石動のブログ

アニメやら特撮やら映画やらの感想を書きます。

『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』への恨みを漫画版『THE EDGE』が解呪してくれた話

sasa3655.hatenablog.com

 どうも、石動です。

 上のポストで『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』への恨み節を書き連ねてから、約一ヶ月ちょっと。自分としては、とんでもない文字数で思いを吐き出していく中で、自分の中での『DESTINY』の認識・立ち位置は一応確認できたつもりで。だから、恐らくは劇場版の公開まではブログでは話題にすることはないだろうと思っていたんですね。

 いたんですが、『DESTINY』という作品、やたらにコミカライズが好評で。ひとつがテレビ版と同時並行で展開した、同じくシンを主人公とした(その「主人公」の意味が大分異なるみたいですが……)所謂「高山版」。そしてもうひとつが、このブログで取り上げる、テレビ版の物語を別の視点から描いていく『THE EDGE』。

 本当に、『DESTINY』についての記事や感想を目にする度におすすめされてるので、読んでる中で段々と気になってきてしまったんですよね。しかも、『THE EDGE』の方は電子化されているのもあってか、中古という条件に限れば入手はできそうでしま(一方、高山版は絶版かつ電子版がなく中古での値段が高騰していた……ちなみに『THE EDGE』も紙の新品は見当たらなかった……できれば新品の紙で欲しかった……)。これは買うしかねえと『THE EDGE』の全4巻セットと、そのさらなる番外編集『Desire』2巻セットをポチッて読んだのですが……。

 

 

 

 

 

 いや、そのですね。

 ほんっとうに、ですね。

 

 

 

 

 

 

 めっちゃくちゃ!!!! 良かった!!!!!

   ので!!! 語ります!!!!!

 

 

 

(以下、『DESTINY』漫画版『THE EDGE』について語っていきます。雑な導入ですみません……感謝の気持ちが大きすぎていつもの形式で語るとずっと導入みたいなテンションになってしまうので、今回はトピック毎に分けてみました……よろしくお願いします。

あと追記ですが、12月26日から順次新装版が発売するらしいのでちゃんと買います! 嬉しい!!)

 

 

 

アスラン視点による物語の整理と心情の補完

 まず大前提として、『THE EDGE』は番外編集『Desire』や巻末の挿話を除き、全てのシーンがアスランの視点で展開されていくんですよね。それによって 「アスランの心情描写が増加する」「アスランの知らないところで起こった出来事はカットされる」という変化が起こるのですが、その両者が物語にものすごーく良い方向にはたらいてる。

 前者に関しては当然と言えば当然なんですけど、漫画という媒体を活かしてアスランの心情が非常に細やかに描かれている。カガリを大切に思う心、シンにかつての自分達の姿を重ねて心配する気持ち、しかしそれらを持つが故に決断や行動を焦り衝突を引き起こしてしまう不器用さと、とにかくアスラン・ザラというキャラクターの理解度と描写の丁寧さが凄まじいんですよね。曖昧な描写故にテレビ版では意図がつかみにくかった行動の理由も、独自に描写を追加し受け取り方を限定することでわかりやすくなっていて、アスランの物語としてとっても満足度が高い。

 

 で、一方で後者はどういうこと? 「アスランの知らないところで起こった出来事はカットされる」のが良い方向にはたらくの? と思われそうですが、意外なことに本当にそうなってるんですよ。

 何故かって、まずもって、実はテレビ版から『DESTINY』の視点はアスランにあることが多かった。1クール目なんかはそれが特に顕著で、アスランの視点を介することで新主人公のシンの鮮烈さを印象づけていた。だからなのか、アスラン視点のみに情報をシャットダウンすることで、むしろ作り手の意図が伝わりやすくなってる部分がいくつかあるんですよね、『DESTINY』。そこに作者の久織ちまき先生の巧みな描写と補完が合わさることで、テレビ版が意図していたことが、より短い尺ながら十二分に表現されている。

 

機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE(3) (角川コミックス・エース)

 その最たる例が作中における善悪の構図の流れで。『DESTINY』には、「明らかな完全悪である地球連合・ロゴスと、それを倒すために戦いを始めたザフト」「しかし、その裏で本当に手を引いていたのはザフトのデュラダル議長だった」という構図があるんですけど、テレビ版ではシン・キラ・アスランの三視点での出来事を平等に描いていたこと、「正しい」側にいたキラ達の描写にキレがなかったことで、その把握・納得が無駄に難しくなってしまっていたんですね。

 しかしそれをアスラン視点にまとめると、「ユニウスセブン以降の出来事でデュランダルを信頼し、ザフトに復隊する」→「ザフトの指令に従って各地で地球連合と戦う」→「そこにかつての戦友の乗ったアークエンジェルが乱入、加えてキラの口からコーディネイター部隊によってラクスの命が狙われたことが明かされ、そこからデュランダルへの疑念を募らせていく」→「エンジェルダウン作戦後のデュランダルの『役割』への考え方、暗殺されそうになった事実から彼の目的を知り、完全に決裂する」という順になる。

 これが物凄くわかりやすい「あからさまに悪いやつ(ロゴス)がいるけど、その裏にはさらなる黒幕(デュランダル)がいた」構図の提示で、初めて読んだ時ちょっと感動しちゃって。アスラン視点だと、感情の側面からもこんなにすっと入ってくるんだなと。テレビ版、まあキラ達が「正しい」ということなんだろうけど、納得がいかない……みたいな状態だったので。

 

 他にも、テレビ版ではシンの敗北でもってその反証とした「運命」「役割」のテーマに関しても、アスラン視点だからこそのアプローチでしっかり描かれている。純粋に平和を願い、皆の力になりたいと思っていただけのミーアは、「ラクス・クライン」という役割を議長に与えられたことでそれに固執するようになってしまい、ついにはラクスを「偽物」だと叫び撃とうとするまでに歪んでしまった。デスティニープランによる平和を実現する「力」という役割に従って、自らのオーブへの思いもアスランと戦うことへの葛藤も全て否定したシンは、精神を摩耗させ、最後には仲間であり恋人であるはずのルナマリアに刃を向けてしまった。

 その姿を、深く関わったアスランの視点から描き、最後にデュランダルへ「戦士だとか…誰かの代わりだとか…目をふさいで役割を与えるばかりで…!」「彼らの心がきしみ叫んでいたことを、あなたは知っていたのか!?」とぶつけることで、「運命」「役割」への反証とする。とにもかくにも、作品のあらゆる要素に対して、「アスラン視点」という大前提を有効に使って描写を行っていく作品が『THE EDGE』なんですね。執念さえ感じられるほどの徹底ぶり。

 

 

テレビ版のツッコミどころへの言及

 そしてその執念は、この特徴にも表れていました。

 テレビ版のブログの方でも一部書いたのですが、『DESTINY』という作品はちょっと多すぎるくらいのツッコミどころを持っていると思っていて。しかも単なる整合性に関するツッコミどころじゃなくて、作中における「正しさ」を担うアークエンジェル勢についてのツッコミどころ。「ヒロイックな立ち位置にいるけど、これは普通に良くないのでは?? 意図した描写ならいいんだけど、でも作中の誰もが当たり前のように受け止めてるからただの歪みになってるよ??」……そういう形のツッコミどころ。見ていて疑問符を浮かべざるを得ないそれらに対して、『THE EDGE』は明らかに自覚的にフォローを行っていく。

 例えば、アークエンジェル勢によるデスティニープランへの明確で的確な反論。例えば、シンから受け取ったステラを戦場に送り死なせてしまったことへのネオ(ムウ)の後悔。例えば、ロゴスのプラントの破壊という非道に対するアークエンジェル勢への反応(今作のアークエンジェル勢、プラントが破壊されたことにちゃんと怯え動揺してくれるんですよ……何言ってるかわからないと思うけど、テレビ版は何故かそれを見てみんな平気な顔で、かつヒロイックな演出で、「デュランダルのデスティニープランを止めるぞ!」って展開になるんですよ……「まずロゴス倒すぞ!」ですらなく……デュランダルの計画のうちと知っていたとしてもそうはならんて……そこが変わってたのが本当に良かった……)。それら全てに、最低限の回答や改変でもって違和感をなくしていく。

 自分の中では、カガリが自分の父親がとんでも兵器であるアカツキを残していたことへの感情の描写が一番印象に残りました。

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE Desire』 Desire : 2「獅子の娘」より

 テレビ版から『この扉開かれる日の来ぬことを切に願う』はあったので、心から望む形ではなく、もしまた"力"が必要になってしまった時のためにアカツキという兵器が残されたというのはなんとなく理解できたのですが、それを受け止めるカガリの心情はあまり深掘りされていなかった。その結果、カガリが心の底から感動してアカツキという"力"を手にしたように見えて、僕は「アークエンジェル勢にだけ”力”の描写が甘くないか…?」と感じてしまっていたのですが、『THE EDGE』はより深く彼女の内面に踏み込んでいく。

「…流れ込んでくる」

「これを残した…いや、残さなければならなかった、お父様の想い…すべてが」

 誰よりもオーブの平和を願っていた父が「残さなければならなかった」力。黄金に光り輝くカラーリングとは裏腹の国家元首としての苦悩を、カガリアカツキの中に見る。見たうえで、それでも国を守るためにはと、「お父様は信じて託してくれたのだ」と、自分の手でその力をとる。

 未熟だったカガリが、かつての父に並んだこと。そこに残されていた葛藤と信頼に涙を流したこと。それらを踏み越えて、国家元首として先陣を切ると決意したこと。

 テレビ版がこの展開で表現したかったものが、よりダイレクトに、わかりやすく描かれる。かつては理解し切れなかったそのメッセージに、それが何よりも純粋な形で描き出されたことに、感動してしまったんですよね。不満があったからこそ、そこを自覚して越えてきてくれたことに胸を打たれた。

 

 『THE EDGE』が素晴らしいのは、あくまでテレビ版の意図を尊重し向き合ったうえで、 よりわかりやすく明確な形に補完・改変を行っていること。先述のアスランの心情やデスティニープラン周りもそうなんですが、テレビ版を否定してオリジナルの物語を紡ぐのではなく、テレビ版の要素を魅せるために多くの工夫がなされている。『THE EDGE』は、「テレビ版より漫画版の方がよくできていて面白い!」ではなく、「そうか……テレビ版のあれはこういう意図で……『DESTINY』はこういう話だったのか……」という感慨を与えてくれる。勿論あくまでひとつの受け取り方に過ぎない(4巻辺りのあとがきにもそう書かれている)けど、それでもとても真摯に原作によりそった描き方になっている。

 「読むことで原作の理解度が高まる」「理解度が高まったことで、作品全体をより好きになれる」。そういう意味で『THE EDGE』はとても正しくコミカライズしてると、僕はそう思うわけです。

 

 

 

シン・アスカという人間への手厚すぎる描写

 ただ一方で、「原作の意図を補完と改変で明確にする」以上のものを感じる部分もあるんですよね。むしろ良い意味で、「ここまでのもので魅せてくるのか〜!」となるような例外が、『THE EDGE』には存在する。

 それが、シン・アスカというキャラクターの心情描写。『THE EDGE』では、最後にアスランの前に立ちはだかる(MS戦の)ラスボスとして、テレビ版における主人公として、シンにもアスランと同じくらい丁寧な描写がされているんですね。というか、僕がシンを好きすぎて視点が偏ってるのもあって、なんならアスランよりも凄まじい熱量が筆に迸ってるように見える。

 その熱さは彼の描写の全てに見られるくらいなのですが、やはり全体を通して行われる自分の「力」に絶望していく描写が、テレビ版の域を超えたレベルにあるように、最も熱が迸ってるように見えました。

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE』 PHASE : 20「─未来─ TOMORROW」より

「俺だって!! 守りたかったさ、俺の"力"で、すべてを!」

「だけど…俺が撃ってるのは敵じゃないって、撃つのは奪うことだって…"力"で解決できることなんて何もないって!! アンタが俺に言い続けてきたんじゃないか!!」

「できるようになったのは、こんなことばかりだ…っ!」

 シンは、アスランが投げかけた「”力”を手にした時から、今度は自分が誰かを泣かす者となる」「ただ闇雲に”力”を振るえばそれはただの破壊者だ」という忠告を覚えていた。覚えていたからこそ、自分に出来るのは自分と同じ人間を撃つことだけだという結論に、全てを救う平和は自分では成せないという事実に絶望し、デスティニープランを実現させるための”力”という他者に与えられた「役割」に傾倒してしまっていたのだ。その絶望の背景には、自分の手にした力ではステラを救えなかったことが、アスランとぶつかるばかりで正面から話し合えないまま一度手にかけてしまったことが、大きく後を引いているのだろう。

(『Desire』の描写を含めると、アスランからの忠告に裏切り者の撃墜とオーブへの侵攻が重なった結果、「撃とうとする敵もまた人間だ」「でも戦う以外に平和のための選択肢はない」「たとえ敵を撃ちたくなくても、全てを選べないなら戦うしかない」と自らの感情を押し殺し自分を無理やり納得させたと捉えられる。テレビ本編では曖昧な描写なせいでいまいちラインが繋がらなかった、シンとアスランの間で交わされた「”撃つ”ことの意味」に注目した展開)

 僕は、「シンがアスランに助けを求めることが出来なかった」ことや先述のシンの心情の変化の流れはともかく、最終的な着地点である「アスランの不器用な言葉がシンを絶望させていた」はテレビ版の意図の提示を超えた、濃度の高い「解釈」に近いと思う(テレビ版の描写の曖昧さを鮮明にしたと考えても、やはりここだけ先述の「テレビ版の意図を分かりやすく提示する」のラインを超えていたと感じた)んですよね。思うんですけど、 同時にその解釈はどこまでもシンというキャラクターに、彼のアスランとの関係に向き合った結果だとも感じていて。

 加えて『THE EDGE』では、アスランが「力で撃った誰かもまた自分と同じ人間なのだ」とシンに投げかける場面が原作から露骨に増量してるんですよね。確実に意図したうえで、読者にアスランがシンに”撃つ”による解決の無意味さと恐ろしさを説いていたことを印象づけてる。

 それにより、アスランとの最終決戦にてシンが「撃つことで解決できることなんて、本当はひとつもない」という言葉に絶望していた事実が明らかになる場面で、読んでる側には衝撃と納得が同時に訪れる。テレビ版で明確に示されたものではないけれど、その告白に唐突さを感じることは全くない。むしろ、丁寧に前フリされ、クライマックスで爆発する見せ場として、物語を彩っている。

 そんな、何よりも真摯な解釈と、それを強引に突っ込むのではなく、物語の一要素に昇華する創作的な技巧が合わさっているからこそ、ラインを越えていても自分の中で違和感より納得が先行したんだと思います。

(シンが「力がなきゃ自分すら守れない」と子どもに銃の使い方を教えていたのを、ステラの死の直前には「子どもに銃なんか持たせちゃいけませんよね」「俺達で、戦争を終わらせるんですよね」と自分の力で平和を作ると考え方を変化させていた(それがあるからこそ自分ではステラを救えなかった絶望が際立ち、また誰かの代わりに戦うという構図への前フリにもなっている)描写も入れていたし、とにかく創作が上手いんですよね……)

 

 

ありがとうございます(土下座)

 で!!! それで!! それでですよ!!! なんか急に本文も見出しもノリがおかしくなったなと思われるでしょうが!!! あまり気にしないでいただいて!!!

