石動のブログ

アニメやら特撮やら映画やらの感想を書きます。

『天気の子』と『君の名は。』

 『天気の子』。

 あの『君の名は。』をつくった新海誠監督の新作ということで、情報が出てからとても楽しみにしていた映画だった。しかし、お金の都合で公開した直後に観ることができず、悶々と日々を過ごした。自分の好きなブロガーさん達が感想を上げたりしていて、それを読まないように我慢するのはめちゃくちゃ辛かったが、それよりも気になっていることがあった。それは、Twitterなどで流れてくる「賛否両論」の四文字だ。

 自分は新海監督の作品を全く視聴したことがないので偉そうに語ることはできないのだが、少なくとも前作の『君の名は。』は、エンタメ成分でその8割が構成されているような、そこまで賛否別れるタイプの作品だったように感じる。実際色んな人にウケてすごい興行収入を記録してたし(8月末公開なのに12月半ばとかまでやっててビビった)、自分も作品を存分に楽しむことができた。批判的な意見も見かけたけど、褒める意見しかない、なんて作品はこの世に存在しないし、その主張もちゃんと納得できるものだった。

 だから、今作の公開当初の反響はとても意外だった。批判する意見があるのは別に普通だが、「面白かった」と言っている人ですら「でもこれは賛否両論別れるかもなあ」と言っていて、「一体どんな内容なのだろう…?」とずっと思っていた。反響の感じからして作品の完成度云々よりその方向性自体が合う合わない、という話をしているのはわかったが、それだけだ。映画本編を観るその時まで、全く想像ができなかった。

 しかし実際に作品を鑑賞したところ、すぐに理解することができた。「ああ、なるほど」と、様々な疑問が氷解していった。確かに『君の名は。』のようなエンタメマシマシ、エンジン全開な内容ではない。ただ、それの目指している場所自体は、『君の名は。』と同じ…というか、そのさらに先へ行っているような気がした。

 

 

 

天気の子

 まずさらっと全体の感想を書いておくと、とても良かった。脚本は丁寧で伏線もちゃんとしており、RADWIMPSの担当する音楽も絶品(歌詞入りの挿入歌はちょっと食塩気味なところはあったけど)。PVを見た時から分かっていたことだが、絵もとても綺麗で、作中で印象的な「晴れ」や「雨」の描写が特に素晴らしかった。

 また、キャラクターがすごく自分の好みで、凪のプレイボーイながらちゃんと普通の少年らしいところが垣間見える感じは良かったし、夏美さんはめちゃくちゃエロ可愛かった。エロ可愛さというか、色っぽい可愛さならヒロインの陽菜も負けていなくて、声優さんの力なのか(歳下なのに)お姉さんパワーが半端じゃなく、さらに浴衣やバスタオル姿を披露した時の色気が天元突破していて、終始穂高くんのようにドキドキしながら観ていた。

 

 

 

君の名は。

 そしてここからが冒頭で書いた話なのだが、今作を語る上で、『君の名は。』という作品の存在は欠かせないものだと思う。それはただ単に観客側が無意識の内に今作と前作を比較しながら観てしまう、ということだけではない。明らかに作り手側、つまり新海誠監督本人が『君の名は。』の一部を下敷きに『天気の子』を作っているように、僕は感じた。

 前作において、様々な意見が交わされる中、自分が一番納得し、記憶に残っている批判は、「震災をテーマとして扱うならば、全てなかったことにする、というのは果たして正しいのか」というものだ。自分は当時全く知らなかったが、『君の名は。』は震災に対するメッセージのようなものを孕んでいるらしく、確かにそう考えるとあのラストは納得いかない。『君の名は。』のエンディングは完全なハッピーエンドだ。事件自体が登場人物の頑張りによりなかったことになって、彗星で出た死者の数はほとんどゼロになり、ヒロインは生き残り、最後には主人公と再開までしてしまう。このラストにどうこう言うつもりはないが、現実で死がなかったことになるなんてありえないし、もしあったとしても時間を書き換えるなんて許されていいことではない。

 その意見を耳にした新海監督は思ったのではないか。「しまったな」と思ったのではないか。ただ、それは安易に震災を取り扱ったことに対する後悔ではない。自分の描いた「代償」が、上手く観客に伝わらなかったことによるものだ。

 

 

 

