石動のブログ

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『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』で、気づいたこと

 大分前の話になるが、8月の中旬、公開から一ヶ月が経過してから、『ミュウツーの逆襲EVOLUTION』を観た。

 全体的な感想としては、「安全」な仕上がりになっていたと思う。流石に最近のディズニー作品などと比べたらクオリティは下がるが、3DCGによる映像は普通に綺麗だったし、声優陣の演技は勿論バッチリだったし、小林幸子さんとしょこたんによる主題歌のリメイクが流れるエンドロールはなかなかグッときた。

 ただ、「安全」というオブラートに包んだ評価を取り去ると、(思い切った映像の割に)どこか常に「無難だなあ」という空気感が伝わる作品であったのも事実だ。その筆頭が脚本で、構成や尺を除いてほとんど原作まんまなのが残念で、ディレクターズカット版の要素を付け足しても良かったように思うし、出来ることなら続編の『我ハココニ在リ』なども組み込んで欲しかった。

 そんな作品の性質からか、ネットなどでレビューを漁ってみると、「虚無」、「リメイクする意義はあったのか」と低い評価をする人をよく見かける。確かに自分もちょっと思わないでもないし、特に上映時間の最初の方…導入にアイツーが出てこず、リメイク元と全く同じ始まり方をした時は、強くその後者の言葉が過ぎったが、こうして文章を打っている今は、迷いなく「意義はあった」と断言することができる。少なくとも僕にとっては、この作品は「観て良かった!」と言えるものだったのだ。

 その理由こそが、タイトルにある「気づいたこと」だ。映画館という、観ることを強いられる場所で、『ミュウツーの逆襲』を観賞する。その体験が、僕に作品へのさらなる理解のチャンスを与えてくれた。今回は、その「気づいたこと」について書きたいと思う。

 

 

 

 

劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲

 まずは前提条件、僕が今作を観る前の『ミュウツーの逆襲』に対する印象として、「よくわからない」というものがある。それは作品がとっちらかってるとかそういう意味ではなくて、サトシやロケット団ピカチュウミュウツーという様々なキャラクターが、自己を巡る戦いに対して、各々の様々な答えを出す。その全てに圧倒的な描写による説得力が伴っていて、全く別の方向を向いているアンサー達が「自己」というテーマに普遍性をもたらしている、ということなのだ。それを一言で表すと、「よくわからない」ということになる。

 確かに、その印象は間違っていない。今でも、意図的につくられた「よくわからない」感は『ミュウツーの逆襲』の最大の特徴だと思っている。ひたすらに色んな主張を取り入れ、混沌と化した戦いが終わった後、記憶を失ったサトシ達のセリフによって、あまりにもあっけなく、しかし確かな答えが打ち出される。そこに、物語の魅力があるのだ。

 ただ、ディティールに関する理解が足りていなかった。物語の中盤、ミュウツーが生み出され、研究者達に反乱し、サカキの言葉に従って戦い、人間への逆襲を誓い(ここで涙腺が緩みそうになった)、最強のポケモントレーナーとしてサトシ達の前に立ちはだかり、彼らを圧倒し、ポケモンのコピーをつくり、ミュウが現れてオリジナルとコピーの戦いが始まってからの、一連のシーン。そこにおいて、「ポケモンアイデンティティ」という非常にデリケートな要素が、作品に織り交ぜられていたのだ。

 

 

 

 

 

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION

 「なんで戦うの…?」というような(うろ覚え)カスミとタケシの言葉。「自己」を貫くために、ただひたすらに相手を傷つける。そんなポケモン達の姿は、人間である僕達の目にはひどく悲しく写っている。

 しかし、その傍らでジョーイさんは言った。「ポケモン達は戦いをやめません。あれは、自分の縄張りを守るために戦っているのですから」

 そのセリフに、とてもハッとさせられた。そしてその後の展開が頭に閃き、「そういうことだったのか!」と体に電光が走り去ったような感覚を覚えた。

 縄張りという言葉は、現実世界では動物を対象に使われることが多い。現代の人間の欲求も心理学とか脳科学で分析していけばその言葉が根強く残っているのかもしれないけど、少なくとも露骨に縄張りを主張したりはしない。もっとオブラートに包んでその根源的欲求を果たそうとする。

 そんな言葉を、ポケモンに対して使った。そのシーンを見た時に感じた最初の感情は、気になるようなならないような、なんとも言えない感覚だ。違和感はあるけど、納得もする。これこそが、『ミュウツーの逆襲』の様々な要素のひとつ、「ポケモンアイデンティティ」を理解する重要な手がかりになる。

 

 

 

映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!