 ここまで『THE EDGE』の好きなところ、感動したところを語ってきて!!! その中で何度も「特に」「一番」と強調を用いたんですけど!!!!

 ぶっちぎりで好きな場面を!!! 語ります!!! 先ほど紹介した、ライン越えしてるけどその真摯さと丁寧さによって納得せざるをえない、原作にはないシーン・解釈の一つとして!!! 『THE EDGE』の!!!! 最後の場面のひとつを!!!!! デスティニープランが終焉を迎え、レイとタリアとデュランダルが炎の中に消え、戦場を離脱したアスランがボロボロのシンに手を差し伸べる、そして……!!!!!

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE』 PHASE : 20「─未来─ TOMORROW」より

「…ひとりで立てます」

 ひとりで、たてます……

 ひとりで、立てます……!!!

 

 そうだ、それが欲しかったんだ! 『DESTINY』ブログでも書いたけど、シンは自分自身の足で立ち上がらなくちゃいけないんだ!! テレビ版でも漫画版でも、彼は他者に与えられた「役割」「正義」を演じてしまったから!! だから、今度こそ自分で望むものを、貫く正義を、実現したい未来を見つけなくちゃいけないんだ!!! ここで誰かに示された正義や未来に着いていくなんて、そんなことあっちゃいけないんだ!!! キラだろうがアスランだろうがデュランダルだろうが関係ないんだ!!! 自分自身の手で、未来を探して、掴む!!! それこそ、それだけが重要なんだから!!!!

 一見、またアスランと手を取り合えていない意味で同じ過ちを繰り返してるようにも見えるけど!!!! やっぱりそこは違うんだよ!!!! シンとアスランがすれ違い続けたのは、手を取り合えなかった以上に、お互いに本音でぶつかり合えなかったからなんだから!!!! シンとアスランは既に最終決戦で真正面からぶつかっていて、だからもう二人の間に壁はないのだから!!!! そんなシンが、言う、言葉は!!!!

 

 

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機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE』 PHASE : 20「─未来─ TOMORROW」より

 ひとりで!!! 立てます!!! アスランの手をとらずに!!!! 差し伸べた手を跳ね除けて!!!!立てるって!!!! シン!!!!! 『THE EDGE』!!!!!ありがとう!!!!!!

 

 

 

機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE(4) (角川コミックス・エース)

 ……テレビ版の放送とこちらの連載の時系列はよくわかってないので、別にちまき先生はそういう意図ではなかったのかもしれないし、この後にFINAL-PLUSの追加シーンがあるのかもしれません。でも、それでも、自分の解釈に近いものを見せてくれたことが、本当に嬉しかった。

 シンの敗北でもって、「役割」を演じることの愚かさを、デスティニープランの欠陥を示すという試み。それ自体には納得していたからこそ、FINAL-PLUSでシンがキラの下にくだってしまったことに納得がいっていなかった。どれだけ頭を捻っても、他の解釈をひねり出そうとしても、キラの言葉に感謝し感動し感涙し、その手を握るシンの姿は、デュランダルの操り人形になってしまっていた時と同じ過ちを繰り返しているようにしか見えなかった。シンは自分自身で「正義」と「未来」を見つけなければならないはずだから、相手が誰であろうと、その「正義」を無批判で受け入れていいわけがないと思った。

 そんな、僕が『DESTINY』で一番納得いってなかった部分を、『THE EDGE』は「…ひとりで立てます」でもって解消してくれたんです。FINAL-PLUSを見届けたあの時からずっと心の中に残っていた呪いを、シンが自分自身の足で立ち上がる結末によって解呪してくれた。この台詞のおかげで、ずっと納得いってなかった結末に少しだけ折り合いが付けられるような気がして、自分の中の呪いを解いてくれた気がして、ただただありがとう……と。

(2024年3月11日追記:

実際に新装版では最終回の後にテレビ版のFINAL-PLUSにあたるエピソードがまんま追加されていましたが、シンが「…ひとりで立てます」をした後の和解なので、展開の納得度がダンチでした。シンがキラの手を取る時の表情がキリッとしてるのも良い改変。やっぱりシンが一度自分の足で立ち上がったって事実が大事なんすよ......「シンがキラの手をとった」のが問題なんじゃなくて、「終戦直後の未だ自分の正義を見つけ出せていないシンがキラの提案を無批判で受け入れる」ことが嫌だったので……個人的には追加されない方が嬉しかったけど.......)

 

 

 

 

 というわけで、以上、『THE EDGE』の感想でした。若干唐突ですが、一番語りたいことは語れたので、筆を置かせていただきます。

 今は素直に、『SEED』劇場版を楽しみに待てています。

 

 

 

もう一段階解呪されました

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『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』HDリマスター シン・アスカという主人公への向き合い方

 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』。

 『機動戦士ガンダムSEED』の続編であり、ガンダムシリーズ屈指の問題作。

 

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 僕が去年翻弄された『SEED』に続編があることは、見る前から知っていた。そして、その内容に対する意見が賛否分かれている(オブラートに包んだ表現)ことも、むしろ『SEED』の続編であるという立場以上に知っていた。端的に言うと、叩かれ過ぎていて少し見るのを躊躇していたくらいだった。

 だが、そんな『DESTINY』を、結局僕はまた一年かけて視聴することになった。前作に引き続き地元のテレビ局が再放送をやっていたというのもあるが、それ以上に、良くも悪くも『SEED』に振り回された感情の行き先を探していたのもあるだろう。『SEED』後半の展開への不満に、前半で見せてくれた最高に好みなストーリーに、独自の湿度の高い筆致で描かれるキャラクター描写に、終盤では二の次にされてしまっていた「戦争」「遺伝子」のテーマに、何かしらの「続き」を望んでいたのである。

 見終えた感想としては、見て良かった、とは思っている。うん。見て良かったんだと思う。いや、うん。多分。まあ、断言はできないけど。本当に、見て良かったんだろうか……?

 求めていたものは、ある程度は用意されていた。でもそれ以上に、納得いかない部分も大きかった。好きになれる部分があったからこそ、その要素の取り扱いに多大なる不満を持った。前作もそうではあったけど、『DESTINY』に対しては、「好き」と「嫌い」が表裏一体で存在していた。

 その最たるものに、シン・アスカというキャラクターへの向き合い方がある。僕は、彼のことがとても好きだ。所謂「推し」というやつなのだろう。彼を世に送り出してくれた『DESTINY』には、感謝するしかない。するしかないのだけれど、それと同じくらい僕は怒っている。シン・アスカへの番組の扱いに。

  前置きはこれくらいにしておこう。自分でも、『DESTINY』を見て良かったのか悪かったのか、いまいち判断がついていない。それ故に、自分の番組への思いを整理する必要がある。整理して、自分にとって『DESTINY』がどんな作品だったのかを明確にしておく必要がある。

  以下、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を見て思ったことを記していく。特に、「主人公」であるシン・アスカへの思いを中心に。恐らく、その大半は恨み節になるだろう。ひどく偏った、個人的なあれこれなので、冒頭部分で引いてしまった人はブラウザバック推奨です。

 

 

 

 

01.PHASE-01 怒れる瞳

 シン・アスカは、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の主人公だ。そして今作は『機動戦士ガンダムSEED』の続編なので、シンは「2代目主人公」の立ち位置にあることになる。ただ、シンの場合、その立ち位置にそぐわない、ある意味では正反対のキャラクター性も併せ持っており、一括りに「2代目主人公」と言うことははばかられる。彼はその設定や描写などから、明確に一般的な「2代目主人公」とは異なる立ち位置を確立している。

 

 そんな彼の特殊な立ち位置が最も現れているのが、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』PHASE-1の冒頭、シン・アスカの初登場シーンだ。

 戦場を、ひとつの家族が駆け抜ける。場所はオーブ、時はC.E.71年。前作『SEED』で起こった、オーブと地球連合の戦闘の最中である。協力の要請を拒否し独立を守ろうとしたオーブを、地球連合軍が武力でもって無理やり従わせようとしていた。オーブ軍と、地球連合の命令に背きそこに身を隠していたアークエンジェルは、連合の非道を食い止めるために応戦する。そんな中、前作主人公であるキラ・ヤマトの乗った「フリーダムガンダム」、地球連合軍の主力兵器である「フォビドゥンガンダム」、2機の戦闘の流れ弾が、戦場から逃げようと森を降りていた家族に降り注いだ。

 妹が落とした携帯を拾いに、一人だけ斜面の下に降りていた少年。爆発に吹き飛ばされた彼が起き上がって見た光景は、自分の父母が、大切な妹が、見るも無惨な姿で命を散らす光景だった。家族の死を目の当たりにした少年は、未だ砲撃音の響く戦場の中心で、自らの怒りと絶望を叫ぶ。

 その「少年」というのが、他でもないシン・アスカ。番組開始早々に明かされた彼の過去は、前作の価値観、キラのような主人公達の正義に寄り添うものでは、決してなかった。

 

 一般的な2代目主人公は、差別化を図るため初代と異なる特徴を持つことはありながらも、基本的には前作の登場人物達に憧れや親愛といった、プラスの感情・関係を持っていることが多い。最初はそうでなくとも、自身の未熟さを乗り越え成長していく毎に前作の価値観やキャラクター達の尊さを知り、最終的には彼らの意志を継ぐような立ち位置につくのが定石だ。

 しかし対照的に、シンの物語は前作へのアンチテーゼを示すような叫びから幕を開ける。勿論、最も悪辣なのは力を貸さないからといって武力で従わせようとした地球連合だろう。ただ、オーブのした決断の結果犠牲になった国民も、確かにいたはずなのだ。間違いだと断定するほどのものではないけれど、シンの歩む道の始まりには、形はどうあれ"力"でもって戦う以上は巻き込まれる者もいるという、前作では強く前面に押し出されることのなかった事実が強調されていた。

 

 

02.PHASE-02 戦いを呼ぶもの

 そして、そんなシンの独自の生い立ちは、視点が前作から2年後の現在に移り、本格的に新たな物語が紡がれ始めても彼の物語に大きな影響を与え続ける。

 

 『DESTINY』序盤のストーリーは、前作においてもう一人の主人公であった「アスラン・ザラ」の視点を主として描かれていく。新主人公でありながら物語の語り手とは異なる立ち位置にいるシンは、地球軍に盗まれた新型ガンダムからオーブ首相となった前作ヒロイン「カガリ・ユラ・アスハ」を救うためにMSに乗ったアスランの目の前にザフト軍の新機体「インパルスガンダム」と共に登場し、かつてのオーブの決断に対する怒りからカガリと衝突し、一部のコーディネイターによって行われたコロニー落としによる地球に住むナチュラルの殲滅をアスランと協力して食い止める。

 PHASE-1冒頭の悲劇から約2年、「あの時自分に力があれば」という後悔から、シンは一人で向かった移住先でザフト軍に入隊していた。そしてその過去から、地球連合に抵抗し(どの道連合に加わりザフトと戦っていたらいつかはそうなっていた可能性はあるとはいえ)結果的に国土と国民を焼くことになったかつてのオーブ首脳陣の決断に、オーブという国そのものに、大きな憎しみを抱いていたのだ。

 

 そんな彼のキャラクターが他者の視点から描かれる1クール目の時点で、僕は彼の活躍に目を離せなくなっていた。未熟ながらも平和を願って戦いに食らいついてくるシンの姿は、前作の価値観に染まることなく衝突してくる異質さは、アスランという前作の、旧来の視点を介することでむしろより鮮烈に映る。カガリへと叫ばれたオーブへの憎しみを、その裏にある祖国への複雑な思いを、アスランに見せた不器用な優しさを見たこの時点で、僕はうっすらと「シン好きだな……」と思い始めていた。

 そのタイミングで『DESTINY』は、さらに(僕にとって)爆弾のようなお話を投下してくる。PHASE-12「血に染まる海」。シンの物語として、ひとつの分岐点であり、到達点とも言えるエピソードだ。

 

 

12.PHASE-12 血に染まる海

 コロニーの落下に立ち向かった後、シンの所属する部隊の乗った戦艦「ミネルバ」はオーブに停泊し補給を行っていた。しかしその最中、破砕しきれなかったコロニーの破片がいくつか地球に降り注ぎ被害をもたらしたこと、ザフトからガンダム4機を盗み出した地球連合の部隊「ファントムペイン」が撮影していた写真によってコロニー落としコーディネイターの仕業だと世界に知らされたこと、それによりナチュラルの人々の怒りが高まり、「ロゴス」と呼ばれる地球連合を実質的に支配する団体も民衆を煽ったこと。コロニー落としをきっかけに前大戦から溜め込まれていた世界の歪みが爆発し、地球連合ザフトに対して開戦を宣言した。そしてあの時とは違い、オーブも地球連合に参加しザフト軍と敵対した。

 カガリ国家元首にまつり上げながらも、実質的にオーブを支配し地球連合への協力を実行したセイラン親子。彼らの卑劣な策略により、補給を終えオーブを発ったミネルバは大きな危機に直面する。オーブの領海ギリギリに待ち受ける地球連合の艦隊。背後にはオーブ艦隊も迫っており、直接的な砲撃こそしないものの領海から出た瞬間に交戦を始めるつもりなのは目に見えている。そんな絶体絶命の状況、ミネルバが物量の差で当然のように追い詰められていく中、シンの瞳の内で何かが弾け、彼の隠されし力が覚醒した。

 

 「絶望的な戦力差を真の力に目覚めた主人公が覆し逆転する」。一連の展開は一言で言ってしまえばとても王道で、ある意味では使い古されたものだ。特段悪い印象をもたらすわけではないが、逆に心の底から惹き付けられるような斬新さを持つものではない。実際、構図だけで言えばほとんど同じな展開を、僕は他の作品で幾度も見たことがある。

 しかし、「血に染まる海」は、そんなどこまでもベッタベタな筋を、様々な工夫によって唯一無二のものにしていた。少しずつ追い詰められていくミネルバ、その焦りがこちらにまで伝播してくるほどに緊張感のある演出、気合いの入ったロボット作画、地球連合の新兵器として登場したザムザザーインパクト。そして何より、シン・アスカというキャラクターの性質で、物語を何よりも鮮烈に彩っていたのだ。

「オーブは本気で……」

 現国家元首であるカガリに対しては、オーブへの憎しみをぶちまけていたシン。ただ一方で、ミネルバの補給期間中に一人でオーブの浜辺の慰霊碑に向かった彼の姿には、祖国への単なる憎しみ以上の何かを感じさせた。カガリにぶつけたかつてのオーブの決断への非難も、ある意味ではその決断を現トップに肯定して欲しいのではという含みも感じられた。シン自身が自覚しているか否かはわからないが、複雑ながらも思い入れのようなものを持ち合わせていることは明らかだった。そんなオーブが、自分達に刃を向ける。かつての誇りを失って、地球連合と結託し、外道とも言うべき策略を巡らせる。そのことにシンは動揺し、撃墜寸前まで追い込まれてしまう。

 

 まず、ここまでのシンの心理描写が本当に素晴らしい。戦争や理不尽への激情を爆発させる一面や、突っかかるような口調が印象に残りがちなシンではあるが、その裏には、過去に傷を抱えた少年のナイーブな側面を持ち合わせているのだ。アスランと共にコロニーの破砕作業を行った時に見せた不器用な優しさが、直近のエピソードで海辺の慰霊碑を訪れていた描写が、物語の中で明確にキャラクターの象を結ぶ。この場にはこれまでと違ってアスランという視点がなく、ダイレクトにシンの姿が描かれるからこそ(視点の有無という差異で描写に高低差がついたからこそ)、最初に訪れる彼への理解は深いものになる。

