石動のブログ

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感想『ヒックとドラゴン 聖地への冒険』 いつか会える、その時を待っている

 なんだか最近、胸がザワザワすることが多い。現実での出来事や、生活するうえでの人間関係とか、そういう問題ではなく、特撮や映画などの虚構によりもたらされるザワザワだ。具体的なシチュエーションで言うと、「一度完結した作品に続編がつくられ、新たな結末を迎える」という状況に、やたらと直面しているような気がする。

 

sasa3655.hatenablog.com

 最近ので言うと、『イナズマイレブンアレスの天秤』(これは厳密には「続き」じゃないんだけど)や『トイ・ストーリー4』、『仮面ライダーグリス』なんかがこれに該当する。特に最後のはその内容があまりにも認められなくてブログでキレ散らかしたのが記憶に新しい。このザワザワはオタク特有のものだと思うし、実際自分が重度なオタクなのは認めるが、それにしたって回数が多すぎるように思う。ただの偶然か、自分がそういうことに対して敏感になったのか。その答えはわからないが、先週劇場で観た『ヒックとドラゴン聖地への冒険』も、この類の作品であった。

 

 

ヒックとドラゴン (吹替版)

 自分にとって、『ヒックとドラゴン』は非常に思い出深い作品だ。数年前、最初に日本で公開された時、まだ僕は今ほどフィクションの沼に浸かっておらず、なんとなく宣伝を見かけたことはあるが、特に興味を抱くこともなくスルーした覚えがある。だが、日本の映画好きの間でそれなりに話題になったらしく、その時期映画にハマっていた父親が劇場で観て感激し、珍しくブルーレイまで買って家で鑑賞会を行っていた。家のリビングで2時間もテレビを占領されてはたまらないと僕は思ったが、やることもないし一緒になって作品を見てみることにした。結果として、父親よりも『ヒックとドラゴン』の魅力に取り憑かれたのだ。

 『ヒックとドラゴン』の何が素晴らしいのかと面と向かって聞かれれば「多すぎて答えられない。まず見ろ」とめんどくさいオタクムーブをしてしまうことは確実だが、ゆっくり考えて文字に起こすならば、作品の中で表現されている「自由」なんじゃないかな、と思う。バーク島で起こる、人間とドラゴンの争い。そこに住んでいるバイキング達は、鍛え上げられた肉体、基本的には自ら武器を手に取って戦うバトルスタイル、そして何より、ドラゴンを殺すということ自体に誇りを持っていた。ドラゴンには仲間を何百人も殺されたし、食料だってたくさん持ってかれた。その長い戦いの歴史が偏見を生み出し、その偏見が戦いを助長していた。そんな固定化された負のループの中に現れるのが、ヒックなのである。

 彼は、他のバイキングとは全く違っていた。ひょろひょろで筋肉の量は戦うには全く足りてないし、そのために武器だって普通のバイキングのものは扱えず、自作の砲台なんかを使ったりする。性格はなんというか、悪く言えば根性無しの目立ちたがり屋で、彼の悪評はバーク島に知れ渡っていた。

 でも、そんな臆病で、明らかに他とは違ったヒックだからこそ、自分で撃ち落とした伝説のドラゴン、ナイトヒューリーことトゥースを殺さずに逃がし、さらに接触して絆を深め、ドラゴン達の本質に気づき、人間とドラゴンの共存を実現しようとして一度は挫折するも、仲間と共に再び立ち上がり、その手で新たな未来を掴めた。その生き方が、彼のもたらしたドラゴンと人間の共存という結果が、開放感のあるトゥースとヒックの飛行シーンと重なり、作品の「自由」を深めていく。その構造が、この作品の最大の魅力と言えよう。

 

 

ヒックとドラゴン2 (吹替版)

 ただ、一作目に関しては何の文句もないと言い切ることができる信者の僕も、その続編たる『ヒックとドラゴン2』に関しては、物語にも映像にもそれほど目を奪われなかった、という印象が大きくある。

 他の島々を旅していたドラゴンを捕らえて兵器として扱うような新たな敵が現れ、彼らを説得するための旅の最中で母親と再開し、まさかの家族再生かーーと思いきや敵の襲撃でヒックの父親であるストイックが死んでしまい、彼の意志を継いだヒックとトゥースは敵を倒し、それぞれバイキングとドラゴンの長となった…めちゃくちゃアバウトに説明するとこんな内容の話なのだが、なぜ一作目ほどの魅力が感じられないのかというと、そもそも作品の根本的な面において、一作目と二作目には大きな違いがあったからだと考えられる。

 当たり前の話だが、一作目ではその前日譚にあたる作品などは存在しないため、映画の冒頭でバイキングとドラゴンが争っているバーク島の世界観を(観客にとっては)新たに創り出し、そしてその根幹にあった「ドラゴンと人間の共存」を実現した。予備知識も後日談も何もいらない、一つの作品として完璧に完成されていたのである。ではこの二作目はどうだったかというと、一作目の存在を前提として物語が創られているうえに、世界観の示す根本的な問題が一作目で完全に解決されてしまっているため、蛇足感が強い。一応、キャラクターの成長や関係性の変化は描写されていくものの、一作目のカタルシスには程遠く、「わざわざ続編をつくるほどかなあ」と思ってしまう。

 故に、それの更なる続編が制作されたうえに、その予告編がヒックとトゥースの別れを仄めかしていた時は割と絶望した。これ以上、あの傑作に無駄なものを付け足すのか。これ以上、あの完璧な結末にケチをつけるのか。数ヶ月前の『仮面ライダーグリス』の時の憤りが蘇り、僕の頭の中は怒り半分、恐れ半分であった。楽しみにする感情が入り込む隙間もない辺り、いかに自分がめんどくさいオタクかを痛感する。とにかく、中途半端な覚悟で続きをつくって欲しくはなかったのだ。

