 仮面ライダークウガ』 13年越しに描かれた「理」と「現実」

sasa3655.hatenablog.com

 原点にして頂点、様々な個性を持った平成ライダー作品群の中でも一際異彩を放つ作風で、一種の伝説のような存在になっている番組。ファンの間でのリスペクトも公式の取り扱いも、どこか以降の作品と一線を画すような雰囲気をまとった、最初の「平成ライダー」……『仮面ライダークウガ』。

 

 今年の3月、全話を完走し感想ブログにまとめた際の記憶を辿ると、僕の中で『クウガ』で最も強く印象に残った特徴は、作中におけるロジックを徹底的に突き詰め、どこまでも現実に近い世界を描こうとすることだったのだと思う。

 「子ども向けの特撮ヒーロー番組」という自らの立ち位置に甘えることなく、ヒーローが自己犠牲とも捉えかねない行動をとる理由を、怪人の出現が人間社会に与える影響を、ヒーローと怪人という超常的な存在に対する警察の対応を、「怪人は倒されると爆発する」ということの意味を、ヒーローと怪人の戦闘の中で展開される攻防のロジックを、真摯に取り扱い作劇に反映し続ける。作品のリアリティに、展開に宿る「理」に一切妥協しないその姿勢は、わかりやすいエンタメ要素の排除などの弊害を伴いながらも、最後まで貫かれ続けることで無二の個性として成立した。その個性こそが、『クウガ』が多くのファンの心を未だ離さない理由でもあった。

 また僕自身も、そんな『クウガ』の作風に相性的な問題を感じつつも、ヒーローが怪人を排除する手段もまた暴力でしかないという葛藤、数多のヒーロー番組が抱える根本的なジレンマすらも「理」をもって描くその覚悟に、作中における五代くんの決意に被って見えるようなそれに、最後には心まで感服してしまった。率直に言えば、『クウガ』という作品を、心の底から好きになってしまった。

 

 そして、である。ここから本題なのだが、そんな『クウガ』には後日談に位置する作品が存在する。現在絶賛連載中の『風都探偵』のような、公式による正当続編といった立ち位置とまではいかないが、確かにあの劇的な結末の「後」を描いた作品。それが、今回感想を書く『小説 仮面ライダークウガ』である。

 

 『クウガ』がその内容でもって特撮ヒーローの世界に新たな道を切り開き、五代くんがその涙で悲痛なまでの覚悟を示してから13年後に発売された、続編。長い時間を経たこの現実において、『クウガ』はどのような物語を展開したのか。かつて多くの人を熱狂させた『クウガ』の「理」を追求する姿勢は、現代において、作品が一度完結した後の状態において、どのように描き出されるのか。

 『クウガ』を見終えてから数か月が経ったある日、ふと思い立って『小説 仮面ライダークウガ』をAmazonで購入し、その到着を待って日常生活を過ごす中、常に頭の片隅に上記のような疑問が浮かんでいた。それはある種の不安である以上に、期待としての感情としての側面大きかったのだろう。そこに、『クウガ』が「理」の追求を行わず安易な「続き」を作ってしまうのではないかという懸念は、1ミリたりとも存在しなかった。『クウガ』がそんなことをするはずがないと、きっと何か新しい形で「理」の伴ったメッセージを提示してくれるだろうという思いを大前提として、僕は届いた『小説 仮面ライダークウガ』の頁をめくり始めた。

 

 

 

 

(以下、『小説 仮面ライダークウガ』のネタバレありです)

 

 

 

 

 

小説 仮面ライダークウガ (講談社キャラクター文庫)

 まず、読み終えた時の印象を一言で言えば、「期待通り」の作品だった。先述の自分の期待を全く裏切らず、むしろこちらの想像を上回るような熱量で、『小説 仮面ライダークウガ』は「理」を持った物語を描いていた。

 その「理」の例としては、本当に様々なものを上げることができる。小説という媒体を活かし未確認への対応の特例化を認めたマルエム法の条文を本文にそのまま羅列してみたり、よくツッコまれる一条さんが携帯が鳴って未確認に見つかってしまう大ポカに一応の理屈をつけてみたり。この二つの行っている「本編の補完」以外のベクトルでも、未確認が虐殺を行う際の方法を科学的な用語を用いて丁寧に説明する(「怪人にこういう能力があってそれで殺されてしまう」で済まさない)部分なんかは、非常に濃い『クウガ』らしさを感じることができた。

 

 しかし、だ。とりあえずいくつか具体例を挙げてはみたが、『小説 仮面ライダークウガ』における「理」の本懐はそれらの中にはない。それらはあくまで細かい部分部分の作り込みであって、読後感として強烈な『クウガ』らしさを印象に残せるものではない。

