石動のブログ

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総括感想『機動戦士ガンダムSEED』HDリマスター 「進化」と「戦争」の物語として、キャラクターの織りなすドラマとして

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 機動戦士ガンダムSEED

 およそ一年半前、テレビの番組表をぼんやりと見つめていた時、ふとそんな文言が目に入った。

 

 『機動戦士ガンダムSEED』は、2002年に放映されたアニメーション作品だ。ガンダムシリーズの中でも所謂「アナザーガンダム」に分類される作品で、『機動戦士ガンダム』に始まる宇宙世紀とは異なる宇宙で物語は展開する。それまでは、宇宙世紀の作品は「機動戦士」、アナザーガンダムは「宇宙新世紀」などの別の命名、というような法則があったのだが、『ガンダムSEED』は初めてそれを破り、アナザーでありながら「機動戦士」の名を冠する作品となり、そのためか初代ガンダムをオマージュしたような設定や展開が多く見られる。

 と、まるでガンダムシリーズのマニアのように語ってしまったが、自分はそれまで一度もそれらの作品を視聴したことがなかった。正確に言えば、一度初代ガンダムに挑戦して1クールくらいで挫折したことはあったし、『ガンダムビルドファイターズ』などのガンプラに焦点を当てた『ビルド』系列の作品は全作楽しんでいたり(『ガンダムビルドダイバーズ Re:RISE』は本当に傑作)はしていたが、戦争を舞台としたハードな雰囲気を最後まで完走したことはなかったのだ。

 ロボットアニメにリアルな「戦争」を持ち込み、そのフォーマットを広めた金字塔的作品。日本のアニメでも屈指の歴史と作品数と多様さを誇る、そのコンテンツとしての巨大さ。数多の作品でそれぞれの方向性で展開されているであろう、ハードでシビアな人間ドラマ。調べる中でイメージされるそれらの要素に、「オタクならいつか見なくては」と、「明らかにハード路線の自分の好きなやつだから見るべきだろう」とは思いつつも、時々なんとなく気になって調べてみるくらいで(上記の豆知識的なものもその中で知った)、実際に作品に触れることはなかった。

 

 「だから」なのか、「しかし」なのか。番組表の中にその名を見つけ、最近やたらゼロ年代の名作アニメを再放送していた地元のテレビ局が『機動戦士ガンダムSEED』を放送すると知った僕の手は、この機会を逃してたまるかと迷わず番組の毎週録画を済ませていた。これから一年、当時の視聴者と同じペースでこの物語を追っていけることに、初めて『ビルド』シリーズ以外のガンダムを視聴することに、気分は高揚していた。

 そして、『機動戦士ガンダムSEED』の再放送が開始された翌日。疲れた身体を引きずるように帰宅した僕は、手洗いうがいを済ませるなりソファに横になり、横になったままリモコンでテレビの電源を入れた。家のハードディスクはテレビが起動してからも接続するまでそこそこの時間がかかる。「録画」のボタンを連打すると、「もうちょっと待て」の意のメッセージを何度も表示された。何度も表示されて、ある瞬間に、画面が興味のない番組から録画番組のリストに変化する。すぐさま「機動戦士ガンダムSEED PHASE-1」を選択すると、待ちに待った映像が再生を開始した。

 

 

01.PHASE-01 偽りの平和

 遺伝子技術により胎内にいる時から両親の望むような調整を受けてきた「コーディネイター」と、一切手を加えられない形で生まれてきた「ナチュラル」。人間はその二つのそれぞれで構成される「地球連合軍」と「ザフト」に分かれ、血で血を争う戦争を繰り広げていた。

 その戦火が年月を経る毎にどんどん大きくなっていく中、地球の(つまりナチュラルの)中立国オーブのスペースコロニーたるヘリオポリスで平和に暮らしていた少年、キラ・ヤマトは、ヘリオポリスで秘密裏に地球軍の新MSが作られていたこと、それを狙ったコーディネイターの国家「ザフト」が進攻してきたことをきっかけに、地球軍の新MS「ガンダム」に乗る形で戦争に巻き込まれていく。そしてその戦場には彼の幼い頃の親友だった少年、アスラン・ザラザフト軍兵士として姿を見せており、二人はそれぞれ敵対する立場で再会することになる。

 

 「二つの勢力に分かれ、戦争を繰り広げている人類」。「ある日突然、その戦火に巻き込まれる主人公の少年」。「運命のいたずらで敵味方の境界線で分かたれてしまった二人」。『ガンダムSEED』PHASE-1で展開されていたストーリーは、僕がガンダムに求めるハードでドラマチックな要素を全て含み、そのうえでお話としても綺麗にまとまっていた。

 加えてロボットアニメ的な作画も素晴らしく、特にオーブが製造していた地球軍の新MS、その中でも唯一ザフトに奪取されず残り、成り行きでキラが乗り込んでしまった「ストライクガンダム」が炎の中立ち上がるカットのカロリーの高さは最高だった。悲劇性に溢れる物語とかっこいいロボット作画、二つの面で王道を見事にやり切ったその面白さは、ある意味で僕の期待通りだったのである。

 そして、その良い意味で期待通りな、ロボットアクションの中で悲惨な「戦争」を展開していく番組進行は、PHASE-1以降も続いた。『ガンダムSEED』が上手いのはその「戦争」の描き方で、最初の1クールでは変に「戦争」という概念やその定義に迫ることはせず、「ロボットアクション」「メインキャラクターの大半を占める14~16歳頃の少年少女の心情描写」という作品の大きな構成要素で徹底的に「戦争」に関連するものを取り込むことで、そのテーマを物語に昇華している。

 ロボットや戦艦に乗った人間が撃墜により一瞬で命を散らす映像と、戦地に身を置くことでその内にあるものを強く顕在化させてしまう、等身大の少年少女が思い悩み葛藤し感情をぶつけ合う描写。彼らの心の移り変わりとそれが大きく変化するきっかけとなる戦闘(ロボットアクション)を追うだけで、「戦争」の悲惨さが感情として自然に理解されるのだ。

 

 そしてそんな1クール目の終わりに差し掛かって、その特徴の一つ「少年少女の心情描写」は様々に絡み合い加熱し、一つの名エピソードを生みだす。自分の中に、『ガンダムSEED』の中でも印象深く残っているそれは、PHASE-10「分かたれた道」だ。

 

 

10.PHASE-10 分かたれた道

 ヘリオポリスの崩壊から、地球軍と合流するために宇宙を旅し続けてきたアークエンジェル。その道中でザフト軍との交戦やユーラシアの軍事要塞アルテミスの陰謀、アクシデントにより宇宙を漂流していたザフトの歌姫ラクス・クラインの救出など様々な出来事に遭遇しながらも、ついに地球が目視できるところまでたどり着いた。

 しかし、アークエンジェルが地球軍の第8艦隊との合流を果たそうとした瞬間にザフト軍の強襲を受け、交戦のさなか地球軍艦隊の一部は撃ち落されてしまう。それにより命を落とした人間の中にはキラと同じ学校に通い今はアークエンジェルを共にする少女「フレイ・アルスター」の父親もおり、「僕が守るから大丈夫」とキラが戦闘前に彼女にかけた励ましの言葉と、彼が実はコーディネイターだったという事実が原因で、キラは彼女に「同じコーディネイターだから手加減したんでしょ!」「この人殺し!」と激しく責められてしまう。

 当然、客観的に見ればフレイのその怒りは筋違いなものだ。戦争はたった一人の人間とMSでなんとかできるほど簡単なものじゃない。キラはその力を尽くして、必死に戦った。できうる限りのことをした。キラの穏やかな性格と彼がずっと平和な日々を暮らしてきたことを考えると、殺し合うことへの苦しみを押さえつけてできることをした(しかし全ては守れなかった)彼は、慰められこそすれ糾弾される謂れはないだろう。

 しかし、キラの視点からすればどうだろうか。戦闘の開始に際して父を心配するフレイを安心させるためとはいえ、確かに自分は彼女に安易な約束をしてしまった。可能な限り抵抗したとはいえ、結局その約束を果たすことはできなかった。

 そして、「同じコーディネイターだから手加減した」という指摘も、全くの間違いというわけではなかったのだ。ザフト軍に所属してヘリオポリスから強奪したMS「イージスガンダム」を駆るかつての親友、アスランと、キラはあの戦場で再び相まみえた。彼との関係が戦う際の足かせにならなかったと、どうして断言できようか。少なくとも自分は、彼を本気で殺そうと思って戦いはしなかった。彼は敵なのに。自分は地球軍で、彼はザフト軍なのに。それこそ、「同じコーディネイターだから手加減した」ということではないのか。

 

 平和な頃に少しの憧れを抱いていた少女に怒りをぶつけられ、キラは苦悩する。自分の立場に、アスランとの関係に、この戦争との関わり方に、苦悩する。その苦悩は、アークエンジェルが劣勢をザフトの歌姫であるラクスを人質にとることで逃れ、さらに彼女を利用しようとしていること、ラクスがアスランの婚約者であること(アスランの父はザフトの国防委員長であり、歌姫の父親とも関係があった)、そしてラクスとの対話を経たことで、一つの覚悟に変わる。キラはラクスをストライクに乗せると、無断でアークエンジェルを出撃した。人質たるラクスを、ザフト軍に返すために。

 何故、キラはこのような行動をとったのか。一見すると、親友サイ・アーガイルが彼を見送る際に「戻ってくるよな」と声をかけたことからも伺えるように、キラがナチュラル、引いては地球軍に見切りをつけ、親友と同族のいるザフトに寝返ったかと思える。しかし、キラの真意は別にあった。ラクスを受け取りに来たアスランの「キラ、お前も来い」という提案に、彼は首を横に振った。

 キラがラクスを受け渡したのは、アスランと対等の関係に……「敵」になるため。コーディネイターとしての迷いを捨てる、戦いへの躊躇いを振り切る、アスランとの決別を告げる。そのために、その中で人質という対等じゃない要素をなくすために、アスランと戦うという事実から卑怯で一方的なそれを排して自分の葛藤に最低限の折り合いをつけるために、彼はこんな行動に出たのだ。自分の差し伸べた手を握ろうとしないキラを、その強い決意を秘めた瞳を、アスランは見た。彼もその決意を受け止め、「次に会うときは敵だ」と、別れの言葉を放った。

 

 これだけ長々と書いたのだから、これ以上語ることはない。「戦争」と、その背景にある二種類の区分間の「壁」……その中で必死に前に進まんとする少年の決断を描いた、名エピソード。1クール目の到達点であったそれは、僕の心に今でも強く残っている。

 

 

13.PHASE-13 宇宙(そら)に降る星

 と、ここで、フレイ・アルスターというキャラクターについても語っておこう。上記のPHASE-10の説明でも出てきた彼女だが、これ以降より一層激しく物語をかき乱し続けていく。『ガンダムSEED』を一番面白くしてくれたのは、間違いなく彼女なのである。急に文脈をぶった切って何を言い出したのかと思われるかもしれないが、要するに、そこまで言ってしまうほど僕はフレイというキャラクターに魅了されてしまったのだ。正直、『ガンダムSEED』はおろか、あらゆる創作作品で一番好きな女性キャラクターかもしれない……。

 

 PHASE-10の行動にも表れているように、『ガンダムSEED』序盤の彼女はひどく平凡な身勝手さを持つ少女だ。ヘリオポリス襲撃の際には自分の身を守ることが第一とはいえ平然と友人を置き去りにするし、アークエンジェルに乗った以降はキラがコーディネイターであることに差別意識を持つわ、余裕のない状況なのにシャワーに浴びたいと駄々をこねるわ、主要キャラでほぼ唯一キラの力になるためアークエンジェルの業務を手伝わないわ、やりたい放題である。

 しかし、その目で父親の乗った艦が宇宙の塵となる瞬間を目撃してから、彼女の中で何かが変わった。正確に言えば内なる差別意識や身勝手さはむしろ大きく増したのだが、その中にあった平凡さがなくなったのである。

 ザフト軍にキラの親友がいる事実を知った際に立ち上った様々な悪感情をきっかけに父の死のショックから回復した彼女は、地球軍第8艦隊に合流したことでやっとアークエンジェルを降りて平和な日々に帰ることができると安心する皆とは正反対に、自ら艦に残りザフトと戦う意思を見せる。父を殺したコーディネイターを、ザフトを許すことはできない。残る理由を問われた際にそう答えたフレイだったが、彼女の真意は別にあった。

 それは、自分という存在を楔にして、キラを戦場に居続けるよう仕向けること。力不足で自分との約束を破ってしまったことは、自分に激しく糾弾されたことは、キラの心の中に消えない罪悪感として残っている。そんな中で自分が艦に残って戦うと言えば、彼は悩んだ末に戦うことを選択するかもしれない。

 さらに、婚約者である自分が残ると言えば、サイも心配してついてきてくれる可能性が高い。サイはキラの親友だ。実際、サイが残ると言い出したことをきっかけに、ヘリオポリスから脱出しアークエンジェルにここまで同乗してきた学生達は、キラの友人達は、艦を降りないと決めた。約束を破ってしまった少女と、ずっと守りたい対象であった(ある意味で彼の戦う理由だった)友人達の決断。ヘリオポリスから救護カプセルで逃げてきた幼い女の子の「守ってくれてありがとう」という言葉が最後の一押しとなり、キラはフレイの狙い通りに再びストライクに乗り込んだ。

 では何故、フレイはそこまでしてキラを戦わせようとしたのか。その答えは単純で、キラとコーディネイターを心の底から憎んでいたからである。自分との約束を果たせず敵軍に親友がいたために手加減した可能性すらあるキラと、実際に父親の命を奪ったザフト軍。両者の背景にある少年の苦悩や「戦争」の構図を無視し、彼女は粘着質な恨みと憎しみを胸の内に抱いていた。

 その結果、「キラを戦場に縛り付け、ずっとコーディネイターを殺し続けるよう操る」「その果てに、精神も肉体もボロボロになって死んでもらう」という目的を持つようになったのだ。キラにその圧倒的な戦闘力でもってザフトへの復讐を代行してもらい、さらに酷使した末の摩耗と死でもって彼個人への復讐とする。そのためなら、自らの全てを差し出すことさえ厭わない。

 だから彼女は、アークエンジェルに戻ったキラを見た瞬間にその身体に抱き着き、さらに口づけまで交わした。だから、その後の大気圏突入時の戦闘で女の子の乗ったシャトルを撃ち落されてしまい悲しみと悔やみに暮れる彼を、自らの身体を差し出すことで慰めた。自分の整った容姿と起伏に富んだ肉体を自覚したうえで、それすらも武器にしてキラを自分の思い通りにしていく。原始的な、しかしそれ故に消し難い性の欲求にまで訴えることで、彼を少しずつ自分に依存させていく。ベッドで彼を抱きしめた彼女は、「私の想いがあなたを守るから」と、呪いの言葉をその耳元で囁いた。

 

 ただ、あくまでこれは僕の解釈に過ぎないのだが、彼女がキラに向けていた感情は、この時点で憎しみと恨み、復讐の対象に向けるそれら以外のものを既に含んでいた。キラがアークエンジェルを戻ってきたことに「私は賭けに勝ったのよ……!」と狂喜する言葉には悲しみが、キラに口づけた唇をそっと指でなぞっている際の表情には戸惑いが、確かに描写されている。

 フレイはキラのことを逆恨みしながらも、様々なモノの狭間に立たされ苦しみ続けるその姿に、無意識のうちに憐憫と愛情を覚えていたのではないだろうか。彼を戦場に引き込み誰よりも深く傷つけながら、同時に彼のことを誰よりも理解していたのではないだろうか。ある意味で、父を失った空白を、彼を想うことで埋めていたのではなかろうか。衝動的で刹那的な肉欲とおぞましく冷徹な打算が交わされたあの夜は、同時に二人がお互いの傷を舐め合った瞬間ではなかったのか。

 

 先ほどのPHASE-10とは真逆の、ドロドロしたものだけで紡がれる二人の物語。感情のままに取り返しのつかないところまで転がり落ちていくその様はどこまでも破滅的で、僕の心を何よりも強く揺さぶってくれた。あまりに「先を見たくなる」二人の関係を描いたうえで、『ガンダムSEED』は新たな舞台、砂漠編へと歩を進める。

 

 

17.PHASE-18 ペイバック

 ザフトとの戦闘の結果、アークエンジェルは大気圏突入を実行することになった。その先で不時着した砂漠が運悪くザフト勢力圏内で、キラ達はそこを支配しているザフト北アフリカ駐留軍、その指令たる「砂漠の虎」ことアンドリュー・バルトフェルドの強襲を受ける。ただ、その砂漠では「明けの砂漠」という組織がザフトに対してレジスタンスを展開しており、その協力を得てアークエンジェルバルトフェルドを撃破し砂漠を突破していくことになる。

 「砂漠編」と言ったものの、『ガンダムSEED』においてそこがメインの舞台となるのはPHASE-16~21のたった6話である。しかし砂漠で巻き起こった出来事は、短い尺ながら非常に大きな影響をキラの中に残し、同時に視聴者に向けて「戦争」の本質に迫った描写を突きつけた。その影響の大きさと描写の追求を象徴したのが、「死んだ方がマシ」という台詞だ。

 

 「死んだ方がマシなのかねえ」。先述の「砂漠の虎」の強襲の際、「明けの砂漠」はアークエンジェルに協力しそれを撃退した。それに対し、バルトフェルドはすぐさま拠点タッシルを焼き尽くすという報復を行ったが、その勢力やアジトをほとんど把握しているにもかかわらずそれ以上の報復はせず、タッシルへの攻撃も人が避難できる時間を確保するような形にしていた。しかし、冷静にそのことを指摘するアークエンジェルクルーや「明けの砂漠」頭領の声を無視し、一部の人間は怒りに任せて報復から帰るザフト軍の後を追い無謀な攻撃を仕掛けた。

 どう考えても、現状では敵うわけがない。ザフト軍と「明けの砂漠」には圧倒的な戦力差があり、これまでのレジスタンス活動もある意味「見逃されていた」側面があった。それがアークエンジェルとの戦闘に対する介入で踏み込んだ報復を返したが、それすらも命を直接的に奪うような苛烈なものではなかった。そもそも、砂漠の別の町ではナチュラルもザフトの支配を受け入れある程度の生活をおくっており(「砂漠の虎」に屈したからといって強い迫害や自由の制限を受けるわけではない)、無理してまでそれに反抗する必要があるのかという疑問もある。

 それでも、「明けの砂漠」の戦士達の怒りは収まらない。そちらの方が苦しくないからといって、大切な人や自分を傷つけたコーディネイターに屈することはできない。加減されているからといって、住居を破壊されたことを許すことなどできない。敵わないからといって、この怒りを我慢することなどできない。

 そして自分を攻撃するに至った彼らを見て、バルトフェルドが零したのが先述の台詞なのだ。敵に屈するくらいなら、その支配を受けるくらいなら、胸の怒りを我慢するくらいなら、「死んだ方がマシ」なのか。

 

 

18.PHASE-19 宿敵の牙

 バルトフェルドが抱くその疑問は、キラ達が物資の補給のためにバナディーヤの町に訪れた時、彼らと偶然出会い言葉を交わす中でも言及される。戦争に明確なルールなどない。どちらかがもう片方に屈するまで、終わりなく戦いは続いていく。

 しかし、本当に「どちらかがもう片方に屈する」時など来るのだろうか。「死んだ方がマシ」ならば、たとえ劣勢になってとしても、人々は憎しみと怒りに突き動かされ戦い続けるのではないだろうか。止まることがない以上、どちらかが完全に死に絶えるまで、この戦いは続くのではないか。「君も死んだ方がマシなクチかね?」。バルトフェルドの容赦ない言葉が、「戦争」のさなかにいるキラの心を穿つ。

 ただ、彼が最もキラの中に大きな傷を残したのは、その最期だった。砂漠を突破し紅海を抜けるため、ザフト軍との決戦に臨むアークエンジェルと「明けの砂漠」。熾烈な攻防の末、キラの乗ったストライクは「砂漠の虎」を追い詰めることに成功する。他の機体や艦の状況からしバルトフェルド達に逆転の可能性はなく、彼もそのことをわかっているだろうとキラは矛を収めようとする。しかしバルトフェルドの乗ったラゴゥは動きを止めることなく、どこまでも抵抗を続け反撃を行おうとした。

