石動のブログ

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初見時感想&考察&解釈『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」とラストシーンが示すこと

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 どうも、石動です。

 ついに観ました、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

 色々リアルが忙しくて、公開から約2週間経ってからの視聴になってしまいました。そのため、公開日から観る日までの間はTwitterを削除、ネットにも極力触れないようにしてひたすらこれまでのエヴァ作品の予習に努めていたんですが、その甲斐はありましたね。ネタバレなしで観られて本当に良かったな、と今ひしひしと感じています。

 というわけで、これから感想やら考察を書いていこうと思います。いつもの僕の感想記事と違って、考えついたことをテーマ毎に箇条書きにしていく方式で書いていきます。できればひとつの文章にまとめたかったのですが、まだそこまでこの映画を理解出来ていないので…。

 では、行きます。最後まで読んでくださると嬉しいです。

 

 

14年間の歳月について

  • とにかく、まず最初にこれを語りたかった。個人的に今回の映画で一番グッと来たというか、刺さったというか。『Q』では、「『破』から14年間の歳月が経ってる」という事実が、ただシンジ君と観客を困惑、絶望させるためだけに使われていて、正直、厚みを感じるような描写というか、「本当に14年経ってしまったんだ…」という実感を得られるような描写が欠けていたんですね。だから、『シンエヴァ』でそれが見事なまでに成されていたのが嬉しくて嬉しくて。
  • トウジ・ヒカリ夫婦も良かったですが、やはり特筆すべきはアスカとケンスケ。『シンエヴァ』まではほぼ絡みのなかった二人(まだアスカとトウジの方が脈はあった)の関係性が、あそこまでの進展を見せる。その意外性が、逆に14年間という歳月の重さを観客に実感させる。そこのダメ押しが、あのアスカのセリフですよね。「きっと私、アンタのこと好きだったんだと思う」「でも、私の方が先に大人になっちゃった」。うむ、手際が良い。良すぎる。ケンスケはテレビ版の前半辺りだと大分大人なキャラクターとして描かれているので、彼がアスカを救うということにちゃんと説得力があるのも良い。
  • その他にも、ニア・サードインパクトを生き延びた人達の生活が細かく描写されてたのも良かったですね。アヤナミレイ(仮称)の心理の変化を描く過程で、さりげなく世界観を補強してる。この辺りの世界観というか都市や町の作り込みの完成度はテレビ版の頃から同じなのですが、今回はそれをより効果的に使えていたように感じました。

 

 

ラスト付近のシンジが登場人物をひとりひとり救っていく(?)シーンについて

  • まあ、あれですよね。情報量が多すぎて観てる時は圧倒されたんですけど、落ち着いて色々考えてみると、自分なりに解釈できる余地があるような描写だったと思います。全く説明されない横文字のオリジナル用語とかはあくまで作品を進ませるためのものであって、それを一旦無視して起こった展開そのものを咀嚼してみると色々見えてくるのかな、と。
  • まず、ゲンドウが何をしたかったのか、ってことなんですけど、これに関しては大分明確に描かれてますよね。彼はユイさんに会いたかった。ただそれだけ。それ以上の目的はないし、それ以下の野望もない。実は、ゲンドウのこの願いは旧劇場版でも語られてはいるんですけど、今回はユイさんと出会う前のゲンドウの回想があったので納得感がダンチでしたね。孤独が当たり前だった日々。外界に触れないで生きていく毎日。その中で出会った、大切な人。心を満たし、孤独を感じさせてくれる人。そんなユイさんに再開するためだけに、ゲンドウは足掻き続けていたんですね。でもきっと、シンジとぶつかり合い、彼の中にユイさんの姿を見た。ユイさんの意図を理解し、シンジの覚悟を理解した。だからこそ、彼はシンジに道を譲ったんだと思います。
  • 次はアスカ。これまで不透明だった式波アスカの過去が明かされ、その孤独をケンスケが埋めたことがわかり、そしてシンジとアスカは別れを告げる。2人がさよならを言ったのは浜辺だったので、やっぱりアレは『まごころを、君に』のラストシーンを暗喩している部分はあるんじゃないかなと思います。テレビ版、及び旧劇場版では「他者」の象徴であり、シンジと深い愛憎劇を繰り広げてくれたアスカ。それが新劇場版では、元カノと元カレみたいな関係になっているのが、エヴァという作品が旧劇場版よりも前に進んだことを表しているように感じます。
  • 次にカヲル君…なんですけど、彼に関してはマジでわからねえ…。シンジ≒ゲンドウ、シンジ≒カヲル、つまりはカヲル≒ゲンドウということなのかな? 渚司令とか加持さんに言われてたのはそういう理由なのか? でもだとしたらなんでリョウちゃん呼びなんだ? 加持さんのことそう呼んでたのリツコさんくらいでは? つまりどういうことだってばよ??
  • 最後にレイ。Qの時点で予想はできましたが、レイはシンジがエヴァに乗らなくていいように初号機のシンクロ率を誤魔化してたんですね。でもそれを乗り越えて、シンジは自分からエヴァに乗った。彼に再びエヴァに乗らせてしまったことを謝った彼女に「もう平気だよ」的なことをシンジが言ったシーンで、テレビ版と旧劇場版の映像がカメラから投影されてましたけど、あれはシンジくん(メタ的には庵野監督or観客)がこれまでのエヴァ作品を作り、視聴し、乗り越えた上でまだエヴァに乗る(エヴァを作る、エヴァを観る)ことを決意した、ってことなのかな、と。『まごころを、君に』ではレイはシンジの中の希望の象徴だっていうセリフがありましたし。

