石動のブログ

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感想『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』 既視感のある「覚醒」を許容できるか

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 僕は、二代目主人公が好きだ。

 

 遊戯王では世代の『ZEXAL』と並んで『GX』(遊城十代)が好きだったし、『カードファイト! ヴァンガードG』も新導クロノも大好きだし、『ジョジョの奇妙な冒険』では2部とジョセフ・ジョースターがぶっちぎりで好きだし、『イナズマイレブン』シリーズは松風天馬編(『GO』『GO2』『GOギャラクシー』)が特にドハマりしたし、現在視聴中の『機動戦士ガンダムSEED DESTNY』のシン・アスカもめちゃくちゃに好きなキャラクターになってきている。初代でも三代目でも四代目でもなくて、二代目が好きなのだ。それをオタク的な意味での「性癖」と言っていいかはわからないが、とにかく創作への好みとして、「二代目(主人公)」というのをずっと持ち続けていた。

 その理由としては様々なものが考えられるが、自分の中では、二代目、二作目の持つ特殊な立ち位置の存在が、最も大きな理由だと思う。

 二代目は、創作される大前提に初代という原点にして続編を生みだすほどの成功例が存在しているために、その影響を強く受けることが多い。新しい作品である以上初代をそのまま模倣することはしてはいけないが、続編である以上はかつて描かれた作品の「らしさ」に全く無関係の話はしない。その結果、初代の精神性を別のベクトルから描いていく、初代で是とされた価値観に対するアンチテーゼを示すなど、シリーズとしての「らしさ」と作品としての個性がせめぎ合ったアプローチがとられ、作品の核にいる二代目主人公にその方向性を最も強く反映される。その、メタ的な視点も含んだ試みが、それを一身に背負ったキャラクターの造形が、僕の琴線に触れるのだろう。

 

 しかし、そこそこ多くの人が持つ「主人公が変わると萎える、見る気が失せる」という感覚、初代の圧倒的な人気故にそれと異なる方向性をとることに非常にリスクが伴うという避けえない構図から、二代目主人公は人気が出なかったり扱いが悪かったりするなどの悲しい結果に到達する例がままある。自分の例で言えば、同世代の人間と話すと「イナズマは円堂編は良かったけど、天馬はなー」という意見がマジョリティだし、放送当時のシン・アスカへのSEEDファンの風当たりは非常に強かったと聞く。

 

 

 

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 そういう意味では、僕が恐らく最初に好きになった「二代目主人公」、父の私物の『ドラゴンボール』を読んで最も心惹かれたキャラクター、孫悟飯は、(上記の例と違ってタイトルが変わることなく主人公を受け継いだという形とはいえ)「二代目主人公」の典型のような存在だったな、と思う。

 悟空の育ての親の名を持って生まれた彼の性質は、礼儀正しくおとなしい、父とは対照的なもの。でありながら、怒りを爆発させた際には誰よりも強さを発揮する、無限の可能性を秘めている。彼は、悟空の幼い頃とは全く異なる、常に死と隣り合わせの苛烈な展開の中で、ピッコロ、ベジータ、悟空といった最強クラスの戦士から学習し、戦闘面と精神面において急速に成長していく(特に、悟空の息子なのにピッコロから教わった魔族の技を使う、というのは彼自身の強い個性だった)。そしてその末に、悟空すらも凌駕した圧倒的な戦闘力でセルを撃破し、魔人ブウ編(スクール編)ではついに主人公の座についた。

 ……が、読者からの人気が原因なのか、はたまた鳥山明先生の物語に合わなかったのか、油断から魔人ブウに吸収されてからはほとんど物語から置いて行かれ、最後の決着もその数年後を描いた最終回も、全て悟空に持っていかれてしまった。二代目主人公の不遇さを濃縮したような魔人ブウ編での顛末に、如何ともしがたい切なさを感じたのを覚えている。セル編での覚醒には本当に熱くなり、スクール編でのビーデルとのラブコメ的なやりとりには新鮮な面白さを覚えた、幼いながらに「悟飯が一番好きだ……」と自分への刺さり具合を自覚していただけに、その落胆はより深いものとなって僕の中に残ってしまった。

