石動のブログ

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前後編感想 劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』 きっと何者かになれるお前たちに告げる

 ああ……。

 

 観た……。

 

 観てしまった……。

 

 劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』……2011年に放送され、『美少女戦士セーラームーン』『少女革命ウテナ』の演出などでも知られる、幾原邦彦監督の作家性が強く反映された物語で多くの人の心を揺さぶったアニメ作品、『輪るピングドラム』……その完結から約10年が経った今年、テレビ本編の再編集に新規パートを加えた映画として、前後編で公開された作品……。

 

 その後編、『僕は君を愛している』を、ついに観てしまった……。

 

 率直な感想を、一言で書くと……、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本っ当に、最高だった!!!!!!!

うわあああああああああああああありがとうううううううううううう!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

(以下、劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』の感想を記していきます。気分も文体も落ち着けて書きます。ネタバレ注意です。)

 

 

 

 

第24駅 愛してる

 まずもって、前編から素晴らしかったんですよね。音楽とか作画とか声優さんの演技とか、ほんとにあらゆる要素が完璧だったんですけど、何より素晴らしかったのが、『輪るピングドラム』の新作として非常に丁寧に作られていた、ということ。

 というのも(あくまで個人的な認識ですが)、『輪るピングドラム』という作品名には、一種の重みや緊張感があるというか、少なくともそう易々と新作を作れるような雰囲気は伴っていないんですよね。単純にアニメーションとして非常にクオリティが高い作品だったから下手なものが出されると落胆してしまう……というのもあるけど、それ以上に、『ピングドラム』が取り扱ったテーマとそれに対する描写が、その「重み」「緊張感」に繋がっている。

 

 

 「きっと何者にもなれないお前達に告げる 僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」。罰を、罪を、運命を、生を、愛によって誰かと「分け合う」ことで前へ進んでいく。1995年に起こった実在の事件を物語に取り入れその背景にあったものを突き詰めて描きながらも、その鋭さと同じだけの質量を持った温もりのある描写によって、あまりにも優しい答えへと帰結する。

 その結末は、震災を受けて描き方の方向性を少し変更したというエピソードにも表れているように、自らのセンスや現代の価値観と向き合い続けた制作陣のたゆまぬ努力と絶妙なバランス感覚によってもたらされたものだった。つまり『ピングドラム』は、多くの側面において、ある種ギリギリの産物だったんですよね。自分が『ピングドラム』に触れたのはつい昨年のことですが、後追いでもそのヒリヒリとしたせめぎ合いを強く感じられるほどに、そこには熾烈な追求の手触りがある。

 

 だからこそ、安易なものになった場合、それはもう『輪るピングドラム』ではない。そのテーマやクオリティや実際の作品の前提にあるものを考えると、『ピングドラム』というタイトルには大きなものが伴う。テレビ版を、『輪るピングドラム』という作品を尊重するなら、たとえ10年後の総集編メインの劇場版であっても、追求を続けて欲しい。『ピングドラム』と「今」「ここ」にある現実との距離感を、大切にしてほしい。

 

 

劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM[前編]君の列車は生存戦略

 では『RE:cycle of the PENGUINDRUM』は、そんな『ピングドラム』の雰囲気にどういった返球をしたのか。それに対する答えこそが、「『輪るピングドラム』の新作として非常に丁寧に作られていた」ということなんですよね。より具体的に述べると、前編『君の列車は生存戦略』は、一つの新規作品、一つの映画として、総集編プラスアルファに留まらない作りになっていた。

 

 まずもって、テレビ版に登場しながらも明確な真実は設定されていなかった要素を、今作は有効に利用する。「テレビ版でも第1話と最終話に登場していた冠葉(子ども)と晶(子ども)は、桃香の指示によって、この世の物語を本の形で記録する大図書館、”そらの孔分室”で自分達の物語(=テレビ版『輪るピングドラム』)を振り返り、失った自らの記憶を取り戻そうとする」。このような筋を既存の要素を用いて立てることで、総集編という「振り返る」作品そのものの前提を丁寧に理屈付けする。