「こんなことで……こんなことで俺は!!」

 そして、そこからシンが見せた無双も、何よりも彼というキャラクターに適したものだった。撃墜の直前、妹との思い出と家族の死に面した時の無力感を思い出して体勢を整え、ミネルバから発射されたデュートリオンビームでエネルギーを補給したシンは、単騎でザムザザーを撃破するというジャイアントキリングを遂げる。さらにMSの武装を変更したシンは、対艦刀を装備した「ソードインパルスガンダム」で地球連合軍の艦隊に接近し、再び単騎で敵軍を全滅させた。

 斬る。斬る。斬る。数多の戦艦を対艦刀で、ひとつひとつ切り裂いていくシン。主人公機であるはずのソードインパルスが悪魔のようにすら見えてしまう彼の戦い方は、祖国と敵対したシンの悲壮な激情を何よりも伝えていた。剣に宿る怒りと悲しみは、仲間であるはずのミネルバのメンバーすら圧倒してしまっていた。

 

 シンの隠された繊細な内面。そこから生じる怒りと悲しみの爆発。表裏一体な、両者のせめぎ合い。「血に染まる海」は、これまでのアスラン視点での描写の積み重ねを、そこから視点を外したことによる落差を、敵を撃破する際の戦法を、それを見た周りの人間の反応に至るまで、全てをシン・アスカというキャラクターを作り上げることに動員していた。それ故にこのエピソードはシンの物語のひとつの到達点として、彼を明確に好きになった瞬間として、僕の中に残っている。正直、初見時は彼の悲壮なまでの覚悟に、危うさすら感じさせるそれに、少し泣いてしまった……。

 

 

 

39.PHASE-39 天空のキラ

 と、ここで、『DESTINY』という作品全体の構図をまとめてみることにする。シンという「主人公」を中心に、物語内では様々な陣営の思惑と動きが入り乱れていく。その中でも特に、作中における善悪の構図、「正しさ」の担い手のいる位置が、『DESTINY』における特徴である。

 

 PHASE-12では完全に「正義のザフトVS卑劣な地球連合(オーブ含む)」の様相を呈していたが、以降の展開はそのように簡単な図式では表せない。そこに、前作の主人公である「キラ・ヤマト」やヒロインの「ラクス・クライン」の乗った無所属の戦艦「アークエンジェル」が加わり、戦争は三つ巴の構図へと変化する。アークエンジェル勢は、前作のラストから各々姿を隠し平和な日々を暮らしていたところに何者かの襲撃を受けたこと、同時期にザフトで歌姫として人々の希望になっていたラクスの偽物「ミーア・キャンベル」が現れたこと、セイラン親子の計画した政略結婚から逃れ合流したカガリのオーブへの想いから、ザフトにも地球連合にも与しない第三勢力として、オーブ軍とザフト軍の戦いを止めるために力を奮う。

 要するに、アークエンジェルが飛び立ってからの全体の構図としては、「完全悪かつ超小物で前座の役割しかない地球連合(その中核にいるロゴス)」「正しく見えるがトップである『ギルバート・デュランダル』議長に怪しい描写が垣間見えるザフト」「唯一デュランダルの怪しさに勘づいており、迷いながらも危機感を覚え戦争を止めようとするアークエンジェル」という形になる。

 そして、こうまとめてみるとわかる通り、作中においてヒロイックな立ち位置にいるのはアークエンジェル勢、前作主人公のキラである。ザフトミネルバ)はむしろ、かませのロゴスを撃破した後に隠した歪みを露呈させそうな、黒幕のような雰囲気を見せ始める。彼らに……デュランダルに正義がないわけではないが、その形は大きく歪んだものだと後に明かされることになる。作中における「正しさ」を背負うのは、前作に引き続きキラなのだ。

 そこで、PHASE-12で提示されたシンのキャラクター性が活きてくる。平和を願う心を持ちながらも、間違った方向へと走り正義を歪めてしまう悲劇の少年。涙すら湧いてくるような彼の怒りと悲しみの奔流は、それを体現した悪魔のような戦い方は、彼が堕ちていってしまう未来を密かに暗示していた。彼は確かに「主人公」だが、それは真っ直ぐにヒロイックな活躍を遂げ世界を救う「ヒーロー」としての意味ではない。作品のテーマの負の側面を背負った、過ちの象徴としての「主人公」なのだ。

 

 そうして、シンは心に負った傷故に危うい方向へと足を踏み出していく。自分も何か平和のためにしなければとカガリと別れザフト軍に再び所属した(そしてその瞬間に開戦しオーブと敵対することになってしまった)アスランとの初任務であるローエングリン戦でこそ、彼がアスランに反発しながらも彼の指導を受け健全に成長していく姿が描かれたが、アークエンジェルが参戦してからは、お互いの敵への認識の違いからすれ違うようになってしまう。PHASE-28では、アークエンジェルによる制止を振り切り、かつて地球連合軍にしたように祖国オーブの艦隊を自らの手で全滅させてしまう。

 彼のそんな描写、「正しさ」を伴わない主人公性をどう感じるかは人によって異なるだろうが、僕自身はシンの中の怒りと悲しみに魅力を見ていたので、展開としてはとても納得していた。所謂「解釈一致」というやつで、本来の優しい性格や平和への強い祈りを見せつつも、それ故に感情を爆発させてしまう姿を、毎話毎話息を飲みながら見守っていた。

 勿論悪い方向へと傾いていってるのは肌感覚で感じ取っていたので、シンの危うい描写に対して手を叩いて喜んでいたというわけじゃない。アンチテーゼ的な立ち位置と鮮烈さを間違いだと暗に言われているのは、個人の感情として良くは受け止められない。

 しかしそれとは別に、どうしようもなく、危うさを強調されながらもどこまでも突き抜けていく烈火のようなシンのキャラクター性は魅力的で、物語を「面白く」していた。

 

 そんな、シンに関する描写の「血に染まる海」以降の一貫した方向性。それはヒロインの一人「ステラ・ルーシェ」に関わるエピソードにおいて明確に、 物語の方針として打ち出される。

 

 

26.PHASE-26 約束

 シンがディオキアで出会った、ステラという少女。「死」という言葉を過剰に恐れ、言葉を聞いた途端に怯え出した彼女を、シンは「俺が君を守るから」と抱きしめる。それは落ち着きを取り戻させるための方便だったが、外見年齢の割に幼さとが残るステラの振る舞いに自分の妹の面影を見たことで、彼女の純粋さに触れたことで、シンの中で大きく確かな想いに変化する。

 しかし、ステラを取り巻く環境は、あまりにも厳しいものだった。実は彼女は幼い頃から地球連合軍に教育され、加えて薬物投与を行うことで心身を都合のいい「兵士」へと変えさせられた「エクステンデッド」という強化人間だった。ディオキアで出会い別れた二人が再会したのは戦場で、しかも危うくシンがステラの乗ったMSを撃墜してしまう直前の状況。

 その後彼女はミネルバに保護されるが、連合軍によって調整された身体はその手を長く離れたことで崩壊を始めており命は風前の灯火、しかもその死体はザフトによる連合軍兵士の研究のため解剖に回されることになっていた。ステラの命の危機に、自分の属する軍のしようとしている死後の冒涜に、シンは苦しむ。苦しみ、悩んだ後に、ステラを地球連合軍の元に返すという形で、彼女を生きながらえさせようとする。

 

 まず、この時点で僕はこれまでにないくらいシンの心情描写に心を奪われていて。シンも進んでこの行動に出たわけじゃない。本当は、自らの手でステラを守りたかったはずだ。そのために、何かを守れる力を手に入れるために、ザフト軍に入隊したのだから。

 それでも、シンはステラを地球連合軍のもとに送り届けた。自らの弱さを、理想と現実の距離を、今の自分では彼女を救えないという現実を受け止め、それでも彼女を救うための行動に出た。「死なせたくないから返すんだ!」「だから絶対に約束してくれ! 決して戦争とかモビルスーツとか、そんな死ぬようなこととは絶対遠い、優しくて温かい世界へ彼女を返すって!」。彼女を受け取りに来た「ネオ・ロアノアーク」に真意を告げる言葉には、隠しようのない悔しさと、それを踏み越えたうえでの強い覚悟があった。

 軍人としては銃殺刑になってもおかしくない行動だとしても、結局は問題の先延ばしに過ぎないにしても、無力さをかみ締めながらそれでもできることをしたシンの姿は、何よりも尊く映った。「少年が大切な人を敵に預けることで救おうとする」「その中で自分を取り巻く不本意な現実を受け止める」「協力した友人が彼に『お前は帰ってくるんだな?』と聞く(今回はミネルバの同僚である「レイ・ザ・バレル」が協力した)」など、前作のPHASE-10においてキラがラクスをザフト軍に送り届けた展開と意図的に重ね合わせるような脚本含めて、感動してしまった。

 

 

34.PHASE-34 悪夢

 しかし同時に、これはあくまで転落への前フリでしかないとも理解していた。その後ステラは当然「優しくて温かい世界」などには行かず、地球連合軍による抵抗勢力圏への報復に駆り出され、「デストロイガンダム」の力で何万人もの人々を虐殺することになってしまう。シンがなんとか一時は彼女の説得に成功するものの、ある不幸な偶然をきっかけに再び暴走し、虐殺を止めに来たフリーダムによって引導を渡される。自分の目の前で命を散らしたステラ。彼女の亡骸を胸に抱えたシンは、かつてのオーブの時と同じように、自らの無力さを叫んだ。

(一連の展開について、シンの行動が虐殺をもたらしたとよく言われるが、たとえステラがいなくても別のエクステンデッドがデストロイに乗って報復攻撃をしていただけなので、僕はそうは思わない。多分そういうシンの過ちの描写の意図があるだろうというのはわかるけど、ステラの状況が詰みすぎてて「じゃあシンはステラが衰弱死してその後ザフトに解剖されるのを黙って見てればよかったの?」と思ってしまうので、自分はその意図を汲み取ろうとは思えない。「虐殺が起こったのはシンのせい」ではなく、「シンはステラに虐殺を担わせてしまった」ならまだわかる)

 そして、ここから一気にシンは深みへ転がり落ちていく。介錯をしたフリーダムに逆恨みとも言える憎しみを抱き、「キラは敵じゃない!」と二人の戦いを止めようとするアスランとの関係も少しずつ悪化させていく。ついには、キラの存在を邪魔に思ったデュランダル議長の命令でフリーダムと死闘を繰り広げた後に撃墜、その一件から議長に疑いを抱いた結果ザフトから脱走するに至ったアスランも、彼に協力していた士官学校のクラスメイトかつ艦の仲間だった「メイリン・ホーク」諸共、迷った末に自らの手で落としてしまう。(……まあ、どちらも主人公補正で生きていたけど)。

 

 繰り返し言うように、僕はシンの怒りと悲しみに、危うさに魅力を覚えていた。だから、その性質が物語の中で顕在化し始める展開そのものは、とても好みのものだ。フリーダムVSインパルスは執念で実力差を覆して勝ち取った勝利に圧倒されたし、アスラン撃墜も、何だかんだ言いつつちゃんと信頼を寄せていた彼を倒すことに葛藤する際の心理を表したコックピットの演出、メイリンの姉の「ルナマリア・ホーク」にそっと「ごめん......」と漏らしてしまう弱さや、泣き出す彼女を涙ながら抱きとめた後に改めて「平和な世界を作る」と誓う描写、シンの心の傷と苦しみをストレートに反映した彼の新機体「デスティニーガンダム」の血涙を流しているようなマスクデザインと、ありとあらゆる要素に納得と興奮を感じていた。

アスランとの関係は一見完全に破綻してしまっているようにも見えるけど、所々でシンが彼に期待を投げかけるような描写があるんですよね。よく言われる「昔は強かったってやつ?」も心の底から馬鹿にした言い方ではなく、どこか上の空な口調)

 

 ただ、だからといって、番組全体に一切の不満がないわけではなかった。むしろ最初に仄めかしたように、僕は『DESTINY』に対する文句は沢山ある。そもそも、物語の構図にまあまあの不満を持ち続けていたのだ。そしてその不満はこの辺り、シンの闇堕ちが決定的になったPHASE-34以降から、シン個人の魅力だけでは押し切れないほどに多く大きく表出していく。

 

 

08.PHASE-08 ジャンクション

 まず、その「不満」について述べよう。端的に言うと、僕は作中での善悪の勢力図に納得していなかった。恐らく作中・制作側としては「正しい」ものとして描いているアークエンジェル勢の行動を、どうしてもそうは思えなかったのだ。

 最初に、キラ達が再びアークエンジェルに乗り込むことになった経緯について。正体不明の敵勢力によって、ラクスの命が狙われる。そこでキラは、彼らの駆るMSを撃破するために、ラクス達が隠し持っていたフリーダムに乗り込み再び戦場に出る。そして戦闘後、デュランダルが彼女の命を狙った可能性を疑い、アークエンジェルとして中立の立場で戦争に介入していくことを決める。決めるのだが、まずこの時点で疑問符が浮かんでしまっていた。

 「核動力を積んでるフリーダムを隠し持ってるような人間なら、そりゃ命も狙われるだろ」と、そう思ってしまったのだ。キラ達がデュランダルに疑いを持ったのはラクス襲撃と偽物のラクスたる「ミーア・キャンベル」のプラントでの台頭が同タイミングだったからであり、また(明確な描写はないが)恐らくその疑いは当たっていた。ただ、疑問が正鵠を射ていたとしても、疑念の理由が襲撃そのものだけじゃなかったとしても、 「核積んだ軍の機体を違法に持ち出してしかも修理までしていた民間人……」が初見時の思いだった。フリーダムに核動力が積まれているのがただの背景設定だけじゃなく、前作ではしっかりと重みのある要素として描かれていたからこそ、一連の展開には違和感を感じてしまった。

 正確に言えば、前作で描かれたラクスの超然とした価値観、それをアスランに説く姿の迫力を考慮すれば、ラクスがキラと平穏に暮らすために姿を隠すことを選んだ際、「野望を持った人間の襲撃を受けるかもしれない」という懸念からフリーダムを持ち出すのは考えられない行動ではなかった。むしろ、「力」を持つことへの信頼の強さは、たとえ後に安穏を妨げる原因になりうる可能性がありながらも「力」を手元に置いておかなければすまなかった危うさは、全てを忘れてキラとの日常を暮らす決意を出来なかった弱さは、『SEED』の断片的な描写から僕が得たラクス像と一致していた。

 だから、僕が違和感を覚えたのは、「ラクス達がフリーダムを隠し持っていた」事実そのものではない。そのことを棚に上げ「どうしてラクスが狙われたんだ......?」とデュランダルへの疑いに繋げる物語の流れ、ラクスを中心としたアークエンジェル勢の「力」を当然とする価値観に一切の疑問を見せず、当然の「正しさ」にする番組の方針に、ずっと不満を持っていた。そもそも、先述のキラ達が「正しさ」を担っている構図が、僕にはどうしても「そんなに正しいかな......? こっちもこっちで危うくない……?」と感じてならなかった。

 

 