 

 

 

ラストシーン、及び人類補完計画、及び「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」の解釈について

  • この映画で最も議論がなされそうなこの3点。設定的な云々は正直まるで分からないですけど、起こった展開そのものに対しては、自分はメタ的な、つまり庵野監督と観客、そしてエヴァンゲリオンという作品の関係性に決着をつける話だったのではないかなと思いました。
  • 人類補完計画については、テレビ版や旧劇場版のものとほぼ同じと見て間違いないと思います。使用するものに違いがありそうでしたが、要するに人間のATフィールド(心の壁)をとっぱらってひとつになり、みんなで全人類の母親的な存在であるリリスのお腹の中にかえり、他者との境界線が曖昧な、お母さんのお腹から出る前の状態に戻ることで、孤独も他者の恐怖も感じない姿になろう、という計画。ひいては、エヴァという作品で、自身と似た心理を持つキャラクターを通じて庵野監督の内面を表現し、観客がそれを視聴し、共感したり感動したりすることで庵野監督と観客、両者の心の補完を行う計画。それが、人類補完計画
  • まごころを、君に』と同様に、シンエヴァにおいてもシンジは人類補完計画を否定します。その結果、『まごころを、君に』ではリリスは崩壊してシンジは自分の身体を取り戻し、他者がいる世界で生きていくことになり(アスカの首を絞めたのは、彼が現実世界に戻ったことを少し後悔したからor彼なりのむっちゃ下手くそなコミュニケーションだったから、という説を僕は推しています)、一旦エヴァという作品は完結しましたが、シンエヴァでも本来は同じようなことが起こるはずなのです。ただ、そこにはエヴァという作品が駆け抜けてきた年月の重み、そして庵野監督がもう一度エヴァを作り(あくまで今回は誰でも楽しめるエンタメ作品にする、とは言っていましたが)、シンジがもう一度エヴァに乗り、観客がもう一度エヴァを観た、という事実がのしかかっていた。だから庵野監督は、『まごころを、君に』よりもさらに大規模な「エヴァの終わり」を提示しようとしたのではないかな、と。
  • エヴァという作品で大きな要素を占めていた、庵野監督の内面を反映したキャラクターを、他でもないシンジ(≒庵野監督)が救済していく。建設された全てのエヴァンゲリオンは槍によって貫かれ、機能を停止する。溢れかえっていたエヴァインフィニティ(≒エヴァに熱狂している観客)は浄化され、人の姿に戻っていく。世界は書き換えられ、エヴァンゲリオンが存在しなくても人と人がお互いの心をコミュニケーションで補完できる世界が生まれる。その中を、シンジ(≒庵野監督、そして観客のひとりひとり)は走っていく。「さらば、全てのエヴァンゲリオン」とは、エヴァが完結した現実で生きていこう、ということのように、僕は感じました。
  • ラストシーンの駅にカヲルとレイに似た夫婦がいたのは、シンジ≒ゲンドウ、シンジ≒カヲル、つまりはカヲル≒ゲンドウ理論を信じ、新劇場版においても(メタ的には)レイ≒ユイさんだと考えれば、シンジが『まごころを、君に』で母親から、シンエヴァで父親から独立することで両親が彼にとっての他者になったことを表現しているのかな? つまり、シンジの成長による世界の変化を描写しているのでは?
  • ゲンドウやカヲルくんのセリフから、新劇場版の世界はテレビ版&旧劇場版の結末から何周目かのループに当たることが判明しましたが、これも庵野監督が『まごころを、君に』でエヴァを終わらせたはずなのに結局新劇場版で再びエヴァを作ってしまったことを指し示しているように感じました。
  • あと、どこかのセリフで「人生は辛いことと楽しいことの繰り返し」的なセリフがあって、『Air』のミサトさんの「ぬか喜びと自己嫌悪の繰り返し」「でも、その度に私は前に進めた気がする」的なセリフを思い出しましたね。これからも、テレビ版&旧劇場版と新劇場版の根底に流れてるものが同じだと解釈できます。
  • なんでマリエンドなの?という疑問は…うん、わからん。全くもって分かりません。そもそもマリが何者なのか結局僕には分からなかった。適当に余った二人くっつけたのかなとか思いましたが、マリよかまだサクラちゃんとかの方がフラグ立ってるしなあ…なんか意味があるんだろうけど、分からないなあ…。

 

 

 

 


 はい、僕のシンエヴァの感想&考察&解釈でした。むちゃくちゃメタに寄りまくった解釈でしたが、いかがでしたでしょうか。

 マリとかカオル君とか、分からないところは全く分かってないし、最低でもあと2回は劇場で観るつもりなのでその中で解釈な変わる可能性もありますが、とりあえず今の僕はシンエヴァを「エヴァンゲリオンにさよならを告げる」だと考えています。読んでくださったあなたのエヴァ理解の助けになれば幸いです。ありがとうございました。