 

 


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 だから、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』の情報が本格的に解禁され、メインビジュアルの中心でかめはめ波のポーズをとり、予告編で公開された映像で主だって戦闘を繰り広げる「主人公」───孫悟飯の姿を初めて見た時には、電車の中だというのに声を上げそうになってしまった。あの悟飯が、新作映画の主役。主人公。しかも、師匠たるピッコロさんと共に、あの人造人間と、セルと関係しているレッドリボン軍と激突するなんて、そんな。

 全編フルCGとかサブキャラクター達の活躍を予感させる予告映像とか他にも色々な要素があったはずなのに、ただそれだけしか頭に入ってこなかった。封切までの間、ただそのことだけを、「悟飯が新作映画の主人公をつとめる」という事実の意味だけを、咀嚼しながら過ごした。「正確には悟飯が主役の映画は『Z』時代にも何本かあったし、公開前のコメントとか見るとピッコロさんとのダブル主人公みたいな感じなのよな……でも今回のは鳥山明先生が直接関わって脚本まで書いてるし、ダブルだろうがなんだろうが主人公に返り咲いたのは事実なんだよな……」なんてことを、ずっと考えていた。

 

 そしてつい先日、リアルでの諸々を片付けた僕は、その足で劇場に向かった。そこで、彼の新たな物語を、この目で見届けた。

 

 

 

 

 

(以下、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』の直接的なネタバレありです。基本的に悟飯の話しかしません)

 

 

 

 

 

 

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 一言で言うと、非常に評価が難しい作品だった。自分にとって『スーパーヒーロー』は、興奮と落胆がないまぜになった、好きとも嫌いとも安易に言えないような、そんな複雑な感慨をもたらす作品だった。そして興奮と落胆の多くは、同一の要素から発生していた。その「要素」というのは当然、主人公たる孫悟飯への向き合い方に他ならない。

 

 学者としての活動に忙殺され、戦いに備えるための修業どころか、父親の役割すら半ば放置気味になっていた悟飯。当然そこにかつての超パワーは影も形も残っておらず、アルティメットに変身することはできなくなり、ピッコロさんに着せられた修行着の重さにすら耐え切れなくなっていた。そんな悟飯の姿に日頃から怒りを覚えていたピッコロさんは、レッドリボン軍の陰謀に際し彼の真の力を覚醒させようと(この機会を利用しようとかではなく、彼の力がなければこの危機は乗り越えられないと踏んだ)パンと共に茶番でもって悟飯を試し、結果彼は全盛期の力を取り戻した。

 

 魔人ブウ編以降の悟飯は、彼が本来は戦いを好まない性格なのもあって、戦士として活躍する機会も、そのために修練する様子も(鳥山明先生が直接脚本やシナリオを書いた作品では)あまり描写されなかった。だから「この映画単体で見れば」現在の彼の戦闘能力の衰えは納得できるものだし、若干のダメ親感が出ているのも自分の父親と同じ過ちを繰り返していて、良くも悪くも親子であることが感じられた。そんな悟飯の代わりに彼の娘のパンを鍛え、その送り迎えまで引き受けるピッコロさんの姿には「ピッコロさん萌えの映画だったのか」となったし、そんな現状に不満を覚えているピッコロさんが「本気で戦えば誰よりも強い」と彼の可能性をまだ確信し、悟空とベジータが不在の地球を守るために彼に希望を託すのには、ベタながらも少し感動してしまった。

 

