石動のブログ

アニメやら特撮やら映画やらの感想を書きます。

感想『仮面ライダーゼロワン』29話 「夢」、それこそが自分である証

S.H.フィギュアーツ 仮面ライダーゼロワン 仮面ライダーバルカン シューティングウルフ 約150mm PVC&ABS製 塗装済み可動フィギュア

 『仮面ライダーゼロワン』。

 1クール目はそこそこ楽しんで見ていた覚えがあるのだけれど、天津垓が台頭し、お仕事五番勝負が始まってからのエピソード郡は、「いまいちノれないなあ…」となってしまっていた。

 

 理由は沢山あって、天津垓が何の魅力もないクソ野郎なのにやたら強いし他のキャラを手玉に取るしでフラストレーションが溜まるっていうのも、単純に同じような内容が繰り返されているのが退屈だっていうのも、ヒューマギアの煽り耐性の低さとゲストキャラの人間性のゴミ加減に引いていたのも、あると思う。

 ただ、そういった細かい不満点を上回り、『ゼロワン』視聴中の僕の頭の中に常に存在していたのは、「これは一体、何のお話なんだろうか…?」という疑問だ。この作品がどこに重きを置いているのか、僕にはさっぱりわからなかったのである。

 

 アークにラーニングされた悪意で暴走する新フォームとか、感情を抑えきらなくなって怪人に変身する人間とか、お仕事五番勝負の中で或人が見つけた「ヒューマギアは人間を写す鏡だ」という答えだとか、「本質的には人間とヒューマギアは変わらないんだよ」というのを言いたいのはわかったのだが、それがどうしたんだ、っていう話で。最近の展開の先にあるものが、いまいち見えてこなかった。もうひとつのテーマの「夢」とのリンクもいまいち上手くいっているように感じなかったし。

 それで、ですよ。今回の『ゼロワン』29話を見たんですよね。いやあ〜素晴らしい! 見ててすげー「なるほど…なるほどなるほどそういうことか!!!」ってなりましたよ。王冠の金の純度を確かめる方法を思いついたアルキメデスの気分。エウレカ。我、発見せり。

 というわけで、『ゼロワン』29話で得られた、この作品に対する理解をつらつらと書いていきたいと思います。以下、本編と『仮面ライダー 令和 ザ・ファーストジェネレーション』のネタバレありです。

 

 

 

仮面ライダーゼロワン DXヒューマギアプログライズキーセット

 先ほども少し書いたように、『ゼロワン』には、大きくわけて2つの側面がある。まずひとつは、「人間とヒューマギアの物語」という側面だ。AI搭載人型ロボット「ヒューマギア」の存在する世界で、主人公の飛電或人はそのヒューマギアを製造する会社の社長に任命される。滅亡迅雷.netなる謎の集団との出会い、ヒューマギアの暴走、彼らとの戦い…それらを通して「人間にとって、ヒューマギアとは何なのか」を考え、知っていくという流れが、ゼロワンの根底には走っている。

 

 様々な出来事を経て、或人は明確にヒューマギアへの想いを強めていく。正直作品の序盤は「自分を助けてくれた父さんがヒューマギアだから」「接してみたら良い奴そうだったから」という理由だけで動いていたようにも見えた彼は、ヒューマギアを「人間の鏡の存在のような存在」と定義した。人間にラーニングされた知識をなぞるだけでなく、それを理解し、時には逆に人間が忘れていたことを思い出させてくれる。そんな素晴らしい可能性が、ヒューマギアにはあるのだ。

 だがしかし…いやその可能性を持っているからこそ、世間のヒューマギアへの風当たりは強くなっていく。ヒューマギアは、ただの道具じゃない。知識を理解しようとする機能が設定されている。その機能故に、自己を抱いてしまうこともある。結果として、人間への怒りを抱いたヒューマギアは暴走し、人間を傷つけてしまう。道具に自己が芽生えるとは、こういうことなのだろう。人間からしたら迷惑でしかないし、ヒューマギアの存在が問題視されていくのも、ある意味当然だ。

 

 その一方で、人間とヒューマギアの関係も、別の方向で掘り進められていく。お仕事五番勝負に関わった人間の中で、自分自身の感情のために、怪人へと変身する者が現れ始めたのだ。怒りや嫉妬、不安に駆られてヒューマギアを破壊しようとするその姿は、暴走するヒューマギアと大差がない。いや、根本的な点では似てさえいるのだろう。「他のものからラーニングし、自分自身の感情を、自己を形成していく」という点では、人間とヒューマギアの在り方は、ほとんど同じだということがわかってくる。

 