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 『天気の子』において、我らが主人公帆高くんは、ヒロインの陽菜を「天気の巫女」の運命から解放し、命を救う。こう書くとまるで『君の名は。』の瀧くんが大掛かりな作戦と強い意志でかっこよく三葉を救った(といっても、途中からリタイヤするんだけど)様子が頭の中に思い描かれるが、残念ながら帆高くんはそんなにかっこよくない。キャラデザからして瀧くんより等身が低いし、家出少年だし、女の子に対して洒落たことはできないし、世間知らずだし、そもそも陽菜が消えたことの責任の一旦は彼にある。

 要するに、不完全な少年として、帆高くんは描かれているのだ。天気を変えるなんて大それたことの代償なんて全く意識せず、それをお金稼ぎに使い、その挙句に陽菜が消えて泣き叫ぶ。終盤で凪に「お姉ちゃんを返せ!」と言われるまで、彼が自分の責任を振り返ることもあまりない。ただ晴れを喜ぶ人々に「何も知らないで」と吐き捨てるだけ。序盤でも、拾った拳銃を人に向けて撃つのは、「玩具だろ」と思っているにしても、流石にやりすぎである。

 しかしその不完全な少年は、考えに考え抜いて、答えを出す。「俺は晴れよりも、陽菜が大切だ」。前半でこれでもかと描かれた晴れの素晴らしさを捨てて、たくさんの人に尽くしたことを裏切って、それでも陽菜を救おうと走り続ける。一度捨てた拳銃を、それが危険な力と知りながらもう一度手に取り、自分を邪魔する大人に向ける。それは、一体どんなことを意味しているのか。

 

 

 

 

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 『天気の子』だけに言えば、それは普通に盛り上がりどころ、と言えるだろう。色んなことに無自覚だった無知な少年が、世界の真実を知り、それでもなお自分の求めるものを掴もうと手を伸ばす。「大人になってしまった帆高」とでも言うようなキャラクターである須賀と穂高くんが向かい合うシーンは最高だし、彼が最終的に日菜を救うための手助けをするところなんて涙が出た。

 ただ、『君の名は。』を踏まえるとどうだろう。立花瀧も森嶋帆高も、好きな女の子を救うために走り、助けることができた。この点は同じだろう。ただ一つ、差異がある。瀧くんと違って、帆高くんは、明確に失っているのだ。色んなものに、彼は背を向けている。

 これこそが、前作の震災に関する意見へのアンサーなのだろう、と思う。大きな出来事を変えるには、それ相応の大きな代償が必要である。それを描くことで、「なかったことにすればいいよ」と伝えたかったんじゃないよー、と主張しているのだ(そのアプローチの是非はともかく)。

 思えば前作も、「代償」に関する話があったように思わないでもない。御神体へ口噛み酒を奉納しに川を渡る際も「ここを通るには大切なものを置いてかなきゃいかん」みたいなこと言ってたし、瀧くんの場合はその「大切なもの」、即ち代償は三葉と再開するまでの数年間だったのかな、と(小説版にずっとモヤモヤして虚無ってた、的なことが書いてある)。ただ、それは決して十分なものでなかった。だからこそ、『天気の子』はこのようなものになったのではないか。物語の迎えた結末に感動し、涙しながら、そんなことがふと、頭の隅に浮かんだのだった。

 この作品には瀧くんと三葉、四葉、テッシー、さやちんといった、前作のキャラクターが多数登場する。『君の名は。』でも『言の葉の庭』のキャラが登場していたそうだが、それを考慮しても今回のゲストキャラクターは多い上に出番が印象に残る感じていたが(特に瀧くんの風格は最早レジェンドライダーのそれで、あの流れのまま「君の名は。ライドウォッチ」を渡されてもおかしくなかった)、彼らが出てくることによって、『天気の子』と『君の名は。』の関係がイメージしやすくなる…ような、気がする。

 また、こんな面倒な理屈を振りかざさなくても、単純にラストを比較すればシンプルな答えが見えてくる。全てを無かったことにした前作と、大きなものを残したまま終わった今作。そこの意識には、大きな差がある。

 

 

 まあ長々と書いたが、要するに僕は嬉しかったのだろう。『君の名は。』はどうしようもなく好きだし、ブームも相まって劇場で二回も観た唯一の作品だけど、先述の批判を見た時、「確かに…」と思わざるを得なかった。どうしようもない欠点に気づいてしまったのだ。しかしその数年後、その欠点に向き合い、否定せず、さらに先へ行くような作品が作られた。少なくとも、前作に対するそのような反応に対する答えのようなものを僕は感じとり、長い間欠けていたパズルのピースが埋まったような、そんな感覚を覚えた。それが、たまらなく嬉しかったのだ。