 というように、一本の映画としては、自分もとても楽しむことができたのだ。悟飯やピッコロさんの描写には違和感はないどころか、時間と共に進んでいく彼らの「人生」とそれに伴う変化があったし、近年の映画『復活のF』において悟飯が超サイヤ人2までしか変身していなかったことを取り入れた展開からも、鳥山明先生の本気が伺えた。原作者だからこその立場とアイデアでもって、これまで扱いが悪かった彼に正面から向き合ってくれたことが伝わってきた。

 特にクライマックスの展開、セルマックスが起動してからの最終決戦は、その覚悟と本気の結晶のようなシーンのオンパレードだったと思う。

 

 

 


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 因縁の敵、レッドリボン軍の新兵器「セルマックス」を前に、悟飯は全力でもって攻撃を仕掛ける。駆けつけたZ戦士達とも協力し、一度は誤解から敵対したガンマ1号・2号とも共闘し、頭部の弱点に何度も攻撃を当て……しかし、セルマックスを倒すまでは至らない。ガンマ2号の犠牲でもっても、殺戮兵器はその動きを止めることはなかったのだ。仲間達が次々と撃破される中、最後の手段としてピッコロさんが「俺が押さえつけている間に、かめはめ波でも何でもいい、あいつの弱点を貫け!」と指示し、セルマックスの動きを止めようと接近し、そこで力及ばず、攻撃をまともに受けて倒れてしまう。その光景を見た悟飯は、大切な人を傷つけたセルマックスと、それをただ見ているしかできなかった自分の不甲斐なさに怒りを爆発させ、新たな形態───『ビースト』に変身した。

 

 どこか「身勝手の極意」に似ているようにも見える、グレーがかった銀の髪色。悟飯の強さの象徴たる形態、少年時代の超サイヤ人2を彷彿させるような、髪が大きく逆立ったアンバランスなシルエット。そして激情時のブロリーと同じ怒りの炎とそれを制御する冷静さを常にたたえた、赤い瞳。

 孫悟飯という戦士はその潜在能力の高さが強さの源泉として挙げられることが多いが、それと同じくらいに、様々な戦士から既存の技を学習していく自由度の高さ、それを進化させより高みへと昇る発展性という特徴も持ち合わせている。サイヤ人編ではピッコロに教えを受けて魔族の技を習得し、フリーザ編ではベジータと共に戦い、セル編では悟空との一対一での修行の中で彼の技と超サイヤ人の力を学び、さらにその先にある超サイヤ人2の領域まで初めて到達し、かと思ったら魔人ブウ編ではこれまでとは全く異なるラインにいる老界王神の儀式により、アルティメットという(本編では)未だ彼以外の誰も使用していない唯一無二の形態を会得した。様々な変身・力を掛け合わせたキメラのような印象、その中に全く未知の要素が存在するビーストのビジュアルは、そんな彼の覚醒としてこれ以上ない「らしさ」と説得力を伴っていた。

 そして悟飯は、その戦闘力でセルマックスを圧倒したまま、最後の一撃を放つ。一度は倒れたピッコロさんが執念で起き上がりセルマックスを押さえつけた隙に、彼の全力を込めた必殺技を───魔貫光殺法を、その指から発射する。光線はピンポイントでセルマックスの弱点に突き刺さり、戦いは悟飯達の勝利で幕を下ろした。

 言うまでもなく魔貫光殺法はピッコロさんを代表する必殺技で、それを彼の弟子たる悟飯が使うことには大きな意味がある。また、かつてピッコロさんは、悟空が押さえつけていたラディッツを二人まとめて魔貫光殺法で貫いており、その構図との対比も感じ取ることができる。つまりはこの決着には何重にも文脈が乗っかっており、それがとんでもない爆発力と熱量を生みだしているのだ。ここまでにシンプルに、かつ劇的な「熱さ」の方向性に作りこまれたクライマックスに、僕はかつてと同じように思わず声を漏らしそうになってしまった。

 

 

 