41.PHASE-42 自由と正義と

 勿論、始まりが曖昧な疑念であるが故に、キラ達もそれを明確な根拠としてデュランダルを糾弾することはしない。キラが「自分達がしているのは本当に正しいことなのか」と悩む描写があったり、前半の彼らは比較的抑え目だ。いや正確に言うとオーブ軍に停戦を呼びかけ従わない場合は全軍の武装を破壊しにかかる行動自体は滅茶苦茶なのだが、先述のように彼らの中にも迷いがありその後の振り返りでも「間違い」だと反省していたこと、アスランが一度その行為を咎めること、その反論の際に上述のデュランダルの怪しさを指摘しておりそれ自体は間違っていないことから、なんとかギリギリバランスはとれている。

 しかし、その時ですら僕は若干の違和感を感じていたのだから、シンが明確に闇堕ちし、デュランダルの隠された計画が明らかになり、同時にキラ達の背負う「正しさ」とヒーロー性が顕在化してからの違和感は尋常ではなかった。とにかく、ありとあらゆる描写が「合わない」「惜しい」。

 全部しっかり語ってると永遠に続くので、以下に箇条書きにして綴る。

  • 途中、デュランダルはある程度コーディネイターの暴走やロゴスの卑劣な行いを事前に知っており、あくまで始まりは人々の憎しみからだった今回の戦争の責任と罪悪感を全てロゴスに押し付けることで民衆の支持を得ていたことがわかるのだが、それを指摘するキラ達の描き方があまりに下手。各国のインフラなどを担っているという存在の必要性を加味しても尚絶対悪だと言える、そのレベルの外道な行いをロゴスがしているのは事実にも関わらず、アークエンジェル勢が不自然なまでにロゴスの非道に反応しないでデュランダルの危うさのみを指摘するので、彼らの意見にいまいち共感できない。
  • また、デュランダルの実施した、全人類の遺伝子情報を分析し最も適した役割を与え教育することで各々の苦しみや衝突をなくし平和を導く計画、「デスティニープラン」への反論にも、キレがない。デスティニープランの危うさはデュランダルの台詞などから理解できるのだが、一応それは平和を目的にした計画であり、「正しさ」を担う以上は明確な反論と否定をして欲しい。が、とにもかくにもその内容がふわふわしていて、見ていて一向に「デスティニープランの何がどう悪いのか」「各々のキャラクターがどういう経緯でその意見を持つに至ったか」を言ってくれない。
  • ザフトが新型MSを開発したのを批判していたカガリが、父親が自分のために隠していたとんでもパワーMS「アカツキガンダム」を見て感涙する展開を中心に、武力を持つことに関する描写がやたらアークエンジェル勢だけ甘い。『この扉開かれる日の来ぬことを切に願う』とはあったので多分「残した」というより「残さなければならなかった」(カガリもそのことを理解している)なんだろうけど、それならそれでそういう意図をより強く示して欲しい。回想シーン差し込みで序盤のカガリの発言を切り抜くとか……。
  • そもそもこういった「わかりやすく悪いやつ(ロゴス)がいるけど実はそれも利用されてるだけで真の黒幕(デュランダル)がいた」的なお話をやるなら、少なくともロゴスの撃破までデュランダルを味方サイドとして描き倒してから真の目的が明らかになる、もしくは最初から対立するままならデュランダル側の理由や正義も掘り下げて「正義VS正義」の構図を強調するのが普通だと思うのだけど、何故か両者を中途半端に折衷しているせいで無駄に展開が複雑になっている。シンプルに、物語として巧くない。

 

 ……長々と書いてしまったが、要するに、「キラ達の正義も危うさを抱えたものに見える」「にも関わらず、番組側がその補足も何もすることなく、無理やり絶対的な『正しさ』としてゴリ押ししている」、結論として「番組としてはキラ達が『正しさ』として描いているが、僕にはその意図に描写がついてきているとは到底思えなかった」ということである。

 最も大きな不満が二番目で、デスティニープランは是非が問われるような計画ではあるが、「放っておくとすぐに絶滅戦争が起こってしまうほど憎悪渦巻く『SEED』世界(確かにデュランダルが泳がせ利用した側面もあるかもだが、プラント落としも開戦も人々の憎しみが起こしたものである)に平和をもたらす」という観点で見ればこれ以上の方法はない。それがデュランダルの過去の経験からもたらされた偏ったものだと視聴者が知っていたとしても、ある程度「正しい」と受け止める余地のある彼の正義を否定するには、明確な反論・反証が必要になる。しかし何故だか『DESTINY』におけるキラ達はそれをせず、出来損ないのポエムのようなふわふわした台詞でデスティニープランを受け入れない決意を示す。そんな具体性を欠いた反論では、デスティニープランにある確からしさを打ち負かすことはできない。

 

 勿論、別にキラ達に正義がないとは思っているわけではない。危ういながらも、絶対的な正義とは思えなくとも、彼らは自分のやるべきことをしようとしてる。彼らが迷いながらも進んできたことは、僕もわかってるつもりだ。実際、キラがアスランに背を押されラクスを助けに宇宙を駆けるPHASE-39の展開には、素直に感動してしまった。

 だから、彼らの「正しさ」の根拠を、危ういながらも確かな正義があるのだという主張を描きたいなら、そうすればいい。デスティニープランへの明確な反論を、彼らの「正しさ」が納得いくほどに強く理解されるエピソードを、描けばいい。だというのに、それをしなかった。 それさえしてくれれば納得できたのに、何故かしてくれなかった。キラ達の言動が全体的にふわふわしていた結果、前作でラクスがそうだったように、アークエンジェル勢全体が番組の「正しさ」を描くための道具としてしか見られていないように感じてしまった。「シン個人の魅力では押し切れないほど」とは書いたけど、むしろ「正しさ」の側がそう思わせてくれないことで、作中でのシンを中心としたザフトに対する否定的な描写にも納得できないように感じてしまった。

 単純に物語が下手くそなのか、何か大人の事情でそうなってしまったのか。後半のアークエンジェル勢の描写には、僕は「何がしたいのか」と問いただしたい気持ちだ。(こちらに関しては)やりたいことはわかっている。わかっているからこそ、何故そんな描き方になってしまったのかと、心の底から疑問に思う。

 

 そう、「何がしたいのか」。劇中でアスランがシンに投げかけた言葉に似ているが、この文章の本旨は、僕が最も『DESTINY』に不満を覚えたのは、その「何がしたいのか」という困惑だ。その困惑が、最後の最後でシン・アスカ本人にも及んだことだ。前作では物語終盤での取捨選択の内容で自分の求めていたものが失われてしまった、という部分に不満を持ったが、これから書く展開に関してはそもそも納得できるだけの意図を見出すことができなかった。キラ達の描写は具体性のないというお話としての巧拙の問題だったが、シンに訪れたのは、ただただ意図が読めないという形での困惑だった。「やりたいことはわかるがそうはならんだろ」ではなく「お前は一体、何がしたいんだ!」と言いたくなってしまう展開が、シンの物語の先に待っていたのだ。

 

 

スペシャルエディションIII 運命(さだめ)の業火

 キラ達が危うさを見せながらも絶対的な「正しさ」であり続ける一方、シンのドラマも、番組終盤においてクライマックスを見せる。前述したシンの「作品のテーマの負の側面を背負った、過ちの象徴としての「主人公」」の特性、彼の転落でもって物語の本懐を、「役割」「運命」というテーマを提示する試みが明確に展開されていくのだ。

 

 デュランダルがロゴスを撃破し、その過程で他の勢力の力を削いで自分の野望が通りやすい状況を作りあげたうえで宣言した、全ての人間に遺伝子から分析した「役割」を与え「運命」を決定する計画、「デスティニープラン」。アークエンジェル勢と彼らに合流したアスランは、セイラン親子から取り戻したオーブの力でもってその野望に立ち向かう。

 一方で、シンはデスティニープランに従うか否かに苦悩していた。ザフト軍の兵士としてロゴスを倒した彼だったが、それは戦争の引き金を引き、さらにステラのようなエクステンデッドを生み出した彼らを許せないと思っていたから。彼らがいたままでは平和は訪れないと、そう確信していたから力を振るったに過ぎない。

 しかし、いくら平和を求めていたとはいえ、全ての人間の人生を「運命」「役割」によって決定づける、なんてことをすぐに飲み込むことはできない。むしろ彼個人の感覚としてはそんな人の「未来」を奪うようなシステムに違和感を感じていたし(デスティニープランを聞いた時の反応が明らかに戸惑いの方が大きい)、またそれを実現するために反対する人々を虐殺しなくてはいけないことに、その代表国たるオーブを滅ぼさなければいけないことにも躊躇いを覚えていた。だが、自分の中に明確な「平和」のビジョンを、自らの正義を持つことが出来なかったシンは、それ故に自分の感覚を言葉にすることが、デスティニープランに正面から反論することが出来なかった。

 そして、親友たるレイのデスティニープランを信じる言葉、明かされた彼の(前作ラスボスのクルーゼと同じ人間の)クローンという境遇、彼の残り少ない寿命を受けて、シンは心の底から納得いかないままデスティニープランの実現のために戦うことを決める。その先でデスティニープラン、それに従わない人々を粛清せんとデュランダルによって放たれんとする軌道間全方位戦略砲「レクイエム」を止めに来たアスランと交戦し、完膚無きまでの敗北を喫することになる。

 

 

49.PHASE-50 最後の力

 ラスト3話におけるシン関連の展開は、『DESTINY』のテーマをまさに体現したものといってもいいだろう。

 自分の正義を持つことが出来ない状態で、 デスティニープランに与したシン。この「正義を持つことが出来ない状態」のお膳立てが徹底していて、『DESTINY』はここまでの道のりで、シンにステラと同じエクステンデッドが乗っているであろう地球連合軍の「デストロイガンダム」の撃破をまかせ、一方でかつての上司のアスラン・祖国のオーブ・ステラを殺したフリーダムといった、彼にとっての「過去」の象徴たる存在を倒すことは許していない。この結果、シンは信頼していたアスランに続き、ステラと同じ存在をこの手で倒すことになる。それによりシンは心にさらなる負担を抱え(エクステンデッドとステラのことを知った時に「アビスガンダム」のパイロットも同様の存在である可能性を考えているので、デストロイの時だけ気づかなかったとは思えない)、かつ「過去」を振り切って「平和」「戦争のない世界」のために全てを犠牲にするほどの覚悟も決められなかった。その描写の全てが、シンに自分自身の正義を確立させないような方向に誘導している。

(あと多分、人々の中の憎しみや当事者としての意識に目を向けず、議長に言われるまま「戦争は全てこいつらのせい」だとロゴスを撃ったのも「自らの正義を持てていない」描写の一環。一環なのだが、デュランダルの想定通りとはいえ自らの意思で一方的に開戦し、敵対国に勧告なしに攻撃を行い多くの民を殺し、終盤にはザフトのコロニーを一つ破壊した彼らはどんな背景があれ滅ぼすべき絶対悪にしか見えないので、僕は制作側のその意図を汲む気にはなれない。悪いのはロゴスじゃなくてロード・ジブリ―ルともよく言うけど本編内の描写を見るには......彼の開戦の提案を止めるに至らなかった時点で......)

 そして満を持して、シンに迷いを抱えたままデスティニープランに服従させる。しかし、それは他者に求められた「正義」と「役割」を行っているに過ぎなくて、本当は正しいとは思えていなくて、その迷いから彼はアスランの言葉に反論できず、果ては錯乱したような描写でもって敗北してしまうのだ。親友から託された使命を貫くことも本当は好きだったオーブのために戦うこともできなかった(デスティニープランの失敗とオーブの無事を同時に悟った時の絶望とも安堵ともつかない表情が本当に......)という結末は、他者の「正義」「役割」を演じることの愚かさを、自分自身の正義を見つけなければならないというメッセージを、何よりも体現していた。

 

 「役割」「運命」。それこそが、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の核にあった言葉だ。デュランダル議長によって「ラクス・クライン」「プラントの歌姫」という「役割」を与えられた後に凶弾に斃れてしまったミーア・キャンベル、「運命」を決定するデスティニープラン、前作のラスボスたるクルーゼが叫んだ果てしなく「未来」を望む人間の罪深さ、そしてそれに対抗するキラ達の「未来」への祈り。

 確かに、人は愚かかもしれない。これからまた、争いを繰り返してしまうかもしれない。それを止めるためには、飽くなき「未来」への欲望を、それぞれに「役割」を与え「運命」を決定する(与えられたものだけをさせ希望を抱かなくする)ことでなくすしかないのかもしれない。それでも、きっとそんなのは間違ってる。人間は、自分自身の手で望む「未来」を掴み、「運命」を切り開いていかなければならない。

 そんなメッセージの負の部分、反論されるべき「役割」の愚かさの象徴だと考えると、シンは何よりも「主人公」だった。人間はこんな道を歩んではいけない。こうなってはいけない。こうならないように、自分自身で「未来」を切り開かなければならない。全てを失ったシンも、きっと、ゼロから自分の足で歩き出すのだ。

 そういうやり方でそういうテーマを描きたいならやっぱりもっと明確に台詞にしてデスティニープランを否定すべきだろ(人に役割を与え道具のように扱うデスティニープランを否定する側のアークエンジェル勢が皮肉にも番組の「正しさ」を描くための道具になっているせいで説得力がないし、そのせいで感情としてもシンが「正しさ」にボコられるのに納得できない)とか、「未来」がどうのこうのっていうのは結局前作と同じ話なんだけどわざわざもう一回やる意味あるのかとか、友のために戦うというのはそこまで否定されることなのかとか、途中で書いたようにロゴス関係は流石に無理があるだろとか、色々言いたいこともあったが、少なくともシン・アスカの「主人公」性の決着としては、最低限満足のいく結末だった。

 

 ……だったはず、なのだが、上記のお話には続きがある。2005年の放映時にシンの敗北とデスティニープランの終焉で幕を閉じた『DESTINY』だったが、2006年から2007年にかけて新規カットを追加しアフレコも再度行われた総集編であるスペシャル・エディションがテレビ放送・DVD発売され、さらに2013年から2014年にかけては作画や画質や演出の修正・追加を行ったHDリマスター版が放送された。その試み自体は前作でもされていたことではあるものの、『DESTINY』では加えて、最終回を中心とした総集編とその後を描いた新作映像による特別編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY FINAL PLUS〜選ばれた未来〜』も放送されている。

 その「新作映像」、FINAL PLUSで描かれた最終回の「その後」こそが、僕が一番「何がしたいのか」と不満を覚えた部分なのだ。

 

 

50.FINAL PHASE 選ばれた未来

 追加シーンの内容としては非常に簡単で、戦争の決着後アスランの手でザフトから一時離脱しオーブを訪れたシンが、慰霊碑の前で何も得られなかった先の大戦の後悔を叫ぶ。そこにキラが訪れ、一度シンが殺したフリーダムのパイロットという立場でありながらも彼に手を差し伸べるのだ。シンは差し伸べられた手を涙ながらにとり、「いくら吹き飛ばされても、僕らはまた花を植えるよ」「一緒に戦おう」という提案に頷き、顔も知らないまま争いあっていた二人はついに和解を果たすのだった……。

 

 ……いや、少し待って欲しい。そんなことがあっていいのか。こんな展開があのラストの先にあっていいのか。これをやってしまっては、『DESTINY』が一年かけて積み上げた物語が、シンが歩んできた道が、丸々無駄になってしまうのではないか。