 それの指す意味は非常に簡単、要するに、彼も結局は「死んだ方がマシ」だったのだ。降伏しアークエンジェルの捕虜になるくらいなら、戦い続けた果てに散ることを望む。それが、砂漠の虎がキラに最後に見せた姿だった。一緒にMSに乗った彼の恋人ごと砂漠の虎を撃破したキラは、「戦争」のあまりのどうしようもなさに、「死んだ方がマシ」だという人間の本質に、悔しさから涙を残す。なんで、どうして、と。自分の今いる場所が終わりのない地獄だと理解した彼は、ただただ砂漠の空に声を浴びせるしかできなかった。

 

 「死んだ方がマシ」と当事者の感覚を的確に表した言葉を象徴的に繰り返し、それによってテーマの本質を非常に「わかりやすく」描き出す。宇宙でのエピソードで「戦争」の中にある少年少女の心情描写を丁寧に描くことで間接的・感覚的に、漠然とした理解を視聴者に持たせてから、「戦争」の本質と恐ろしさを具体的に言葉を用いて訴えかけていく。その手法・番組としてのタイミングの両方で、砂漠編は『ガンダムSEED』でも頂点に位置するほどの技巧が垣間見えるエピソードだった。

 

 

 と、ここまで今作をベタ褒めしてきたが、勿論少しの瑕疵もない完全無欠な作品だったというわけではない。アスラン・ザラというキャラクターには「いつまでナヨナヨしてるんだ」とストレスを感じてしまったし(もう一人の主人公的な立ち位置なので余計に合わなさを意識してしまう)、砂漠編において急にキラがオラついた性格になった描写にも性急さを感じてしまった。

 だが、それらの不満はあくまで「合わないなあ」くらいのものであることが多く、明確な欠点と言えるほどではない場合が大半だった。キラの豹変などはその数少ない例外だったわけだが、アスランに関しては完全に好みの問題である。だからこそ自分は、『ガンダムSEED』に特に大きな不満を覚えることなく(時々「合わないなあ」はありつつも)、ずっと楽しんで見ることができていたわけである。その結果が、ここまでのベタ褒めの流れなのだ。

 

 

27.PHASE-29 さだめの楔(くさび)

 しかし、砂漠編以降、『ガンダムSEED』は少しずつ雲行きが怪しくなっていく。そこから1クールほど、キラ達が紅海を越え中立国家オーブに辿り着き、さらに地球連合に合流するためオーブ領海を出るあたりまで、そこでキラとアスランが死闘を繰り広げた後にキラが生死不明になってしまうところまでは、まだ楽しめていた。

  キラとアスランが決定的にすれ違ってしまうまでの描写が微妙に納得いかないところがあり映像のクライマックス感についていけないところはあった(アスランの同僚のニコルをキラが殺してしまったことが決裂のきっかけだったけど、キラはこれまでにも何人もザフト軍の兵士を殺してきたし、アスランだってそれは承知のはず……正直、決定的な一歩の描写としては弱いなと感じてしまった……一応、戦場に出たキラの友人をアスランが殺したことが最後の和解の可能性を完全に打ち砕いたようには書かれてたが、その前段階がボロボロ……)ものの、基本的には楽しんで見れていた。

 その直後のエピソードも、むしろ胸を熱くして、夢中になって視聴していた。特に良かったのがキラが新MSに乗り換えを行うPHASE-35「舞い降りる剣」で、アスランと憎しみの刃を交えたキラが、偶然ラクスに保護された先で自らの行動と正義を見つめ直し、「戦いを止めたい」という目的を持って新MS「フリーダムガンダム」と共に危機に瀕したアークエンジェルの前に「舞い降りる」場面には心底痺れたし、彼の武装やメインカメラのみを狙い相手の命を奪わない戦い方にも決意を感じ取ることができた(全砲門から発射するハイマットフルバーストですらその方針を徹底しているのが良い)。後で語るが、先述のアスランとの決戦の前に展開されたキラとフレイ、「戦争」の中で依存と打算と呪いで繋がった二人のドラマも素晴らしく、二人の関係を推していた自分としては心を震わさずにはいられなかった。

 

 自分が『ガンダムSEED』に対して決定的な違和感を抱いたのは、上述の名エピソード「舞い降りる剣」の次の回、PHASE-36「正義の名のもとに」である。

 

 

34.PHASE-36 正義の名のもとに

 プラントに戻ったアスランは、自分の婚約者であるラクスが、ザフトに反旗を翻した裏切り者として命を狙われていることを知る。先日行われたザフト軍による大規模な地球軍の奇襲攻撃「オペレーション・スピットブレイク」は、情報漏洩により失敗に終わった。何故かその作戦の詳細を知っていた地球連合上層部が、攻撃を受けるパナマ基地付近にある程度の戦力を置いて一定数のザフト軍を戦場の奥まで出撃させ、その後に戦略兵器「サイクロプス」を起動するという作戦をとり、結果攻撃軍の大半はその兵器の威力により死亡してしまったからである。ラクスは、作戦の情報を地球連合に漏らした犯人だと疑われており、加えてザフトの新MS「フリーダムガンダム」を何者かに渡した疑いもかかっていた。

 

 ラクス・クラインは、平和を願うザフトの歌姫である。父親がプラント最高評議会会長という立場にいるために一定の権力を持ちうる可能性はあるが、それでも歌姫という立場は変わらない。加えて、『ガンダムSEED』の1クール目において登場した際の描写でもその立場やイメージ通りのキャラクターが提示されており、天然気味な言動やアスランのことを話す語り口からは、とてもじゃないがオペレーション・スピットブレイクの情報を漏らし両軍に重大な損害をもたらす姿は思い浮かばない。

 PHASE-10で自分の身柄を返却した帰りのキラのストライクを撃墜しようとするザフト軍を押し留めたり、アスランとの戦いで傷を負ったキラを一時的に保護した期間には彼と「平和」「戦争」の在り方について言葉を交わしたりもしたが、あくまでそれは平和を望む心故の迫力や達観であり、彼女は物理的に世界に反旗を翻すようなタイプの人間ではない……そう、僕は思っていた。

 だから、この回のAパートの展開を見た時は、「まさか」と思った。まさか、そんなわけがない。恐らく、真の黒幕が彼女に罪を着せたのだろう。彼女は一切騒動には無関係であり、それをアスランが救出する。確かにフリーダムをキラに渡したのは事実だが、それは平和のためであって、彼女は無暗に世界を混乱させようなどとは思っていない。そういう筋なのだろうと、半ば確信を持っていた。

 しかし、PHASE-36のBパートでアスランの前に姿を現した彼女は、明らかにこれまで描写されてきたものとは違う雰囲気をまとっていた。どこか超然とした振る舞いで、「戦争」に翻弄されているアスランに厳しい言葉を投げかけ、その行動の是非を問うた。いや、それだけなら、まだ僕は混乱しないで済んだだろう。キラに対して似たようなことをやっていたし、これくらいなら、まだ理解の範疇にある。

 だが、ラクスはさらに多くの当惑を、僕にもたらした。オペレーション・スピットブレイクの情報漏洩への関与を「私じゃない」と直接的に否定せず、さらに自分を追ってきたザフト側の追手がどこからか現れた別の勢力の戦闘員に射殺されても何の動揺も見せないというイメージと異なる姿を見せ、最後には戦闘員達と共にどこかに立ち去って行ったのである。その言動はラクスのこれまでの描写と決定的に違えるものであり、加えて何かしらの第三勢力のリーダーになっているような描写すら存在した。正直、初見時には「ヒロインだとばかり思ってたんだけど、もしかして彼女ラスボスなのか……?」と困惑の極みに至ってしまった。

 だって、もし本当にラクスがオペレーション・スピットブレイクの情報を漏らしていたとしたら、彼女は間違いなく「悪」と呼称できるような存在になってしまうからである。狙いが何だったかのかは知らないが、その行動の結果、作戦の攻撃軍の八割もの人間が残酷にもその命を奪われた。それだけならまだ地球連合に与しただけと言えるが、その八割を逃げられない位置まで誘い込むために、何も知らされず数多の地球軍の兵士も犠牲になっている。今回の情報漏洩は、両軍の人間の命を無暗に散らすような、そんな結果しかもたらしていない。キラがアスランとの決戦とラクスとの対話で辿り着いた「戦争を止める」という目的、その表れとしての不殺主義とは、その性質は全く異なる。ラクスの願いは平和などではなく、破滅的なものだということになってしまう。

 

 

 ↑ 『ガンダムSEED』PHASE-36を見て混乱する男の図

 そして、PHASE-36の問題点である「ラクスが明確に情報漏洩への関与を否定せず、さらに真の犯人が誰かも描かれない」「ラクスのキャラが急に変わったように見える」「そんな風に全く信用できない状態にもかかわらず、ラクスの言動や思想が正しいもののように描かれている(PHASE-36ではアスランの考えに影響を与えた)」の三つは、以降も改善されることはなかった。改善されることがないまま、彼女は一部のコーディネイターと結託してプラントから脱出し、地球連合から中立をやめるよう要求されたのを拒否したオーブに協力し両軍のどちらにも所属しない立場から平和を求めていったアークエンジェルと合流し、キラとの関係を深めメインヒロインの座に就き、物語の最後までその位置で平和を説き続けた。

 「明確に否定せずともラクスじゃないことくらいわかるだろ」という反論も、あるかもしれない。確かに、ラクスの描き方がこれまで通りであったら、明確な否定がなくとも彼女を最終回までずっと疑うことはなかっただろう。しかし、疑いがかかったのと同じタイミングで彼女は急に言動を変化させ、あまつさえ一定の権力を保持していることが判明したのだ。そのような変化があり、さらにその理由や背景・内面が詳細に描写されていない以上、彼女というキャラクターに対する信頼や積み重ねは自分の中では無に帰したと言ってもいい。彼女を信頼することなどできるはずもないし、そのうえ明確な否定もないのなら、「つまり漏らしたのはラクスだったんだな」としか思えない。

 色々調べるとどうにも今作のラスボス「ラウ・ル・クルーゼ」が情報漏洩の犯人だったらしいのだが、それならそうと具体的に、明確に描いて欲しかった。最低限、「私ではありません」的な露骨な台詞でも何でもいいから、ラクスに否定させて欲しかった。

 

 そもそもラクスは、メイン主人公&ヒロインの四人(キラ・アスランラクス、加えてこれまで話すタイミングがなかったため割愛していたが「カガリ・ユラ・アスハ」というヒロインがおり、砂漠編やそれ以降の展開で大きな存在感を見せていた)の中でも、元々出番や内面描写が少ない方だった。1クール目はともかく、砂漠編でも海上でのエピソードでもオーブ編でも出番はほとんどなく、内面に深く踏み込んだ描写なんてものは皆無だった。

 そんな彼女に、作中で肯定される価値観や「正しさ」を全て背負わせる。彼女の説く言葉が、とる行動が、ほぼ無批判で作品の「正しさ」に直結する。一人のキャラクターに「正しさ」を全て委ねて描く手法自体は否定しないが、それをやるにはあまりに彼女への向き合い方が不誠実だった。彼女の「正しさ」以外の少女としての側面もほんの少し描きはしたが描写の数は圧倒的に少なかったし、その「正しさ」の根底にあるものに至ってはほとんど触れられなかった。

 つまり『ガンダムSEED』は彼女に、「正しさ」を描く舞台装置以上のものをほとんど与えなかったのだ。その結果が上記のような困惑と不満であり、それはラクスというキャラクターというよりかは、『ガンダムSEED』という作品全体の不備と言えるだろう。

 

 

46.PHASE-48 怒りの日

 そして、ラクスの描き方に見られた作品の不備や不誠実さは、物語終盤において他の面にも影響を与え始める。

 

 例えば、アークエンジェルを追ってきた地球連合の三機のガンダムを駆る戦士達の背景。彼らは精神や肉体を何かに冒されることで能力を強化している描写を継続的にされ、作中で「コーディネイターでもナチュラルでもない」的なことまで言われたにも関わらず、その設定や過去に一切触れることなくアークエンジェルについた者達によって倒されてしまう。はっきり言って、こんな背景も何もかもを無視した雑な処理の仕方をするくらいなら何も仄めかすべきではない、そう感じてしまった。

 例えば、「砂漠の虎」ことアンドリュー・バルトフェルドの扱い。終盤、彼は実は生きていたことが判明し、ラクス達と共にアークエンジェルに協力することになる。あくまで個人的な思い入れの話だが、砂漠編でその台詞や顛末で「戦争」の本質を体現した彼は、それだけで非常に完成されたキャラクターだった。そんな完成されたキャラクターを生き返らせ、さらには味方にまでしてしまう展開は、僕にとって所謂「解釈違い」だった。

 例えば、最終盤で明かされるキラの出自。彼は、ただのコーディネイターではなかった。特別に研究され、人類の夢と未来を背負わされた実験の成功例、スーパーコーディネイターだった。訳あって今の両親のもとに預けられ平和に暮らしていただけで、本当は誰よりも特別な存在だったのだ。その真相や明かされる際の演出自体は衝撃的だし、そこに至るまでの導線も(実は双子の兄妹だった)カガリ方面からちゃんと提示されてはいた。ただ、細かいところの描写がなく、全体的にぼんやりとしてしまっているのだ。キラを作った者達は何者だったのか、どういう経緯でヘリオポリスにいたのか、そもそもスーパーコーディネイターとは何なのか。想像で補完するには、描かれていない空白が大きすぎる。

 最後に、そのキラの真相とラスボスたるクルーゼの設定から引き出される、この作品のテーマ。ある有名なナチュラルの兵士が、自らの命を絶やさないために作ったクローンである、クルーゼ。不完全な技術と利用されるためだけの目的の中で生まれた彼は、科学技術を発展させ夢や未来へと突き進んでいく人間の性(さが)を憎悪していた。だから、無暗に戦闘を拡大させ人類を争わせようと画策していた。

 彼の目的は、これまで『ガンダムSEED』の中にあった二つの大きな要素、「戦争」と「人類の進化」を結び付けている。ナチュラルとコーディネイター旧人類と「進化」した人類がお互いに反目し、「戦争」を繰り広げる。そして、「進化」も「戦争」も、人間の夢へと突き進んでいく性からもたらされるものなのだ。より高みへ、より先へ。どこまでも求め続ける業こそが「進化」をもたらし、それによって分断と「戦争」が起こるのだ。

 ただ、この二つの要素の融合についても、若干の唐突感は否めない。提示されるテーマの片翼を背負っているキラの出自自体が上記のようにふわふわしたものだし、加えて二つの内「進化」の話題に関してはこれまであまり掘り下げられてこなかった。「戦争」は1クール目と砂漠編の巧な描写によってその重みを確保していたが、ナチュラルとコーディネイターという枠組みに対する追求や問いの提示はされてこなかったのである。確かにこの二つをドッキングして語ることには一定の納得感があったが、物語としてその展開に値しうるほどの前フリをできていたかというと、ノーと言わざるを得ない。

 

 勿論、全部が全部「合わなかった」とは言わない。人間ドラマの面では終盤の展開も見事で、自分の立場と感情の板挟みになった末に戦争を煽る側の人間と共に自らを撃たせたナタル、その過程でアークエンジェルの皆を庇って散ったムウ、かつて同じクルーゼ隊だった立場から言葉を交わし共に戦うディアッカイザーク、そして中盤で敵の立場で出会ってから少しずつ距離を縮めていたアスランカガリの辿り着いた結末など、キャラクターの最期や決断にはどれも胸を打たれた。

 先ほど不満の一つの挙げた「人類の進化」「戦争」のテーマも、性急さこそあったものの最低限の描写と結論は提示できていたように思う。オーブの首脳陣の意思を継いで、そして戦いの中で自分が至った結論として、ナチュラルとコーディネイターの戦争を、悲劇の連鎖を止めようとするキラ。その前に、逆に人類を争いの一途へと導こうとするクルーゼが立ちはだかる。その激闘の末にクルーゼに勝利するも、戦争で破壊された施設やMSの残骸の中をボロボロのフリーダムに乗った状態で漂いながら、キラは「どうして僕達は、こんなところまで来てしまったのだろう」と零してしまう。そこで物語は幕を下ろす。

 最終的に彼自身は守りたい者を守れずに心身共に摩耗してしまったという経緯含め、人類の夢を託されたスーパーコーディネイターである彼が自身の存在や世界に疑問を呈するビターな結末は、最低限『ガンダムSEED』のテーマ性を投げ捨てはしない意思を感じさせてくれた。

 

 また、個人的に刺さったという話で言えば、前半で語ったキラとフレイの関係性の迎えた終わりも、ひたすらに納得と満足に満ちたものだった。

 

 

26.PHASE-28 キラ

 先述のような経緯で、打算と依存の関係を構築したキラとフレイ。しかしその関係性も永遠には続かない。元婚約者のサイがフレイを取り戻そうとストライクに乗ろうとして失敗してしまった事件、その時にフレイが「馬鹿……」と言いつつも涙を流していた姿を見たことをきっかけに、キラはフレイの中の割り切れていない感情と狙いに気付き始めてしまった。加えて、砂漠での戦いで「戦争」のどうしようもなさを深く知ってしまったこと、そこで出会ったカガリと友好な関係になり一人に依存する状態を脱したことから、キラは少しずつフレイとの関係に疑問を感じていく。

 ではフレイの方はどうかというと、対照的に、少しずつキラに惹かれていってしまっていた。僕の解釈では彼女はキラを利用しようと口づけを交わした辺りから本当に愛していたわけだが(強火)、明確に自分の中の好意を感じてしまうほどに、自分が復讐の対象であり道具でもある少年を愛してしまっているとわかるほどに、その感情が大きくなっていったのである。確かにサイへの未練や想いも残ってはいたが、それ以上に、「戦争」の中で傷つき抗うキラに悲哀を見てしまった。そして彼女本人はそれを受け入れることができずに、少しずつ精神の均衡を崩していった。

 段々と情欲への依存を脱し現実を見つめ始めた少年と、自分の中で大きくなる愛情に気付きつつも認めようとしなかった少女。そんな二人がずっと繋がっていられるはずもなく、オーブを旅立つ際の会話で、これまでの関係性は決定的な破綻を迎えてしまう。

 諸事情あってオーブにいる家族との最後の面会に行かなかったキラを見て両親のいない自分を気遣ったのだと誤解したフレイは、「辛いのはあんたの方でしょ!?」「可哀そうなキラ……独りぼっちのキラ……戦って辛くて……守れなくて辛くて……すぐ泣いて……だから……だから! うぅ……なのに! なのになんで私が! あんたに同情されなきゃなんないのよ!」と、キラに対するアンビバレントな感情を爆発させてしまう。それを見て全てを悟ったキラは、「もう終わりにしよう」「間違えたんだ、僕達」と一つの終わりを告げた。

 

 もうこれだけで二人の歪な関係性に心を乱された者としては大興奮で、テレビ画面を見つめながら息を飲んでその破滅を見守っていた(自分は二人の「絶対に幸せにはなれないだろうな」と思わせるズブズブの関係が好きだったので、二人の関係が破綻するのはむしろ「アリ」)わけだが、『ガンダムSEED』はさらなる罰と終わりを二人に与える。上記の会話の後にキラはニコルを誤って殺害してしまいアスランとの決裂を決定的にし、それを経たうえでのアスランとの死闘でキラは生死不明になってしまう。その決裂と死闘の間に、二人は帰ってから改めて話し新しい関係を再び作っていこうと約束したが、それが果たされることはなかったのだ。

 何故かというと、それがキラとフレイが面と向かって言葉を交わした最後の瞬間だったからである。その後フレイは、父親がザフト軍との戦闘で死亡しその報いのため軍に志願したという経歴をプロパガンダ的に利用できると地球連合に目をつけられたことでアークエンジェルから離れ、さらにオペレーション・スピットブレイクの折にその境遇に目を付けたクルーゼに身柄を拘束されてしまう。キラがフリーダムに乗ってアークエンジェルに合流した時、既にそこに彼女の姿はなかった。

(ちなみに、クルーゼ隊にいる時のフレイは「コーディネイターばかりの中に一人ナチュラルがいる」、長らくキラがあった「ナチュラルばかりの中に一人コーディネイターがいる」という状況とまるっきり逆であり、その中で生活しコーディネイターの「生」と接したフレイはキラのことを誰よりも理解している、という解釈がある。個人的にはそう言い切るのは描写が少なすぎると感じるが、確かにそのような意図はあったように思う。意図はあったが描写が足りてない・追いついていないパターン。)