 しかし、である。ネタバレ突入後の最初の一文で書いたように、僕は『スーパーヒーロー』を手放しで絶賛することはできない。全編にわたってシリアスとゆるさが共存しているような雰囲気になっていて、シーンによってはそれが間延びを生みだしている(勿論、それがプラスにはたらいているときの方が多いが)ように感じたとか、「セルマックス強い!」「でも頑張って弱点に一撃食らわせた!」「でも効いてなくてピンチ!」的なシーンを3回繰り返すのはちょっとくどいとか細かい不満もあるにはあるが、やはり最も大きいのは悟飯関連の話。しかも、この映画における根本の部分に、その不満は根ざしている。

 

 言ってしまうと、そもそも近年の悟飯は、「扱いが悪い」という状況にはなかったのである。冒頭では原作終盤における悟飯の扱いの悪さとそれに対する落胆を語ったが、原作終了から十数年経ち、『ドラゴンボール超』に繋がる一連のシリーズがそのコンテンツ展開を再開したここ数年、その中での悟飯の描き方によって、僕の中ではそれらの不満は既に払拭されていた。だから、公開前から「『これまで扱いが悪かった』孫悟飯が大活躍!」という推し方をしている鳥山明先生のコメントに、それを当然のものとして受け入れているファンの声に、ずっと違和感を覚えていた。勿論悟飯が主役の映画が公開されるということには驚き、大きな喜びと期待をかけてはいたが、その期待の中身は「近年めざましいリベンジを遂げた悟飯の集大成として、単独の映画の主役を張る悟飯が見られるのか」というものであった。

 

 

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 そんな自分の感覚をもたらしていたのは、2015年から2018年にかけて放送されていた作品、アニメ版『ドラゴンボール超』である。そこでは孫悟飯の物語が描かれており、彼は悟空、ベジータに続く第三の主人公として扱われていた。二人のように常に番組の顔として活躍する、とまではいかないにしても、それとは異なる連続ドラマ的な手触り、番組の放送していた約3年間という非常に長いスパンでもって、彼に真摯に向き合った作劇がなされたのである。

 

 まず最初に悟飯にスポットが当たるのは、アニメ版『ドラゴンボール超』の2クール目後半で展開された「フリーザ復活編」である。『ドラゴンボール超』最初の「破壊神ビルス編」「フリーザ復活編」の二つは、数年前に『ドラゴンボールZ』の劇場版として公開された作品をテレビシリーズとして再構成したものであり、1時間半程度の尺しかない原作を1クール近くにするためにかつての『ドラゴンボールZ』を思わせるような尺稼ぎの間や演出が頻発、しかも作画にも明らかに気合が入っていおらず、非常に批判が多い内容となっている。

 が、「フリーザ復活編」については、強引な尺稼ぎを主としていた(悟飯に関連する要素も娘が実はビーデルのお腹にいる、と判明することくらいしかない)「破壊神ビルス編」と異なり、お話の筋そのものに映画にないオリジナル展開が差し込まれる。その目的も尺稼ぎであることには変わらないが、しかし同時に『ドラゴンボール超』における悟飯のオリジンとして機能しているのだ。

 

 ドラゴンボールによって復活し、再びフリーザ軍の頂点に君臨、地球を襲撃したフリーザ。悟空とベジータビルス様のところで修業をしている(それが原因で連絡も遅れた)、そこから地球まではウイスの力をもっても35分はかかり、瞬間移動も気が感じられないほどの距離があるせいで使えないために、Z戦士達は最強の戦力が不在のままフリーザ軍と戦うことになってしまう。有象無象の下っ端達までは個々の戦闘力の差でどうにかなったものの、一部の強敵には苦戦し、さらに大幅なパワーアップを遂げたフリーザがこいつは自らの手で殺すと、悟飯に一方的な攻撃を加え始める。修行不足により実力が低下、アルティメットに変身することすら敵わなくなった悟飯はその猛攻に手も足も出ず、自分を庇ったピッコロさんが殺されるのを、その目で見ることになってしまう。