 さらにそのうえで、テレビ版のエピソードの順番を少し入れ替え、「高倉冠葉」「高倉晶馬」というように、キャラクター毎にチャプターにまとめる形で物語を展開する。それにより映画としてのテンポを作る他、映画というノンストップの形式の中でも(通常のやり方なら1クール分との尺の相違で理解が追いつかなくなってしまう)キャラクターの感情の動きや背景を、格段に飲み込みやすくしている。

 総集編の筋立てとチャプター形式の導入……この二つのアイデアによって、一本の新作・映画としての完成度が、格段に高まってるんですよね。『ピングドラム』の持つ社会的なテーマは、「今」「ここ」の現実に希求してこそ意味がある。そういう意味では、これ単体でも成立しうる(テレビ版の存在や視聴を絶対の前提にはしない)ような試みは、とても『ピングドラム』的だと言えるんですよね。その名を冠する新作への覚悟が、これ以上ないほど確かに感じられる。勿論テレビ版を蔑ろにすることはしないけど、その前提に甘んじることはない。

 

 

 加えて、『ピングドラム』であることと一つの新作映画であることを完璧に両立したバランスは、作品を彩る音楽にも表れていました。劇伴に関してはパンフレットで「TVシリーズで製作した劇伴音楽をベースに、橋本由香利がフィルムスコアリング(編集された映像のシーンに合わせて作曲する手法)で新たに作曲、収録し、映画館の視聴環境に合わせて5.1chでミックスダウンされた」ことが語られており、その気合の入り方を伺えますが(実際本当に良かった、テレビ版から良かった劇伴がさらに良くなってた)、個人的により印象に残ったのは挿入歌。

 

魂こがして

魂こがして

 テレビ版はアニメという媒体を最大限活かし、「お話が終わると同時にその回を象徴するようなサブタイトルをどーんと表示し、さらに鮮烈なエンディングを流す(1クール目はイントロのギターがゴリゴリに効いてる『Dear Future』、2クール目はほぼ毎回エンディング……その全てがA.R.B.の楽曲をカバーしたもの……を変えてオチにマッチした曲調のものにする)ことで盛り上げる」というお家芸(?)が確立されていたのですが、映画である以上話の区切り目でいちいちエンディングを流すことはできない。

 それの代替のような立ち位置なのかどうかはわかりませんが、『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM』では、テレビ版から引き続きの「せいぞん、せんりゃくーーー!!」バンク以外にも、挿入歌が演出に用いられてるんですね。流れる曲はテレビ版のエンディングだったりそのアレンジだったり新曲だったりで色々なのですが、そのどれもが物語をめちゃくちゃに盛り上げてる。

 

YELLOW BLOOD

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 前編で言うと、『YELLOW BLOOD』と『Dear Future』の使い方が神懸かってました。

 前者は陽毬の命を支えているプリクリ様の帽子を荷台に乗せたトラックを冠葉が追いかけ、その中でかつて家族のために嵐の中を走った父親の姿とその教えを回想するシーンで流れるのですが、その疾走感溢れるイントロが場面とベストマッチ。回想から現在に戻るところで曲がインストに切り替わる(もう一度曲がイントロから始まることで場面が熱を持って再度盛り上がる)のも最高で、冠葉の信念とその原点を完璧に描いた『だから僕はそれをするのさ』に当たる内容の名エピソードぶりも含め、映画館で浴びたときは「うわあああ」と思考が興奮に塗りつぶされてしまいました。

 また、後者もそれに並ぶくらいの名シーンを作り上げていて。『Dear Future』は先述の通り、テレビ版1クール目をインパクトあるイントロで彩った名エンディングなのですが、劇場版ではまたもや冠葉の見せ場で最高の挿入歌として活躍してるんですね。プリクリ様の力で一時的に延命していた陽毬の命が、ついに完全に絶えてしまう。その直前に立ち会った冠葉が自らの陽毬への「家族」ではなく「異性」としての愛に気付いて自らの命を彼女のために差し出し、その覚悟にプリクリ様も応える……そこで『Dear Future』を流すのは、もう反則なんだ……テレビ版の曲とシーンを組み合わせて新たなベストカットを生みだすとは……。