 話(というか僕の解釈)を整理しよう。シンが敗北したのは、自分の正義を持てず他者に与えられた正義(役割)を演じてしまったから、なはずだ。その敗北が、他者の役割を演じることの愚かさを、(逆説的に)自分の手で未来を見つけることの大切さを、体現していたはずだ。

 が、これではシンは、何も変われないということになってしまう。だってシンは、未だ自分の正義を持てていない。そんな状態で、殺されそうになったのに手を差し伸べてくれるキラの優しさに感動し尊敬し、彼の提案をそのまま受け入れてしまっては、それはキラという他者の正義を模倣しているということになる。シンはかつての過ちを、そっくりそのまま繰り返していることになる。

 極論だが、シンの場合、「正義」の成否や「未来」の内容は関係ないのだ。自分自身で抱いた正義でもって、自分自身の望む未来を切り開けるか。他者の正義を無批判で受け入れ、(自分の中に確かにあるはずの「正義」「未来」を明確な形で認識する前に)他者の望む未来に賛同してしまうか。デュランダルの手駒になってしまっていた時は後者だった。この追加シーンも、本質的にはそれらと何ら変わりはないだろう。大戦の決着から間もない時なのだから、シンが自身の正義を見つけられていないのは当然そのまま。そしてキラもデュランダルも、シンにとっては他者でしかないのだから。

 

 追加シーンは尺も台詞も少ないため、明確にこうだと定まった解釈はないのだろう、とは思う。もしかしたら、シンがずっと探していた自分自身の正義を、望む未来をキラが提示してくれた(敵対こそしていたものの二人が望んでいたものは同じだった)ということなのかもしれない。もしかしたらキラが提示したのは「平和を目指す」ということだけで、その明確な形はシンやキラやアスランがこれから共に見つけていくのかもしれない。

 だが、それでも。それでも僕個人としては、この追加シーンには困惑しかなかった。このシーンの時系列がもっと先で、何だかんだを経て成長したシンが自分自身の正義を見つけ、そのうえでキラの手を握るのなら、わかる。もっと「共に未来をみつけよう」的なニュアンスが強調されていたなら、まだ飲み込める。だが、「終戦直後のただ後悔と悲しみしか持てていない状態のシンに」「キラの寛容さと理想に感動し救われたような表情で」「彼の提案に頷かせる」というのは、どうなんだ。

 彼に与えられた結末として納得いかないという感情は、引いてはこの作品全体への不審に繋がる。シンの物語を通して他者の役割・正義を演じることの愚かさを描いたはずなのに、それに真っ向から反するようなシーンをわざわざ完全新規で追加されてしまっては、「何がしたいのか」と思わざるを得ない。描き方や内容の是非に関しては不満こそあったものの、何とかギリギリで「でも一本筋は通してたよね」と思っていたのが、一瞬でひっくり返ってしまった。

「お前が欲しかったのは、本当にそんな世界か!」

 最終決戦でアスランに投げかけられたこの問いの答えが、いつかシン自身によって返される。物語全体としても、シン・アスカというキャラクターへの向き合い方としても、それ以外の可能性はあってはならないと、僕はそう思う。

 

 要するに僕は、『DESTINY』の迎えた結末に、そこで描かれたシンの未来に、何一つとして納得いっていないのである。むしろ、キラ達を「正しい」ものとして描きたいという意図が暴走した結果、シンの物語や番組のテーマを否定するようなシーンが追加されてしまったのだと、そんな陰謀論じみたことさえ思っている。

 

 

48.PHASE-49 レイ

 最初に話題にしたように、『DESTINY』という作品は、前作『SEED』が賛否ありながらもその知名度・作品の展開規模が圧倒的な所謂「人気作」だった反動か、それと比較して余計に批判がされやすい立ち位置にある。本当に知名度が高いためファン層も広く、そのため批判の内容も各々の作品観によって千差万別なのだが、以前、このような文句を目にしたことがある。

「SEEDは続編で台無しになった」

「DESTINYは蛇足」

 改めて、僕個人は、作品全体で考えればそうではなかったと思う。別に前作『SEED』も完全無欠ではなく、むしろブログに書いたように僕にとっては複雑な感慨をもたらした作品である。はっきり言って山ほど不満はあったし、その中には『DESTINY』である程度解消されたものもあった。

  前作では仄めかすだけした後に雑に処理した地球連合の強化人間をしっかりとドラマに取り込んでくれたこと、アスランがちゃんとダメなやつだと描いてくれたこと(前作からそういう認識だったので意図的にダメなやつ描写してくれたのは解釈一致だった、ラクスとの奇妙な関係やカガリへの想いの描写といい今作のアスランはかなり扱い良いと思う)、前作ではほとんど「正しさ」を描く道具としての扱いしかしていなかったラクスのパーソナルな部分にほんの少しだけ触れようとした気配があったこと。『DESTINY』をやった意義は、間違いなくある。

 先ほどは「「未来」がどうのこうのっていうのは結局前作と同じ話なんだけどわざわざもう一回やる意味あるのか」と書いてしまったけど、恐らく、前作で若干唐突気味になってしまった、尚且つこちらに投げかける(ある意味で丸投げする)形で終わった人間の「未来」を改めて「遺伝子」というシリーズの根本要素を用いて描くというのも、今作の意義の一つではあったはずだ。

 その描き方は僕にはとても巧いとは感じられなかったけど、それでもやりたいことはギリギリで伝わってきたし、その過程で生まれた「運命」「役割」という負の対比は、それを背負ったシンというキャラクターの激しさは、とても魅力的だと感じた。激しさと危うさをもって突き進んだ先でステラの死やアスランの撃墜を迫られて迷いを抱えてしまう繊細さに、「運命」のメッセージにその迷いが接続された終盤の展開に、心打たれた。前作の感想ブログの結論が「自分が最も夢中になったテーマへの追求が終盤では二の次にされていて悲しい」だったからこそ、今作で一歩踏み込み、その時に足りなかった「遺伝子」要素をデスティニープランによって補完したうえで、改めてテーマを描こうとしてくれたのは嬉しかった。

 

 ……だが、ダメだ。色々理屈をこねてはみたけれど、なんとか別の言葉を紡ごうとはしてみたけれど、結局はひとつの答えに収束してしまう。ならば、何故シンをキラに下らせてしまったのか。なんであんなシーンを追加してしまったのか。新たに生まれたものを、描ききったはずのテーマを、何故無理やりに前作の価値観に取り込ませ、自ら意義と積み重ねを否定し矛盾してしまうのか。

 そもそも、作品自体のテーマの話を抜きにしても、シンがキラに下る展開は嫌だ。だって僕がシンに見た魅力の原点は、冒頭でも書いたように、続編主人公でありながら前作の価値観と火花を散らし突き進んでいく鮮烈さなのだから。その姿勢が一人の人間としてどこまでも丁寧に表現されたからこそ、彼を好きになったのだから。

 前作のアンチテーゼ的な立ち位置にいるキャラクターが結局は仲間になって仲良しになってしまうというのが、根本的に間違っていると思う。シンの立場がたとえ否定されるために設定されたものだとしても、あそこまで番組に対立する価値観を苛烈に貶めるのは作品として狭量に過ぎると思う。

 せめて、否定した後に彼がどの道を行くかくらいは彼自身に任せるべきだと、余白くらいは残すべきだと思う。シンの行動を「間違い」だと設定するのはまだ試みとしてわかるけど、ならばこそ余計に、彼の性質と彼を物語の推進力としてここまで描いてきたことの責任をとって、せめて「間違い」の果てまで突き抜けさせてあげるべきだったと思う。

 

 

 ……やはり、『SEED』に引き続き、『DESTINY』も僕にとっては色んな意味で複雑で、色んな意味で大きな作品なのだろう。本編を見終えてから約一か月が経ち、そろそろ最終回直後の大荒れな気持ちも落ち着いただろうと思い書き始めたのだが、後半の話に差し掛かってからは鼻息が荒くなってしまった。

 普段から自分の感情や見方を整理するためにブログを書いているけれど、そういう意味ではお手本のように気持ちが整理される体験だった。『DESTINY』は、それほどまでに様々な感情を抱かせる作品だった。

 うまく、まとめの言葉が見つからない。見つからないが、自分の『DESTINY』への感情が、SEEDシリーズとの関係がわかったので、そろそろここで筆を置こうと思う。きっと僕にできるのは、こんな風に自分の感情を整理していくことだけなのだ。

 シン・アスカというキャラクターは、好きだ。今まで見た創作作品のキャラクターでもトップクラスに好きで、いつまでもその生き様を見ていたい。彼の体現している「運命」の描写も、『SEED』終盤ではおざなりにされていたテーマへの追求を感じられて、そこは本当に感謝している。でもだからこそ、『DESTINY』での彼の描き方には、追加シーンには、そこで発生したメッセージの大きな矛盾には、納得できない。それが、僕が『DESTINY』に抱いている感情。

 FINAL-PLUSの追加シーンはどこまでいっても公式で、だから覆されることなんてなくて(一度お出ししたものをなかったことにされても困るけども……)、いつか公開される『SEED』劇場版も、きっとその「納得できない」話を前提に進んでいく。だからその時も、こうやって整理して折り合いをつけていそうな予感がある。同じようなことを、『SEED』の頃から言っているようなことを、また書いている気がする。

 

 最後に改めて。これは感想というよりは、ただの一オタクの恨み節です。多分、お気持ち表明というやつです。作中の展開やテーマの説明は、僕個人の解釈に過ぎません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少しだけ解呪されました

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感想『シン・仮面ライダー』 仮面ライダーの誕生と継承

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 どうも、石動です。

 仮面ライダー生誕50周年を迎えた2021年に公開が発表された、『シン・仮面ライダー』。自分は仮面ライダーが好きで、かつ庵野秀明監督のファンでもある(いや『エヴァ』と『シン・ゴジラ』くらいしか見たことないのですが…『トップをねらえ!』とか見たいとは思ってるんですけども…)ので、そんな大好きなシリーズと監督がタッグを組むということで、約2年前のその日からずっと楽しみにしていました。していましたので、先月に公開されてすぐに最寄りの映画館に駆け込み、劇場で庵野監督が紡ぐ「仮面ライダー」の物語を浴びてきました。

 というわけで、公開から1ヶ月経ってしまったタイミング、かつ初代仮面ライダーを未視聴の身ではありますが、『シン・仮面ライダー』の感想を書いていこうと思います。以下、映画本編のネタバレありです。

 

 

 


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 まず、ゴチャゴチャと話がややこしくなってくる前に一言で総評を言うと、ものすっごく良かったです。どうにもネットでは賛否両論気味っぽい今作ですが、個人的には年間ベストに食い込むレベルの傑作でした。ヒーロー映画として、庵野監督作品として、「仮面ライダー」の物語として。僕が求めていたものを、予想を上回るような出力で出してくれた。ただただ圧巻でした。

 次に、じゃあ具体的にどこがどう良かったんだという話になると、これまた本当に沢山あって。仮面ライダー達のアクションがバチバチに決まってるうえに全部方向性が違って楽しいとか、庵野監督が演出し浜辺美波さんが演じるルリ子があまりに可愛すぎるとか、仮面ライダー第2号こと一文字隼人の陽性のキャラクターや台詞回しが良すぎるとか、SHOCKERの「一部の人間を救済し幸福を追求させる」理念が「それぞれの理想(幸福の形)を持つ個性豊かな怪人達と仮面ライダーが順々に対決・衝突する」構成を理屈付けしているところとか。

 あと、暗い暗い言われてるショッカーライダー戦もギリギリ「暗すぎて見えない」にはならないラインに調整されていたと感じたし、初のダブルライダー共闘と2人揃ってのポーズ、「行くぞ本郷!」「ああ、一文字」がかっこよすぎたので個人的には一番の爆上がりポイントでした。声出そうになりました。

 

 

 

シン・仮面ライダー

 ただ、それらの細かいポイントも良かったのですが(特にアクション、チョウオーグ戦の泥臭いアクションとか、イチローと本郷と一文字が力を持っただけの「人間」であり、その理念のぶつかり合いは泥臭くなければならないという強い意図が感じられてめっちゃ好き)、僕が一番感動したのは別のポイントだったんですね。むしろ、この特徴があるからこそ上記のような好きポイントが成立したとも言える。

 それは、「本郷猛という人間に向き合った物語になっていた」こと。当然と言えば当然だけど、『シン・仮面ライダー』は主人公である本郷猛の生き様を、真摯なまでに丁寧に描いている。藤岡弘、さんの影響が大きい、超人然としたパブリックイメージの「本郷猛」とは似ても似つかない、等身大の優しくて不器用な青年。彼が強すぎる力に怯え、戦いに躊躇いを覚え、しかし覚悟を持って拳を握って「仮面ライダー」を名乗り、その覚悟と優しさでもってルリ子や一文字と信頼を築き、自身の絶望を乗り越えてイチローの心を救い、「仮面ライダー」の称号を未来に継承する。その道程が、本郷の心の変化が、映画の最も大きな柱として中核に立っている。

 その、見ていて彼の人間性を理解し、そして好きにならざるをえなくなるほどに真に迫った描写(この辺に庵野監督脚本のナイーブな人間描写が活きていて良い)はそれ単体だけでも本当に素晴らしいのですが、今作が「仮面ライダーの称号を一文字が受け継ぐ」結末を迎えることでもう一つの意味を持つんですよね。どうにも萬画版オマージュらしいこのラスト、僕は「仮面ライダーの称号は現代にまで受け継がれている」という意味も持っていると思っていて。

 

 

S.H.フィギュアーツ 仮面ライダー(シン・仮面ライダー) 約145mm PVC&ABS&布製 塗装済み可動フィギュア

 今作を通してその生き様を見せつけた本郷猛。彼が名乗り築いた「仮面ライダー」の称号は、彼の死後も一文字隼人に、「仮面ライダー第2号(第2+1号)」に受け継がれた。SHOCKERとの戦いはまだまだ終わっていない。だからこそ、「仮面ライダー」は未来へと受け継がれていく。現代、「仮面ライダー」の名を持つヒーロー達が毎年誕生し、世界の平和と子どもたちの心を守っているように。

 「仮面ライダーと悪との戦いは終わることがない」「今も新たな仮面ライダーは生まれ続け、人々の中にヒーローの代名詞としてあり続けている」。前者は石ノ森ヒーローとしての、後者は現実での立ち位置におけるメタ的な「仮面ライダー」の特徴・本質ですが、『シン・仮面ライダー』の「本郷が一文字に仮面ライダーの称号を託し(ヘルメット内にはいるけれど)、そして生まれた新たな戦士がSHOCKERとの次の戦いへ赴く」結末は、その両者を体現しているんですよね。一文字が本郷のヘルメットを受け取った「第2+1号」の状態で、「仮面ライダー」が明確に「次」に受け継がれる称号となったことで、初めて最も有名な鮮やかなグリーン色の「仮面ライダー」の姿になるところも含めて。

 で、ここが一番グッときたところなんですけど、『シン・仮面ライダー』は、この結末を描くまでに非常に丁寧に本郷猛の人間描写を積み重ねてきていた。だからこそ、観客が彼の苦しみと絶望と覚悟を理解しているからこそ、先述の文脈が成立しているんですよね。『シン・仮面ライダー』はあくまで現代に成立した完全新作で、そんな作品が仮面ライダーの50年の歴史の本質を総括するのにはそれに値するだけの説得力がないといけないけど、この映画の本郷猛という主人公は、彼の見せてくれた弱さと強さは、50年の歴史の重みに対して一切の見劣りをしなかった。