 その後悟飯は、身体への負担を無視して気を上昇させ続け、それにより肥大化した気を悟空に感じ取らせて瞬間移動を成功させる、というクレバーな作戦により危機をなんとか脱し、ピッコロさんも騒動後ドラゴンボールで生き返ったが、目の前で師を失う体験は、彼に自らの無力さを強く実感させた。それをきっかけに悟飯は学者・親としての生活の合間を縫って修行を再開し、続く「破壊神シャンパ編」ではピッコロさんに鍛え直してもらっている姿が描かれる。学会と日程が被ったことで第6宇宙との試合に出ることはかなわなかったものの、彼は彼なりの速度で前に進み始めたのだ。

 

 しかし、次の「未来トランクス編」においても、彼は戦いに参加することはできなかった。それどころか、新たな危機に瀕して未来から再びやってきたトランクスと再会し、娘と妻、義父と平和で幸せな生活をおくっている姿を目撃されることで、「自分の時間軸では師であり、戦いの中で散っていった悟飯がこんな風に生きていること」「そんな平和な未来を自分の時間軸でも作りたい」と覚悟を決めるきっかけになってしまう。つまりトランクスにとって彼は、自分の時間軸での壮絶な人生と秘めたる巨大な戦闘力に反して戦いとは無縁の(ように見える)普通の幸せを手にした、いわば「平和の象徴」として映ったのだろう。結果彼は今回の騒動には一切かかわらず、全てが解決した後に現代を発つトランクスを見送るだけになってしまう。

 またもや何も戦いに貢献できず、そもそも危機が訪れていたことすら最後になって知ることになった彼の心には、「未来トランクス編」のビターな幕引きも相まって、より深い無念の傷痕が刻まれただろう。

 

 

第124話 疾風怒涛の猛襲!悟飯背水の陣!!

 そしてついに、再び戦う覚悟を決めながらも結局は貢献することができなかった、活躍は長編の合間の短編エピソードで一度主役を務めたくらいに留まった、ずっと無力の念を刻み続けていた悟飯に、アニメ版『ドラゴンボール超』最終章「宇宙サバイバル編」にてスポットが当たる。全員が敗北したら宇宙ごと即消滅、生き残るのは最後に勝ち残った者達のみの、各々の宇宙の命運をかけた各宇宙対抗のバトルロワイアル「力の大会」。前覧試合で第9宇宙の戦士ラベンダと相打ちになってしまった悟飯は、大会本戦の開始前にピッコロさんとの修行で自分を追い込み、ついにアルティメットへの変身能力を取り戻す。加えて「力を手に入れると慢心し隙を突かれる」という自らの弱点を自覚したうえで克服した悟飯は以前の何倍にも強くなっており、超サイヤ人ブルーに変身した悟空と互角に渡り合うほどだった。

 「力の大会」本番、悟飯はその実力を存分に生かし戦い抜いた。ジレンやトッポ、ケフラなどの最強クラスの戦士の相手は悟空とベジータに譲ったものの、ピッコロとの連携で多くの敵を脱落に追い込み、最強だが単独行動をしがちな上記の二人に代わって第7宇宙のリーダーとして指示を行い、悟空と同時にかめはめ波を放つなどの見せ場でも盛り上げてくれた。最後には、かつて敵対していた、自分に無力さを実感させる直接のきっかけとなった、そして「力の大会」内でもひと悶着あったフリーザと共闘して強敵たるディスポを攻略(「同じ第7宇宙の仲間ですから」とかつて言われた台詞を返すのが最高)、自らを犠牲にした作戦によって彼を場外に追い込み、その判断も実力も皆に認められた。

 