 僕が『小説 仮面ライダークウガ』を読んで最も『クウガ』らしさを感じたもの。それは、物語の内容とそれを作っていく描写、その両者に見られる共通の方向性だった。

 いや正確に言えば、安直に『クウガ』らしいなんて言うのははばかられるような、見方によってはテレビ本編に反するような内容こそが、最も印象に残った。ある意味では『クウガ』らしくないけど、別の視点ではとても『クウガ』だ。一見『クウガ』らしくないように思えるその姿勢が、突き詰めて考えると最も『クウガ』らしい。

 その方向性とは即ち、「理」を追求する姿勢、その過程で行われるテレビ本編の「余白」への明確な言及である。

 

 

その後のライダー作品と比べると『クウガ』は勧善懲悪的に見えるという意見は、僕も理解できるし、そういう考え方もあるんだなあとは思うんですよ。

 突然引用したのは、2013年に発行された平成ライダーのムック本『永遠の平成仮面ライダーシリーズ 語ろう! クウガ アギト 龍騎』中の、評論家の切通理作氏が『クウガ』について述べている一文だ。

 切通理作氏が言っているように、『仮面ライダークウガ』という作品は、その構図や台詞を見ると非常に「勧善懲悪」な作品に見える。グロンギは許されざる絶対悪であり、それを打ち倒す警察とクウガは正義の味方。バラのタトゥーの女は人間がグロンギのようになりうる可能性を指摘したが、その言葉を受け止めたのは一条さんだけであり、ほとんどの登場人物は自分達の行動に確信を持っている。五代くんを戦わせてしまったことに後悔があったとしても、未確認を全滅させたことの是非は作中で問われることは一切ない。

 ただ、最初にこの文を読んだ時、自分は違和感と驚きを感じた。未確認を全滅させることが民族虐殺のように見える、という批判への反論の文脈の中ではあるけれど、「勧善懲悪」という言葉がいまいち『クウガ』にしっくり来なかった。

 この言葉の後、切通理作氏は未確認の描き方から「勧善懲悪」を読み取る解釈に、ラヴクラフト的な闇の存在への畏敬の表現を根拠に反論しているが、自分の場合は異なる理由から「勧善懲悪」に違和感を覚えていた。テレビ本編の『クウガ』が、非常に「余白」のある物語と映像を提供していたから、そこに声に出されている台詞の「勧善懲悪」性に反するものが描かれていたから、僕は『クウガ』は本質的には勧善懲悪ではないと感じたのだ。

 

 

EPISODE 49 雄介

 「余白」。足りないところや描かれてないところがあるという意味ではなく、明確に言葉にしない部分があるという意味での、余白。総括ブログでは触れなかったが、僕にとって『クウガ』は、「理」を追求する物語であると同時に、とても豊かな「余白」を持った作品だった。

 

 その「余白」の最も大きな例として、『クウガ』終盤の「暴力」というテーマへの向き合い方がある。

 先述したように、特撮ヒーローにおけるお約束ごとをなあなあにせず、むしろリスペクトすら持ってリアリティを付与していく『クウガ』は、終盤に来て、全てのヒーローが抱える「結局は暴力で解決してしまっているヒーローも悪なのではないか」という矛盾すらも取り上げた。グロンギを殺害するために強力すぎる兵器を作り出した人間は、グロンギと道を同じくするだろう。クウガの持つ最強の形態は、ン・ダグバ・ゼバと同じ「究極の闇」の力。グロンギと人間、クウガが本質的には同じものだという構図をとることで、『クウガ』はシビアな問いを投げかける。

 その果てに五代くんは理性を保ったまま「凄まじき戦士」に変身してダグバを撃破し、一条さんもバラのタトゥーの女の言葉を聞きながらもグロンギのようにはならないと決意する。そんな形で悪と正義の境界線は引かれるが、その根本にあるもの、五代くんが苦しみ続けた「暴力」の辛さと苦しみは、明確な台詞の形をとって、明確な終止符を打つことはない。

 いや、正確に言えば、中盤の椿の「俺を殴って、どんな気がした? 嫌な感じがしただろう。それをあいつはずっとやってるんだよ」、一条さんの「こんな寄り道をさせたくなかった」など、周りが彼を気遣う描写ははっきりと描かれる。ただ、五代くん自身が暴力の苦しみにどう決着をつけたのか、という本質の部分の解釈は、ある程度視聴者に任されているのだ。変身解除した五代くんが見せた涙、遠い国の海岸で彼が自分の拳を見つめる描写。たったそれだけの少ないヒントに、「余白」に、むしろ作品の結論を雄弁に語らせている。