 この映画単体として、「仮面ライダー」というヒーロー・コンテンツの核にあるものを、しっかりと物語の文脈を乗せて描く。この真摯な姿勢に、僕は胸を打たれたんです。それどころか、「仮面ライダーの称号は現代にまで受け継がれている」メタ的な文脈に対して、「そうか…本郷が名乗った名前は、一文字に託したバトンは、僕が生きてる現代にまで来てるんだよな…僕が見てきた仮面ライダー達は、本郷が繋いだ正義を受け継いできたんだな…」と感慨深くなってしまうほどでした。

 別に直接的に繋がってるわけでも本当の原点でもないのに、何故かそういう感覚を覚えてしまった。もしかしたら初代から仮面ライダーを知っている人はこんな気持ちで平成ライダーや令和ライダーを見てきていて、『シン・仮面ライダー』は初代を見たことがない僕のような人間にもその感覚を擬似的に共有させる、歴史や歳月の追体験・再現的な試みを含んだ物語なのかもしれない。

 

 

 

 と、いつものようにややこしい屁理屈を捏ねてしまいましたが、総評としては最初に言った通り最高に面白かったです、『シン・仮面ライダー』。文脈的にも、キャラクター的にも、アクション的にも、仮面ライダーがとっても「かっこいい」、そう魅せるために仮面ライダーというものに真正面に向き合った作品。今作を送り届けてきてくれた制作スタッフに感謝しかないです。ありがとう…庵野監督、シン三部作(エヴァ含めると四部作?)は終わってしまったけど、まだまだ新作待っています…。

 

 本当に関係ないのに、現代の仮面ライダーである『ギーツ』を見る時も「本郷…」と謎に感慨深くなってしまいそうな気がする。

最近デュエマが面白い

 どうも、石動です。

 ひっさしぶりのブログ更新ですが、今回もタイトルで完結してるシリーズ。自分、昔からカードゲーム、特にデュエル・マスターズが大好きで。アニメだと『遊戯王ZEXAL』『カードファイト!! ヴァンガードG』『デュエル・マスターズVS』あたりはもう全部自分の中に刻み込まれてる名作なのですが、実際にカードを触ってたという意味では、圧倒的にデュエマに軍配が上がるんですよね。小中学生の頃は、友達や妹と対戦したりパック剥いたり大会出てループに遭遇してボロ負けしたりしていました。懐かしい思い出……。

 ただ、カードゲームってやはりお金がかかるもので。小中学生時代ならスタートデッキにパックのカードちょい足ししただけのデッキでも楽しめていたのですが、年齢が上がるにつれ(周りの友達がある程度お金をかけてやるようになったこともあって)満足できるレベルに達するまでに必要なお金がどんどん大きくなっていって、それで「流石に自分の経済力だとちょっとな……」と思い数年間カードゲームには一切触れてなかったんですけど。

 ですけど、最近比較的お金に余裕ができて、その状態で友達にデュエマやらないかと誘われたのをきっかけに、再びデュエマを始めたんです……始めてしまったんです……そしてそれが、めっちゃくちゃに面白い……僕がやってた頃とは比べものにならないくらいインフレが加速していましたが、その分面白いカードも増えてたり、あまりゲームが得意ではない自分が回せるデッキも増えてたり、好きなテーマデッキが超強化されてたり……。

 というわけで、そんな経緯でデュエマを再開して約一年になるので、使ってるデッキをさらしてだらだらと語っていこうと思います。妥協と偏った判断基準と実用性度外視の好みで採用したカードだらけのリストですが、もしよければお付き合いください。

 

 

 

 

赤緑ボルシャック

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 記念すべき再開後初デッキ。デュエマを進めてくれた友人と話しながら、「ドラゴンが使いたい」「モモキング系統とかどう?」「(ボルシャック・モモキングNEXを見ながら)ボルシャック好きだからいいかもしれん」「じゃあボルシャックのクロニクル買えば?」的な経緯で決めたデッキです。当初は無改造に元から持ってたメンデルをぶち込んだのをそのまま使っていたのですが、やはりそれだけではパワー不足だなと切り札を4投した形に。

 一般的な赤緑ボルシャックの場合、モモキング系統入れて早めに動けるようにしたり、ギャイア入れてロック性能を高めたりでもっと色んなカードが入っていて、実際そっちの方が強いんだろうなと思うのですが、どうしても世代的にボルシャックが好きなのでほぼ100%ボルシャックの脳筋構築です。それでも普通に強いからえらい。

 大量にマナを貯めまくってから、ボルシャック英雄譚やボルシャック・決闘・ドラゴンで大量展開して殴り倒すのが本当に楽しいです。超英雄タイムでメタを焼いたり、ボルシャック・ドギラゴンやスーパースパークである程度の攻撃なら受けれたり、意外と対応力が高いのも良い。

 

 

 

赤黒ドルマゲドン

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 これまたクロニクルデッキの改造。ドルマゲドンのクロニクルデッキ、超次元好きでラインナップ見た時点で欲しいなと思ってたところに、さらに何故かやたら安くなってたからそりゃ買いますよね……と。

 使ってみると思った以上に強くて、もしかしたら僕の持ってるデッキの中だと一番まともかもしれません。ドルマゲドンの封印を残り一枚にしてカウンターの構えを見せながら相手を殴りにいくのが最高にいやらしくて好き……レッドゾーンXで打点補強して攻めていけるのも上手く嚙み合っていて良い……。

 構築に関しては、鬼寄せの術を使った型がいまいちしっくりこなかった(多色増えるし盾減って盾にお祈りしながらぶん殴ることへの期待値が下がるし)のと、元から好きなカードが沢山入ってるのもあって、元のクロニクルをある程度残した形になってます。バサラ・ホールは別にこのデッキには必要ないんだけど超次元好きだしシンプルパワカだし入れたい、ブラックアウトはかっこいいしカウンター決まればクソ強だし入れたい、ドルマゲドンエリアのスレイヤー付与強すぎだろあと超次元召喚できるの面白すぎだろ入れたい……みたいなのが如実に出ているなあと。

 あと、自分の持ってるカードの中で最高額カードのメガ・マナロックドラゴンも入っていて(昔普通にパックで当てた)、それも滅茶苦茶活躍してくれるのがすっごく楽しいです。流石殿堂入りカード。多色デッキの存在意義を否定するカードなのに神アート再録でしばらくは殿堂入りしない無法の存在。対戦で出すと嫌な顔されるので使い方には気を付けよう。

 

 

 

青黒ゼーロ

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 ダークサイド・クロニクルデッキその2。実はジョー編を丸々通っていないので当初はあまり興味がなかったのですが、夏ごろにやっていた松本大先生の漫画版『デュエル・マスターズ』の期間限定無料化の際にジョー編を読んでそのあまりの面白さに感動し(新章~超天篇はキャラクターの心情もクリーチャー世界の様子も凄く丁寧に描写されていてめっちゃ面白いです、超天篇終盤のゼーロの過去エピと覚醒→キラの敗北と消滅→ジョーの覚悟→0から1を生み出すジョーVS全てを無に帰すゼーロの決戦、の流れはマジで神としか言いようがない)、お金に余裕ができた瞬間にすぐさま購入・改造しました。イラストも漫画意識したもの多くて俺得過ぎる。

 とこしえやアプルで墓地からの展開を邪魔されると動きがクソ遅くなるという致命的な欠陥を抱えてはいるものの、ムゲンクライムやザ・ロストやGR召喚を駆使してクリーチャーを並べ、それらを種に3・4ターン目に闇王ゼーロを唱えゲンムエンペラーやドラグ・スザークをぶん投げる、その際に零龍の墓地の儀だけを残してこちらの盤面をどかされてもいいように構える、という動きをかませるのが普通に強いです。ドルマゲドンもそうだけど、攻防一体のデッキは強いし回していて楽しい。

 個人的に良いな~と思っているのは、覇王のギフトの採用ですね。闇王ゼーロの種にはならないものの、墓地から闇の「カード」を拾ってくる効果なので終焉の開闢では回収できない闇王ゼーロを引っ張ってこれるのも強いですし、シールド・セイバーを持ってるので闇王ゼーロから投げた巨大クリーチャーが破壊以外の方法でどかされてしまっても、相手が盾を殴ってきた際に覇王のギフトを代わりに墓地に置くことで墓地の儀を達成できる。良いカード。

 

 

 

赤青覇道

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 今度は開発部セレクションデッキだ!! 構築済みの改造はこれで終わりなので許してくれ!!

 元のデッキは「火水覇道(火水しか入っていないとは言っていない)」、でも入ってるカードのパワーが高いので普通に強いという面白デッキでしたが、それらの内シータカラーのカードだけ別のデッキに使う予定ができたので、その辺を全抜きして赤青に寄せてみました。時代遅れと言えば時代遅れなんですが、安定性と爆発力を兼ね備えた動きができるのが楽しいです。

 基本的にはオニカマスやカメヲロォルやネ申マニフェストを並べて打点と手札を稼ぎながら、"必駆"蛮触礼亞とクラッシュ"覇道"が揃い次第走り出して追加ターンをとり連続攻撃でとどめを刺す、といった何の捻りもない形。とにかく踏み倒しメタに弱いのでメタ焼きも入っていますが、オニカマスのみを対策してるゼンメツー・スクラッパーはG・W・Dに差し替えた方がいいかも……赤単とかがトリガーで踏んだら強いけど知り合いあんま速攻デッキ使わないしな……。

 個人的な拘りポイントというか、自身の体験が如実に反映されているのがリーフ.Starとクリスタル・メモリーの2投で、一度改造前に友人と対戦した際に永遠に"必駆"蛮触礼亞とクラッシュ"覇道"が揃わず負けたのがトラウマになっていて、それで5ターン目には確実に手札に揃うように合計で4枚入っています。ま、まあ、クリスタル・メモリーハヤブサマル持ってこれば受けにもなるから……リーフ.Starも上手く絡めれば色んな動きできるから……一応トラウマ以外にも採用理由あるから……。

 

 

 

シータ超次元

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 セレクションデッキのシータカラーのカードがサイキックのデッキ(特に覚醒流星譚に寄せた構築)に相性がいいんじゃね?という思いつきから組んだデッキ。背景ストーリーだとエピソード1・2が一番好き(「絶望」と「希望」の物語なのがとても良い)なのでサイキックはほとんどがパンドラ王家関連のをぶち込んだ感じで、大本の形だと姫様宣言プリンプリンなんかも入っていたのですが、戦えるように調整を施した結果抜けることに……。

 サイバーダイス・ベガスやチェンジザで前のめりな相手の攻撃を受けながら手札やマナを稼ぎ、隙あらば攻勢に転じていくデッキ。姫様宣言が入ってた原型の状態で回した結果、「そこそこ受けれるうえにマナもまあまあ早めに溜まる」のがこのデッキの強みなんじゃないかなと思ったので、序盤おとなしい相手には積極的にカードを切って攻撃できる、かつ攻撃力の高い相手にはある程度受けてマナが溜まった状態でサイバーダイス・ベガスや逆瀧で保険をかけながらも余りで呼び出して攻撃できるモモキングやドギラゴン剣を入れてみました。

 結果ほとんど超次元はおまけというか、守りを中心に状況に応じて上手く使えるといいよね程度の存在感にはなってしまいましたが、まあそこそこは戦えるしモモキング辺りは普通に好きなのでヨシ!という思いで遊んでます。自分のデッキだと珍しくコントロール寄りなのも新鮮で楽しい。

 

 

 

姫様無双

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 シータ超次元をロマンに寄せたデッキ。正直デッキそのものの強さは下がってるんだけど、やりたい動きが通った時の脳汁がすごいのですごい(語彙力)。

 シータ超次元と同じように回してリソースを稼ぎながら攻撃を受け、その途中で解放せしXを場に出しておく。そして9マナに達したところで、姫様宣言プリンプリンを召喚→cipで鬼流院刃を出す→プリンのマッハファイターで相手クリーチャーとバトルして勝利、その時に発動するプリン自身と鬼流院刃の効果で適当な火コマンドサイキックを二体出す(その時にストームGの登場を2枚とも宣言しておく)→このターンに出たサイキック全員をまとめてその上にストームGを両方乗っける→プリン召喚からここまでの流れで火のコマンドが6体出てるので解放せしXが禁断開放し、その効果でストームGの上にファイナル・ストームXXを乗せる→あとはファイナル・ストームXXのメテオバーンで下に重なりまくったサイキック達をコストにしてエクストラターンをとりまくろう!

 というのが「やりたい動き」です。まず、この遊戯王ばりのぐるぐるぶん回りがすげえ楽しいし、使用するクリーチャーがほぼエピソード1関連なのも嬉しい(覚醒編も結構背景ストーリー的にはエピソード1と関わりがある)し、エクストラターン獲得を理論上は三回も行えるのがあまりにもド派手で興奮する。

 最初に言ったようにただひたすらに「ロマン」で、解放せしXのせいで山札が切れそうになったりメタがいると死んだりが全然起こりうる。でも、それを差し引いても楽しいし、ディアボロスΖの覚醒時能力で禁断開放を狙ったりの柔軟性もゼロではないので、もしかしたら一番お気に入りのデッキかもしれないです。地味に不安なのは上で説明したサイキックぐるぐるからの禁断開放が裁定的にできるかだけど……あまりに長すぎて不安だったので一応調べたけどいけたので大丈夫なはず……。

 

 

 

神羅ケンジ・キングダム

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 地雷兼環境(?)デッキ。友人に「対話拒否」と言われたけど反論はできない。

 小型のクリーチャーとタマシードを使って進化クリーチャーの上にさらに進化する「究極進化」を持つケンジ・キングダムにアクセスし、その登場時効果で山札を捲って巨大クリーチャーを踏み倒すデッキ。一応自分としては究極進化・究極進化MAXが好きで、ロマン砲の趣が強いそれらの中で最も実用的なデッキを組んだ結果がこれでした。本当はロマン度高めのロマノフ・カイザーNEXやギャラクシー・デスティニーを入れたいのですが、流石に昔のカード故に高すぎて断念。

 マジでケンジ・キングダムを出せるか否か、強いカードが捲れるか否かで勝敗が決するので色々言われるのも理解できるのですが、それでもやはり究極進化が使えるのは嬉しいし、巨大クリーチャーを踏み倒すのも興奮するので使っている分には楽しいデッキです。作った時期の関係でギャイアが入ってなかったり(今は再録で安めだけど作った頃は1000円越えだったので……)、「適切なカード持ってこれる方が強いやろ」と思って進化設計図よりエボリューション・エッグが優先されてたり(実際はリソース大量に抱えられる進化設計図の方が強い)なので、ちょっと改造してみたいかもしれない。

 あと、踏み倒し先の枚数が多いのは自分の趣味ですね。こういう捲って一撃必殺をかますデッキの場合、「一撃必殺」って部分がやっぱりデッキの肝になるので、個人的には安定性を高めるよりも着地できた時の捲れる確率を高めた方が楽しいかなあと。ケンジ・キングダムを出せたけど捲れずに負けるより、なんもかんも上手くいかずぶん殴られて負ける方が……俺はいい……!