 と、以上がアニメ版『ドラゴンボール超』における悟飯の主な活躍なのだが、ここから数年経って、同じ『ドラゴンボール超』の名を冠して公開されたのが、『スーパーヒーロー』なのである。ジレンの存在が語られていることから、時系列的にも今作における悟飯やピッコロさんは確実に「力の大会」を経てきている。しかし悟飯は「フリーザ復活編」以前のような完全に平和ボケした性格に戻り、ピッコロさんはそんな彼を情けなく思っている。描き方の方向性やきっかけこそ異なるものの「修行不足で変身できなくなったアルティメットに再び覚醒する」という流れはまるっきり同じことを繰り返しているし、「傷つくピッコロさんを見て悟飯が無力感を募らせる」という構図もどこか既視感のあるものになってしまっている。

 要するに、悟飯が作品の主人公となれたこと、それを反映した新形態や活躍そのものにはもう満足としか言いようがないが、その前提にある設定や認識に、アニメ版『ドラゴンボール超』における描写との齟齬を感じたのだ。「悟飯は不遇」という認識自体が(個人的な感覚で言えば)もう「古い」ものであり、それを乗り越えたうえでの悟飯の物語が見たかったのだが、『スーパーヒーロー』における悟飯は数年前、十数年前のそれに完全に逆戻りし、彼への古い認識・イメージのうえで物語が展開されてしまっている(それ故に展開に既視感がある)。ピッコロさんの死と未来トランクスの騒動における置いてきぼりに強い無力感を抱いた彼が、ちょっと平和だったからといってまたアルティメットになれなくなるほど修行をサボる……その描き方を肯定し受け入れることは、僕にはできない。

 

 

ドラゴンボール超 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 しかし、である。もう通算何回目だよという逆説になってしまうのだが、しかし、『スーパーヒーロー』がそうなる理由も、わからなくはない。

 そもそも『ドラゴンボール超』という作品は、アニメ版と漫画版の二つの媒体が存在する、メディアミックスのコンテンツである。どちらも原案は鳥山明先生であるが、漫画版はとよたろう先生が元の設定やコンセプトに彼個人のアイデアを加えて描き、それをネーム段階から鳥山明先生本人が監修しているのに対し、アニメ版は鳥山明先生の原案をテレビアニメ用に膨らませて様々な設定や展開を付け足してストーリーが作られている。

 結果、同じタイトルを持つ作品であっても作者が異なるため媒体によって内容が異なり、しかしどちらも紛うことなき「正史」「本編」である、という状況にある。僕がさっきまで長々と語っていた孫悟飯の物語が展開されたのはアニメ版の方で、恐らくその全てに鳥山明先生が直接関わっているわけではない。では先生本人がネームまでチェックしているため比較的距離感の近い漫画版での悟飯の扱いはどうなのかというと、あまり良くはない。というか、率直に言ってしまうと、非常に悪い。

 そもそもの始まりの「フリーザ復活編」は丸々カットされているし、「破壊神シャンパ編」においても試合の出場メンバーの候補にこそ出るものの、「あいつは勉強ばっかで道着まで失くしちまったんだぜ!」「惜しいな」に留まる。「未来トランクス編」では話題に上がることすらなく、単行本の巻末において描かれたトランクスとの再会もギャグチックなものになっており、物語には何ら大きな意味を持たない。「宇宙サバイバル編」では「あいつ抜きで(力の大会に)勝てると思うか?」とまでの期待を寄せられてピッコロさんに鍛え直され、大会本番においてもポタラ戦士のケフラと単体で相打ちになるなどの大金星を上げるも、漫画版「宇宙サバイバル編」の尺の短さもあってピッコロさんとの修行風景やアルティメットへの再覚醒シーン、悟空との練習試合は描かれず、アニメ版ほどの強い印象は残らない。

 だから、漫画版の系譜として捉えれば、『スーパーヒーロー』における悟飯の描写とその背景にある「扱いが悪い」という前提も筋が通るのである。漫画版においても「超サイヤ人になる必要がない」という発言があるためアルティメットへの再覚醒自体はしているのは確実だし、漫画版でのみ展開した「宇宙サバイバル編」後のエピソード、「銀河パトロール囚人編」では悟飯もちゃんと戦闘において活躍していたが、アニメ版と比較したら小さい、あくまでZ戦士の一人という扱いで、「扱いが悪い」と言っても矛盾することはない。

