『輪るピングドラム』第24駅、正直に言ってしまうと抽象の極みに達したストーリーは全くわからんかったのに、何故ここまで満たされた気持ちなのか…。
— 石動 (@sou2691521) 2021年12月22日
『輪るピングドラム』、「愛と運命と命の象徴」としての林檎、そしてそれを分け合うということを表すかのようなラストカット(半分の林檎と「愛している」というタイトル)…つまりはそういうことなんだよな(よくわかってない)(でも感動してる)。
— 石動 (@sou2691521) 2021年12月22日
『輪るピングドラム』、最終回の「生きるっていうことは罰なんだね」「僕達の愛も、僕達の罰も、みんな分け合うんだ」「運命の果実を一緒に食べよう」辺りが全てな気がする。命(=生きること)も、愛も、罰も、運命も、全ての根源は同じ。それを「分け与え」、共に生きていく。
— 石動 (@sou2691521) 2021年12月22日
『輪るピングドラム』、あまりに濃すぎて一言で言い表すことはできないけど、無理やりまとめるなら「分け与える物語」だと思う。分け与えるってことは、共に生きていくということだから。歩んでいくということだから。
— 石動 (@sou2691521) 2021年12月22日
『輪るピングドラム』、そういえば第18駅の「だから私のためにいてほしい」も「命」と「生きる意味」と「愛」を分け与える行為そのものだよな。最終回は高倉兄弟が持っていったけど、やはり苹果もピングドラムを持ってたんだ…。
— 石動 (@sou2691521) 2021年12月22日
『輪るピングドラム』、最終回まで見て色々と思い返すと、晶馬の全てを自分の罪と罰として一人で抱え込もうとする姿勢が、最終回で提示された「罪を、罰を、命を、愛を、運命を分け与える」というアンサーに対する壮大な前フリになってるんだよな… あまりに綺麗な対比…。
— 石動 (@sou2691521) 2021年12月22日
『輪るピングドラム』、「分け与える」「分かち合う」というアンサーがあまりにもやさしく、あまりにも希望に満ちていて、考えれば考えるほどその良さが感じられる。好きだ…。
— 石動 (@sou2691521) 2021年12月22日
……いやまあ、上のツイート引用でほぼ終わっているというか、これらをブログという形のとどめておくのが目的の記事なのですが、つい先日2011年放送のアニメ『輪るピングドラム』のYoutubeでの配信が最終回に辿り着きまして。その圧倒的な演出力と独特の雰囲気のストーリーの虜になり、毎週欠かさずチェックしていた僕のピングドラム視聴も終了を迎えたわけですが、その最終回をもって示された『輪るピングドラム』のアンサーが、とにかくぶっ刺さってしまったんです。とにかくこの感動を形に残しておきたくて……今回はそういう話です。なので超とりとめないです。
「分け合う」。その大切さをメッセージとして打ち出す作品はそう珍しくもないと思うんですが、『輪るピングドラム』はとにかくその描き方が良いんですよね。
『輪るピングドラム』では、いくつかの普遍的かつ象徴性の強い言葉が物語の中で印象的に使われている。いや、「使う」というと表現のための手段のようになってしまうので、主題として「盛り込まれている」と言った方が正しいかもしれない。運命、命、罪、罰、愛。人が生きていくうえで避けて通ることのできない、数々の命題達。それらに対して、登場人物達はそれぞれの葛藤を抱えていく。そしてそれは、命題達を多くの側面から描いていくことに繋がる。
「運命」という概念をどう捉えるかは、晶馬と苹果の独白で対照的な二つの立場が示されている。「命」については、病に苦しむ陽毬の姿から訴えかけてくるものがある。「罪と罰」は、両親が地下鉄での無差別殺人事件を起こしたこと・それにより苦難を背負うことになってしまった自分達について語る際に「全て僕の罪なんだ」「罰は僕が受ける」と自分で抱え込むように使った言葉で、誰かへの「愛」は、登場人物が起こす行動の根底には常に存在している。
しかし、このように深く切り込んで描きながらも、『輪るピングドラム』は概念そのものに対する明確なジャッジは下さない。少なくとも、その是非を明確な形で定めるようなことはしていない。ただただ、それらを多角的な視点から見つめるに留めるんです。
それらの要素が、最終回(正確に言えば序盤からずっと繰り返されているモチーフだけれど、全てが明確に結び付くのは最終回)の「生きるってことは、きっと罰なんだね」「僕達の愛も、僕達の罰も、みんな分け合うんだ」「運命の果実を、一緒に食べよう」でひとつに結び付く。運命の、命の、罪の、罰の、愛の象徴としての赤い果実。生きる上でどうしようもなく立ちはだかるそれらのモチーフとなった「林檎」は、ひとりひとりの「生」そのものを意味しているのだろう。
そして、それを「分け合う」ことで世界が危機を回避し、最後に半分になった林檎と「愛してる」とタイトルが映し出されるラストシーンは、『輪るピングドラム』の「生」に対するアンサーを体現している。きっと何者にもなれない私達が、この限りあるものだけが選ばれる世界で生きていく。それはきっと、何か正体のわからない大切なものを、運命を、命を、罪を、罰を、愛を、誰かと「分け合う」ということ。
いや……なんて美しく、そして優しい「生」への答え。ここまで優しく生きることを描かれたら、もう泣くしかないんですよね。細かい理屈とかそういうのを抜きにして、作品に脈動している確かな「生」の鼓動に、思わず涙してしまう。捉え方によっては危うく見えてしまうような結論なのにそれを感じないのは、ひとえに監督のバランス感覚のおかげなんだろうな……。
2011年時点でのアンサーでここまで揺さぶられてしまうのに、2022年に時代の変化を経てアップデートされた新作を劇場で目にしてしまったらどうなるか……楽しみなような恐ろしいような……。