 二人の物理的な距離はまだまだ縮まらない。フレイ自体が長らく主だった出番がなくキラはその所在を知ることすらできず、クルーゼが捕虜を返却するという名目で彼女に核ミサイルのデータを持たせ宇宙に放流した際も、データに興味を持った地球連合に邪魔をされキラは彼女を救出することはできなかった(終盤悟ったみたいな性格になったキラが、この時ばかりはめちゃくちゃに取り乱すのが最高)。彼女を拾った艦はアークエンジェルを追ってきた地球連合の「ドミニオン」で、あろうことか現状の敵の元にフレイは預けられてしまったのである。

 

 

48.FINAL-PHASE 終わらない明日へ

 そして、最終話。ナタルとムウの犠牲を経てアークエンジェルドミニオンを撃破、一部を除いた乗員は脱出ポットで離脱し、その中にはフレイの姿もあった。彼らが宇宙を漂う中、キラとクルーゼの決戦が始まる。

 この世界の全てを恨み、キラに対しても自分と同種の絶望を抱かせようとするクルーゼは、キラの大切な人が乗った脱出ポットをついでのように撃ち落そうと攻撃を行う。キラは応戦しながらそれを防ぎ、ついに救出ポットの窓とフリーダムのカメラ越しに二人が再開を果たす……その瞬間に、クルーゼの乗った「プロヴィデンスガンダム」のドラグーンがキラの守りを突破し、救出ポットをその一撃が貫いた。キラの視界のまさにその中心で、フレイは炎に包まれ命を散らした。

 その後、フレイは「私の本当の想いが、あなたを守るわ」と語り掛けながら光となって消え、キラは激闘の末にクルーゼを撃破する。ここのシーンは監督の発言も相まって解釈が分かれており、よく見るとキラとフレイの間に会話が成立していないなど、「実はキラにはフレイの霊体は見えておらず、声も聞こえていない」ともとることができる内容となっている。

 ただ、自分にとって聞こえてようが聞こえてなかろうが割とどちらでも良くて、「キラの目の前でフレイが死んだ」ということが重要なのである。最期の声の認識の有無に関わらず、キラはフレイを守り切れなかったことを一生後悔し続けるだろう。何かをきっかけに思い出す必要すらないほど、彼女の最期はキラの脳裏に強く焼き付いただろう。ラストシーンの茫漠とした表情と言葉にも表れているように、フレイを失った直後の彼はほとんど抜け殻のようなものだっただろう。

 

 つまり、かつて情欲と依存でもってキラを戦場に縛り付けたフレイというキャラクターは、彼の目の前で散ることで、彼の中に「呪い」・絶望へと縛り付ける「鎖」という形で一生残り続けるという結末を迎えたのである。

 過去の過ちを、そして最初にあったどうしようもない関係を考えると、二人が幸せに結ばれるはずはない。しかし、キラとフレイの関係と愛情は誰よりも重く深いもので、それを作品の推進力として描いた以上は、その性質と物語内での位置エネルギーに見合った劇的な活躍を、話の核になりうるほどの扱いを与えなければならない。そのような物語としての義理と二人の関係性にどこまでも真摯に向き合った結果が、この「フレイはキラの中に呪いとして残り続ける」結末なのだ。

 永遠性と影響力という観点で見ればある種何よりも強い、「呪い」という愛の形。それをキラとフレイに与えてくれたことに、二人をキャラクターとして誰よりも尊重してくれたことに、自分はたまらなく感動した。二人の歪な関係に魅入られた者として、これ以上満足できることはない。この結末は、どんなものよりも「解釈一致」な代物だった。

 

 

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 ただ、キラ×フレイなどの人間ドラマの完成度の高さにも、見ている最中にはどこか違和感のようなものを感じていた。上手く言い表すことができないが、先ほど述べた不満との兼ね合い、とでも言うべきか。テーマを漠然とした描写やこちらへの問いかけで終わらせながら、人間ドラマにだけはしっかりした着地を用意する番組としての方針に、「置き」に行くような感覚を見てしまったのである。

 最低限、大失敗だけはしないようにしよう。テーマに関しては中身が「進化」「戦争」と問いかけをしやすいものでいざとなれば視聴者に委ねる形で終わることができるから、人間ドラマの方に力を入れよう。もうあまり尺は残ってないので、テーマや本懐の部分はイメージが湧くくらいの要素に留め、キャラクター達の顛末を描くことに全力を尽くそう。

 

 確かに、その「置き」に行く方針は、ある程度の成功を成し遂げてはいただろう。実際、ラクス関連以外の人間ドラマはちゃんと着地できていたし、キャラクターの心の動きさえちゃんとしていれば番組としての視聴後感も極端に悪くはならない。テーマに関しても別に全部放り投げたわけではなく、最低限「考えさせられる」と言えるものにはなっていた。

 また、別にそのような要素を取捨選択する舵取りを批判するつもりもない。変に全部100%の力と尺でやろうとして空中分解するよりは、遥かに良かったとは思う。僕自身は、その方針はむしろ「正しい」ものだと感じている。

 

 しかし、僕が『ガンダムSEED』の前半、特に砂漠編までの熱中して画面に張り付いていた時の視聴感と、終盤のそれでは、確かな違いがあったことは否定できないのだ。終盤の展開に、テーマへの向き合い方に、前半ほどの熱量を抱けなかったのは確かなのだ。先述したラクスへの扱いに代表されるようないくつかの大きな欠陥や不満など、その理由には様々なものが挙げられるが、最も大きいのはやはり「置き」に行った、テーマよりも他のものを優先した番組方針だった。

 繰り返し言うが、取捨選択自体には何の不満もない。ただ『ガンダムSEED』の場合は、前半で僕が最も魅力に感じていた要素を、「捨」の方に回していたのだ。丁寧な描写と技巧によって描かれる、「戦争」という大きなテーマ性。人間ドラマもロボットアクションも、全てはそれに向けて収束していく。そのあまりの追求ぶりに、そのあまりの巧さに、僕は夢中になっていた。そんな風にこちらに魅せてくれたテーマ性を、終盤の『ガンダムSEED』は二の次に回していた。

 だから結論としては、ただ「合わなかった」ということなのだろう。別に、テーマ性だけが前半の全てだったわけでもない。数多ある要素の中で僕が特に惹かれたものと、番組が終盤で優先したものが、ただ一致しなかっただけ。あくまでこれは、一視聴者に「合わなかった」というだけの話なのである。

 

 

 いや、ここまでの文字数を語ってしまうということは、その「合わなかった」事実を通り越しても、僕は『ガンダムSEED』が好きなのだろう。実際今でもフレイ・アルスターというキャラクターのことは定期的に語りたくなってしまうし、この感想自体も最終話を視聴してから半年経った今になって急に思い立って書いたものである。清濁併せ、『ガンダムSEED』は確かに自分の中に残っている。

 きっと今後も、PHASE-1を視聴する時のワクワクを、前半の展開に翻弄された日々を、「舞い降りる剣」の時の興奮を、ラクスが豹変した時の困惑を、バルトフェルドが再登場した時の残念な思いを、キラとフレイの結末に涙を流したことを、何かあるごとに思い出すのだろう。

 

 僕にとって、初めて完走したガンダム作品。でありながら、それ以上の思い出と傷を自分の中に残した作品。フレイからキラに対する感情とは違うけど、定期的にその素晴らしさと不満を同時に語ってしまう、ひどくアンビバレントな思い入れこそが、自分の『ガンダムSEED』に対する感情の全てなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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前後編感想 劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』 きっと何者かになれるお前たちに告げる

 ああ……。

 

 観た……。

 

 観てしまった……。

 

 劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』……2011年に放送され、『美少女戦士セーラームーン』『少女革命ウテナ』の演出などでも知られる、幾原邦彦監督の作家性が強く反映された物語で多くの人の心を揺さぶったアニメ作品、『輪るピングドラム』……その完結から約10年が経った今年、テレビ本編の再編集に新規パートを加えた映画として、前後編で公開された作品……。

 

 その後編、『僕は君を愛している』を、ついに観てしまった……。

 

 率直な感想を、一言で書くと……、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本っ当に、最高だった!!!!!!!

うわあああああああああああああありがとうううううううううううう!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

(以下、劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』の感想を記していきます。気分も文体も落ち着けて書きます。ネタバレ注意です。)

 

 

 

 

第24駅 愛してる

 まずもって、前編から素晴らしかったんですよね。音楽とか作画とか声優さんの演技とか、ほんとにあらゆる要素が完璧だったんですけど、何より素晴らしかったのが、『輪るピングドラム』の新作として非常に丁寧に作られていた、ということ。

 というのも(あくまで個人的な認識ですが)、『輪るピングドラム』という作品名には、一種の重みや緊張感があるというか、少なくともそう易々と新作を作れるような雰囲気は伴っていないんですよね。単純にアニメーションとして非常にクオリティが高い作品だったから下手なものが出されると落胆してしまう……というのもあるけど、それ以上に、『ピングドラム』が取り扱ったテーマとそれに対する描写が、その「重み」「緊張感」に繋がっている。

 

 

 「きっと何者にもなれないお前達に告げる 僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」。罰を、罪を、運命を、生を、愛によって誰かと「分け合う」ことで前へ進んでいく。1995年に起こった実在の事件を物語に取り入れその背景にあったものを突き詰めて描きながらも、その鋭さと同じだけの質量を持った温もりのある描写によって、あまりにも優しい答えへと帰結する。

 その結末は、震災を受けて描き方の方向性を少し変更したというエピソードにも表れているように、自らのセンスや現代の価値観と向き合い続けた制作陣のたゆまぬ努力と絶妙なバランス感覚によってもたらされたものだった。つまり『ピングドラム』は、多くの側面において、ある種ギリギリの産物だったんですよね。自分が『ピングドラム』に触れたのはつい昨年のことですが、後追いでもそのヒリヒリとしたせめぎ合いを強く感じられるほどに、そこには熾烈な追求の手触りがある。

 

 だからこそ、安易なものになった場合、それはもう『輪るピングドラム』ではない。そのテーマやクオリティや実際の作品の前提にあるものを考えると、『ピングドラム』というタイトルには大きなものが伴う。テレビ版を、『輪るピングドラム』という作品を尊重するなら、たとえ10年後の総集編メインの劇場版であっても、追求を続けて欲しい。『ピングドラム』と「今」「ここ」にある現実との距離感を、大切にしてほしい。

 

 

劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM[前編]君の列車は生存戦略

 では『RE:cycle of the PENGUINDRUM』は、そんな『ピングドラム』の雰囲気にどういった返球をしたのか。それに対する答えこそが、「『輪るピングドラム』の新作として非常に丁寧に作られていた」ということなんですよね。より具体的に述べると、前編『君の列車は生存戦略』は、一つの新規作品、一つの映画として、総集編プラスアルファに留まらない作りになっていた。

 

 まずもって、テレビ版に登場しながらも明確な真実は設定されていなかった要素を、今作は有効に利用する。「テレビ版でも第1話と最終話に登場していた冠葉(子ども)と晶(子ども)は、桃香の指示によって、この世の物語を本の形で記録する大図書館、”そらの孔分室”で自分達の物語(=テレビ版『輪るピングドラム』)を振り返り、失った自らの記憶を取り戻そうとする」。このような筋を既存の要素を用いて立てることで、総集編という「振り返る」作品そのものの前提を丁寧に理屈付けする。

 さらにそのうえで、テレビ版のエピソードの順番を少し入れ替え、「高倉冠葉」「高倉晶馬」というように、キャラクター毎にチャプターにまとめる形で物語を展開する。それにより映画としてのテンポを作る他、映画というノンストップの形式の中でも(通常のやり方なら1クール分との尺の相違で理解が追いつかなくなってしまう)キャラクターの感情の動きや背景を、格段に飲み込みやすくしている。

 総集編の筋立てとチャプター形式の導入……この二つのアイデアによって、一本の新作・映画としての完成度が、格段に高まってるんですよね。『ピングドラム』の持つ社会的なテーマは、「今」「ここ」の現実に希求してこそ意味がある。そういう意味では、これ単体でも成立しうる(テレビ版の存在や視聴を絶対の前提にはしない)ような試みは、とても『ピングドラム』的だと言えるんですよね。その名を冠する新作への覚悟が、これ以上ないほど確かに感じられる。勿論テレビ版を蔑ろにすることはしないけど、その前提に甘んじることはない。

 

 

 加えて、『ピングドラム』であることと一つの新作映画であることを完璧に両立したバランスは、作品を彩る音楽にも表れていました。劇伴に関してはパンフレットで「TVシリーズで製作した劇伴音楽をベースに、橋本由香利がフィルムスコアリング(編集された映像のシーンに合わせて作曲する手法)で新たに作曲、収録し、映画館の視聴環境に合わせて5.1chでミックスダウンされた」ことが語られており、その気合の入り方を伺えますが(実際本当に良かった、テレビ版から良かった劇伴がさらに良くなってた)、個人的により印象に残ったのは挿入歌。

 

魂こがして

魂こがして

 テレビ版はアニメという媒体を最大限活かし、「お話が終わると同時にその回を象徴するようなサブタイトルをどーんと表示し、さらに鮮烈なエンディングを流す(1クール目はイントロのギターがゴリゴリに効いてる『Dear Future』、2クール目はほぼ毎回エンディング……その全てがA.R.B.の楽曲をカバーしたもの……を変えてオチにマッチした曲調のものにする)ことで盛り上げる」というお家芸(?)が確立されていたのですが、映画である以上話の区切り目でいちいちエンディングを流すことはできない。

 それの代替のような立ち位置なのかどうかはわかりませんが、『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM』では、テレビ版から引き続きの「せいぞん、せんりゃくーーー!!」バンク以外にも、挿入歌が演出に用いられてるんですね。流れる曲はテレビ版のエンディングだったりそのアレンジだったり新曲だったりで色々なのですが、そのどれもが物語をめちゃくちゃに盛り上げてる。

 

YELLOW BLOOD

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 前編で言うと、『YELLOW BLOOD』と『Dear Future』の使い方が神懸かってました。

 前者は陽毬の命を支えているプリクリ様の帽子を荷台に乗せたトラックを冠葉が追いかけ、その中でかつて家族のために嵐の中を走った父親の姿とその教えを回想するシーンで流れるのですが、その疾走感溢れるイントロが場面とベストマッチ。回想から現在に戻るところで曲がインストに切り替わる(もう一度曲がイントロから始まることで場面が熱を持って再度盛り上がる)のも最高で、冠葉の信念とその原点を完璧に描いた『だから僕はそれをするのさ』に当たる内容の名エピソードぶりも含め、映画館で浴びたときは「うわあああ」と思考が興奮に塗りつぶされてしまいました。

 また、後者もそれに並ぶくらいの名シーンを作り上げていて。『Dear Future』は先述の通り、テレビ版1クール目をインパクトあるイントロで彩った名エンディングなのですが、劇場版ではまたもや冠葉の見せ場で最高の挿入歌として活躍してるんですね。プリクリ様の力で一時的に延命していた陽毬の命が、ついに完全に絶えてしまう。その直前に立ち会った冠葉が自らの陽毬への「家族」ではなく「異性」としての愛に気付いて自らの命を彼女のために差し出し、その覚悟にプリクリ様も応える……そこで『Dear Future』を流すのは、もう反則なんだ……テレビ版の曲とシーンを組み合わせて新たなベストカットを生みだすとは……。

 

 と、漫然と語ってしまいましたが、つまり『君の列車は生存戦略』は『ピングドラム』を元にしながらも新作映画としての追求の姿勢もしっかり内容に反映されており、それが非常に良かったんですよね。例として構成や音楽を挙げましたが、本当に様々な面からアイデアが盛り込まれ、それらが見事に成功している。自分が今回の劇場版で一番に気になってたのが「『ピングドラム』の「今」「ここ」に希求する感覚、そしてそれにより後天的にもたらされる普遍性を、総集編という形態で果たすことができるのか」という部分だったので、個人的にはとても満足度が高かった。

 

 


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 そしてその「今」と『ピングドラム』の距離感を反映した作劇は、約一か月前に公開された後編『僕は君を愛している』にも表れていました。

 引き続きチャプター方式で進行していく物語。新曲をより多く投入し、より一層シーンとシンクロしていった挿入歌。前編にあった実写の撮影を取り入れた演出も、挿入歌や物語の盛り上がりと組み合わせて展開されたことで、その新鮮・異質な存在感を大きくしていました。

 テレビ版のタイトルをそのまま画面で表示する手法は直接的過ぎないかとか、割と序盤の段階からチャプター形式が崩壊しているとか、流石にカットが目立ってきて初見には勧められないなとか、隅々まで完璧だった前編と比較すると若干の粗も感じましたが、それでも根本的な方向性とそれを体現した映像の素晴らしさは据え置き。怒涛の勢いで展開されていくテレビ版後半のドラマも含めて、非常に見応えのある作品に仕上がっていました。

 

 その中でも最も感動したのが、新規パートのクライマックスの展開。

 自分達の物語を振り返っていた冠葉(子ども)と晶馬(子ども)は、ある場面に辿り着き絶望していた。物語の中の冠葉と晶馬は、陽毬の命の危機に際してバラバラになってしまっていたのだ。かつて家族であった二人は激しく対立した末に、陽毬のために手段を選ばなくなった冠葉の撃った弾丸が、晶馬の身体を貫いた。

 そんな二人の子ども達を見て、プリンチュペンギンの身体を乗っ取った眞悧はせせら笑う。家族ですらも、結局はこんな風に傷つけあう。君達は、「きっと何者にもなれない」。だから破壊してしまおう。全部壊してしまおう。台無しにしてしまおう。そう、子ども達に囁く。

 しかし。それでも、二人はその呪いの言葉に耳を貸すことはなかった。世界を諦めず、自分達の物語を前に立ち止まらず。そのページをめくり、さらにその先へ踏み込んだ。

 そこに描かれていたのは、生まれた時から常に存在しているこの世の理不尽に対して、絶望せず立ち向かっていく少年少女達の姿だった。必死に生きて、生き抜いて。罰を、罪を、運命を、生を、愛によって「分け合う」。分け合って、この世界を共に進んでいく。そんなあまりにも優しく、そして力強い答えを。自分達の選択したその未来を、二人は思い出した。

 それと同時に、冠葉(子ども)と晶馬(子ども)の身体にも力が宿り始める。自分達の記憶と過去、そして今すべきことは何か。二人の身体が宙に浮き、眞悧の野望を乗り越えていく。「きっと何者にもなれない」。過去からのそんな呪いを振り切るように、頂点にまで上昇した二人は、「僕達は、陽毬のお兄ちゃんだ!」と、自らの存在証明を高らかに叫んだ。

 

HEROES~英雄たち 運命の乗り換え

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 「きっと何者にもなれないお前達に告げる 僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」。この言葉にも表れている通り、テレビ版『輪るピングドラム』は、「何者にもなれない」子ども達の物語でした。様々なしがらみを持って生を受けた彼らが、呪いに縛られ何者かになんてなれるはずもない子ども達が、それでも屈することなく足掻く様が胸を打つような、そんな作品でした。そして最後に示された応えこそが、愛でもって「分け合う」ということだったのです。

 それはとても優しくて力強くて、しかしその背後には、「きっと何者にもなれない」という前提が確かに存在していました。むしろ、何者にもなれないようなモノを背負っているが故に「分け合う」ことの尊さが際立つような、そんな質感が『ピングドラム』にはありました。

 

 しかし、そんな結末から約10年、現代に蘇った『ピングドラム』は、かつての結論をそのままに提示することはしなかった。あの時からの歳月が、『ピングドラム』という作品の「今」「ここ」との距離感が、作品を立ち止まったままにしておくことをよしとしなかった。

 だから『僕は君を愛している』のクライマックスで、冠葉と晶馬は自らの愛を、迷うことなく叫ぶ。確かに自分達は多くの呪いを受けているけど、それでも「何者にもなれない」なんてことはない。どんな過去があったとしても、自分には自分の物語があって、その中で出会った人が、愛した人がいる。それを叫ぶことこそが、きっと存在証明になりうると。「きっと何者かになれる」と、『RE:cycle of the PENGUINDRUM』はその声を響かせるのです。

 このクライマックスを見た瞬間、僕の中で様々なものが一本の線で繋がったんですね。総集編という形を理屈付けしていた「二人が自分の記憶と正体を思い出す」という筋は、「誰を愛しているか」「自らの存在証明」という劇場版のテーマにもダイレクトに繋がっていた。『愛している』というのはテレビ版最終回のサブタイトルだけれど、それに「僕は君を」と主語と愛の対象を明確に書き加えた『僕は君を愛している』という後編のサブタイトルは、これもまた劇場版で示された新たな結論を示唆したものだった。

 

 そして何より良かったのが、前編では音楽の使い方や構成など、エンタメ的な、映像作品としての側面で主になされていた一つの新作映画としての追求が、『ピングドラム』と「今」「ここ」との絶妙な距離感を保ったが故の変革・アップデートが、最後の最後でテーマに関してもなされたということ。テレビ版の「きっと何者にもなれないお前達に告げる」に対する、「きっと何者かになれる」。10年前のあの時から、明確な一歩を踏み出していく。

 でありながら、「愛」という普遍的な概念を用い、かつ他者との関係性に重きを置くという点をテレビ版の結論と同じくすることで、かつての答えを否定しない形になっているのも素晴らしい。変にテーマの変化のみを意識して「愛などなくても生きていける」というようにテレビ版の明確な否定に走ることはせず(その表れとして、テレビ版から相変わらず誰かを愛そうとすらしなかった眞悧は作中で手を差し伸べられることさえない)、ちゃんとそのテーゼを守ったうえで、少しだけ視聴後感を変える。そのバランスが非常に絶妙で、一つの作品としての新規性と、『輪るピングドラム』としての優しさ・厳しさを同時に感じられたんですよね。

 

 また、そんなテーマとクライマックスを表現する演出も本当に良かったです。テレビ版第23話エンディングをアレンジ(?)した『HEROS~英雄たち 運命の乗り換え』は、その疾走感と勇敢さを伴った曲調でもって展開への没入度を加速度的に高めてくれたし、全ての結論が提示されたうえで改めて劇場の音響で聴く主題歌『僕の存在証明』は、一生忘れられないような感動をもたらしてくれた。先ほど少し文句を言った言葉をそのまま画面いっぱいに出す演出も、『きっと何者かになれる』だけはそのストレートさが逆に良い方向に働いているように感じました。

 

 つまりは、全編にわたって素晴らしかった『RE:cycle of the PENGUINDRUM』の「今」への追求が、最後の最後で一段ぶち抜くようなものを見せてくれたんですね。演出、テレビ版との相違、サブタイトル、構成……あらゆる要素が噛み合わせて、あまりに熱量の大きいものを見せてくれた。それが、そのことへの感慨にノックアウトされたのが、冒頭の三点リーダー連発読みにく文章だったわけです。

 

 では、ここまでで書きたいことは全て書ききったので、最後に一言。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとう、『輪るピングドラム』!!!!!!