 

 と、漫然と語ってしまいましたが、つまり『君の列車は生存戦略』は『ピングドラム』を元にしながらも新作映画としての追求の姿勢もしっかり内容に反映されており、それが非常に良かったんですよね。例として構成や音楽を挙げましたが、本当に様々な面からアイデアが盛り込まれ、それらが見事に成功している。自分が今回の劇場版で一番に気になってたのが「『ピングドラム』の「今」「ここ」に希求する感覚、そしてそれにより後天的にもたらされる普遍性を、総集編という形態で果たすことができるのか」という部分だったので、個人的にはとても満足度が高かった。

 

 


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 そしてその「今」と『ピングドラム』の距離感を反映した作劇は、約一か月前に公開された後編『僕は君を愛している』にも表れていました。

 引き続きチャプター方式で進行していく物語。新曲をより多く投入し、より一層シーンとシンクロしていった挿入歌。前編にあった実写の撮影を取り入れた演出も、挿入歌や物語の盛り上がりと組み合わせて展開されたことで、その新鮮・異質な存在感を大きくしていました。

 テレビ版のタイトルをそのまま画面で表示する手法は直接的過ぎないかとか、割と序盤の段階からチャプター形式が崩壊しているとか、流石にカットが目立ってきて初見には勧められないなとか、隅々まで完璧だった前編と比較すると若干の粗も感じましたが、それでも根本的な方向性とそれを体現した映像の素晴らしさは据え置き。怒涛の勢いで展開されていくテレビ版後半のドラマも含めて、非常に見応えのある作品に仕上がっていました。

 

 その中でも最も感動したのが、新規パートのクライマックスの展開。

 自分達の物語を振り返っていた冠葉(子ども)と晶馬(子ども)は、ある場面に辿り着き絶望していた。物語の中の冠葉と晶馬は、陽毬の命の危機に際してバラバラになってしまっていたのだ。かつて家族であった二人は激しく対立した末に、陽毬のために手段を選ばなくなった冠葉の撃った弾丸が、晶馬の身体を貫いた。

 そんな二人の子ども達を見て、プリンチュペンギンの身体を乗っ取った眞悧はせせら笑う。家族ですらも、結局はこんな風に傷つけあう。君達は、「きっと何者にもなれない」。だから破壊してしまおう。全部壊してしまおう。台無しにしてしまおう。そう、子ども達に囁く。

 しかし。それでも、二人はその呪いの言葉に耳を貸すことはなかった。世界を諦めず、自分達の物語を前に立ち止まらず。そのページをめくり、さらにその先へ踏み込んだ。

 そこに描かれていたのは、生まれた時から常に存在しているこの世の理不尽に対して、絶望せず立ち向かっていく少年少女達の姿だった。必死に生きて、生き抜いて。罰を、罪を、運命を、生を、愛によって「分け合う」。分け合って、この世界を共に進んでいく。そんなあまりにも優しく、そして力強い答えを。自分達の選択したその未来を、二人は思い出した。

 それと同時に、冠葉(子ども)と晶馬(子ども)の身体にも力が宿り始める。自分達の記憶と過去、そして今すべきことは何か。二人の身体が宙に浮き、眞悧の野望を乗り越えていく。「きっと何者にもなれない」。過去からのそんな呪いを振り切るように、頂点にまで上昇した二人は、「僕達は、陽毬のお兄ちゃんだ!」と、自らの存在証明を高らかに叫んだ。

 

HEROES~英雄たち 運命の乗り換え

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 「きっと何者にもなれないお前達に告げる 僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」。この言葉にも表れている通り、テレビ版『輪るピングドラム』は、「何者にもなれない」子ども達の物語でした。様々なしがらみを持って生を受けた彼らが、呪いに縛られ何者かになんてなれるはずもない子ども達が、それでも屈することなく足掻く様が胸を打つような、そんな作品でした。そして最後に示された応えこそが、愛でもって「分け合う」ということだったのです。