 

 

 

暗黒破壊神デス・フェニックス

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 「ドラゴンが好き」「究極進化が好き」と来れば、当然G・リンクも進化Vも好き。感性が子どものまま止まってます。

 これもケンジ・キングダムと同じ経緯で、「ゴッド使いたいなあ」と思ってデッキを色々探したら暗黒破壊神デス・フェニックスが出てきて、「ゴッド使えるうえに暗黒王デス・フェニックスと破壊神デスの合体なんて最高じゃん!」と超ノリノリで作りました。なんとなくぶち込んだ(バカなので開発部セレクションデッキの魔道具の方を使いこなせず持て余していた。別にイーヴィル・フォースやナスロスチャもあり)絶望と反魂と滅殺の決断を除けば僕の安いデッキ群の中でもぶっちぎりで安価で、でもまあまあ派手で強いお気に入り。

 友愛の天秤やアフロ、終焉の開闢や虚∞龍で墓地と手札を整えながら4ターン目に暗黒破壊神デス・フェニックスを出してぶん殴っていくデッキ。暗黒破壊神デス・フェニックスがとにかく優秀で、能力でメタルを出してランデスする、もしくはヘヴィを出して守りと敵クリーチャーの殲滅をする、それをやりながら盾詰めて圧力をかけていくのがすっごい強くて楽しいです。とこしえやアプルを出されても(テスタは友愛で焼ける)ゴッド・ウォールでデス・フェニックスに場から離れない状態を付与して殴っていく、次のターンにヘヴィやメタルを素出ししてG・リンクするだけでもまあまあ強いので、意外と対応力もなくはない。

 とにかく安くて強いのが魅力なので、みんなに軽率に組んで欲しいデッキです。

 

 

 

ミカドレオ神歌繚乱

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 神歌繚乱のカードが能力的にも背景ストーリー的にもすごく魅力的だったので組みました。ただリスト見ればわかる通り神歌繚乱そのものは買ってません。

 とにかく4・5ターン目にアマテラス・キリコで走り出すことに命をかけたデッキです。マナブーストは色々考えて用意しているし、イザナミテラス単独とイザナギテラス&母なる星域の二つのラインを用意しているので、とこしえさえいなければ(とこしえさえ……いなければ……他のメタはイザナミテラスでマナ送りにできるのに……)割と安定して盤面を怪獣大決戦にできます。巨大獣には最強ロックの完全不明、エクストラウィンを狙えるクソデカブロッカーでいざとなれば気合いで素出ししてガチャを回せるミカドレオ、神秘の宝剣が有能すぎるACE-Yamata、ターンを返した時に切り札級のカードを出されるのを防ぐVANベートーベンを使ってます。

 とにかく決まれば派手で、でも回らないと本当に何もしないで帰っていく無情さがあるデッキです。単純にイラストアドがえぐいのが個人的には加点マシマシで、紹介しているから当然なんですけど大好きです。でも流石にドギラゴンやモルトと比較すると弱いので色々言われたのはちょっとわかってしまうかもしれない。僕は好き。

 

 

 

 

 

 

 というわけで、僕の使ってるデッキの紹介(?)でした。自分は人のデッキ見るのが好きなので、この記事を読んで色々楽しんでくれたら幸いです。ゲーム下手な人で不安なので、構築への文句とか普通に効果やルールを勘違いしてる部分とかあったら是非言ってください! 是非! 単純にデッキパワーが低いので環境デッキにはぶち転がされるのはしょうがないけど!!

2022年に見た新作アニメ・特撮をランキング形式で振り返る 映画編

sasa3655.hatenablog.com

 どうも、石動です。

 前回のテレビ編に続いて、2022年に見た新作アニメ・特撮をランキング形式で振り返っていこうと思います。今回は映画です。今年は沢山見たのですが、まさかのオールアニメor特撮でした。

 では、よろしくお願いします。

 

 

 

 

第12位 仮面ライダーセイバー 深罪の三重奏

仮面ライダーセイバー 深罪の三重奏

 『セイバー』のVシネマ。ヒーローものとしての「戦いに巻き込まれて犠牲になる人がいる」というジレンマから逃げることなく向き合ったストーリーを、上堀内監督の邦画のような質感の普段の仮面ライダーにはないような映像で展開していく作品で、近年稀に見る意欲作になっていたかなと。

 ただ、個人的には、合わない点や作品としての歪みが目立っている印象が大半になってしまいました。そもそも「戦いに巻き込まれて犠牲になる人がいる」が『セイバー』と相性が悪くて、まず仮面ライダーの戦いは毎回大規模でやるわけじゃないから、「戦争」を取り扱った『ビルド』や「怪人撃破時の爆発がもたらす被害」を描いた『クウガ』でもない限りこの命題とお話が結びつかない。

 さらにその中でも、コロナ禍が撮影に影響し市民の描写や街中での戦闘が少なくなった、かつ最終回で何がなんでも全員を救済する弩級のハッピーエンドで締めた『セイバー』は特に、「ヒーローの戦いに巻き込まれた犠牲」問題に適合しなかった。単純にこの問い自体が「でもヒーローが戦わなかったらもっと多くの人が死ぬが?? 自分の命と覚悟をもって戦いに挑んだヒーローを外野がどうこう言えるのか??」という欺瞞を含んでるのもありますが、『セイバー』的にもあまり旨味のあるコンセプトではないように感じてしまいました。

 他にも、いざという時に変身音を流してくれなかったり、作中のギミックが無駄に複雑だったり(説明がつかないところが多いので「実は間宮の父は飛羽真です!」というエモどんでん返しの実現のみに寄せていったのかな…)、他の点もまあまあ気になるところが多い。記憶が消える設定を活かしてドラマを描いた倫太郎サイドの話は面白かったし、新しいことに挑戦した姿勢も素晴らしいと思う(同じVシネでも逆に安易な方向に全振りした『仮面ライダーグリス』は本当に酷いものだったので)けど、いまいち中身が伴っていなかったかなあと。嫌いではないしむしろ好き寄りではあるんですが……。

 

 

第11位 ドラゴンボール超 スーパーヒーロー

ドラゴンボール超 スーパーヒーロー

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 これはブログでも感想を書いたんですけど、悟飯ちゃんとピッコロさんが主役というコンセプトへのワクワクと、既視感に満ち満ちていた本編の落差でどうにもな……となってしまう映画でした。CGのクオリティが高すぎてアニメ的な表現をやっても全く違和感がなかったのは凄かったし、魔貫光殺法でとどめを刺す決着は大好きなんだけど、やはり……もうちょい新しいものを見せて欲しかったな……アニメ版『ドラゴンボール超』がその辺大分頑張ってただけに……次の映画はテンプレを乗り越えたものを見せてくれドラゴンボール……。

 

 

第10位 すずめの戸締まり

小説 すずめの戸締まり (角川文庫)

 新海誠監督の最新作。前作『天気の子』は、クライマックスの場面で「陽菜さんを犠牲にしなくちゃいけないなら、世界なんて滅びてしまえばいいんだ!」的なことを言ってしまうほど振り切った作品だった(僕は狂おしいほど好き)けど、今作に関しては「生きること」の普遍的な尊さが物語の主題になっていました。

 正直なところを言えば、主人公であるすずめの背景と、ダイジンを中心とした物語の設定が微妙にぼんやりしていて、それの影響でお話全体がわかりにくくなっているように感じてしまい、あまり盛り上がれなかった気持ちがまあまあ大きかったです。草太とすずめの関係からテーマに繋げるのではなく、よりすずめの過去と心情、「死ぬのは怖くない」「生きるか死ぬかなんて運次第」と思っていた彼女が「死にたくない」と言うまでの変化に描写を絞った方が、「たとえ危ういものでも、それでも生きていく」というテーマが伝わったのではないかと思ってしまう。

 ただ、描かんとしたことの普遍性、3作連続で、この日本においての「災害」を取り扱い続けた新海誠監督の結論が垣間見えるようなテーマは、とても良かったです。「災害を止める」という行為そのものを見ると割と人間本意的なフィクション性の強いお話に見えるんだけど、あくまで「いつ終わるか分からない儚いものでも、必死に生きていく」という決意そのものが重要というか。「扉」「行ってきます」といった日常的な「生」「人生」のモチーフの分かりやすさもあってテーマは最低限提示できてたし、総合的には良い作品だったなあと。気が早いけど、新海誠監督の次回作が楽しみ。

 

 

第9位 仮面ライダーギーツ×リバイス MOVIEバトルロワイヤル


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 恒例の冬映画枠。龍騎参戦や「ジェネレーション」シリーズとは異なる疑似的なパート分けの導入(『戦国MOVIE大合戦』みたいな方式で驚いた)と、色々イレギュラーな要素もなくはなかったけど、なんだかんだいつも通りの安定した面白さ(クロスオーバーと気合いの入ったアクション)が楽しめました。

 特に良かったのがアクションで、空間を縦横無尽に活用しながらも地に足着けた、手数が多く戦略性の高い攻防を繰り広げていたリバイVSギーツはここ数年のライダー映画でも屈指のベストバウトだったし、劇場版限定ライダーであるシーカーはレイズバックルのギミックを活かした戦法で楽しませてくれたし、現代技術でリメイクされた龍騎ライダーはアドベントのチート性能を気付かせてくれた。

 ただ、ストーリーは若干不満があるというか、ゲームマスターの権利が戻ることで「世界を救う」ための真のデザイアグランプリが開幕する展開や、龍騎勢の「多分この真司達は本編とは別の道を歩んでるんだろうな」ということだけを示しながらしっかり一定の活躍を見せる塩梅は良かったけど、それでも中身が薄すぎるような……。「悪い奴らが現れてそれにヒーローが立ち向かう」という構図にほとんど何も付け足さたれていないというか、あと『リバイス』はほとんど見れていないからあれだけど、バイスの復活はいくらなんでもロジックがなさすぎるのでは……?

 恐らくバトルバトルバトル!的なアクションメインの映画で、先述の通り実際アクションは良かったけど、それにしてももうちょいフックになるようなドラマが欲しかったです。お話が薄いせいで、龍騎の客演の意義も微妙になくなっている部分があったので……いやまあ平ジェネ無印といい、映画の時の高橋悠也脚本は毎度こんなもんだけど……これも総合的には「好き」の方が多い作品ではあったけど……。

 

第8位 シン・ウルトラマン

シン・ウルトラマン

 僕は初代『ウルトラマン』を見たことがないのでネットでの又聞きと想像でしかないのだけど、原点の「ウルトラマンへの依存から独立し、人間の手で勝利を掴む」最終回を新しい形に昇華する……という意味では、物凄く精度の高いものが提供されていたように思う。

 ウルトラマンの登場やメフィラスの策略で人類が絶望と無力感と上位存在への信仰を植え付けられ、結果ウルトラマンに頼り切りになり、しかしゼットンとの戦いはウルトラマンだけではどうにもならず、彼が友情と信頼でもって託したベータシステムの技術を依存から抜け出した人間達が自らの手で研究し応用し、ゼットンを撃破する。まずこの筋を出したことに拍手をしたいし、その結末に辿り着くまでの道中をウルトラマン特有のバリエーション豊かなSF的な設定とキャラクターで彩るのも、エンタメ作品としてあまりに満足度が高かった。

 しかし、そのように全体の流れは完璧な一方、実際の展開にはぼちぼちと飲み込めない欠点が存在していました。最も致命的なのが「ウルトラマンが人間を好きになった理由がわからない」こと、禍特対のキャラクターとウルトラマンとの関係がいまいち描かれていないことで、話の核にある要素が上手く描写できていないせいで、終盤の展開には気持ちがあまり乗らなかった。正直、終盤付近になってもウルトラマンが禍特対の面々を「仲間」と呼ぶことに違和感を感じてしまった。

 また、映像に関してはやはりパワー不足を感じざるをえず、印象に残るカットや映像的な快楽が少なかった(スマートフォンを使った撮影も面白い映像にはなってなくて、単に画質が変なことへの違和感だけを感じた)だけではなく、戦闘があっさりめなことを筆頭とした、ドキュメンタリー風のあまり間をとらない作品全体の演出が、全く物語にマッチしていなかった。その演出方針は『シン・ゴジラ』的なそれなのだけど、今作は禍特隊とウルトラマンのパーソナルな関係にドラマの重きが置かれていたので、よりエモーショナルに強調していく方向性の方が良かったのではないかと思う。

 ただ、最終決戦のぐんぐんカットの使い方には泣きそうになってしまったし、それ以外でもウルトラマンと怪獣・異星人のプロレスはもれなく素晴らしかったので、エンディングの心地よさも含めて「面白かった~!」と前向きに終われる良作だったかなと。完全無欠ではないけど、どこか変さに愛嬌を持った作品でした。

 

第7位 四畳半タイムマシンブルース

四畳半タイムマシンブルース【電子特典付き】 四畳半シリーズ (角川文庫)

 スタッフが発表された時には「湯浅監督じゃないのかよ!」と叫びそうになったし、見終えた後でもその気持ちは一切変わっていない。けど、湯浅監督演出&作画はかなり頑張って再現されていたし、所々「おおっ」となるカットや映像もあったので、一つのアニメ映画としてはちゃんと面白かったです。

 まず前提として原作の『サマータイムマシンブルース』×『四畳半神話大系』、それによる青春タイムトラベルものとしてのお話の完成度の高さと個性の強烈なキャラクターの組み合わせが本当に素晴らしくて、それを丁寧に映像化してくれるだけでもう十二分に面白い。特に良かったのがラストの流れで、「私」さんと明石さんの笑顔を横から切り取り、二人が向かい合っているような画面を映し出してからの「成就した恋ほど語るに値しないものはない」、そして流れる「出町柳パラレルユニバース」というのが、本当に爽やかな後味で映画を締めてくれる。

 あまりにも阿呆なギャグと、胸にじんわり染み渡るような物語の良さを味わえるという意味で、やはり「四畳半」のアニメの一編としては満点だったと思います。森見登美彦小説の映像化にハズレなし。

 

 

第6位 劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM 前後編

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』Blu-ray BOX<期間限定版> [Blu-ray]

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 こちらもブログにまとめた通りなんですけど、総集編プラスアルファに留まらない映画としての創意工夫と完璧な挿入歌演出で興奮をもたらしてくれた前編『君の列車は生存戦略』、構成や演出に一部歪みを抱えつつもテーマ自体のアップデートという最強の一手を物語内の様々なギミックと要素を総動員して本気で行ってくれた後編『僕は君を愛している』と、やっぱり『ピングドラム』は最高だな……と思わせてくれた劇場版。

 書きたいことは本当に全部感想ブログで語ったので、ここではもうこのくらいでいいかな……とにかく最高に面白いので、テレビ版と合わせて全人類に見て欲しいです。上映時間が長かったので映画館では終盤腰が痛くなってしまったので、僕もブルーレイを購入して家でじっくり楽しみたい。円盤の発売がはやいのがありがたい。

 

 

第5位 劇場版 Gのレコンギスタ Ⅴ 死線を越えて

劇場版『Gのレコンギスタ Ⅴ』「死線を越えて」【Blu-ray特装限定版】

 前々から気になっていた劇場版Gレコ。去年公開したⅢも観に行きたかったのだけれど、計画力不足で公開期間中にⅠとⅡを視聴することができなかったので、今年のⅣとⅤが初の劇場でのGレコ体験になりました。初になったのですが……劇場で観るGレコ、本当に面白い……!