(強引なまとめ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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感想『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』 既視感のある「覚醒」を許容できるか

カードファイト!! ヴァンガードG ストライドゲート編 DVD-BOX

 僕は、二代目主人公が好きだ。

 

 遊戯王では世代の『ZEXAL』と並んで『GX』(遊城十代)が好きだったし、『カードファイト! ヴァンガードG』も新導クロノも大好きだし、『ジョジョの奇妙な冒険』では2部とジョセフ・ジョースターがぶっちぎりで好きだし、『イナズマイレブン』シリーズは松風天馬編(『GO』『GO2』『GOギャラクシー』)が特にドハマりしたし、現在視聴中の『機動戦士ガンダムSEED DESTNY』のシン・アスカもめちゃくちゃに好きなキャラクターになってきている。初代でも三代目でも四代目でもなくて、二代目が好きなのだ。それをオタク的な意味での「性癖」と言っていいかはわからないが、とにかく創作への好みとして、「二代目(主人公)」というのをずっと持ち続けていた。

 その理由としては様々なものが考えられるが、自分の中では、二代目、二作目の持つ特殊な立ち位置の存在が、最も大きな理由だと思う。

 二代目は、創作される大前提に初代という原点にして続編を生みだすほどの成功例が存在しているために、その影響を強く受けることが多い。新しい作品である以上初代をそのまま模倣することはしてはいけないが、続編である以上はかつて描かれた作品の「らしさ」に全く無関係の話はしない。その結果、初代の精神性を別のベクトルから描いていく、初代で是とされた価値観に対するアンチテーゼを示すなど、シリーズとしての「らしさ」と作品としての個性がせめぎ合ったアプローチがとられ、作品の核にいる二代目主人公にその方向性を最も強く反映される。その、メタ的な視点も含んだ試みが、それを一身に背負ったキャラクターの造形が、僕の琴線に触れるのだろう。

 

 しかし、そこそこ多くの人が持つ「主人公が変わると萎える、見る気が失せる」という感覚、初代の圧倒的な人気故にそれと異なる方向性をとることに非常にリスクが伴うという避けえない構図から、二代目主人公は人気が出なかったり扱いが悪かったりするなどの悲しい結果に到達する例がままある。自分の例で言えば、同世代の人間と話すと「イナズマは円堂編は良かったけど、天馬はなー」という意見がマジョリティだし、放送当時のシン・アスカへのSEEDファンの風当たりは非常に強かったと聞く。

 

 

 

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 そういう意味では、僕が恐らく最初に好きになった「二代目主人公」、父の私物の『ドラゴンボール』を読んで最も心惹かれたキャラクター、孫悟飯は、(上記の例と違ってタイトルが変わることなく主人公を受け継いだという形とはいえ)「二代目主人公」の典型のような存在だったな、と思う。

 悟空の育ての親の名を持って生まれた彼の性質は、礼儀正しくおとなしい、父とは対照的なもの。でありながら、怒りを爆発させた際には誰よりも強さを発揮する、無限の可能性を秘めている。彼は、悟空の幼い頃とは全く異なる、常に死と隣り合わせの苛烈な展開の中で、ピッコロ、ベジータ、悟空といった最強クラスの戦士から学習し、戦闘面と精神面において急速に成長していく(特に、悟空の息子なのにピッコロから教わった魔族の技を使う、というのは彼自身の強い個性だった)。そしてその末に、悟空すらも凌駕した圧倒的な戦闘力でセルを撃破し、魔人ブウ編(スクール編)ではついに主人公の座についた。

 ……が、読者からの人気が原因なのか、はたまた鳥山明先生の物語に合わなかったのか、油断から魔人ブウに吸収されてからはほとんど物語から置いて行かれ、最後の決着もその数年後を描いた最終回も、全て悟空に持っていかれてしまった。二代目主人公の不遇さを濃縮したような魔人ブウ編での顛末に、如何ともしがたい切なさを感じたのを覚えている。セル編での覚醒には本当に熱くなり、スクール編でのビーデルとのラブコメ的なやりとりには新鮮な面白さを覚えた、幼いながらに「悟飯が一番好きだ……」と自分への刺さり具合を自覚していただけに、その落胆はより深いものとなって僕の中に残ってしまった。

 

 


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 だから、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』の情報が本格的に解禁され、メインビジュアルの中心でかめはめ波のポーズをとり、予告編で公開された映像で主だって戦闘を繰り広げる「主人公」───孫悟飯の姿を初めて見た時には、電車の中だというのに声を上げそうになってしまった。あの悟飯が、新作映画の主役。主人公。しかも、師匠たるピッコロさんと共に、あの人造人間と、セルと関係しているレッドリボン軍と激突するなんて、そんな。

 全編フルCGとかサブキャラクター達の活躍を予感させる予告映像とか他にも色々な要素があったはずなのに、ただそれだけしか頭に入ってこなかった。封切までの間、ただそのことだけを、「悟飯が新作映画の主人公をつとめる」という事実の意味だけを、咀嚼しながら過ごした。「正確には悟飯が主役の映画は『Z』時代にも何本かあったし、公開前のコメントとか見るとピッコロさんとのダブル主人公みたいな感じなのよな……でも今回のは鳥山明先生が直接関わって脚本まで書いてるし、ダブルだろうがなんだろうが主人公に返り咲いたのは事実なんだよな……」なんてことを、ずっと考えていた。

 

 そしてつい先日、リアルでの諸々を片付けた僕は、その足で劇場に向かった。そこで、彼の新たな物語を、この目で見届けた。

 

 

 

 

 

(以下、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』の直接的なネタバレありです。基本的に悟飯の話しかしません)

 

 

 

 

 

 

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 一言で言うと、非常に評価が難しい作品だった。自分にとって『スーパーヒーロー』は、興奮と落胆がないまぜになった、好きとも嫌いとも安易に言えないような、そんな複雑な感慨をもたらす作品だった。そして興奮と落胆の多くは、同一の要素から発生していた。その「要素」というのは当然、主人公たる孫悟飯への向き合い方に他ならない。

 

 学者としての活動に忙殺され、戦いに備えるための修業どころか、父親の役割すら半ば放置気味になっていた悟飯。当然そこにかつての超パワーは影も形も残っておらず、アルティメットに変身することはできなくなり、ピッコロさんに着せられた修行着の重さにすら耐え切れなくなっていた。そんな悟飯の姿に日頃から怒りを覚えていたピッコロさんは、レッドリボン軍の陰謀に際し彼の真の力を覚醒させようと(この機会を利用しようとかではなく、彼の力がなければこの危機は乗り越えられないと踏んだ)パンと共に茶番でもって悟飯を試し、結果彼は全盛期の力を取り戻した。

 

 魔人ブウ編以降の悟飯は、彼が本来は戦いを好まない性格なのもあって、戦士として活躍する機会も、そのために修練する様子も(鳥山明先生が直接脚本やシナリオを書いた作品では)あまり描写されなかった。だから「この映画単体で見れば」現在の彼の戦闘能力の衰えは納得できるものだし、若干のダメ親感が出ているのも自分の父親と同じ過ちを繰り返していて、良くも悪くも親子であることが感じられた。そんな悟飯の代わりに彼の娘のパンを鍛え、その送り迎えまで引き受けるピッコロさんの姿には「ピッコロさん萌えの映画だったのか」となったし、そんな現状に不満を覚えているピッコロさんが「本気で戦えば誰よりも強い」と彼の可能性をまだ確信し、悟空とベジータが不在の地球を守るために彼に希望を託すのには、ベタながらも少し感動してしまった。

 

 というように、一本の映画としては、自分もとても楽しむことができたのだ。悟飯やピッコロさんの描写には違和感はないどころか、時間と共に進んでいく彼らの「人生」とそれに伴う変化があったし、近年の映画『復活のF』において悟飯が超サイヤ人2までしか変身していなかったことを取り入れた展開からも、鳥山明先生の本気が伺えた。原作者だからこその立場とアイデアでもって、これまで扱いが悪かった彼に正面から向き合ってくれたことが伝わってきた。

 特にクライマックスの展開、セルマックスが起動してからの最終決戦は、その覚悟と本気の結晶のようなシーンのオンパレードだったと思う。

 

 

 


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 因縁の敵、レッドリボン軍の新兵器「セルマックス」を前に、悟飯は全力でもって攻撃を仕掛ける。駆けつけたZ戦士達とも協力し、一度は誤解から敵対したガンマ1号・2号とも共闘し、頭部の弱点に何度も攻撃を当て……しかし、セルマックスを倒すまでは至らない。ガンマ2号の犠牲でもっても、殺戮兵器はその動きを止めることはなかったのだ。仲間達が次々と撃破される中、最後の手段としてピッコロさんが「俺が押さえつけている間に、かめはめ波でも何でもいい、あいつの弱点を貫け!」と指示し、セルマックスの動きを止めようと接近し、そこで力及ばず、攻撃をまともに受けて倒れてしまう。その光景を見た悟飯は、大切な人を傷つけたセルマックスと、それをただ見ているしかできなかった自分の不甲斐なさに怒りを爆発させ、新たな形態───『ビースト』に変身した。

 

 どこか「身勝手の極意」に似ているようにも見える、グレーがかった銀の髪色。悟飯の強さの象徴たる形態、少年時代の超サイヤ人2を彷彿させるような、髪が大きく逆立ったアンバランスなシルエット。そして激情時のブロリーと同じ怒りの炎とそれを制御する冷静さを常にたたえた、赤い瞳。

 孫悟飯という戦士はその潜在能力の高さが強さの源泉として挙げられることが多いが、それと同じくらいに、様々な戦士から既存の技を学習していく自由度の高さ、それを進化させより高みへと昇る発展性という特徴も持ち合わせている。サイヤ人編ではピッコロに教えを受けて魔族の技を習得し、フリーザ編ではベジータと共に戦い、セル編では悟空との一対一での修行の中で彼の技と超サイヤ人の力を学び、さらにその先にある超サイヤ人2の領域まで初めて到達し、かと思ったら魔人ブウ編ではこれまでとは全く異なるラインにいる老界王神の儀式により、アルティメットという(本編では)未だ彼以外の誰も使用していない唯一無二の形態を会得した。様々な変身・力を掛け合わせたキメラのような印象、その中に全く未知の要素が存在するビーストのビジュアルは、そんな彼の覚醒としてこれ以上ない「らしさ」と説得力を伴っていた。

 そして悟飯は、その戦闘力でセルマックスを圧倒したまま、最後の一撃を放つ。一度は倒れたピッコロさんが執念で起き上がりセルマックスを押さえつけた隙に、彼の全力を込めた必殺技を───魔貫光殺法を、その指から発射する。光線はピンポイントでセルマックスの弱点に突き刺さり、戦いは悟飯達の勝利で幕を下ろした。

 言うまでもなく魔貫光殺法はピッコロさんを代表する必殺技で、それを彼の弟子たる悟飯が使うことには大きな意味がある。また、かつてピッコロさんは、悟空が押さえつけていたラディッツを二人まとめて魔貫光殺法で貫いており、その構図との対比も感じ取ることができる。つまりはこの決着には何重にも文脈が乗っかっており、それがとんでもない爆発力と熱量を生みだしているのだ。ここまでにシンプルに、かつ劇的な「熱さ」の方向性に作りこまれたクライマックスに、僕はかつてと同じように思わず声を漏らしそうになってしまった。

 

 

 

 しかし、である。ネタバレ突入後の最初の一文で書いたように、僕は『スーパーヒーロー』を手放しで絶賛することはできない。全編にわたってシリアスとゆるさが共存しているような雰囲気になっていて、シーンによってはそれが間延びを生みだしている(勿論、それがプラスにはたらいているときの方が多いが)ように感じたとか、「セルマックス強い!」「でも頑張って弱点に一撃食らわせた!」「でも効いてなくてピンチ!」的なシーンを3回繰り返すのはちょっとくどいとか細かい不満もあるにはあるが、やはり最も大きいのは悟飯関連の話。しかも、この映画における根本の部分に、その不満は根ざしている。

 

 言ってしまうと、そもそも近年の悟飯は、「扱いが悪い」という状況にはなかったのである。冒頭では原作終盤における悟飯の扱いの悪さとそれに対する落胆を語ったが、原作終了から十数年経ち、『ドラゴンボール超』に繋がる一連のシリーズがそのコンテンツ展開を再開したここ数年、その中での悟飯の描き方によって、僕の中ではそれらの不満は既に払拭されていた。だから、公開前から「『これまで扱いが悪かった』孫悟飯が大活躍!」という推し方をしている鳥山明先生のコメントに、それを当然のものとして受け入れているファンの声に、ずっと違和感を覚えていた。勿論悟飯が主役の映画が公開されるということには驚き、大きな喜びと期待をかけてはいたが、その期待の中身は「近年めざましいリベンジを遂げた悟飯の集大成として、単独の映画の主役を張る悟飯が見られるのか」というものであった。

 

 

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 そんな自分の感覚をもたらしていたのは、2015年から2018年にかけて放送されていた作品、アニメ版『ドラゴンボール超』である。そこでは孫悟飯の物語が描かれており、彼は悟空、ベジータに続く第三の主人公として扱われていた。二人のように常に番組の顔として活躍する、とまではいかないにしても、それとは異なる連続ドラマ的な手触り、番組の放送していた約3年間という非常に長いスパンでもって、彼に真摯に向き合った作劇がなされたのである。

 

 まず最初に悟飯にスポットが当たるのは、アニメ版『ドラゴンボール超』の2クール目後半で展開された「フリーザ復活編」である。『ドラゴンボール超』最初の「破壊神ビルス編」「フリーザ復活編」の二つは、数年前に『ドラゴンボールZ』の劇場版として公開された作品をテレビシリーズとして再構成したものであり、1時間半程度の尺しかない原作を1クール近くにするためにかつての『ドラゴンボールZ』を思わせるような尺稼ぎの間や演出が頻発、しかも作画にも明らかに気合が入っていおらず、非常に批判が多い内容となっている。

 が、「フリーザ復活編」については、強引な尺稼ぎを主としていた(悟飯に関連する要素も娘が実はビーデルのお腹にいる、と判明することくらいしかない)「破壊神ビルス編」と異なり、お話の筋そのものに映画にないオリジナル展開が差し込まれる。その目的も尺稼ぎであることには変わらないが、しかし同時に『ドラゴンボール超』における悟飯のオリジンとして機能しているのだ。

 

 ドラゴンボールによって復活し、再びフリーザ軍の頂点に君臨、地球を襲撃したフリーザ。悟空とベジータビルス様のところで修業をしている(それが原因で連絡も遅れた)、そこから地球まではウイスの力をもっても35分はかかり、瞬間移動も気が感じられないほどの距離があるせいで使えないために、Z戦士達は最強の戦力が不在のままフリーザ軍と戦うことになってしまう。有象無象の下っ端達までは個々の戦闘力の差でどうにかなったものの、一部の強敵には苦戦し、さらに大幅なパワーアップを遂げたフリーザがこいつは自らの手で殺すと、悟飯に一方的な攻撃を加え始める。修行不足により実力が低下、アルティメットに変身することすら敵わなくなった悟飯はその猛攻に手も足も出ず、自分を庇ったピッコロさんが殺されるのを、その目で見ることになってしまう。

 その後悟飯は、身体への負担を無視して気を上昇させ続け、それにより肥大化した気を悟空に感じ取らせて瞬間移動を成功させる、というクレバーな作戦により危機をなんとか脱し、ピッコロさんも騒動後ドラゴンボールで生き返ったが、目の前で師を失う体験は、彼に自らの無力さを強く実感させた。それをきっかけに悟飯は学者・親としての生活の合間を縫って修行を再開し、続く「破壊神シャンパ編」ではピッコロさんに鍛え直してもらっている姿が描かれる。学会と日程が被ったことで第6宇宙との試合に出ることはかなわなかったものの、彼は彼なりの速度で前に進み始めたのだ。

 

 しかし、次の「未来トランクス編」においても、彼は戦いに参加することはできなかった。それどころか、新たな危機に瀕して未来から再びやってきたトランクスと再会し、娘と妻、義父と平和で幸せな生活をおくっている姿を目撃されることで、「自分の時間軸では師であり、戦いの中で散っていった悟飯がこんな風に生きていること」「そんな平和な未来を自分の時間軸でも作りたい」と覚悟を決めるきっかけになってしまう。つまりトランクスにとって彼は、自分の時間軸での壮絶な人生と秘めたる巨大な戦闘力に反して戦いとは無縁の(ように見える)普通の幸せを手にした、いわば「平和の象徴」として映ったのだろう。結果彼は今回の騒動には一切かかわらず、全てが解決した後に現代を発つトランクスを見送るだけになってしまう。

 またもや何も戦いに貢献できず、そもそも危機が訪れていたことすら最後になって知ることになった彼の心には、「未来トランクス編」のビターな幕引きも相まって、より深い無念の傷痕が刻まれただろう。

 

 

第124話 疾風怒涛の猛襲!悟飯背水の陣!!