 そんな「余白」で多くのものを語っている『クウガ』だからこそ、具体的に現れている描写を拾うと勧善懲悪な作品に感じる。神崎先生関連のエピソードに見える微妙な説教臭さや、主要人物の多くがグロンギと道を同じくする危険性を認知しない展開、最終回の「悪の権化を倒して一条さんに別れを告げた五代くんは冒険野郎に戻った」という筋への多くの登場人物の認識のみを考慮すると、グロンギとの決着は画一的な「正しさ」「ヒーロー性」で相手を「悪」とみなして行われた虐殺とも捉えられかねない。

 逆説的に言えば、「余白」で語られている五代くんの苦しみと答えこそが、『クウガ』の本質なのだ。一見した「勧善懲悪」性よりも、「余白」で見せた葛藤や結論こそが、決して善悪の一線で分けて暴力を肯定することはしないのが、『仮面ライダークウガ』という作品なのだ。そしてそんな本懐の部分を明確な台詞にせず、「余白」に委ねる手法そのものが、『クウガ』の特徴の一つ、一種の『クウガ』らしさなのだ。そう、僕は思う。

 

 

EPISODE 43 現実

 しかし、『小説 仮面ライダークウガ』は、そんな「余白」に対して様々なものを書き足していく。続編である以上は最低限消化すべきというラインを超えて、いっそ賛否すら別れそうなほどに、強く踏み込んでいく。

 「悪の権化を倒して一条さんに別れを告げた五代くんは冒険野郎に戻った」という登場人物の認識、僕も一応は受け止めていた展開にも、鋭いメスが入れられた。五代くんが別れを告げて旅に出たのいうのは、一条さんの嘘。本当は、五代くんは一人で雪山から消えたのだ。確かに不自然ではあった(48話ラストの鮮烈で悲劇を予感させる結末からは穏やかな旅立ちは想像しがたい)、しかしそういう描き方をすることで救いになっていた最終回の真実を、『小説 仮面ライダークウガ』は描いた。それどころか、海辺でサムズアップする五代くんすら一条さんの夢だったかもしれないと、作品の最後を締めくくったシーンにまでも現実的な可能性を仄めかす。

 他にも、様々な形で『小説 仮面ライダークウガ』は本編の絶妙な距離のとり方を覆していった。本編ではあくまで一条さんの過去と信念を描くための道具に留まった(その想いが成就しないであろうことはお話の主題にはならなかった)望見の恋心も、「暴力」というテーマへの繋ぎになりつつも物語として明確な和解や決着を見せなかったEPISODE 43の一条さんと実加の関係も、重苦しいまでのリアリティでもって取り上げた。本編の結末が「グロンギのようにはならないように」という決意で終わった、未来への希望だったのに対して、『小説 仮面ライダークウガ』は「13年間の歳月」という、かつて未来だった「今」の現実を、嫌というほど見せつけてきた。


 それを、『クウガ』らしくない試みだと感じた。実は以前に別の平成ライダー小説の感想を漁っていた際に偶然『小説 仮面ライダークウガ』への賛否を目にしたことがあったのだが、その記憶が大きな納得と共に蘇った。

 これは確かに、賛否が別れるだろう。というか自分自身、最終回の五代くんが夢に過ぎなかったかもしれないという描写に、彼が再び拳を握らなければならないということに、あの結末から再び戦いが始まってしまうというそもそもの前提に、拒否反応を覚えてしまっている。特に最初のものに関しては、五代くんが拳を見つめるようなカットがちゃんとあった(完全に元通りでハッピー、なんてオチではないと示していた)ことも考えると、わざわざ夢想に落とすことはなかったのではないかと、そういう疑念を抱いてしまっている。

 

 

S.H.フィギュアーツ 仮面ライダークウガ マイティフォーム

 ただ、それと同時に、これこそが『クウガ』だろうと、何よりも『クウガ』らしい続編だと、そう思っている自分もいるのだ。

 確かに、描き方のアプローチという面では、少し本編とは異なるかもしれない。この物語の存在そのものが、本編の結末を壊してしまっているかもしれない。そういう意味では、『小説 仮面ライダークウガ』は『クウガ』らしくはないのかもしれない。しかし、かつて描かれなかった「余白」にメスを入れ、リアリティを伴った「続き」を描くのも、『クウガ』本編に見られた「理」への追求の姿勢の延長だと、そうは考えられないだろうか。

 

 先述した通り、自分にとって『クウガ』は、神経質なまでに「理」を追い求める番組だった。EPISODE 48の五代くんの涙に彼の決意を感じ、さらにその「暴力で敵を排除している」ことから逃げない姿勢に番組のお約束をお約束で片付けない方向性を重ねて勝手に滂沱の涙を流したほど、『クウガ』を見ていて「理」が印象に残ったのだ。「余白」の豊かさや登場人物達の暖かな関係、未来への希望に満ちた結末も好きだったが、「逃げない」ことこそがそれ即ち『クウガ』だったのだ。

