石動のブログ

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香川県のゲーム規制条例案に対して湧き上がってきた怒りと、その源泉たる超個人的な話

 先日、香川県コンピューターゲームの利用時間を1日60分とする目安(あくまで目安)を盛り込んだ条例案が議会に提出されることが決まった。

 それに対する文句は、山ほどある。依存性のあるものを制限するなら他にも対象がいくらでもあるだろとか、各家庭の子育ての方針としてゲームのプレイ時間を制限するならともかく、「目安」とはいえ県の条例でそれを行うというのはどうなのかとか、言っていけばキリがない。

 でも、そういったことはこの条例案に反対している人全員が同様に思っていることで、今更僕が主張しなくてもいいだろうな、と思う。別に僕の主張がオンリーワンであって欲しいという感情があるわけではなく、ただただ今更やる気が起きない、というだけで。

 ただ、その様々な怒りの源泉たるものに関しては、たとえ他の誰かが同じようなことを言っていたとしても、どうしても声を大にして言いたいのだ。自らの内に秘めておくことは、どうにもできそうにない。

 というわけで、もう一度言っておくと、これから書く文は僕自身の偏った経験によるあくまで超個人的な話である。その端に、差別的な感情が残っている可能性も否めない。途中で引用する資料も、実はいまいち信憑性に欠けるものだ。この怒りは、突発的で、個人的で、裏付けもとっていない、理性が何一つとして伴っていない薄っぺらいものだ。でも、それでも宣言しておきたい。

 

 ゲームと同様に、「読書」とは娯楽である、と。

 

(以下、本当に超個人的で根源も曖昧で無秩序な怒りをぶちまけてます。汚い言葉も使っちゃってます。嫌な予感がした人はブラウザバック…)

 

 

 

 どうして急に読書の話になったかというと、上のツイートについての話である(つまりさっきも言ったように、あまり信憑性は高くない)。このツイートによると、香川県は「ノーメディア」を目標として掲げ、ゲームは愚か、パソコンやスマホ、テレビや音楽プレイヤーまで制限しようとしている、ということである。

 最早外からの情報を遮断して鎖国でもしたいのかなと思えるほど愚かだなあと感じるのだが、問題はそこではない。画像のプリントの4番の「振り返り」、「ノーメディアの間にしたことを教えてください」という欄を見て欲しい。そこにある選択肢の中に、「②読書」と書いてあるのに気づいてもらえるだろうか。

 読書も情報を保存する媒体=立派な「メディア」では…というのは置いといて、僕が怒りを覚えたのは、ゲームやテレビ、音楽、ネットサーフィンを「悪いもの」として制限しようとしているのに、読書は平然と許されている、ということである。読書も禁止しろーと言いたいわけでなく、読書と他の娯楽との間に隔たりがある(とされている)のがひどく間違っていると思うのだ。

 このプリントを見る限り、様々な娯楽は「悪いこと」とされ、その代表的な例であるゲームは条例で制限されようとしている。そして読書は「悪いこと」の中には入らず、勉強や家族の手伝い、家族との時間に類するような、「良いこと」とされている。この認識の差が、この2020年においては甚だしく非現代的でありながら、日本に強く根付いている「読書は良いこと」という考えを如実に表しているように感じる。

 

 

 僕は、読書が好きだ。たまらなく好きだ。文字を追い、文章を読み、物語を、キャラクターの心情を理解し、読み取って、心に刻みつけていく。結果的に心に残る物語そのものも大好きだが、文字を介して、文章を介してそれらを取り入れていくという行為そのものも、たまらなく魅力的だと思う。

 そこまで読書を好きになったきっかけは全くと言っていいほど覚えていないけれど、小さい頃からずっと好きだったことは覚えている。特別遠ざかった時期もなければ、ハマりにハマった、という時期もなかった。読書は常に、一定の距離で、僕の近くにあった。

 だからこそ、読書をしている時、いつも「大人」がかけてきた言葉が、非常に印章に残っている。言い方こそ様々だが、大体のニュアンスとしてはこうだ。「本が好きなのかい。偉いねえ。」。

 子どもの頃は、その言葉に疑問を抱かなかった。むしろ嬉しいとさえ思った。得意なことやできることがあまりなかった僕にとって、それはとても珍しい、他人に褒められる機会だったのだ。