 そしてついに、再び戦う覚悟を決めながらも結局は貢献することができなかった、活躍は長編の合間の短編エピソードで一度主役を務めたくらいに留まった、ずっと無力の念を刻み続けていた悟飯に、アニメ版『ドラゴンボール超』最終章「宇宙サバイバル編」にてスポットが当たる。全員が敗北したら宇宙ごと即消滅、生き残るのは最後に勝ち残った者達のみの、各々の宇宙の命運をかけた各宇宙対抗のバトルロワイアル「力の大会」。前覧試合で第9宇宙の戦士ラベンダと相打ちになってしまった悟飯は、大会本戦の開始前にピッコロさんとの修行で自分を追い込み、ついにアルティメットへの変身能力を取り戻す。加えて「力を手に入れると慢心し隙を突かれる」という自らの弱点を自覚したうえで克服した悟飯は以前の何倍にも強くなっており、超サイヤ人ブルーに変身した悟空と互角に渡り合うほどだった。

 「力の大会」本番、悟飯はその実力を存分に生かし戦い抜いた。ジレンやトッポ、ケフラなどの最強クラスの戦士の相手は悟空とベジータに譲ったものの、ピッコロとの連携で多くの敵を脱落に追い込み、最強だが単独行動をしがちな上記の二人に代わって第7宇宙のリーダーとして指示を行い、悟空と同時にかめはめ波を放つなどの見せ場でも盛り上げてくれた。最後には、かつて敵対していた、自分に無力さを実感させる直接のきっかけとなった、そして「力の大会」内でもひと悶着あったフリーザと共闘して強敵たるディスポを攻略(「同じ第7宇宙の仲間ですから」とかつて言われた台詞を返すのが最高)、自らを犠牲にした作戦によって彼を場外に追い込み、その判断も実力も皆に認められた。

 

 と、以上がアニメ版『ドラゴンボール超』における悟飯の主な活躍なのだが、ここから数年経って、同じ『ドラゴンボール超』の名を冠して公開されたのが、『スーパーヒーロー』なのである。ジレンの存在が語られていることから、時系列的にも今作における悟飯やピッコロさんは確実に「力の大会」を経てきている。しかし悟飯は「フリーザ復活編」以前のような完全に平和ボケした性格に戻り、ピッコロさんはそんな彼を情けなく思っている。描き方の方向性やきっかけこそ異なるものの「修行不足で変身できなくなったアルティメットに再び覚醒する」という流れはまるっきり同じことを繰り返しているし、「傷つくピッコロさんを見て悟飯が無力感を募らせる」という構図もどこか既視感のあるものになってしまっている。

 要するに、悟飯が作品の主人公となれたこと、それを反映した新形態や活躍そのものにはもう満足としか言いようがないが、その前提にある設定や認識に、アニメ版『ドラゴンボール超』における描写との齟齬を感じたのだ。「悟飯は不遇」という認識自体が(個人的な感覚で言えば)もう「古い」ものであり、それを乗り越えたうえでの悟飯の物語が見たかったのだが、『スーパーヒーロー』における悟飯は数年前、十数年前のそれに完全に逆戻りし、彼への古い認識・イメージのうえで物語が展開されてしまっている(それ故に展開に既視感がある)。ピッコロさんの死と未来トランクスの騒動における置いてきぼりに強い無力感を抱いた彼が、ちょっと平和だったからといってまたアルティメットになれなくなるほど修行をサボる……その描き方を肯定し受け入れることは、僕にはできない。

 

 

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 しかし、である。もう通算何回目だよという逆説になってしまうのだが、しかし、『スーパーヒーロー』がそうなる理由も、わからなくはない。

 そもそも『ドラゴンボール超』という作品は、アニメ版と漫画版の二つの媒体が存在する、メディアミックスのコンテンツである。どちらも原案は鳥山明先生であるが、漫画版はとよたろう先生が元の設定やコンセプトに彼個人のアイデアを加えて描き、それをネーム段階から鳥山明先生本人が監修しているのに対し、アニメ版は鳥山明先生の原案をテレビアニメ用に膨らませて様々な設定や展開を付け足してストーリーが作られている。

 結果、同じタイトルを持つ作品であっても作者が異なるため媒体によって内容が異なり、しかしどちらも紛うことなき「正史」「本編」である、という状況にある。僕がさっきまで長々と語っていた孫悟飯の物語が展開されたのはアニメ版の方で、恐らくその全てに鳥山明先生が直接関わっているわけではない。では先生本人がネームまでチェックしているため比較的距離感の近い漫画版での悟飯の扱いはどうなのかというと、あまり良くはない。というか、率直に言ってしまうと、非常に悪い。

 そもそもの始まりの「フリーザ復活編」は丸々カットされているし、「破壊神シャンパ編」においても試合の出場メンバーの候補にこそ出るものの、「あいつは勉強ばっかで道着まで失くしちまったんだぜ!」「惜しいな」に留まる。「未来トランクス編」では話題に上がることすらなく、単行本の巻末において描かれたトランクスとの再会もギャグチックなものになっており、物語には何ら大きな意味を持たない。「宇宙サバイバル編」では「あいつ抜きで(力の大会に)勝てると思うか?」とまでの期待を寄せられてピッコロさんに鍛え直され、大会本番においてもポタラ戦士のケフラと単体で相打ちになるなどの大金星を上げるも、漫画版「宇宙サバイバル編」の尺の短さもあってピッコロさんとの修行風景やアルティメットへの再覚醒シーン、悟空との練習試合は描かれず、アニメ版ほどの強い印象は残らない。

 だから、漫画版の系譜として捉えれば、『スーパーヒーロー』における悟飯の描写とその背景にある「扱いが悪い」という前提も筋が通るのである。漫画版においても「超サイヤ人になる必要がない」という発言があるためアルティメットへの再覚醒自体はしているのは確実だし、漫画版でのみ展開した「宇宙サバイバル編」後のエピソード、「銀河パトロール囚人編」では悟飯もちゃんと戦闘において活躍していたが、アニメ版と比較したら小さい、あくまでZ戦士の一人という扱いで、「扱いが悪い」と言っても矛盾することはない。

 

 そして何度も言うように、『スーパーヒーロー』の脚本を手がけているのは鳥山明先生本人である。このことからも、『スーパーヒーロー』のスタンス・精神的な繋がりはアニメ版より(ネームを毎回直接チェックしている)漫画版の方が強く、そちらからの文脈で「近年の悟飯は扱いが悪い」を読むのが正解なのだろう。そう捉えれば、大きな矛盾は生まれない。そう理解することができれば、不満は少なくなる。同じく鳥山明先生が脚本を手がけた前作『ブロリー』においても、アニメ版で悟空が切り札としていた(漫画版ではそれらしきものが出てくるに留まった)ブルー界王拳は登場しておらず、アニメ版との断絶を感じさせていた。

 

 だから、別に矛盾はしないと考えることは、できる。絶対に、不可能なことではない。実際、『スーパーヒーロー』を観終えた後、モヤモヤを晴らすためにこれまで触れていなかった漫画版『ドラゴンボール超』を一気買い・一気読みした時、そのモヤモヤの根幹にあった疑問が氷解していくような感覚があった。なるほど、と。確かにここからの地続きならば、納得はできると。ちゃんと悟飯の物語としての良いところもあったわけだし、描写の矛盾や繰り返しはメディアミックス展開故の宿命だと受け入れて、楽しんでしまえばいいだろうと。

 

 

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 いや、でも、しかし。しかし、世界線や文脈が異なるとはいえ、同じコンテンツ内でほとんど同じことをやった、既視感に溢れた展開を再び見せるのは、一つの作品としてどうなのだろうか。かつて確かに『ドラゴンボール超』の名を冠して紡がれた物語を頭から消し去って『スーパーヒーロー』を見ることは、果たして正しいことと言えるのだろうか。

 悟飯が戦いへと再び向かっていく過程を丁寧に描き、「力を手に入れると慢心し隙を突かれる」という超サイヤ人2とアルティメットの覚醒時に繰り返し露呈した彼の弱点に言及し、一方でリーダーとしての振る舞いやフリーザとの共闘でもって新たな可能性を提示した。そのようにどこまでも真摯に孫悟飯に向き合ってくれた作劇を、一時的にせよなかったものとすることは、僕にはできるだろうか。それとは対照的に、「人造人間」「レッドリボン軍」「セル」といった悟飯の全盛期と言われるセル編の要素が作品の中に満ち溢れ、肝心の新形態への覚醒すらも「怒りの爆発」という悟飯のテンプレートに頼った『スーパーヒーロー』の展開は、初代主人公の精神性を継ぎつつも新たな物語と個性を提示する「二代目主人公」、孫悟飯への向き合い方として、どこか誠実さに欠けるものではなかっただろうか。

 

 一部の戦闘シーンで背景に使用した『神と神』、同じ戦闘シーンの中で作画と同時使用した『復活のF』、戦闘の局面において作画と使いわけ各々の個性を際立たせた『ブロリー』と、進化を続けてきた近年の『ドラゴンボール』映画における3DCGの到達点を感じさせる映像面のクオリティや、ピッコロさんの新形態と既存の技の両面での大活躍など、『スーパーヒーロー』には悟飯関連以外にも語れるトピックは多く存在する。総合的に見れば、『ドラゴンボール』の映画として見れば、非常に満足度の高い作品だというのは理解できる。しかし、自分がこの作品について語ろうとすると、どうしても悟飯の向き合い方と扱い、それに対するアンビバレントな感情が口をついて出てきてしまう。

 

 納得はできる。面白くないとは思わない。アニメ版『ドラゴンボール超』と違って明確に悟飯が主役の映画ができた時点でもう勝ちだと、そう思う自分もいる。ただ、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、僕の見たかった「孫悟飯の物語」ではなかった……そういうことなのかも、しれない。

感想 『犬王』 さあ歌おう、確かに有った、誰かの「物語」を

劇場アニメーション『犬王』

 どうも、石動です。

 三か月ぶりのブログ更新。なんでこんな放置してしまったかというと、シンプルに忙しかったのと、年に十本も見たら「今年はたくさん見たな」となる自分にしては珍しく、三月から六月にかけては観に行きたい映画が沢山あったんですね。『ウルトラマントリガー エピソードZ』とか『プロメア』の三周年記念上映とか劇場版『輪るピングドラム』とか『シン・ウルトラマン』とか。映画って、劇場で観るからこその迫力や情報量の多さがある(だからなるべく劇場で観たい)一方、それ故に一本見るだけでもその情報量で脳や目が疲れたり、あと単純にそこそこ遠くへ足を運ぶために身体も疲れてしまう、そんな娯楽だと思ってて。だから一本見たらTwitterに感想だけ放流して爆睡したりで、なんだかんだブログを書く時間がとれなかったというか……(言い訳)。

 

 で、それらの「観たい映画」のひとつが、今回感想を書く『犬王』なんですね。南北朝が統一されんとする時代に、それぞれ別の道から能楽(当時は猿楽と呼ばれていた)の道を進んでいた一人の人間と一人の化け物が出会い、これまでにない旋律・歌声・舞の猿楽で一世を風靡する、犬王という実在の人物を題材にしたお話。古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』を原作にしながらも、その「これまでにない旋律・歌声・舞」を現代のロックバンドのようなサウンド(それを作る楽器自体は琵琶が主体)として表現する、大胆なアレンジを音楽面のコンセプトに制作された作品。

 そんな破天荒なミュージカル映画を手掛けるのは、監督に『夜明け告げるルーのうた』『四畳半神話大系』等の湯浅政明、脚本にドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』『アンナチュラル』等の野木亜紀子、キャラクターデザインに『ピンポン』『鉄コン筋クリート』等の松本大洋、主演に『女王蜂』のアヴちゃんを据えるという最強の布陣。また、制作スタジオのサイエンスSARUは、3月まで同じく古川日出男の訳を原作にした大傑作アニメ『平家物語』を放送していたこともあって、否が応でも期待が高まっていたんですよね。率直に言うと、この布陣の時点でほとんど名作間違いなしとまで思っていて、そういう意味では今年最も楽しみにしていた作品かもしれない。

 

 というわけで、『犬王』を観てきた自分の、個人的な感想をまとめていこうと思います。以下ネタバレ全開ですので、まだ観られてないという方はお気を付けください。

 

 

 

映画『犬王』オリジナル・サウンドトラック

 では最初に、不満だったところについて述べていきます。

 「あの前フリからいきなりけなすんかい」と言われそうですが、実際に劇場で観たところ、前述のような極端に大きい期待に反して、序盤から中盤にかけては割とノり切れないような展開・映像があったんですよね。正確に言えば、冒頭の現代の都市の二次元と三次元が融合したような映像や、盲目の主人公「友魚(途中で友一、友有に改名)」が音で世界を「視る」描写とか、盲目故に友魚が恐ろしい見た目をしたもう一人の主人公「犬王」を恐れることなくそれどころか歌と踊りを交わし合うシーンとか、基本的には楽しんで観ていたのが、中盤のあるシーンで急に頭の中に疑問符が浮かんだと言いますか。

 

 少年の頃、一度だけ相まみえ、友魚は習った琵琶の音色でもって、犬王は独学で身に着けた舞(ダンス)でもって、心を繋いだ主人公二人。それが、年月が経ち成長した姿で再開する。話していく中で、犬王が化け物のような見た目をしていること、芸を極めていく毎にその姿形が変化し真っ当な人に近い形に戻っていくことについて、「無念の中死んだ平家の怨霊が取り憑き、知られることのなかった自分達の物語を語ることを犬王に求めている」「だから物語るための手段たる芸が上達するとその願いが満たされ呪いが段階的に解けていく」という真相が明らかになる。その中で、犬王は怨霊達の「物語」に、友一は数奇な過去を持った犬王のという男の「物語」に、それぞれ運命的なものを見た。そこで二人は、これまでにない斬新な音楽とパフォーマンスでもって、自らの伝えたい「新たな物語」を歌い始める。

 

 そんな、二人が「犬王」「友有」という名を名乗り活躍、一気に注目と人気を集めていく(そして芸を極めることで少しずつ犬王の姿が人間に近づいていく)シーンで、二人のライブとそれを受けた世間の反応を交互に描く手法がとられるんですけど、その尺があまりに長すぎるんですよね。手法自体は別に珍しくもない、「挿入歌がかかって登場人物達が送る年月をダイジェスト的に描写する」というアニメ映画における王道を、お話の中核にある二人の「物語」「それを語る歌」「猿楽」と絡めてやっただけなんですけど、あまりに長々とその流れをやるものだから、結果的に中だるみのような退屈さを生んでしまっている。

 映像や音楽もその退屈さに拍車をかけるような作りで、歌のメロディも特に激しい転調をするわけでもなく繰り返すように進行していってしまうし、後のシーンに向けて溜めるためか、ライブ演出もある程度はっちゃけつつも最低限の時代設定は守るようなテイストに抑えられてしまっている。一連の流れでは友有と犬王が交互に自身の演目を演る形になっているのですが、特に友有パートの単調さ(ほぼ同じ旋律の曲を二、三回歌詞だけ変えてフルで歌う、犬王と違って「演目」というより「曲」の側面が強いせいで派手な演出も少ない)が辛くて……。

 

 

犬王 壱

犬王 壱

 いや勿論、それだけ長々とやる意図はわからないでもないんですよ。二人の熱唱する歌詞をよく聴くと強いメッセージ性と物語性、「滅びてしまった平家の怨念を語る」「そんな犬王の力強い姿を共に見届けようと民衆に呼びかける」という意味を含んでいて、それらが交互に展開されることで重層的に絡み合い、「物語ること」が中心にある作品のテーマと二人の関係性を確かに表現する。だからきっと歌詞をしっかり聞かせる意図として、あの長さになったのだろう。また、このシーンは物語における最初の見せ場、話が一気に進む場面なので、あまりさらっとやってしまうと映画として歪になってしまうのだろうなというのも、観ていてなんとなく理解できる。

 

 それでもやはり、友有の心情描写が微妙にあっさりしている(犬王の怨霊関連の話の中で父母の呪いから解き放たれたが故に自分のやりたいことを始めたのかな、とは思う)ために展開に置いて行かれてしまうような感覚が、歌っている間には二人の心情描写を一切しないことで拍車がかかってしまっているのも含め、体感15分くらいあったあのシーンは不満が多かったな、と。意図は飲み込めても、それでもやはり極端すぎないか、と思ってしまいました。5分とかそのくらいの長さだったら良かったんだけど……アヴちゃんと森山未來さんの歌声や楽曲そのものはめちゃくちゃ良いだけに、非常に勿体ない……。

 

 

 

劇場アニメーション「犬王」誕生の巻

 ただ、です。ただ、なんですよ。ここからは褒めのパートに入るわけですが、逆説的に言うと、明確な不満はそこくらいで。それ以外のシーンはむしろ全て良かったんですよね、『犬王』。前半で「おおっ」となった部分は先ほど書いたのですが、後半はそれを遥かに凌駕する勢いで情緒を揺さぶってくるようなお話と演出が展開されていく。誇張抜きで、スクリーンに映し出される全ての映像に、例外なく見惚れ、圧倒されてしまう。

 その中でも一番好きなのが、次のシーン。

 

 全国にその名を轟かせた犬王と友有の「友有座」が、時の将軍たる足利義満の妻の要望を受け、御所でパフォーマンスを行うことになる。その背景には犬王の人気に嫉妬した猿楽の一派である比叡座の当主と、ある理由で友有座を邪魔に思っていた足利義満の陰謀が絡んでいて、まだ呪いが解けていない化け物の顔を隠すための能面を最後には外して歌うよう、犬王は命じられる。それを知ったうえで、化け物の顔を見られたら忌み嫌われ処刑されてしまうことを知ったうえで引き受けた犬王だったが、演目が中盤に差し掛かっても平家の怨霊はいつものように喜ばず、呪いも解けてくれない。

 何を怨霊達は求めているのか。一体何が足りないのか。怨霊達は、自分達平家の「物語」が語られていることを望んでいる。ならば足りないものは「物語」、まだ拾えていない「物語」、それは一体、誰の「物語」なのか。

 そこで犬王と友有は、他でもない自分達の「物語」を、過去を回顧する。そもそも、友有の───友一の、友魚の物語は、平家と共にあった。代々壇ノ浦に沈んだ平家の遺物を拾ってきた、そんな漁師の家に生まれた。そしてある日、三種の神器を求める北朝の者に頼まれ、かつて安徳天皇と共に沈んだ天叢雲剣を引き上げ、その呪いから父母の怨念による復讐が始まった。

 しかし、これは既に語られた「物語」だ。友有自身も覚えているし、観客も映画の序盤でそれを知っている。では足りないのは、まだ明かされていない、犬王の「物語」。

 

 

竜中将

竜中将

  • 犬王(CV:アヴちゃん) & 友有(CV:森山未來)
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  • provided courtesy of iTunes

 もう、ここまでの流れで既にちょっと泣きそうなってしまったんですよね。

 絶体絶命の危機を迎えた二人が全力のパフォーマンスを行い、しかしただ歌い踊るだけでは呪いを完全に解くまでは至れず焦り、満たされない怨霊達の声を聞く中で、「自分自身の物語」という正解に至る。その過程が、一つの演目の中で表現されていく。最初はしっとりした曲調で軽やかに舞うも、怨霊達がいつものように喜んでいないことに気付き、その焦りの発露と同時に曲調と演出が一気に、水上でのバレエから色とりどりの照明が瞬く中のダンスミュージックに変化する。さらに場面が過去の回想へと移る際にも、歌からインストゥルメンタルへと音楽がシームレスに交代する。映像(「聴こえるはずの声が何故か聞こえぬ」のような歌詞を含む演目内容)と二人の心情がミリ単位の見事なシンクロを遂げる演出に、観ている側は一カットも、一音たりとも逃せないほど夢中にさせられる。

 シンプルに、映像単品で見ても満足度が非常に高いのが良いんですよね。曲調の変化はどことなくボヘミアン・ラプソディみたいで面白いし、その変化の前後が「舞と情景で魅せる普遍的な美しさの表現」「原色のサーチライト(スポットライト?)とその光の中でシルエットになって踊り狂う、ド派手なインパクトをもたらす現代的な表現」というように、その方向性・時代設定のイメージとの一致の度合いの二面において対照的になっているのも楽しい。そこに友有の過去回想のエモーショナルな演出と「これまで誰かの物語を伝えようと歌い舞ってきた二人が、ここに来て自分自身へと焦点を当てる」「それこそが残された平家の物語の最後のピースだった」という展開の熱さ、ドラマとのシンクロが乗っかってくるのだから、もう、言葉にならないような没入を感じるんですよね。

 

 そしてその勢いのまま、謎が多かった犬王の「物語」が語られる。犬王が平家の怨霊に呪われた理由。それは、比叡座の当主───犬王の父親が、芸を極め皆に評価されることを望むあまりに呪われた能面の力に頼り、その要求のままにまだ母親のお腹の中にいた犬王を代償として差し出したからであった。能面は犬王の父親にまだ語られていない平家の「物語」を、新たに琵琶法師達が拾った「物語」を殺し奪うという形で入手させていく。その奪った「物語」を利用した犬王の父親は猿楽の世界で成り上がり、最後の代償となった犬王は彼に「物語」を奪われた平家の恨みにより化け物へと姿を変えた。

 

 「芸能を極めるのと名声を得るのだけを目的に他者の物語を奪い、私利私欲をもって語る」「全ての物語を自分のものにしようとするが、それらはどこまでいっても誰かの物語でしかなく、自分の物語ではない」。ここまでの『犬王』で描かれてきたものとまさに正反対な犬王の父親と、その執念に呪われた犬王。