 ポケモンというコンテンツは、非常に長い間続いてきた。その人気は不動であり、どの世代にも一定のファン数を獲得してきたが、ライバルがいなかったかと言われると首を横に振ることになるだろう。

 妖怪ウォッチデジモンなど、「人間と共にある、可愛い、しかし奇妙な別のモノとの物語」というのは、非常にありふれたものだと思う。その始祖が誰かはわからないし、それをメインに据えた作品がどれだけあるか、僕には把握し切れない。失敗した作品も、成功した作品もあっただろう。妖怪ウォッチなんかは、一時期任期が急上昇し、「第二のポケモンか!?」とまで言われていた。

 そんな多くの作品群。それら全て…とは言えないが、少なくともさっき例にあげた二作品と一線を画す特徴が、ポケモンにはある。それは、「ポケモンは人間の言葉を喋らない」ということだ。

 いや確かに、例外は沢山ある。アニメに登場するでんせつ・まぼろしポケモンの大半はテレパシーを使って人間とコミュニケーションをとるし、ロケット団ニャースに至っては口から人間の言葉をベラベラ喋る。初期案ではピカチュウが喋る予定だった、という噂もある。

 しかしそれらは、あくまで「例外」に過ぎない。まぼろし・でんせつのポケモンはあまりテレビ本編には登場しないし、ニャースには「人間の言葉を覚えたせいで好きな子に嫌われる」という、ポケモンは人間の言葉を喋らないことを前提にした悲劇的な過去が設定されている。基本的に、ポケモンポケモン固有の「鳴き声」で意思疎通するのだ。

 このことと、ポケモンフードの存在などから描かれてきた、歴代シリーズでのポケモンと人間との(ペットと飼い主のような)交流の形から導き出されるのは、ポケモンは人間よりも動物に近い生き物だということだ。ポケモンのデザインはほとんど何かしらの動物が元になっているし、当然と言えば当然の話である。

 故に、ポケモンに「縄張り争い」という概念を取り入れられても、納得感はある。ポケモン≒動物と考えるなら、何ら濁りのない展開として、僕の頭の中にスっと馴染んだことだろう。

 しかし、そんなことはなかった。納得感と同時に生まれたのは、なんとも表現しがたい違和感だった。

 ではなぜ、僕はそんな矛盾した二つの感情を前に戸惑わなければならなかったのか。その答えは、『ミュウツーの逆襲』終盤の展開の中にある。

 

 

 

「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」ミュージックコレクション (初回生産限定盤) (特典なし)

 物語の終盤、ポケモン達の争いを、ピカチュウを殴り続けるコピーピカチュウの姿を、力尽きていくポケモン達を目撃したサトシは、矛盾を抱えながら、ミュウとミュウツーの戦いの間に割って入り、二匹の攻撃をモロに食らってしまった。後に残ったのは、石となったサトシの体のみ…。

 そんな光景を見て、サトシがもう起きないことを知って、ピカチュウは悲しんだ。悲しんで悲しんで、ついには涙を流した。それに影響されて、他のポケモン達も、目に涙を浮かべ、戦いをやめた。

 その涙が、ポケモン達に人間に近いものが存在することの証明のように思えるのは、僕だけだろうか。

 「感情のために涙を流す生き物は人間だけ」というような説がある。ある科学者がそう結論づけていたらしく、テレビでやってたのかどうかわからないが、どこかで僕はそのことを知っていた。

 調べてみると様々な説があり、必ずしも上の文章が正しいというわけではないのかもしれないが、少なくとも僕は、動物が少し悲しいことがあったからっておいおいと目から涙を流した場面をあまり見たことがない。大人でも、小さな子どもでも、彼らの感情の表現は人間とは少し異なるような気がする。

 それに、涙を流すということに拘らなくても、これまでのシリーズ展開において、ポケモン達が僕達に見せてくれた様々な感情の表現は、その表情は、どこかに人間を想起させるものがあったと感じる。現実世界の動物よりもっと近いものを、彼らの中に見出すことができたのだ。ポケモンは動物に近い生き物だけど、人間的な部分も確かに持ち合わせている。そのことを、『ミュウツーの逆襲』はしっかりと示していたのだ。しかも、それを様々な「自己」というテーマに対する答えのひとつとして、物語の普遍性の一部に組み込んでいる。この作品が『ポケットモンスター』初期につくられたことも加えて、恐ろしい完成度である。

 

 

 

 

ポケモン!きみにきめた!

 ポケモン達の涙を見て、ミュウとミュウツーは戦いをやめた。縄張り争いに、動物としてのアイデンティティに拘る必要はないと、ポケモンには人間としてのアイデンティティがあると気づいたからこそ、心に平穏を取り戻したのかもしれない。

 ポケモンの中の「人間性」が生み出した涙は、矛盾にまみれたサトシを救った。それをミュウツーが見て戦いがなかったことになったから、カスミは「ここにいるから、ここにいるんでしょ」とあっけらかんとした答えを提示できた。それには、きっと大きな意味がある。

 今回の発見は、ポケモンというコンテンツへの深い理解と感動を、僕に与えてくれた。原作の素晴らしさに再度舌を巻くと同時に、それに気づく機会をくれた『ミュウツーの逆襲EVOLUTION』に対する深い感謝の念を感じながら、僕は二ヶ月前に劇場を後にしたのであった。