 しかし、それを理由に読書量を増やす、ということもなかった。さっきも言ったように、僕と読書の距離はほとんど一定だった。なぜかと問われると答えに困るけれど、もしかしたら、と思うことはある。もしかしたら、「褒められるから読書をする」という動機が、自分にとってひどく矛盾していると、子どもの僕は無意識の内に気づいてたのではなかろうか。

 矛盾してるって何が、という話になるのだが、これに関しては、いつものように長々と述べる必要も無い。簡単な話だからである。僕は、読書が好きだった。本を読むことが好きだった。だから読書をしたのだ。好きで本を読んだのだ。そこに、「誰かに褒められたい」という願望が入り込む余地はない。だって、僕にとっては、「読書は娯楽」なのだから。気まぐれに、思いのままに。「好き」という感情にしたがって、僕は本を読んだに過ぎない。

 そのことに気づいた瞬間、「偉いねえ」と声をかけてくる大人達が、何も分かってない大馬鹿野郎に思えてきた。一冊読破したのでゲームを始めた僕に「本を読みなさい」と言う母親の言葉が、間違っているとわかってきた。なんで偉いんだ。なんで本を読まなくちゃいけないんだ。僕は好きだから本を読んでたんだぞ。ゲームをやるのも好きだからだぞ。なんで大人の中では、本とゲームの間に差があるんだ。(勿論僕と違って純粋に勉強のため本を読む方も多いだろうが、少なくとも一定数いる「娯楽のために本を読む子ども」を「偉いねえ」とするのは間違ってる、ということを言いたいのだ)。

 

 

 その理由を、ディスプレイと紙、ふたつのメディアの違いに求めるのは簡単である。ゲームの画面からは目に良くない光が出てるから。だから、本を読んだ方がいい。ゲームをやらず、本を読む子は偉い。

 しかし、あえて言わせてもらうと、本を読む子どもを見て「偉い」だなんて言う大人の感情の根源は、そんな実際的な、健康志向に毒されたモノではない。勿論それを特定する証拠なんてない。僕の偏見である。僕の実体験からの独断的な偏見である。でも、誰になんと言われようと、偏見だとわかっていようと、僕はそうとしか思えない。それに、僕の偏見が間違っていたとして、健康志向の実際的な考えから読書をする僕に「偉いねえ」と彼らが言っていたのだとしても、それは到底許されざる行為だと思う。

 だって考えても見て欲しい。その大人達の前に、読書が大好きな少年と、ゲームが大好きな少年がいるとする。彼らは、各々好きなことをする。読書好きの少年は本を読み、ゲーム好きの少年はゲームをするだろう。その光景を見て、大人達はこういうのだ。「本を読むなんて偉いねえ」「君も、ゲームなんかやめて本を読んだ方がいいよ」。

 読書もゲームも、本人にとっては「好きなこと」でしかない。もしその間に何かしらの違いがあるとするならば、それは「趣味」や「好み」、すなわち「個性」や「自己」しかありえない。そのふたつを「良いこと」「悪いこと」に「差別」する。それは、子どもの個性を押し潰し、大人のいいように矯正する、最低最悪の行為にほかならない。

 それならまだ「勉強こそ最も優先されるものだ」と子どもの自由を奪うことの方がマシだ、とさえ思う。その他は全て悪だ、と。それならまだ平等だろう。「生来的に勉強を好きな子ども」と「生来的に勉強が嫌いな子ども」の間に不公平が生まれるかもしれないが、そんなのは今の世の中でも同じだし、今よりはマシだ。一部の個性だけを抑圧するなんて、どう考えたって間違ってる。それのどこに正当性があるのか。それが許されない行為だと、なぜ気づかないのか。「ゲームやテレビが悪」で「読書は正義」だなんて考えが時代に取り残された「老害」のそれだと、なぜ気づかないのか。

 実際にゲームのプレイ時間が一定を超えると学力が下がる、というデータがある? らしいな。どこの誰がどんな目的をもって調査したのか知らないけど、あるらしいな。それが? だからどうしたって言うの? そんなデータがあったって、一見正当性があるように見えたって、その本質は旧時代的な差別でしかないぞ? 学力のためならなんだって許されるのか? ほんとにそう思ってるのか? それなら、子ども達に勉強だけを強制してみればいいんじゃないか? それをしないってことは、今の決断が間違いだとわかってるはずだろ? なんで、どうしてこんなことをするんだ?

 

 

 

 …という、わけでした。結局超個人的な話を逸脱して最後色々とぶちまけてしまいました。お見苦しいところをお見せしてしまいました。でも、後悔はしていません。