 しかし犬王は、そんな自分の「物語」を、迷いなく物語る。平家の「物語」と深く関わっていた、ある意味でその一部となっていた「物語」を、枠にとらわれない音楽と舞で表現し、その存在を世界に知らしめる。自分自身の名を、滅びてしまった平家の声を、高らかに歌う。それにより平家の「物語」を語り尽くし呪いを解く姿が、「物語ることの意義」をこれでもかと表現した展開が、父親との対比でもって、より深くこちらの胸に突き刺さってくる。

 

 本当に、最高としか言いようがないんです。「思い出さえも夢のあとさき」……犬王が自らの「物語」を語る歌詞はローテンポ故の確かな力強さを持つ曲調と合わせてあまりに情緒に訴えかけてくるし、加えて犬王の真実に関しても、映画冒頭の意味深な描写と「犬王は平家の亡霊に呪われており、その声を聞くことができる」という根幹の設定、前半の「都で平家の物語を集めている者が襲われているらしい」という噂……それらが一本の線となって繋がる伏線回収的なカタルシスを伴っているわけで、一連のシーンを見ているときの興奮は筆舌に尽くしがたいほど。とにかく、ただただ素晴らしい……。

 

 

犬王 エンディングテーマ

犬王 エンディングテーマ

 で、さらに言うと、この映画の凄いところは、上記のシーンで抱えたここまでの熱量を一切覚ますことなく、ラストシーンまで駆け抜けるところなんですよね。個人的な「好き」で言えばここが頂点だけど、物語としては一切勢いを殺すことなく完結する。先ほど言ったように、不満なところは中盤の例のシーン「だけ」と断言できるほどに、速度を落とさない。

 平家の「物語」をまとめることで南北朝を統一するほどの権威を示す、だから自分がまとめさせた以外の「物語」は「正しくない」「存在しない」ものであるため語ることを禁ずる…という足利義満のスタンスで犬王の父親とは異なる方向性での「物語ること」へのアンチテーゼを示すのには痺れたし(あと『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』じゃん……義満、常盤SOUGOじゃん……ってなった、胡乱)、仲間達を半ば人質にとられ義満に屈する犬王と最期まで自分で決めた名を名乗る(平家の「物語」を拾うことを否定しない)友有には泣いたし、結果友有を失った犬王が、たった一人で義満のために「伝統的な」舞を踊るシーンにも(犬王の顔が能面のように無表情なのが辛くて辛くて……無音の演出にも震えた)、「犬王達の演目の内容は、一切現代には残っていない」という無慈悲な事実にも、胸がつまった。

 

 そして、最後。現代で亡霊となり彷徨っていた友有の前に、ずっと彼を探していた犬王の亡霊が現われる。「名前(を元のものに)変えてたのかよ、わからなかったぞ」「お前は友有だろ」。その二言で、友有は怨念にまみれた出で立ちから、犬王と同じ子どもの頃の姿に戻る。笑顔を交わした二人は、初めて出会った時のように琵琶の音色と舞を交わし、夜空へと舞い上がっていく……そこで、『犬王』は終わる。

 

 

 

犬王 アニメーションガイド

 勿論、前半で述べたように、『犬王』は完璧な映画だとは言えない、とは思う。いくらそれ以降のシーンが良かったからといって不満は消えるわけではないし、その不満は無視するには大きすぎる。そもそもの話として、室町時代設定の古典なのにロック、というコンセプト自体がまあまあ好き嫌い別れそうだなというのもある。Twitterで「犬王」と検索すると、サジェストに真っ先に「微妙」と出るのもまあ、全く理解できないとは言えない。

 ただ、「犬王達の元ネタになった音楽は幕府によって完全に規制されたため、現代に全く伝わっていない=誰も絶対にあのような音楽ではなかったと断言することはできない」とそのコンセプトにも一応この話だけなら成り立つ理屈を付けていること、どうしようもなく制作陣の実力の高さを理解させてくれるアニメーションの完成度、そして「物語ること」の尊さをここまで突き詰めて描いてくれたお話の素晴らしさに(お話の筋的にはビター寄りなオチなんだけど、それを死後の二人の再開と、「そんな犬王と友有を題材にした映画が作られた」「公開されることで忘れられた二人の『物語』は多くの人に知られた」という作品そのものの事実で一気に裏返してくるのが天才)、めちゃくちゃに感動してしまったんですよね。少なくとも、根本にあるテーマはほとんど完璧に近い形で描かれている。個人的には、その点を高く評価したいというか、個人の感覚としてぶっ刺さったというか……。

 

 ということで、『犬王』、個人的には2022年どころか人生においても記憶に残り続けるような傑作でした。久しぶりに書いたせいで文章が大分とっちらかってしまいましたが……とりあえず読んだ方に『犬王』の面白さが伝わってくれれば……。

感想『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』 「欲望」と「利害で繋がる信頼関係」とその果てにあったもの

 僕は、『仮面ライダーオーズ』が好きだ。

 怪人と仮面ライダーの「お互いが利用し合う」ヒリついた関係、変身アイテムであるメダルの所持状態が毎週のように入れ替わる争奪戦、そのメダルを組み合わせて何百ものパターンが実現されるフォームチェンジで魅せる戦闘シーン、映像を彩るアップテンポなスカっぽい劇伴。思いつくままに並べるだけでもこれだけの独自要素が挙げられるということからも、『オーズ』の強烈な個性が窺える。自分が『オーズ』に初めて触れたのは随分前のことだが、今でも『オーズ』を追い続けた一年の衝撃と興奮を鮮明に思い出せるほどに、その個性が記憶に焼き付いている。

 

 

 

仮面ライダーOOO(オーズ) Blu-ray COLLECTION 1

 そんな個性溢れる『オーズ』だが、僕はその中でも特にある二つの要素が作品としての面白さに直結していると考えている。「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」「映司とアンクの関係」。その二つの要素が『オーズ』を『オーズ』たらしめ、同時に見る者を(というか僕を)熱狂させてきたのだ。

 

 『オーズ』の作劇の根本には、「欲望」がキーワードとして存在する。古代から復活した『オーズ』の怪人は「欲望」の意味を持つグリードの名を冠し、自分達を構成するメダルの「欲望」の力で人々からヤミーという下級の怪人を生みだす。ヤミーは自分を生みだした人間の「欲望」に従って行動し、それを満たすことでメダルを生成し、そのメダルを取り込んでグリードは力を蓄えていく。主人公にして仮面ライダーたる火野映司はその脅威から人々を守るために、中途半端な形で復活してしまったグリードであるアンクは自分の立場と力を考慮して他のグリードを出し抜くために、手を組んでヤミーや他のグリードと戦っていく。

 その戦いの中で、登場人物達は自分の「欲望」と向き合っていくことになる。ヤミーを生成するもとになる「欲望」の持ち主であるエピソード毎のゲストキャラは、手段を選ばないヤミーの姿を見たり、触媒として取りつかれたり、一緒になって暴走する中で映司などの説得を受けたりすることで、自分の「欲望」の暴走を客観視しその正体を知り、そのうえで現実の中で折り合いをつけていく。アンクは人間の身体にとりついたことで生きることの喜びを知り、ただのメダルの塊でしかないグリードから脱し命を手にしたいと望みその方法を探っていく。所謂正義のヒーローであり、「欲望」なんて世俗的なものからはかけ離れているように見える映司も、過去守ろうとした少女に手が届かず、それ以来自分の「欲望」を見つけられなくなってしまったことが明かされ、彼は忘れた自分の「欲望」を思い出そうとしていく。

 『オーズ』が特殊なのは、一般的には良くないものとされることの多い「欲望」を肯定的に描いていることである。上記の映司のエピソードで自分の欲望を思い出す取り組みが試みられていることや、「欲望こそ人の生きるエネルギー!」という鴻上会長の特徴的な台詞からわかるように、『オーズ』の世界観は欲望を、人の根源にあり、生きていく(未来へ進んでいく)のに必要不可欠なものだと定義している。

 一見欲望の抑制が訴えかけられているように見えるゲストのドラマも、欲望そのものを否定することがなく(たとえ倫理に反するような欲望であっても、その存在そのものを否定することはない)、「現実の中で折り合いをつけていく」ことが重く描かれる。「現実の中で」という点が重要で、全てを救いたいという一般的には「正義」とされるようなものも、命を得たいという利己的なものと同じ「欲望」の言葉で表現されていることからもわかるように、「欲望はそれぞれが持つ強い願いであり、それそのものには善悪も是非もない」「欲望の正体と強さを知った上でそれをどう受け止め、どう現実で満たしていくかが重要」というのが、『オーズ』の背景にある思想なのだ。だから、怪人に翻弄される一般人も、人間の感覚を知ってしまったアンクも、ヒーローたる映司も、自分の「欲望」と「それを現実で満足に満たせる方法」と向き合わざるをえなくなる。

 

 そして、そんな『オーズ』の中で、個々のゲストキャラよりも連続性と重みが大きい縦の軸で「欲望」というテーマを背負っていたのが、映司とアンクの関係性なのだ。先述したように、映司とアンクはそれぞれ別の目的を達成するために、お互いに利用し合うために、協力関係を結んだ。それ故に常にお互いから目を離せないようなヒリヒリとした空気を伴い、お互いの目的の方向性の違いから衝突することがありながらも、「あくまで利害と損得で繋がっている」という前提を守ったうえで、少しずつ信頼関係が築かれていった。

 その果てに、映司は「どこまでも届く俺の腕」、アンクは「命」と、それぞれの目的の先と根源にあった「欲望」を見つける。ただそれでも、二人の関係の底にあるものは変わらなかった。一度は独りよがりに突っ走ったせいで関係が破綻したが、それでも最後には「利害で繋がる信頼関係」に戻ってきた。

 最終的に、映司の欲望は「誰かと手を繋げばどこまでも届くかもしれない」という形で、アンクの欲望は「他者と交流し関係の中に在ることで結果的に『生きる』ということを実現する(その象徴が他者に死を認められることで生の証を得る、というラスト2話での結論)」という形で、それぞれ他者との関係の中に満たし方を見つけ、『オーズ』の物語は完結した。「お前を選んだのは、俺にとって得だった」の台詞にもあるように、そこに辿り着く過程には当然、他者として欲望のために手を結んだ二人の「利害で繋がる信頼関係」があった。

 つまり、映司とアンクの関係は、「手を繋ぐという手段を共有することで、それぞれ自分の欲望を現実の中で実現していた」という点で、欲望そのものを否定せずその満たし方を重要視する『オーズ』の世界観の一つの理想となっていたのだ。「二つの要素」とは書いたが、「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」と「映司とアンクの関係」は密接に絡み合い、不可分な関係として物語の中に存在していた。テーマとして存在する思想と、それを実際に表現する物語の要素。その完璧な構造に僕は胸を熱くし、心を打たれた。

 

 

仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー

 そんな風に『オーズ』を理解していたからこそ、近年の『平成ジェネレーションズFINAL』や『ジオウ』オーズ編における『オーズ』の扱いに関しては、若干の……いや相当の不満を覚えていた。端的に言えば、映司とアンクの関係の描き方が、あまりにも「エモ」に寄りすぎだと感じたのである。

 確かに、二人の信頼関係は『オーズ』の魅力の大部分を担っていただろう。だから、客演の際にその部分をピックアップするというのは、わかる。『MOVIE大戦 MEGA MAX』で天才的な手法で示唆された「いつかの明日」をファンへの必殺カードとしてちらつかせたくなるのは、わかる。本編最終回で二人の「利害で繋がる信頼関係」は一応の決着をみたのだから、別にそこから映司の「アンクを蘇らせる」という目的だけを抜き出して湿度高めに描いたって、理屈としておかしくないというのは、わかる。

 しかし、先ほど2000字もかけて(前置きの長さではない)書いたように、「映司とアンクの関係」と「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」は、『オーズ』本編では絶対の関連を持っていた。テーマを表現するために、二人の関係がある。二人の関係が完璧な精度で描かれることで、テーマが厚みを持って視聴者に伝えられる。極端に言えば、「欲望」という強いテーマ性が根底にありそれを貫いたからこそ、二人の信頼関係は「結果的に」エモくなったのだと、僕はそう考えていた。

 だから、「欲望」に対する追求がほとんど見られず、「目的として」湿度の高いエモを狙いに行っている近年の『オーズ』には、僕の心はどうにも震えなかった。「手を繋ぐ」のはあくまで欲望を満たすための賢く現実的な手段の一つだということを完全に忘れ、最終回の構図のみを模倣する『平成ジェネレーションズFINAL』のオーズパートに、冷めた視線を投げかけてしまった。

 故に当然、『オーズ』の10周年を記念した新作『復活のコアメダル』が作られることを知った時は、胸の中には不安しかなかった。「いつかの明日」を擦る宣伝文句を、「アンク復活」を高らかに歌った予告を見て、その不安はどんどん膨れ上がっていった。正直、「ファンだから観に行くけど期待はできないかな」と思っていた。どうせ「欲望」というテーマへの言及や、それを体現する存在としての二人の「利害で繋がる信頼関係」を描くことはなく、「利害で繋がる信頼関係」とは一見似ていながら根本の目的(物語の中での存在意義、「欲望」への追求かエモの獲得か)が全く異なる、湿度高めな「映アンの再開」を提示するためだけの物語なのだろうと、そう思っていた。

 

 だが、つい先日、『復活のコアメダル』を観終えて劇場を後にした僕の胸の内は、見事なまでに晴れやかな気持ちで満たされていた。なんなら涙さえ流していた。嬉しかった。『オーズ』が最後にこの作品を送り出してくれたことが、嬉しかった。自分の熱狂した『オーズ』を見せてくれたことが、嬉しかった。

 なんてことはない。自分の公開前の不安は、杞憂でしかなかったのだ。『復活のコアメダル』は、『オーズ』は、僕が一番求めていたもの、映司とアンクの「利害で繋がる信頼関係」が体現する「欲望」について、見事なまでに当時に近い熱量で描いてくれた。

 

 

(以下、『復活のコアメダル』のネタバレがあります)

 

 

 

最終話「明日のメダルとパンツと掴む腕」

 『復活のコアメダル』では、『オーズ』本編から十年が経った世界が描かれる。そこでは、蘇った「王」、古代オーズがグリード達を引き連れ、世界を自分のものにしようと欲望のままに侵略を行っていた。その結果文明は崩壊し、人類も少ない生き残りだけになってしまった。何らかの要因で復活したアンクはその脅威に対抗するために、古代オーズの攻撃から少女を庇って生死不明になった、そして自分を蘇らせたであろう映司を探し始める。

 しかし、物語中盤、映司は少女を庇った際に肉体的にはほとんど死亡してしまい、予告などで姿を見せていた彼は鴻上会長が造った人造グリード、ゴーダがその身体を乗っ取っていたものだと判明する。加えて、かつての映司の「力が欲しい」という欲望を満たそうと暴走するのに抗ってゴーダから弾き出され意識が戻った映司の回想から、アンクが蘇ったのは映司が死に際にそれを願い、自分の命を捧げたからだということが語られる。「これが俺の最後の戦いだ」と死期を悟ったような顔で語る映司を見て、アンクはその願いを認め、変身した。

 


 先述したように、本編の映司とアンクは、「利害による信頼関係」で繋がっていた。お互いに異なる欲望を持ちながらも、現実の中で賢くそれを満たすために手を取った。幾度となく衝突したけれど、その長い戦いの日々が少しずつ信頼が積み重ねていった。その背景には、常に「損得と利害で繋がっている」という前提が存在して、だからこそ二人の関係は強固なものになっていった。

 「利害と損得で繋がっている」「それぞれ自分の欲望を満たすために背中を預けている」。それはある意味で、最もお互いの欲望の強さを信じているということだ。だって、もし相手が目的をすぐに変えてしまったら、その欲望を諦めてしまったら、関係は即座に破綻する。こいつは絶対に諦めないと。こいつは自身の欲望を貫き続けると、そう確信することが出来なければ、異なる欲望を持った相手と手を繋ぐことなんて出来ない。映司はアンクのメダルと命への執着を信じていたし、アンクは映司の「手を伸ばす」姿勢を信じていた。そして、それぞれの欲望が衝突しない範囲内では、相手の欲望を尊重していた。

 その信頼が最初に迎えた「終わり」が、『オーズ』本編の最終回だった。「お前がやれって言うなら、お前が本当にやりたいことなんだよな」「アンク、行くよ…」。映司がアンクの欲望を認め、その言葉通りにタジャドルコンボに変身する際に発したこの台詞には、利害という信頼で結ばれていた二人の関係性が、端的に現れている。

 

 

 

 

仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル CSMタジャニティスピナー&ゴーダメダルセット版(初回生産限定) [Blu-ray]

 『復活のコアメダル』は、一度完結した『オーズ』の物語の続きを作るにあたって、二人の関係性のその部分に着目した。お互いの欲望を信頼し、尊重する。そこにピントを合わせ、再び『オーズ』を紡いだ。

 映司は、手を伸ばした。最期の最期まで、後悔しないために手を伸ばし続けた。戦いの中でかつて手が届かなかった「少女」をその目で見て、古代オーズの攻撃から彼女を庇った。その結果彼の命は風前の灯、時間経過による死を待つだけの状態になってしまった。

 だが、手を伸ばしたこと自体に後悔はない。ただひとつ心残りがあるとすれば(古代オーズのことも気にはしていたと思うが、死にかけの彼にどうにかできることではないし、アンクを助けることで結果的にそれは解決される)、それはアンクのこと。自分の目の前で死んだ相棒のこと。ずっと修復する方法を探し求めていた、彼の意志を宿したコアメダルのこと。映司はその手にメダルを掴み、「甦れ」と願った。そして、その強い願いの力で、アンクのコアメダルは復元された。

 それにより、彼の欲望は満たされた。彼は、満足した。かつて手が届かなかったものを救い、ずっと追い求めた相棒のいる「いつかの明日」に辿り着き、心の底で囚われ続けていた業から解放された。そして同時に、その欲望を満たすために(少女に手を伸ばした結果として)自分の命を支払ったことを、決して後悔しなかった。それはつまり、結末を受け入れて死ぬことを望んだ、ということだ。

 だから、アンクと共にゴーダを撃破した後、映司はアンクを自分の身体から「追い出した」。理屈としては、アンクがそのまま取りついていれば、現状を維持することはできるだろう。本編の泉信吾の例を鑑みれば、そのまま身体を生かし続ければ、いつか完全に生き返る可能性もあるだろう。しかし、彼はそのことを拒否した。彼は「都合のいい神様」じゃない。一人の人間だ。だからこそ、他者の要望(「何としてでも生の可能性にしがみついて欲しい」というような)に関わらず自分自身の欲望を満たそうとするし、望む欲望の中身によっては、「(あの危機的な状況で)少女に手を伸ばす」という欲望を満たすためには、相応の対価を必要とする。映司は、そのことを覚悟していた。その対価を覚悟し、受け入れ、当然のものだと理解していた。「楽して助かる命はない」と、誰よりも理解していた。

 だからこそ彼は、「一人の人間として」、「自分のために」、「自分の欲望を追求し続けた結果として」、死んだ。彼の欲望を満たすということは、対価を認めることとイコールだったから。そういう意味では、「手を届く限りまで伸ばして生き続け、最期にアンクに看取られながら逝くこと」が、(古代オーズの攻撃で致命傷を受けた後の)彼の「欲望」だったのだから。

 その欲望を、『オーズ』は、『復活のコアメダル』は認めた。確かに『オーズ』本編では「手を繋ぐ」ことが彼の欲望へのアンサーとして提示されたが、それはあくまで欲望を満たすために取りうる賢い手段のひとつでしかない(だからこそ良い、と僕は思う)。欲望の中身や当人の意識や状況によっては他の手段をとることはありうるし、当然「手を離す」自由も存在するし、そこに対価だって伴うことはある(そもそも、『オーズ』本編は「欲望そのものに善悪も是非もない」「欲望こそが人の生きるエネルギー」という意味で欲望を肯定しているのであって、「どんな欲望も望めば満たされるしそれが生きることに繋がる」と欲望の無条件かつ完全な肯定はしていない)。独りよがりに力を求めた過去の映司の否定、という意味を彼の欲望から生まれたゴーダの撃破に持たせることで本編最終回を尊重しながら、映司に自分の欲望を満たすことを許したのだ。