 それはとても優しくて力強くて、しかしその背後には、「きっと何者にもなれない」という前提が確かに存在していました。むしろ、何者にもなれないようなモノを背負っているが故に「分け合う」ことの尊さが際立つような、そんな質感が『ピングドラム』にはありました。

 

 しかし、そんな結末から約10年、現代に蘇った『ピングドラム』は、かつての結論をそのままに提示することはしなかった。あの時からの歳月が、『ピングドラム』という作品の「今」「ここ」との距離感が、作品を立ち止まったままにしておくことをよしとしなかった。

 だから『僕は君を愛している』のクライマックスで、冠葉と晶馬は自らの愛を、迷うことなく叫ぶ。確かに自分達は多くの呪いを受けているけど、それでも「何者にもなれない」なんてことはない。どんな過去があったとしても、自分には自分の物語があって、その中で出会った人が、愛した人がいる。それを叫ぶことこそが、きっと存在証明になりうると。「きっと何者かになれる」と、『RE:cycle of the PENGUINDRUM』はその声を響かせるのです。

 このクライマックスを見た瞬間、僕の中で様々なものが一本の線で繋がったんですね。総集編という形を理屈付けしていた「二人が自分の記憶と正体を思い出す」という筋は、「誰を愛しているか」「自らの存在証明」という劇場版のテーマにもダイレクトに繋がっていた。『愛している』というのはテレビ版最終回のサブタイトルだけれど、それに「僕は君を」と主語と愛の対象を明確に書き加えた『僕は君を愛している』という後編のサブタイトルは、これもまた劇場版で示された新たな結論を示唆したものだった。

 

 そして何より良かったのが、前編では音楽の使い方や構成など、エンタメ的な、映像作品としての側面で主になされていた一つの新作映画としての追求が、『ピングドラム』と「今」「ここ」との絶妙な距離感を保ったが故の変革・アップデートが、最後の最後でテーマに関してもなされたということ。テレビ版の「きっと何者にもなれないお前達に告げる」に対する、「きっと何者かになれる」。10年前のあの時から、明確な一歩を踏み出していく。

 でありながら、「愛」という普遍的な概念を用い、かつ他者との関係性に重きを置くという点をテレビ版の結論と同じくすることで、かつての答えを否定しない形になっているのも素晴らしい。変にテーマの変化のみを意識して「愛などなくても生きていける」というようにテレビ版の明確な否定に走ることはせず(その表れとして、テレビ版から相変わらず誰かを愛そうとすらしなかった眞悧は作中で手を差し伸べられることさえない)、ちゃんとそのテーゼを守ったうえで、少しだけ視聴後感を変える。そのバランスが非常に絶妙で、一つの作品としての新規性と、『輪るピングドラム』としての優しさ・厳しさを同時に感じられたんですよね。

 

 また、そんなテーマとクライマックスを表現する演出も本当に良かったです。テレビ版第23話エンディングをアレンジ(?)した『HEROS~英雄たち 運命の乗り換え』は、その疾走感と勇敢さを伴った曲調でもって展開への没入度を加速度的に高めてくれたし、全ての結論が提示されたうえで改めて劇場の音響で聴く主題歌『僕の存在証明』は、一生忘れられないような感動をもたらしてくれた。先ほど少し文句を言った言葉をそのまま画面いっぱいに出す演出も、『きっと何者かになれる』だけはそのストレートさが逆に良い方向に働いているように感じました。

 

 つまりは、全編にわたって素晴らしかった『RE:cycle of the PENGUINDRUM』の「今」への追求が、最後の最後で一段ぶち抜くようなものを見せてくれたんですね。演出、テレビ版との相違、サブタイトル、構成……あらゆる要素が噛み合わせて、あまりに熱量の大きいものを見せてくれた。それが、そのことへの感慨にノックアウトされたのが、冒頭の三点リーダー連発読みにく文章だったわけです。

 

 では、ここまでで書きたいことは全て書ききったので、最後に一言。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとう、『輪るピングドラム』!!!!!!

(強引なまとめ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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