 

 そして何度も言うように、『スーパーヒーロー』の脚本を手がけているのは鳥山明先生本人である。このことからも、『スーパーヒーロー』のスタンス・精神的な繋がりはアニメ版より(ネームを毎回直接チェックしている)漫画版の方が強く、そちらからの文脈で「近年の悟飯は扱いが悪い」を読むのが正解なのだろう。そう捉えれば、大きな矛盾は生まれない。そう理解することができれば、不満は少なくなる。同じく鳥山明先生が脚本を手がけた前作『ブロリー』においても、アニメ版で悟空が切り札としていた(漫画版ではそれらしきものが出てくるに留まった)ブルー界王拳は登場しておらず、アニメ版との断絶を感じさせていた。

 

 だから、別に矛盾はしないと考えることは、できる。絶対に、不可能なことではない。実際、『スーパーヒーロー』を観終えた後、モヤモヤを晴らすためにこれまで触れていなかった漫画版『ドラゴンボール超』を一気買い・一気読みした時、そのモヤモヤの根幹にあった疑問が氷解していくような感覚があった。なるほど、と。確かにここからの地続きならば、納得はできると。ちゃんと悟飯の物語としての良いところもあったわけだし、描写の矛盾や繰り返しはメディアミックス展開故の宿命だと受け入れて、楽しんでしまえばいいだろうと。

 

 

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 いや、でも、しかし。しかし、世界線や文脈が異なるとはいえ、同じコンテンツ内でほとんど同じことをやった、既視感に溢れた展開を再び見せるのは、一つの作品としてどうなのだろうか。かつて確かに『ドラゴンボール超』の名を冠して紡がれた物語を頭から消し去って『スーパーヒーロー』を見ることは、果たして正しいことと言えるのだろうか。

 悟飯が戦いへと再び向かっていく過程を丁寧に描き、「力を手に入れると慢心し隙を突かれる」という超サイヤ人2とアルティメットの覚醒時に繰り返し露呈した彼の弱点に言及し、一方でリーダーとしての振る舞いやフリーザとの共闘でもって新たな可能性を提示した。そのようにどこまでも真摯に孫悟飯に向き合ってくれた作劇を、一時的にせよなかったものとすることは、僕にはできるだろうか。それとは対照的に、「人造人間」「レッドリボン軍」「セル」といった悟飯の全盛期と言われるセル編の要素が作品の中に満ち溢れ、肝心の新形態への覚醒すらも「怒りの爆発」という悟飯のテンプレートに頼った『スーパーヒーロー』の展開は、初代主人公の精神性を継ぎつつも新たな物語と個性を提示する「二代目主人公」、孫悟飯への向き合い方として、どこか誠実さに欠けるものではなかっただろうか。

 

 一部の戦闘シーンで背景に使用した『神と神』、同じ戦闘シーンの中で作画と同時使用した『復活のF』、戦闘の局面において作画と使いわけ各々の個性を際立たせた『ブロリー』と、進化を続けてきた近年の『ドラゴンボール』映画における3DCGの到達点を感じさせる映像面のクオリティや、ピッコロさんの新形態と既存の技の両面での大活躍など、『スーパーヒーロー』には悟飯関連以外にも語れるトピックは多く存在する。総合的に見れば、『ドラゴンボール』の映画として見れば、非常に満足度の高い作品だというのは理解できる。しかし、自分がこの作品について語ろうとすると、どうしても悟飯の向き合い方と扱い、それに対するアンビバレントな感情が口をついて出てきてしまう。

 

 納得はできる。面白くないとは思わない。アニメ版『ドラゴンボール超』と違って明確に悟飯が主役の映画ができた時点でもう勝ちだと、そう思う自分もいる。ただ、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、僕の見たかった「孫悟飯の物語」ではなかった……そういうことなのかも、しれない。