 ただ、この「人間とヒューマギアの物語」という側面に対するアンサーは、作中ではここまでしか描かれてこなかった。ヒューマギアと人間は同じだってところで、止まっていたのである。問題提起は行っているが、解答がどこにも存在しなかった。つい、この前までは。

 

 

 

仮面ライダーゼロワン DXランペイジガトリングプログライズキー

 その穴を埋めたのが、『ゼロワン』29話であり、作品のもうひとつの側面たる「夢の物語」だ。第1話、或人が仮面ライダーとして、社長として戦うことを決意させた「夢」が、『令ジェネ』で或人が飛電其雄に誓った「夢」が、今回で不破さんがいつか掴むことを宣言した「夢」が、人間とヒューマギアの関係性が示すテーマ性、「自分とは何か」、「道具とは何か」に対するアンサーとなっている。

 今回と前回で、ショットライザーを使用して変身していた不破さんと唯阿さんの頭の中にはチップが埋め込まれており、二人はいつでも天津垓によるコントロールが可能であったことが判明した。その事実を否定しようとする不破さんだったが、もう既に彼の意思は一時剥奪され、滅亡迅雷.netの一員として人々にレイドライザーという武器を与えていたことを知らされる。ハッキングには、抗えない。天津垓の命令は絶対であり、二人は彼の「道具」でしかない。なんとか抵抗しようとする不破さんに、天津垓は「道具が意志を持つな!」と言った。

 天津垓どころか、迅にもチップをハッキングされ、更には滅に「亡の器」として扱われ、絶望のどん底に落ちる不破さん。「俺は道具じゃない!」と否定しようとも、身体は彼の意思とは関係なく動かされる。お仕事五番勝負に敗北し、会社を乗っ取った天津垓がゼロワンをボコボコにしても、「ヒューマギアを破壊しろ」という命令を跳ね除けることができず、彼はイズにショットライザーの銃口を向ける。

 

 しかしその直前、彼の頭の中に一瞬、ある記憶が過ぎった。或人が彼に言った、「その先に、夢はありますか」という言葉。若かりし頃の自分を脅威にさらした、人間にとって危険分子でしかないヒューマギアを破壊し尽くした先に、何があるのか。目指すものがあるのか。不破さんの「夢」は、あるのかと。

 そして、彼は気づく。「夢だなんて、考えたこともなかった」「ああ、いつか見つけてやるよ。俺の夢を!」「刃! お前に夢はあるか! ザイアの奴隷として働いて、その先に何がある!」。不破さんは天津垓の命令を、滅亡迅雷.netの亡としての意志を跳ね除け、自分の意思で変身し、「俺が俺であるために」戦った。

 

 つまり、この展開が、この不破さんの決断こそが、『ゼロワン』の示す答えだったと思うのだ。ヒューマギアと人間の関係性。これまでの物語が示す、ふたつの間の類似性。「人間を操るチップ」という要素が提示した、「人間とは何か」「道具とは何か」「自己が芽生えるとは、一体どういうことなのか」という問題提起。それに対する答えが、「夢を持つこと」なんだと思う。

 ヒューマギアと人間は、似ている。「他のものからラーニングし、自分自身の感情を、自己を形成していく」という点で、とてもよく似ている。これはつまり、極論言ってしまえば、人間がヒューマギアに、ヒューマギアが人間に、その立場が逆転してしまうことだってある、ということだと思うのだ。実際、『令ジェネ』では世界はヒューマギアに支配されてしまって、人間はそれに対抗する反乱分子になり下がった。自己さえ持たなければ、人間は道具と大差ない存在だし、自己を持った道具(ヒューマギア)は、人間と同じステージに立てるのだと言うことを、物語は暗に示してきた。

 では、道具と人間の境界線はどこにあるのか。自己はどのようにして芽生えるのか。その象徴こそが、「夢を持つこと」なのだ。戦って、生きた先に、様々な苦難を乗り越えた先に、何かを目指すことが出来る。何かを見出すことができる。それこそが自己存在の証であり、自分が自分であり、誰かの道具ではない証拠なのだ。『ゼロワン』は今回、不破諫というキャラクターを用いて、そのような答えを打ち出してきたんだと、僕は受け取った。そしてそのメッセージに、とんでもなく感動したのだ。

 

 

 

 といっても、『仮面ライダーゼロワン』もまだ29話。あと1クール以上残ってるし、次回予告でも大々的に「新章開幕!」をアピールしていたから、物語も、テーマ性の追求も、ここでは終わらない。そもそも、飛電或人が、作品の主人公である仮面ライダーゼロワンが、負けたまま終わるわけがない。これからも、『ゼロワン』の描く物語を、全力で追っていきたいと思う。本当に楽しみだ。