 しかし、そんな先入観だけで大好きなシリーズの最新作をスルーするわけにはいかない。めんどくさくてもオタクである以上、結末は見届けたい。そんなわけで、ただ映画を観るだけなのにやたらと重苦しい面持ちで、僕は劇場に向かったのである。

 しかし2時間後、行きとは全く真逆の表情をたたえて、僕は劇場からの帰り道を歩いていた。泣きながら笑っているような、素晴らしい作品にであった時特有の表情であった。『ヒックとドラゴン 聖地への冒険』は、ひたすらに傑作であった。ずっと観るのを恐れていた自分が、馬鹿らしく思えるくらいに。

 

 

ヒックとドラゴン 聖地への冒険 (吹替版)

 前作の戦いから少し後、毎日のように、人間から兵器として捕らわれていたドラゴンを解き放ち、バーク島で保護していたヒック達の元に、凄腕のドラゴンハンターであるグリメルが現れ、一度はその策略によりドラゴン達を全員奪われてしまう。しかしバイキング達の反撃で彼らを取り返し、壊滅させた後、これ以上他の島の人間にドラゴンが兵器として、道具として扱われることのないように、ヒック達はドラゴンに別れを告げ、彼らは誰にも見つからない「聖地」へと旅立っていった…ここで注目すべきは、この展開されたストーリーのほとんどが、『ヒックとドラゴン2』を受けてのものだったということだ。「ヒックとトゥースの別れ」でさえも、前作で仄めかされた要素に対するアンサーになっている。

 二作目から展開された、『ヒックとドラゴン』にはなかった新たな要素。それは、大きく言ってしまうと「バーク島以外に存在する敵の存在」と「新たな敵との戦いによる犠牲」を、明確に描写したことだ。前者は敵役のドラゴ、後者はヒックの父であるストイックが、その役割を担っていた。

 冷静になって見返してみると、「自由」を描いた傑作であった一作目も、ある程度制限され、省略された世界観の中でそのテーマを貫いていたことがわかる。物語の主な舞台は最初から最後までバイキング「だけ」が住むバーク島で、他の島の人々の存在はほのめかすことすらしないし、長い戦いの中で固定化されてしまった二種族間の争いを描きながらも、作中で直接的にドラゴンや人間が死ぬ描写はほとんど存在しなかった。

 そんなある程度省略され、決定的な一歩を踏み出していない世界観だったからこそ、『ヒックとドラゴン』は一本の映画分だけの尺で、2つの種族の対立からの共存を大きな破綻なく描くことができた。それ自体は実に素晴らしいことだが、続編をつくるにあたって、作品を一歩前に進める必要がある。その結論として導かれたのが、世界観をより現実に寄せ、その中で新たに物語を終わらせる、ということだったのだろう。

 だからこそ、ドラゴンを狙う新たな敵が現れ、ドラゴンの数もバーク島の許容量を大きく超え、だんだん状況が「現実味」を帯びていく中で、ヒックはバイキングの長として、ドラゴン達を愛する者として決断を迫られる。このままじゃ、いつか大切なものを失ってしまう。今回はなんとか守りきれたけど、きっともっと強い敵が自分達の前に立ちはだかり、ドラゴン達を奪っていってしまうだろう、と。バイキング以外の人間が描かれ、ドラゴンの兵器としての有用性がはっきりと描写された世界では、一作目の時と同じではいられない。どうにかして、彼らを守らないといけない。

 その解決策が、人間とドラゴンを引き離すことだった。引き離して、ドラゴン達を手の届かない場所へ送り届けることが、お互いが幸せになれる唯一の方法だと。誰よりもドラゴンを愛し、誰よりも彼らのことを想い、誰よりも彼らと一緒にいることを望んでいたヒックが下した、この決断。一見一作目のラストを否定しているように見えるのだけれど、一旦立ち止まって考えてみて欲しい。『ヒックとドラゴン』で描かれたヒックの「自由」さとは、過去の価値観を壊すことに何も恐れない、その勇気ではなかったか。つまり、今作のヒックの決断は、ただ一作目で描かれた共存を「過去」とし、新たな未来を創り出したに過ぎないのだ。トゥースを殺さずに助け、共に空を飛び、共に人間とドラゴンを救ったあの時と、同じように。

 そう考えると、終盤の絶体絶命の状況に希望を失ったヒックにアスティがかけた「あなたはずっとイカれてる」という言葉も、ドラゴンハンターのグリメルが幼い頃にナイトヒューリーをナイフで刺し殺した過去を持つ、いわば「アナザーヒック」なのも合点がいく。最初に僕が結論づけたように、『ヒックとドラゴン』シリーズは三作通して同じテーマを貫き続けたのだ。「自由」であることの大切さを、素晴らしさを、ヒックは叫び続けている。

 

 

 

 

 

 また、今作で更に素晴らしいと感じたのは、「現実では、人間とドラゴンは共存できない」と片付けてしまうのでなく、「ドラゴン達は待っている。共存できるようになる、その時まで」と未来に希望を持たせる終わり方になっていることだ。それだけでずっとシリーズのファンだった人には救いになるし、物語のテーマをもう一歩、身近に感じられるようにしてくれた気がする。

 ラストシーン、大人になったヒックは、自分の手を伸ばし、トゥースと再開することが出来た。もう一度共に空を駆け回り、子どもたちにドラゴンの存在を伝えることも出来た。ただ、今の僕達はどうだろう。いつか会える時を、ずっと待っている。そんなドラゴン達に顔向けできるくらいには、「自由」でいられているだろうか。もし彼らが現れた時、僕達は、一緒に空を飛ぶことが出来るだろうか。