 そして、『復活のコアメダル』のその結論を体現したのが、火野映司という人間の欲望への向き合い方を最後に示したのが、アンクというキャラクター、否、映司とアンクの「利害で繋がる信頼関係」だ。繰り返し言うように、利害と損得で手を組んでいるということは、ある意味でお互いの欲望を最も信じ、尊重しているということ。『オーズ』最終回で映司がそうしたように、アンクは相棒の「手を伸ばす」欲望を、そこに必然として伴う対価の容認を、結果的(あくまで結果的)な意味での「手を届く限りまで伸ばして生き続け、最期にアンクに看取られながら逝く」願いを、認めた。かつて利害の一致で「手を繋ぐ」関係にあったからこそ(この意味でも本編最終回を尊重している)、結果としてお互いの欲望を信じ尊重したからこそ、最期までその関係を貫き続けた。

 「それがお前の願いなら…映司、行くぞ」。映司の身体に乗り移ったアンクが、タジャドルコンボエタニティに変身する。その奇跡の力で、ゴーダを圧倒するアンク。その横に映司の幻影が立ち、共に戦う。

 台詞も映像も、映司がアンクの欲望を尊重しタジャドルコンボに変身した時と対になるように、アンクの決断と戦いが演出されていく。その完璧な対の構造は、これが本編最終回の立場を入れ替えた再演であることを意味し、同時に映司とアンクの関係の本質を、「利害で繋がる信頼関係」を、お互いの欲望を信じていることを、雄弁に語っていた。

 「お前を選んだのは、俺にとって得だった」。そんな再演の果てに、アンクはゴーダを撃破し、「世界の危機」という映司に後悔を残しうる事象は除かれる。それにより映司は満足して死を迎え、アンクはそれを看取り、「利害で繋がる信頼関係」は物語の中で最後まで貫かれ、貫かれたことによって火野映司の「欲望」というテーマは完成を迎える。そこで、『復活のコアメダル』は幕を下ろす。

 

 

 

第1話「メダルとパンツと謎の腕」

 利害と損得という前提を守ったうえで映司とアンクの関係を描き、それが物語における「欲望」への追求の役割を担う。テーマという目的と、キャラクターの関係性という実際の手段が不可分に結び付き、相互作用的にそれぞれの説得力と重みを増していく。そんな『オーズ』における基本構造、「物語全体を通して描かれる、欲望というテーマ」「映司とアンクの関係」という二つの要素の関係が、『復活のコアメダル』では非常に高い精度で実現されていた。

 その根本にある「ある意味でお互いの欲望を信じ尊重している」という解釈が突然現れたものではなく、(先ほど言及した本編最終回以外にも)タジャドルコンボ初登場回の「性格は信用できないんですけどね」「映司が生きてれば必ず来る」「ヤミーを倒すっていう一点でだけ、あいつの行動を信用できるんですよね」とお互いの欲望の強さを信じて別々に敵地に向かう展開に既に表れていたことからも含め、本編に真摯に向き合ったうえで、新たな物語を作ったことが伝わってきた。

 そのことに、僕はたまらなく感動した。「欲望」への向き合い方に脳を揺さぶられたような衝撃を受け、どうしようもなく熱狂した『オーズ』が最後に帰ってきたと、帰ってきてくれたと、そう思った。『オーズ』の根本の部分が、エモの前提にあった「欲望」の描き方が、ここ十年の湿度の高い雰囲気から一気に当時のヒリついた空気感に振り戻してくれたことが、たまらなく嬉しかった。

 

 勿論、それを実際に作品の形に落とし込むことで、短い尺やVシネの予算規模との関係で、物語を展開するための設定そのものの説明を中心とした「理屈」や「本編との整合性」が大分割り切った作りになったり、映像にいまいち迫力や説得力がなかったり、様々な問題点が生まれたことも確かだろう。

 また、『オーズ』本編が震災の影響で映司が死ぬラストから前向きなものに変更されたという経緯を鑑みて、十年前と同じく陰鬱な話題ばかりが飛び交う今、もう一度希望に満ちたものを提示することはできなかったのかという意見も、若干ながら共感できる部分がある。

 

 

 

 

 それでも僕は、「10周年」という最後のタイミングで、『オーズ』がその「らしさ」を突きつける作品を作り上げてくれたことに、心からの称賛と感謝を述べたい。この作品で『オーズ』が迎える終わりに、物語が前に進んだことに、心からの祝福を述べたい。

 ありがとう。おかえり。そしてさようなら、『仮面ライダーオーズ』。

総括感想『仮面ライダークウガ』 彼が変身したのは、きっと「空我」じゃなくて

 仮面ライダークウガ

 平成ライダー1作目(「平成の仮面ライダー1作目」ではない)にして高い人気をほこり、その人気をもってシリーズへの道を切り開いた作品。でありながら、後の平成ライダーとは一線を画す、孤高の伝説のような扱いを受けている作品。

 自分は『クウガ』が放送していた時代にはそもそも生まれていなかったので、リアルタイムの熱量や視聴者の受け止め方は全くわからない。だけども、『ディケイド』辺りから平成ライダーを視聴し始め、ある程度作品を理解できるようになった『オーズ』辺りで平成ライダーにドはまりし、卒業できないままズルズルとシリーズを追い続ける中で、直接視聴することはなくとも『クウガ』の存在の大きさは常々感じていた。当時熱中していたファンの声に籠っている想いの大きさは勿論、『平成ジェネレーションズFOREVER』等の作品での触れられ方の慎重さが、その印象を与えていた(いやまあ、春映画とかでは他のライダー同様雑な扱いを受けていたけれども……)。

 だから、重い腰を上げ、『クウガ』の視聴を開始しようとした時には、若干の緊張があった。ただテレビを見るだけなのに大袈裟な、と言われるかもしれないが、その時の自分の感情としては「伝説と向き合うぞ」くらいのものにはなっており、緊張するのも当然と言えば当然だったと思う。同時に、自分の中に長らく存在した「数ある平成ライダーの中でも何故『クウガ』は伝説のような扱いを受けているのか」「『クウガ』を伝説たらしめている要素は何なのか」という問いの答えがわかることへの高揚感もあり、それが緊張に拍車をかけていたのだろう。

 そして先日、ついに『クウガ』全話の視聴を終えた。ここからは『クウガ』を見終えての感想を、自分が視聴中に最も強く感じたことを中心にまとめていこうと思う。

 

 

 

S.H.フィギュアーツ 仮面ライダークウガ ライジングマイティ 約145mm ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア

 自分が『クウガ』視聴中に最も強く感じたこと。それは、作品全体にある独特の雰囲気だ。どこまでも「理」を通した、陳腐な表現で言うなら「リアルさ」に溢れた空気と展開とキャラクター造詣が、『クウガ』最大の特徴にして最大の魅力なのだと感じた。

 例えば、作中で「赤の金のクウガ」と呼称される形態、ライジングマイティは、強力なパワーを持って強化された未確認生命体(人々を襲う怪人)にも対抗できる、所謂「強化フォーム」の立ち位置にある。しかし、強力な力には代償が伴うもの、その例外に漏れずライジングマイティにもデメリットがあり、それ自体は多くの作品で(それこそ後の平成ライダーでも)よく見られる要素なのだが、なんとそのデメリットの一つが「あまりに攻撃の威力が高いため敵を倒した際の爆発の規模が大きくなり、それにより周囲に被害が出る」というものなのである。そのデメリットは作中できちんと1エピソードを割いて描写され、登場人物はその存在をはっきりと認識し、そのうえで「強化された未確認を倒すためには、どうしても金の力が必要」「ならば、警察と連携して怪人を人のいない地区へ誘導し、そこで金の力を使用する」と展開していく。

 「怪人は倒されると爆発する」というのは、最近の特撮ヒーロー作品においてはほとんど絶対条件ともいえる要素だ。しかし冷静に考えれば、爆発はその鮮烈さで映像的な迫力をもたらす以上に、「作中世界での二次被害をもたらす可能性のある威力を持った現象」という意味を持つ。端的に言えば、爆発なんて起こったらそれによる犠牲者が出るかもしれないのだ。

 つまり、このライジングマイティの一連の展開は、多くの特撮ヒーロー作品が「理」の面では追求してこなかった(都合で追求できなかった、あえてしなかった)「怪人は倒されると爆発する」の意味を真剣に考え、作中におけるドラマに組み込んだのである。加えてそこには、「人間には太刀打ちできない超常の存在が全力でぶつかり合ったら周囲はどうなるか」という、多くのバトルジャンルの作品が抱えるジレンマをも内包している。

 

 このように『クウガ』は、作中での出来事やドラマに、特に多くの特撮ヒーロー作品において「お約束」だと割り切られてしまう要素に、徹底して「理」を求める。怪人が出現した世界では、警察はどのように対応していくのか。怪人に対して、人々はどれほどの恐怖を感じるのか。怪人の存在は、今を生きる若者や子ども達の未来にどう影響するのか。怪人と同等の力と異形の姿を持つヒーローは、人々にどのようにその存在を理解されるか。ヒーローは何故、自分を犠牲にしてまで戦うのか。その全てに「理」の伴った回答を用意し、それを登場人物の紡ぐドラマにのせて描いていく。

 結果、怪人が出現してからの警察の対応は場面が変わる毎の時刻表示に示され、登場人物達が息抜きにプールに遊びに行くと間一髪のところで怪人とすれ違い、病により生きる希望を失った青年は未確認に自己投影に近い幻想を抱き、仮面ライダーは警察に未確認だと認識されて銃を向けられ、主人公・五代雄介の原点は彼のサムズアップの持つ「満足できる行いをした者だけに許されるポーズ」という意味をもって丁寧に描写される。そこにある「理」こそが「リアルさ」であり、『クウガ』に独特の雰囲気を与えているのだ。

 

 

 

EPISODE 19 霊石

 『クウガ』のそんな作風を肌で感じ、その背景にある意図を自分なりに噛み砕くと、冒頭に書いた「数ある平成ライダーの中でも何故『クウガ』は伝説のような扱いを受けているのか」「『クウガ』を伝説たらしめている要素は何なのか」もぼんやりとだが理解できた。『クウガ』にある「理」を追求する姿勢は、後の平成ライダーでは断片的にしか見られない。「独特な」と言ったように、その徹底ぶりは『クウガ』にしかないものなのである。その唯一性が伝説へと昇華し、『クウガ』は見る者の中に残り続けるのかなと思った。

 そして僕自身も、『クウガ』のそんな個性に魅せられることは多かった。先述のライジングマイティ周りの展開は、「五代くんに責任のほとんどを押し付ける形になっていたこれまでから前に踏み出し、警察とクウガが連携を行って被害を抑え未確認を倒す」というドラマとの噛み合い具合も合わせて熱くなったし、「理」を追求する姿勢が後の平成ライダーにも受け継がれる多彩なフォームチェンジ(『BLACK RX』といった先例があるのでフォームチェンジの始まりというわけではないけど)と「仮面ライダー」の由来であるバイクにも表れた結果、両者とも自分の目にはとても魅力的に映った。たとえ派手なフィニッシャーとしての活躍がなくとも、それぞれに「理」をもって役割や特徴を与え、それを完璧に生かすことで「カッコイイ」を生みだせるのだと知った。

 ただ一方で、『クウガ』のそのような個性がマイナスにはたらいてしまっていると感じる部分もあった。

 

 

 このツイートの内容が全てなのだが、『クウガ』は僕の見てきた特撮作品に比べ、話の中の「現実的な世界観での怪人やヒーローの存在」という挑戦の占める割合が大きいのである。同じ平成ライダーで言うと『アギト』なんかは「人間ドラマ:怪人やヒーロー周りのロジック=7:3」である一方で、『クウガ』は「人間ドラマ:怪人やヒーロー周りのロジック=5:5」、もしくは「人間ドラマ:怪人やヒーロー周りのロジック=4:6」の場合が多い。『クウガ』も確かに登場人物の心情や葛藤を描いてはいるのだが、それは「特撮ヒーローでよくある状況を現実に落とし込んだら人々はどうなるか」というシミュレーションの側面が強く、そしてシミュレーションの一環(「理」を求める姿勢のひとつ)である以上、そのドラマは作品の目指す目的ではなく、結果尺も「怪人が現われたら現実にはどう対処するのか」、具体的には「未確認がどのような法則に基づいて殺人を行っているか」「未確認はどのような能力を持っているのか」「その能力に対して、クウガはどのような力をどのように使って対応するのか」への回答という、別の側面からのシミュレーションと同等の長さしか割かれないことが多い。

 その傾向は、基本4フォームが出揃い、五代くん・一条さんというメイン二人の原点も描写し終えた1クール目の終わり辺りから、ライジング形態が1フォームずつ出てくる3クール目中盤辺りまでに強く表れているような印象を受けた。特に、その傾向の象徴とも言えるのが、EPISODE 17・18で展開された、未確認生命体第26号A「メ・ギノガ・デ」関連のエピソードである。この2話は「ヒーローの復活」をテーマにしており、「メ・ギノガ・デと相対したクウガがその毒性の強い胞子を食らい一時的に死亡状態になるも、霊石アマダムの力で死の淵から蘇り、見事メ・ギノガ・デを打ち倒す」という内容になっているのだが、その描き方が本当に特殊なのだ。

 ヒーローをモチーフにした作品でこういったお話を展開する場合、「仲間達の決死の努力と、彼らとヒーローの間にある強い絆が奇跡をもたらし、ヒーローが蘇る」、「たとえヒーローがいなくとも、いやいないからこそ、残された者達がその意思を継いで脅威に立ち向かい、しかし力及ばず世界が滅びる……直前に、何かしらの要因で蘇ったヒーローが現われる」など、「復活」に何かしらのドラマを付随させるのが普通だろう。「ヒーローがいない」という状況を生かし、登場人物の絆や覚悟を正面から、かつ強調して描写するのだ。

 しかし、『クウガ』EPISODE 17・18では、そのような行いはほとんど映像に表れない。全くないというわけではなく、五代雄介の死を受け止めようとする一条さんや、彼を蘇生するために力を尽くす椿さんの姿は描かれるのだが、それよりも「霊石アマダムの力」「それを伝える古代文字の伝承」に重きが置かれている。

 勿論そこには、『クウガ』なりの理由がある。ここで霊石アマダムの超越的な力を「死すらも乗り越える」と描写することで、その強大な力によって五代くんの身体が完全に書き換わってしまうのではないか、と視聴者に危惧させて「凄まじき戦士」「戦うためだけの生物兵器」関連の展開に説得力を与えているし、椿さんがこのエピソードで五代くんを蘇生させるために施した電気ショックは後の「金の力」の目覚めのロジックを担保している。その背景に推測される「それ以前の特撮ヒーロー作品で、ヒーローの超人性を描くために行われた『ヒーローの復活』展開を、伏線や前フリとすることで物語に組み込みかつ説得力を与える」という「お約束」へのツッコミ殺しとしての意図も含め、『クウガ』の「理」を求める姿勢が現われた結果がEPISODE 17・18なのだろう、とは思う。

 それでも、僕の好みとしては(あくまで好み)、復活や「金の力」のロジックが強引または曖昧になり「理」が失われたとしても、何かしら劇的なドラマを描いて欲しかった。五代くんの死を知らされた時の一条さんの姿を車の窓ガラス越しで撮ることで彼の言葉や声を敢えて遮断して表情だけで語らせる演出や、不完全な「白い四号」の姿での連続キックでメ・ギノガ・デを倒す胸アツな展開など、見所もないわけではないが、それでも不満だった。

 結局五代くんの復活に仲間の力はほとんど関係なかったこと、桜子さんやみのりちゃんに五代くんの復活を信じさせるような言葉をポジティブな演出で言わせたことで「ヒーローの死」の展開にある緊張感が損なわれてしまったこと、肝心の一条さんの「五代雄介の死」への受け止め方がしっかりと描かれなかったこと含め、「ヒーローの死と復活」の持つ意味を生かし切れていないように感じてしまった。個人的には、EPISODE 17・18は「ヒーローが死んで『ただ』復活する『だけ』の話」のような印象を受けてしまった。

 

 

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 つまり僕には、『クウガ』を占めるロジックの割合が合わない場合もあったのである。確かにその展開には「理」があって、その追求の姿勢は読み取れるけど、それでもいまいち面白くない。「そんなすぐに多種多様なフォームを使いこなせるわけがない」というのはわかるが、ひとつの装備やフォームを描くのに時間をかけすぎて、戦闘での使い分けが本格的に始まるのが遅い。古代の種族には独自の文化と言語がありそれが現代人に完全に理解できるはずがないのはわかるが、結局その多くが明確に解説されないまま終わるのは消化不良だ(自分は「本編で明確に説明されていない設定は作品の要素としてあまりカウントしたくない」と思っているので、本編の隅の隅まで一時停止も駆使して見てわかるかどうか、というレベルのグロンギ語と日本語の対応は「明確に解説され」た内には含めていない)。

 そのような、直接的にはドラマに関わらない「理」の追求が、「子ども向けの特撮ヒーローもの」という枠に逃げない制作陣の覚悟を示すのだろう。その「理」を追求する姿勢そのものが「お約束」へのツッコミ殺しとして機能し、世界観の確度や、引いてはそこで描き出される制作陣からのメッセージに説得力を与えるのだろう。それはわかる。わかるのだが、どうしても、自分が仮面ライダーに一定の割合で求める「楽しく面白いエンタメ」とは、その姿勢は絶妙に交わってこなかった。

 

 また、「金の力」は総じて爆発の被害が大きいような描写をされているにも関わらず、「紫の金のクウガ」ことライジングタイタンの初登場は普通に街中で、それも付近に人がいる状態で使われている、そしてご都合主義のように爆発の規模は小さく被害は出ていない(ライジングペガサスの初戦は空中で、ライジングドラゴンの初戦は海辺で未確認を撃破したことで、結果的に爆発の被害を免れたような描写をされているので、矛盾はしていない)など、「理」に矛盾が生じてしまっていた点もいくつかあったと感じる。そもそもライジング形態はバンダイの提案した「雷の力を司る最強戦士」の案が元になっていたという噂(ソースは探したけど見つからなかったですすみません)を考慮すると、そのような矛盾は、『クウガ』が「逃げ」として寄りかかるのを避けた、しかし番組の枠組みとしては確かに存在する「子ども向けの特撮ヒーローもの」という縛りにもたらされたものが多かったのだと思う。だってそもそもライジングさえ登場しなければ、玩具や催促の都合さえなければ、そのような矛盾は生じなかったのだから。

(追記:「爆発が大きいのはライジングだからじゃなくてゴ集団だから。ライジングタイタン初登場はメのやつだったから爆発が小さい」と教えてもらいました。理解力のなさを露呈させてしまった……そもそもメとかゴとかよくわかってなかった……「ゴのやつらがどうこう」みたいな台詞あったな確かに……爆発に影響してたのかあの区分け……。

 でも、本編中に言葉でしっかり説明して欲しかったかもです。上で「古代の種族には独自の文化と言語がありそれが現代人に完全に理解できるはずがないのはわかるが」と書いたように、理解力がなさすぎてグロンギのことはほぼわからなかったので、明確な説明が欲しかった……いやその「説明がちゃんとなされる」展開が「理」に反してるので『クウガ』はやらなかったのでしょうが……)

 

 要するに何が言いたいかというと、『クウガ』の「理」を求める姿勢は唯一の魅力を生みだしている一方で、「わかりやすいエンタメ要素の減少」「枠組みとして逃れられない大人の都合との衝突」という代償も伴っていたのである。そして自分には、「魅力」よりも「代償」の方に目が行くことが多かった。というより、その「代償」を顧みない制作の方針に「合わないかもな」と感じてしまった。中盤、1フォームずつライジング形態が登場しとどめを刺す、代わりにフォームの使い分けはほとんど行われない戦闘シーンを見ながら、何の感情も起こらない、凪のような精神状態になったことを覚えている。

 

 そして自分のそんな認識は、ライジング形態が一通り出揃い、警察との連携が可能になり、それらの組み合わせによる「理」に満ちた、かつ見応えのある戦闘シーンが展開されるようになり、ドラマ面でも「敵を暴力で排除するということ」「それにより生まれる苦悩」「『究極の闇をもたらす者』とクウガが同一であることの意味」など本懐のテーマが本格的に明らかになり始めても、変わることはなかった。『クウガ』の戦闘シーンを語るブログを書くほどその面白さに熱狂しながらも、心のどこかでは自分と『クウガ』の相性の悪さを意識していた。たとえ今の作品そのものは楽しめても、中盤で明確に示された制作陣の姿勢に「もうちょっと融通利かせてよ」と思ってしまった以上は溝は埋まらないと、そんなめんどくさいことを考えていた。