 それ故に、『小説 仮面ライダークウガ』の余白を「理」と現実で塗り潰していく作り方に、究極の『クウガ』らしさを見出してしまった。かつて一度描ききったものだなんて、そのうえで委ねた部分があったなんて関係ない。当時の結末が、希望とイコールだったなんて関係ない。あれから13年が経って、私達は未だに動乱から抜け出せていない。未確認生命体との戦いほどではないにしても、現実には暴力と理不尽が溢れている。時間が全てを良い方に持って行ってくれるとは限らないし、間違いなんて何度繰り返したかわからない。

 そんな当然の現実をもって描くのなら、未確認がより狡猾なやり方で人を殺すことも、五代くんが再び戦ってしまうことも、本来の姿の「凄まじき戦士」が現れてしまうことも、全て納得がいく。むしろそうなってしかるべきだと、そんなことさえ思う。

 

 「13年越しの続編」という事実、それを踏まえたうえでの「理」の追求の最たるものが、終盤のゴ・ライオ・ダが実加に投げかけた台詞なのだろう。ある意味で一線すら超えてしまっている言葉が、日本に生きる人なら誰もが意識する現実に(解釈次第では倫理に反しているとすら言える形で)触れた文章が、この作品の方向性を端的に表しているのだろう。たとえ否定のニュアンスがあったとしてもあのような形であの出来事を取り上げることの是非を考えざるをえないけど、少なくとも、そのアプローチ自体は、「現実」に触れることを恐れない姿勢は、ヒーローものとして災害という「現実」から逃げることをよしとしない生真面目さは、とても『クウガ』らしい。

 

 また、『小説 仮面ライダークウガ』が描いた「理」、13年後の「今」は、絶望にのみ彩られていたわけじゃない。今作のラスト、海ほたるでのクウガとライオの戦い。ついに姿を現し変身した五代くんを追って、一条さんは決戦の地に辿り着く。かつての仲間達、その全員の助けを受けた彼は、ライダーキックを受けてなお余裕の笑みを浮かべる敵にクウガが再び拳を叩き込む直前、超高圧ライフルでもってライオにとどめを刺した。最後の一撃を決めたのは、五代くんではなく一条さんだった。

 一条さんは五代くんを冒険野郎のままにしてあげることはできなかった。また戦わせてしまった。それでも、決定的に命を奪う瞬間を、「暴力」の苦しさの一部を、肩代わりすることは出来たのだ。暴力そのものの是非の視点ではなく、彼というヒーローにそんな危ういものの一切を任せてしまっていた13年前から、一つ変わることができたのだ。それはほんの些細な違いで、実際最後の一条さんも大きな後悔を抱えたままだったが、たとえ小さくとも一歩は進んだ。それは、再び変身した五代くんに、少しは報いられたということではないのか。

 きっと前に進めている。全てを解決できたわけじゃないけど、13年の一切が間違っていたなんて、そんなことはない。2022年の「今」であっても、きっと。

 

 

 余白や希望を現実的な理屈でほとんど塗り潰してしまったという意味では、『クウガ』らしくない。でも、それだけの代償を払ってまで「理」を求める姿勢は、とても『クウガ』らしい。

 いつものように長々と述べてしまったが、つまりはそういうことなのである。そして僕にとっての『クウガ』らしさでは、「理」に重きが置かれていた。だから率直に言うと、平成ライダーの全媒体でのエピソードの中でも指折りに、今作を好きになってしまった。かつての自分という伝説を塗り替えた『クウガ』は、『小説 仮面ライダークウガ』は、間違いなく傑作だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



(いや、ほんとに、傑作なんですよ。テーマや作品のカラーとは別の話だから言わなかったけど、やっぱり作者がプロの小説家さんじゃないからどうしても文章に不自然さやくどさが生まれてしまいがちな平成ライダー小説とは思えないほどしっかり「小説」してたし、白いクウガの正体の種明かしも「おお〜!」ってなったし、終盤の満を持して現れる五代くんとか、その後基本4フォームを見事に使い分けてライオを追い詰めるところとか、五代くんに戦いをさせてしまったという事実があっても、それ以上にめっちゃかっこよすぎて、こう、涙出てきたんすよ…面倒な理屈を捏ねまくったけど、『小説 仮面ライダークウガ』、マジで傑作なのでオススメです…)

(あとこう、あの出来事に関する手触りにはやはり若干の懸念があるんですけど、それに触れるって行為自体は感動してしまうかな……方向性は違えど、根本の姿勢自体は『平成ジェネレーションズFOREVER』に近いところがあって……『ジオウ』公式読本で白倉さんが言ってたことと重なる部分もなくはなくて……いやアプローチ自体は本当に真逆なのでほとんどこじつけレベルなんだけど、やっぱり平成ライダー……ってなる……あっはいこれで終わりですありがとうございました……)