 

 ただ、最後の最後で、『クウガ』はその認識を少しだけ揺るがしてくれた。『クウガ』が好きかどうか聞かれたら迷いなく首を縦に振れるような、そんな逆転を起こしてくれた。

 

 

 

EPISODE 48 空我

 『仮面ライダークウガ』EPISODE 48「空我」。ついに、未確認生命体第0号「ン・ダグバ・ゼバ」が動き出す。彼はアメイジングマイティに変身し立ち向かった五代くんを下し、その目の前で多くの人々を殺戮した。その圧倒的な力を目にした五代くんは、ダグバを倒すには「聖なる泉枯れ果てし時」「雷光の如く出」ずる「凄まじき戦士」になるしかないと決心し、決着をつけたらそのまま旅に出ると仲間達に別れを告げていく。最後に一条さんに感謝の気持ちを伝えた彼は、「じゃあ、見ててください。俺の変身」と、「凄まじき戦士」、アルティメットフォームに変身し、雪山の頂上でダグバと殴り合う。その身体からが赤い血が噴き出し、瞳からは涙が溢れていた。

 「仮面ライダー」であるクウガの力が、「怪人」である未確認生命体(グロンギ)と同じものであることは、ずっと描写されてきた。未確認の腹にも、クウガと同じく霊石が埋め込まれている。未確認も実は人間態が本当の姿で、霊石の力で怪人態に「変身」しているのだ。彼らが物語中盤から使用し始めた小さな物体を分子レベルで変化させ武器にする能力はクウガの持つ武器化の力と同じ原理だし、極めつけに未確認生命体第46号「ゴ・ガドル・バ」はクウガと全く同じ「青の力」「緑の力」「紫の力」「金の力」を使用して人々やクウガを傷つけた。

 しかし、力は同一のものであったとしても、クウガと未確認には大きな違いがある。それは、力を振るう動機だ。未確認は「自分の笑顔のためだけに」、ゲゲルを楽しむために力を振るい、罪のない人々を殺戮した。クウガこと五代くんは「みんなの笑顔のために」、理不尽に殺され絶望に沈んでいく人々を未確認の魔の手から守るために力を振るい、多くの人々を救った。逆に言えば、EPISODE 35「愛憎」で描かれたように、その動機の底にある善意や優しさが怒りや憎しみに呑まれてしまったら、クウガは未確認と同一の「怪人」に堕ちてしまう。完全に怒りや憎しみに身を任せてしまった、「聖なる泉枯れ果てし時」に変身する本来の「凄まじき戦士」、「究極の闇をもたらす」ダグバと同格とされる存在、「戦うためだけの生物兵器」こそが、その極地なのだろう。

 だが、クウガが五代くんである限り、そんな事態はありえない。彼はもう、善意も優しさも忘れない。激情に飲み込まれたまま戦うこともない。霊石は、使う者の意思に従って力をもたらす。だから、五代くんなら大丈夫だ。「みんなの笑顔のために」「できる限りの無理をする」と誓った彼なら、大丈夫だ。実際、彼の変身した「凄まじき戦士」は古代の時とは異なる姿だった。いつもと同じ、赤い目をしていた。彼は理性を、善意と優しさを持ったまま、「凄まじき戦士」になったのだ。彼は、「戦うためだけの生物兵器」にはならなかった。

 確かに、その言葉は正しいかもしれない。力そのものは悪ではなくて、それを振るう動機こそが重要なのかもしれない。怒りに任せて未確認を串刺しにしてしまっても、未確認を倒すためといって「神経断裂弾」という恐ろしい兵器を生みだしてしまっても、それを使ってまだ自分の手では誰も殺していない未確認を危険性のために殺害しても、間違いへの道を一歩進んでしまったとしても。そこで踏みとどまり、考え、優しさを忘れない、未確認のようにはならない方向へと進めば、注意し続ければいいのかもしれない。

 でも、たとえみんなの笑顔のためでも、誰かを守るためでも、戦うことは苦しい。人の形をしたモノを殴るのは、痛い。生物をその手で殺すことは、辛い。たとえ未確認が完全な悪であっても、暴力で物事を解決することは、悲しい。

 そもそも、未確認を殺すことも、完全に「正しい」なんて言える行為だったのだろうか。未確認は「自分の笑顔のためだけに」、理不尽に暴力を振るう。でも、彼らだってクウガに自分が殺される危険性は理解していたはずなのだ。理解したうえで、彼らの言語で作り上げた彼らなりのルールを課して、ゲゲルを行っていたのだ。未確認生命体第3号「ズ・ゴオマ・グ」が何かに怯えるようにして、強迫観念に駆られるようにして力を求めていたことも考慮すると、それはもう、グロンギの「文化」と呼べるものなのではないだろうか。『クウガ』はよくその当時の事件や世相を反映した「理解できない暴力との戦い」と言われるが、相手方の事情の一切を「理解できない」と切り捨て暴力で排除するのは、果たして正しい行いと言えるのだろうか。

 わかっている。わかっている。それが綺麗事でしかないのは、わかっている。どう言い繕っても、どんな事情があったとしても、たとえ「文化」であったとしても、自分に対して何の危害も加えない、罪のない人々を殺すのは間違っている。未確認は間違いなく「悪」と呼ばれる存在だ。それを前にいちいち説得を試みても、その間に死人がどんどん増えていくだけなのだ。そもそもそれが「文化」であるならば、説得を試みる(「文化」を尊重せず価値観を押し付ける)ことも倫理的な問題を抱えていることになる。

 それでも、「できることなら」と思ってしまうのだ。暴力を用いることなく、拳を握ることなく、誰も傷つくことなく。本当の意味で「みんなの笑顔」を作って終われたらと、祈ってしまうのだ。少なくとも、最初の変身では戦う覚悟が完全には決まらず不完全な姿になってしまった五代くんは、未確認と拳を交えた時の感触を「好きになれない」とこぼした五代くんは、そんな綺麗事を間違いだと断ずるような人間ではないはずなのだ。少なくとも、彼は暴力を痛くて辛くて苦しいと、ずっと感じ続けていたはずなのだ。

 でも、現実は綺麗事では動かない。綺麗事のようにはならない。五代くんは戦う覚悟を決めなければならなくなったし、未確認をいかにして殺すかを考えなくてはいけなくなったし、「強くなりたい」と願わざるをえなくなったし、「好きになれない」感触とずっと向き合っていかなければならなくなった。たとえそこに守れた笑顔があったとしても、理想を否定し拳を握ることは、彼にとって苦しみでしかなかった。彼は、普遍的な優しさと過酷な現実の間に酷い矛盾を抱えなくてはいけなくなったのだ。

 

 

仮面ライダークウガ Blu-ray BOX 3 <完>

 ダグバとの決着のタイトルとなっている、「空我」。言うまでもなく「クウガ」の漢字表記だが、その意味は劇中では説明されない。それ故に、様々な解釈の余地が残されている。

 作中で希望の象徴として語られた青「空」をもたらす、「我」。「空」のように穏やかな優しさをたたえた、「我」。単純に、エンディングの『青空になる』になぞらえた表記というだけ、とも考えられるだろう。

 その、数多ある解釈の可能性の中。僕は、「空我」というタイトルを目にし、そのエピソードの迎えた結末を見届けたところで、ふと一つの回答が自分の中に浮かんでいることに気付いた。「空我」。「空」っぽの、「我」。

 「空(から)」とは、何も考えていないということだ。何も考えず、何も悩まず。ただ粛々と、目的のために手足を動かす。「空我」はきっと、「戦うためだけの生物兵器」、本来の意味での「凄まじき戦士」を意味しているのだなと、そう思った。

 もし「空我」になることができたら、五代くんはどれほど楽だっただろう。きっと「空我」には、感覚も思考もない。「戦うためだけの生物兵器」なのだから、そんなものは必要ない。そうなればきっと、未確認を殴る時の「好きになれない」感覚は感じずに済んだだろうし、未確認を暴力で排除することに何の苦しみも感じなかったはずだ。怒りや憎しみに全てを委ね、思考と葛藤を放棄すれば、優しさと現実のジレンマを抱えることもなかったはずだ。「戦うためだけの生物兵器」となった自分がダグバを撃破した後に人間に牙を剥くかもしれないけど、一条さんに破損した霊石を撃ってもらえれば止まるだろう。出力された形が怒りや憎しみであっても始まりが「みんなの笑顔のため」であるなら、力そのものが悪ではないのなら、別に「空我」になるのも間違いではない。

 でも、五代くんはその道を選ばなかった。その道の方が、伝承通りの「聖なる泉枯れ果てし時」に「凄まじき戦士」になり未確認を殲滅する道の方が遥かに簡単な道のりで、遥かに楽な方向に向かっていたのに、そちらへ進まなかった。人々を殺戮したダグバへの怒りと憎しみに飲み込まれそうになるのを押し留め、優しさと善意を胸に、「俺の変身」をした。彼は、伝承通りの「空我」ではなく、僕達のヒーローに、彼だけの「仮面ライダークウガ」に変身した。きっとそれこそが、ジレンマを前に思考を止めず、暴力で敵を排除することに苦しみ続け、痛みと矛盾を抱えて進んでいくことこそが、唯一「正しい」と言えることなのだと信じたから、そうしたのだ。

 雪山での殴り合い。その果てに、イメージなのか実際そうなったのか、五代くんとダグバは生身の姿に戻る。殴り合いを続ける二人。ダグバは、笑っていた。楽しいから、笑っていた。五代くんは、泣いていた。「空我」にならず、「我」を「空(から)」にせず、暴力を悲しいと思っていたから、泣いていた。その涙は、彼の覚悟の証だった。

 

 

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 その姿が、痛くても辛くても矛盾を抱えても、正しく、そして優しくあろうとする五代くんの姿が、たとえ完全な答えのない不可能性に満ちた問いであっても向き合い続ける彼の姿が、『仮面ライダークウガ』という番組そのものに重なって見えた。この一連の展開も、特撮ヒーローやバトルものの多くが抱え続ける「結局は暴力で解決している」というジレンマから逃げずに立ち向かう、『クウガ』の「理」を求める姿勢によって作られたものだが、物語の中に描かれたメッセージが、番組としての覚悟や方針と繋がったのだ。

 「理」を追求することには、代償が伴う。わかりやすいエンタメ要素が排される場合も多いし、「子ども向けの特撮ヒーローもの」としての事情と衝突し矛盾が生まれる可能性だってある。偉大な先輩達が切り開いてくれた立場やフォーマットがあるのだから、それに準じてもいいんじゃないか。ある程度、フィクションとしての嘘をついてもいいだろう。先輩と同じ道を行くのにもそれはそれで別の困難が伴うだろうけど、わざわざ新しい挑戦をする必要はないはずだ。より楽な方向に、苦しくない方向に逃げたって、誰も文句は言わないよ。このジレンマとも言える命題は、もう努力でどうにかならない範囲も含んでいて(故にこれまでの多くの作品、先輩達はその追求をあえてしなかったともとれる)、正解なんて結局出せないのだから、立ち向かう必要なんてない。

 それでも、『クウガ』は「理」を求め続けた。「怪人を倒したら爆発する」ということの意味を考え、近い視点から人々の恐怖を見つめ、警察の怪人への対応を大きなリアリティを持って描写し、怪人が人を殺す世界の閉そく感と未来への絶望を真正面から描き、仮面ライダーと警察の関係は段階を経て進めていき、主人公を完全無欠のヒーローにはせず、「ヒーローの復活」もしっかりと物語に取り込み、ヒーローが解決手段とする暴力の本質も逃げずに語った。作品で描く全てに、真摯であろうとした。嘘ではなく真実を語る世界と展開を構築してこそ、メッセージには力が宿ると信じたから。その方針が、何よりも正しいと信じたから。

 完全に好きになることはできなかったけど、言いたいこともそこそこあったけど、その姿勢は、五代くんと同様に逃げることをしなかった制作方針は、確かに「正しい」と。間違っていないと、EPISODE 48を見終えた僕は、そう思えた。最後まで貫き通されたらもうお手上げだと、観念した。好みとかそういうものを越えて、作品に惚れてしまった。

 だからしょうがない。こんなのはもう、好きになるしかない。たとえ何があっても中盤で感じた不満はなくならないけど、作品を語る口調にはどうしても熱が籠ってしまう。総括すると、結局「面白かった」という結論に帰結するしかないと。そのことを実感しながら、僕は今『クウガ』の総括感想を締めようとしている。

 

 

 

 今や僕にとって、『クウガ』は「孤高の伝説」ではない。神経質なまでに「理」という正しさを求め続けた、少し融通が利かない困ったやつ。しかしその姿勢は誰にも真似できないもので、それ故に、彼はあんなにもかっこよく見えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『仮面ライダークウガ』の戦闘シーン、最早芸術じゃん

 どうも、石動です。

 はい、またもやタイトル通りの記事シリーズなんですけど。

 最近、レンタル屋で借りては二週間かけて見て、返して次のを借りては二週間かけて見て……くらいのペースで『仮面ライダークウガ』を見ているんですね。

 流石は平成ライダーの始まり、あまりに個性が強すぎて語り口が本当に多い作品なんですけど、その中でも自分にぶっ刺さりまくってるのが戦闘シーンなんですね。特定の法則に則りながら、様々な能力で人々を虐殺していく怪人・グロンギ。それに対し、クウガは四つのフォーム+αで立ち向かっていく。

 

 

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 まず、その「四つのフォーム」の役割・個性が非常にはっきりしており、どの形態も空気になっていない、というのが素晴らしい。

 全体的にバランスが良く扱いやすい、かつ必殺キックは基本形態の攻撃で最強威力を誇る一方、武器を使用できないため攻撃にある程度危険を冒す必要がある「赤の力」、マイティフォーム。マイティに比べキック力やパンチ力は落ち、武器も強力なものではないため決め手には欠けるが、ジャンプ力・走力などの基礎的な身体能力に優れ敵の追跡や襲撃に役立つ「青の力」、ドラゴンフォーム。超感覚で敵の居場所を突き止め遠距離から狙撃で打ち抜ける、しかしその能力故に変身時間は限られ接近戦は当然できない、という尖った性能の持つ「緑の力」、ペガサスフォーム。機動力では劣るも、その圧倒的な攻防一体の進撃である程度までなら無理を押し通せる「紫の力」、タイタンフォーム。

 さらに、そこに各々の攻撃力を劇的に高める強化形態(デメリット付き)たる「金の力」ことライジングや、素の状態では空中移動・バイクとの合体状態では強力な馬力で敵を押しての移動ができるゴウラム、そして警察の協力が加わる。その中で適切な力を取捨選択しグロンギに立ち向かっていく戦闘シーンが、どこまでもロジックを緻密に積み重ね「特撮という逃げ」に走らない『クウガ』の制作態度も相まって、本当に面白いんですよね。新たな力に覚醒し使いこなしていく過程も『クウガ』は真摯に描いていくため、一通りフォームが出揃い必殺キックを習得しゴウラムも手に入れ……とやっている頃は若干退屈さがあったんですけど、五代くんがフォームの特性を理解して使用し始めてからの面白さはその印象を吹き飛ばすほど。

 

 で、その象徴というか、今現在個人的『クウガ』戦闘シーンランキングトップに立っていて、僕にこの記事を書かせるほどの意欲を与えてくれたのが、つい昨日辿り着いた『クウガ』EPISODE39、「強魔」なんですね。

 

 

 

EPISODE 39 強魔

 「動く鉄の箱に乗っている人」という法則に従い、人々を虐殺していく「未確認生命体第43号」、ゴ・ザザル・バ(仮面ライダー図鑑で初めて名前知った)。彼女は強酸性の液体を生成することができ、それをかぎ爪にしたたらせての攻撃は一撃必殺級。それに対し、クウガはどう立ち向かうのか。戦闘の流れや要素だけまとめると、こんな感じ。

 

  • ゴ・ザザル・バを見つけた五代くん、まずはマイティフォームに変身。

 

  • 敵が強酸性の液体を用いて攻撃してきた(徒手空拳では危険)のを確認すると、身体能力の高いドラゴンフォームに変身して相手を翻弄。武器のリーチが長いことも有効活用し、威力は高い代わりに攻撃範囲は狭い酸性液体+かぎ爪の攻撃を全て避け、ついにはかぎ爪を敵の手から弾くことに成功。

 

  • しかし、(作中では何かしらの要因で劇的にパワーアップしたとされている)後半の敵だけあって、通常フォームの攻撃では倒すことができない。つまりライジングでないととどめは刺せないが、ライジングの強大なパワー故の撃破時の周囲への爆発の被害に加え、ゴ・ザザル・バの体内の強酸性の液体が飛び散る可能性を考慮すると、今いる市街地では倒せない。

 

  • それを知っていた五代くんは、かぎ爪を落とした(つまり素手の攻撃でも酸性液体で反撃できなくなった)ゴ・ザザル・バが警察の援護射撃で怯んだ隙を突き、(恐らく)「この程度では死なないことを考慮して」、「通常形態では最も威力の高い攻撃である」マイティキックを放つ(この際、ドラゴンフォームの跳躍からノータイムでマイティフォームに超変身している)。これにより、敵の体力はぐっと減る。

 

  • そこで、抵抗するための体力が低下したゴ・ザザル・バを、ゴウラムで強引に警察の用意した地点、シャッターを閉めることで閉鎖空間を作り、爆発と酸性液体の飛び散りの被害を抑えられる通路まで運ぶ(弱らせないままやろうとしても移動距離が長いため多分途中で逃げられる、そのためにマイティキックを放った)。

 

  • 無事たどり着いたところでブレーキをかけ、反動でゴ・ザザル・バを通路の奥へ吹き飛ばす。瞬間ペガサスフォーム(ライジングペガサス)に超変身し、警察にもうシャッターを閉め始めるよう指示する。

 

  • 立ち上がったゴ・ザザル・バに射撃を浴びせる。そしてすぐさま時間制限で変身解除しないようマイティフォームに超変身&ゴウラムを反転させ、爆発に巻き込まれないようシャッターの外部に向けて超スピードで走り出す(ライジングペガサスでとどめを刺したのは、他のフォームだとゴウラムから降りて攻撃する=ゴウラムに乗り直してから走り出す&敵のすぐ近くまで行く必要があり、それで反転が遅れてクウガも爆発に巻き込まれ酸性液体を被る危険性があるため。ペガサスなら乗ったまま、かつあまり通路の奥まで行かずとも攻撃できる)。

 

  • 最後のシャッターが閉まるギリギリで外に出たクウガ。その直後、ゴ・ザザル・バの身体が大爆発した。しかし、複数枚あるシャッターがなんとかその衝撃に耐え、爆発も酸性液体も外部に漏らすことなく敵を倒すことに成功した。

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

……………………。

 

 

 

 

 

 

 

うっひょおおおおおおお~~!!!!! さいこお~~~~!!!!!

 

 

 

 いや、はい。すみません。奇声を発してしまいました。でも、それくらい、興奮のあまり奇声を発してしまうくらい、一連の流れが良すぎる。良すぎるんだ……。

 「一撃必殺級の攻撃をしてくる」「強酸性の液体を持つため街中で倒すと39号の時の比じゃない被害が出る可能性がある」という性質を持ったゴ・ザザル・バを、なるべく被害を出さずに倒す。そのために打たれる五代くんの一手一手の全てに、無駄がない。クウガのとる全ての行動が、「被害を出さずに倒すこと」に繋がっている。誇張した演出のないリアル志向の映像が、その中で編まれていく隙のないロジックを逆に際立たせる。

 もう、あれですよ。最早芸術ですよ。凄すぎますよ。少なくとも、見てる僕は絶頂しましたよ。最高。好き……ありがとう、『クウガ』。

 

 

 

 

 

 

 

 

(ただ、本当に五代くんの一手一手に無駄がなさすぎるんだよなあ………それは「いかに被害を出さないようにできるか」を、「いかにしてみんなの笑顔を守るか」を考えた結果であると同時に、「いかにして敵を殺すか」「いかにして敵を排除するか」を真剣に考え続けていたということだよなあ………本当は五代くんも辛いだろうし、彼にはこんなことより冒険が似合うよなあ…………『クウガ』、今回は戦闘シーンの凄さのみを強引に切り取って語ったけど、見終えたら全体の感想も書けたらいいな……)