 後で語るⅣとは違い、Ⅴはほとんどテレビ版に再編集や画面処理で手を加えた感じの所謂総集編だったと思う(「映画版の方がわかりやすいよ」とのアドバイスを受けたのでテレビ版は未視聴で臨みました)のですが、劇場の大画面で見ても全く粗が目立たず、むしろ並みの映画を遥かに凌駕する迫力の戦闘シーンが見れて眼福。ユグドラシルの「こいつやべえ」感は半端なかったし、最終決戦のG-セルフカバカーリーの対決も地味ながらも一手一手の攻防がとても見応えがありましたね。作画とコンテが良すぎる。

 加えて、わかりにくいながらもストーリー展開もちゃんと面白くて。若干投げっぱなしだったり掘り下げが足りていない部分もあるのですが、宇宙を巡ってきた皆が今度は自分達の住む地球を一周しに行く、主人公のベルリに関してはもっと踏み込み自分で「大地に立」って世界を知りに行く、という結末でもって、これからが本番で、ここから全てが始まるのだと、正にキャッチコピー通り「ここから始まる『Gのレコンギスタ』」なのだと示している。そのような形で全てをメインテーマに収束させていくことで、未回収の要素はむしろ物語の構成要素になっている。

 そして、そのように全てを包括し地に足つけた「生」を肯定するシナリオの中で、現実の人間と遜色ない実在感を伴ったキャラクターの心理描写や、はちゃめちゃに清々しいオチを見せてくれるのが最高。ラスト、ベルリが富士山の頂点から「後ろが太平洋で、前にも海が広がっている!」「僕はこれで、世界を回るぞ!」と駆け下りていくシーンには、何故だかわからないけどうるっと来てしまいました。ドリカムの主題歌も凄い効いてたし、映画としての満足度も高かったです。

 

 

第4位 劇場版 Gのレコンギスタ Ⅳ 激闘に叫ぶ愛

劇場版『Gのレコンギスタ Ⅳ』「激闘に叫ぶ愛」【Blu-ray特装限定版】

 Ⅴと別枠なのは、『ピングドラム』と違ってある程度独立した別の話だからです。

 Ⅴは映像とストーリーが両方とも最高にエンタメしてたのだけれど、その最終章としての盛り上がりに負けず劣らず、Ⅳもありえないほど面白い映画に仕上がっていた。というか、1つ上の位置にいることからも分かる通り、個人的には前後編の前編に近い立ち位置にもかかわらず、Ⅳの方が記憶と心にぶっ刺さりました。

 ジット団のどこかぶっ飛んでておかしなところもあるけれど見ていて何故か感情移入してしまうキャラクター性とか、ビーナス・グロゥブでの出来事から導かれるSF的なテーマとか、その魅力には本当に様々なものがあるのだけれど、やはり最も大きいのは終盤の完全新規作画(らしい)パート。フォトン・トルピード発射からG-セルフVSマックナイフの流れがあまりにも怒涛で、辛くて、熱い……!

 四つ巴の争いを止めるために、G-セルフのフルパワーを発揮するベルリ。しかしその力であまりにも多くの人間が無差別にその命を散らし(MSごと光になって「消える」のが本当に……)、動揺したベルリはさらにその攻撃の発動を見たマスクによる怒りの襲撃を受けてしまう。

 フォトン・トルピードの恐ろしさも、数多の人間を殺してしまったベルリの苦悩も、「悪魔になって帰ってきたやつ!」と叫ぶマスクの怒りも、ベルリの反撃を受けたマスクを庇うマニィの愛も、全ての要素がとんでもなく劇的に描かれるんですよね。最も作画パワーが発揮されるG-セルフVSマックナイフは、事前に公式から宣伝として動画が公開されていたのだけれど、劇場で観るとその迫力がダンチ。最高の絵コンテに従って、最強の作画で宇宙を駆け刃を交える2機の映像に、劇場にも関わらず「うおおおおおおおすげえええええ!!!」と叫びそうになってしまいました。いや誇張じゃなくて。今まで見てきたアニメの中でも1、2を争うレベルの戦闘シーンだったので。

 この映画を、特に終盤の新規作画パートを劇場で観られたことを、僕は定期的に思い出してはニヤつくだろう。それほどまでに、自慢に感じてしまうほどに、面白かったです。Gレコ最高。

 

 

第3位 仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル

仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル CSMタジャニティスピナー&ゴーダメダルセット版(初回生産限定) [Blu-ray]

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 過去のブログで書い(以下略)。

 非常に激しく賛否両論が分かれている作品ですが、僕としては感謝しかないです。自分の人生観に影響を与えたほどに鮮烈な、『仮面ライダーオーズ』。その結末の意味が、映司とアンクの関係の本質が少しずつズレていってしまったこの10年を、この作品は完璧に清算してくれた。公式自らの手で、非常に『オーズ』に真摯な形で、『オーズ』に決着をつけてくれた。映像はしょぼかったしやり方も綺麗なものではなかったけど、でも、それでも終わらせるという覚悟は本物だった。

 この前購入したブルーレイで久々に通しで見たのですが、やはり非常に計算されつくされた、かつ『オーズ』本編を穢さないように尊重し続けた、制作陣の覚悟の結晶のような作品だったなと。改めて『オーズ』には、ありがとうとさよならを言いたい。

 

 

第2位 犬王

劇場アニメーション『犬王』(通常版) [DVD]

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 過去のブログで書い(以下略)。

 傑作です。最高のアニメーションです。音響と作画と演出と脚本が完璧です。

 中盤のライブシーンの長さはやっぱりな……と思ってしまうけど、その不満を全て帳消しするほどの傑作なので、全人類見てください。上位の作品は基本的に全人類に見て欲しいやつですが、この作品は事前知識も準備も一切要らないので、是非気軽に手を出して最高のアニメーションを浴びて欲しい。

 これほどまでに楽しくて、ハードで、切なくて美しい「物語」は、他にはない。犬王と友有の「物語」は、未だに僕の中に残っている。

 

 

 

 

 

そして、栄えある(?)第一位は……

 

 

 

 

 

 

第1位 THE FIRST SLAM DUNK

THE FIRST SLAM DUNK re:SOURCE (愛蔵版コミックス)

 事前情報では不安を感じる方が多かった作品で、特にCG主体の映像は、予告編のカットだけだとあまり期待できるようには見えなかった(CGが嫌いなわけじゃなくて、スラムダンクにはあまり合ってない気がしていた)。しかも何故か公式が全く他の情報を出してくれないばかりに、映画館に向かう段階ですら不安が興中の半分を占めていた。

 が、いざ観てみると、そんな不安は消し飛んでしまうほど面白くて。まずほぼ唯一の公開情報であり最大の不安要素だったCGに関しては、驚くほどの高クオリティで、劇場の大画面で映えに映えまくっていました。試合のスピード感や選手の動きの精密さという、バスケ漫画のアニメ化として押さえておいて欲しい部分を完璧に満たし、原作の躍動感ある作画を完璧に映像に落とし込むことに成功していたように思います。そして、そんな原作とイコールで繋がるほどの映像は、単品で見てもそもそもの満足度がえげつない。ひたすらに目と脳みそが幸せになりました。

 さらに、最高の映像で展開されるストーリーの中身も、素晴らしかった……。そのままアニメにするだけでもえげつない盛り上がりが保証されている山王戦を、宮城を中心に据えることで「宮城リョータの物語」としてアレンジし、一つ映画としての芯を通す。その方針のために原作の見せ場を削る決断もできてしまうのが本当に痺れるし、でありながらしっかり原作の膨大な熱量を反映した展開の数々にはしっかり泣かされる。

 素晴らしいのが宮城を主人公に据えたことで、原作では湘北スタメン五人の中で最も内面に踏み込んだ描写が少なかった彼の過去が描かれることで全く新しいドラマが生まれ、映画としての新規性・まとまりが強くなっている。加えて、上記の原作の熱量を反映した云々という話も、宮城の作中でのゲームメイクをしていく役割と他の選手達との関わりから物語を展開する形式によりもたらされているもので、映画としての・原作のアニメ化としての二つの面白さが、彼が中心に立つことで実現しているんですね。そんな形式だからこそ、彼と彼らの物語はあそこまで劇的に、ドラマチックに、熱く展開されていく。

 執念を感じる熱量の映像と、どこまでもクレバーで巧みなストーリー。いやあ、本当に面白かった……原作を再履修してからもう一度映画館で観たい……。

 

 

 

 

 というわけで、今年の振り返り映画編でした。間に合った……年内には間に合ったけど、本当に滑り込みになってしまった……。

 今回のギリギリっぷりもそうですが、今年は色んな作品を見られた一方でブログの更新が少なくなってしまったので、来年はもっと精進していきたいと思います。どうしても時間はかかってしまいますが、やはり感想をまとめることで作品の理解度は格段に上がるし、あと単純に書くのが楽しいので……他の趣味とのバランスを上手くとりながら、せめて月一では書いていきたいなと。

 というわけで、呼んでくださりありがとうございました。

 よいお年を!

2022年に見た新作アニメ・特撮をランキング形式で振り返る テレビ編

 どうも、石動です。

 今年も残すところあと一日。大分滑り込みのタイミングになってしまいましたが、今年も1年で見た新作アニメと特撮作品の感想をまとめていこうと思います。今年は去年ほどは見てないから……多分前後編にならないはず……残り時間少ないけど、テレビ編と映画編を書き切れるはず……多分……。

 というわけで、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

第13位 魔法少女まどか☆マギカ外伝 マギアレコード FINAL SEASON ─浅き夢の暁─

【Amazon.co.jp限定】マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON-浅き夢の暁- 2(2nd SEASON & Final SEASON 全5巻連動購入メーカー特典:「描き下ろし全巻収納BOX」引換シリアルコード付)(2nd SEASON & Final SEASON 全5巻連動購入オリジナル特典:「描き下ろしF6キャラファインキャンバスボード」引換シリアルコード付)(完全生産限定版) [Blu-ray]

 あまりに性急に過ぎる。

 なんというか、こう、うん。1期の丁寧に積み重ねていくような人間ドラマに魅了され、2期にはテンポを優先した結果の歪さを感じながらもクライマックスの展開には胸を熱くした。つまりは大好きな作品だった『マギアレコード』が、これほどまでに酷い終わりを迎えるなんて、想像もつかなかった。その末路を実際に見届けて、なかなかの衝撃を受けてしまった。「インパクトがあった」という視点から見れば、2022年でも屈指の作品だと思う。勿論、悪い意味で。

 最初に述べた一言が全てで、とにかくあらゆる展開が駆け足過ぎて説得力がなかったです……。全ての真実が明らかになる最初の話だけはまあまあ楽しめましたが、それ以降の物語の本筋は、キャラクターの心情描写も物語のテーマも何もかも投げ捨てていて、見ていて何の感情も湧き上がってこなかった。一番酷いのがラスト2話の「ういの言葉を受けて悲しみを乗り越え復活」→「ういの願いを引き継ぎ黒江を救おうとする」→「しかし失敗して急に現れた自らのペルソナに色々言われて絶望」→「急に来たみかづき荘のみんなに励まされて復活」といういろは周りの展開(これを15~20分くらいで駆け抜ける)で、「唐突」「雑」と言う他ない。

 また、尺以外でも(というか駆け足な展開の結果?)シンプルにお話としての作りの甘さが露呈していて、先述の豪速展開の中で雑に絶望して死んだ黒江にはオリキャラとしての存在意義がまるで感じられなかったし、見滝原組が一切出てこないことで彼女達のこの物語における存在意義がファンサでしかなくなってしまい、そこから彼女達に描写に割かれていた2期と1期の尺がまるまる無駄になる、という現象が起きてしまっていた。

 ひたすらに駆け足で、そのくせまるで物語の明確な骨子も感じられず(「願いの物語」的なことをやろうと……していたのか……?)、加えて劇伴の区切り方がおかしいなどアニメーションとしての問題も山盛り。2期ですこーし気になった「尺が何故か1クール用意されていない」「テンポとファンサを重視しすぎて心理描写が粗雑になっている」という欠点がパワーアップしてリターンズし、一方で作品の良いところはほとんど消し飛んだ、そんな作品。僕が1期で好きだった部分はなくなり、それとは正反対の物語の作り方から生じたストレスだけが視界に入ってきました、はい。

 ……これ以上書いても愚痴しか出てきそうにないのでここで終わり!

 

 

第12位 ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA

ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA Blu-ray BOX VOL.2(特装限定版)

 自分が今まで見たウルトラマンの中で、屈指で好きになっていた『トリガー』。去年の感想ではその「好き」を語ると同時に、主に『トリガー』独自の良さを押しのけてまで唐突にねじ込まれる『ティガ』要素(と考えられるもの)といった不満と、「ここから始まるであろう『トリガー』の最終決戦が残念なものであっても」という仮定を書いた。そして、2022年に放送されたラスト数話で展開されたのはまさに、それら二つの悪魔合体だった。

 特に最終回に関しては、「キャラは立っているけど絆は深く描写されないので正体バレに感慨がない」「スマイルのゴリ押しが酷い」「光と闇の話をしているけど作中でその二つを対立軸として描けていないのでそもそもの構造が成り立っていない」という大きく分けて三つの問題点が、『トリガー』という番組の歪さを体現しているような構図になってしまっていました。一番最後の、前提すら掘り下げられない形で前面に出てくる「光と闇」はそれこそ『ティガ』要素以上の意味はないだろうし、そんなオマージュの域を出ていない要素に尺を割いたことで「スマイル」「個性豊かなGUTS-SELECTの面々」という『トリガー』の良さを発揮できなかった結果が、前者二つの不満点。綺麗に、イコールで繋がっている。

 勿論、去年言ったのと同様に、いくら終盤が残念だったからといって、僕の中の『トリガー』への「好き」は消えていない。正直、『トリガー』という番組全体の印象は「『ティガ』要素と『トリガー』独自のカラーがバッティングし、結果両方とも形にならず空中分解した作品」になってしまうけれど、それでも主要三人のキャラクターや関係性の良さ、客演回の打点の高さやGUTS-SELECTの兵器や作戦のワクワク感を忘れることはない。後述するが、『デッカー』の『トリガー』の客演の際には、「やっぱ僕『トリガー』好きだ」と完敗してしまった。

 ただ、『トリガー』が好きだからこそ、もっと上手くやれなかったかなあ……と思ってしまうのもまた事実。複雑な気持ちです……。

 

 

第11位 まちカドまぞく 2丁目

まちカドまぞく 2丁目 (4) Blu-ray(特典なし)

 1年ほど前に友人の「実質『仮面ライダージオウ』なので読みましょう」という誘い文句にまんまと乗っかり(『ジオウ』好き……)、原作コミックとアニメ1期を駆け抜け、そしてその緩さとシリアスのせめぎ合いの上に立つ「日常」に心を奪われた、『まちカドまぞく』のアニメ2期。1期と異なりリアタイで作品視聴できるというだけでもう嬉しかったのだけど、その高い完成度にアニメとしても満足して毎週追いかけることができた。

 ギャグのテンポ感やテンションに関しては若干可愛さとアホさを過剰に盛った感があって実は苦手なところもなくはなかったり、流石に1期最終話の美しすぎる締め(3巻冒頭だけを持ってきて「彼女達の日常は続いていく」的なニュアンスを強めるのが天才の発想過ぎる)と比べるとオチの弱さを感じてしまう部分はあったりで不満もなくはなかったが、やはり安定した高クオリティのアニメ化だったなと。個人的に3巻の、一気にシャミ子の過去の真実と彼女の目指すべきものに迫っていく内容が大好きなので、それがベストマッチな声優さんの演技で見られただけでも満足。このアニメで那由他も見たいので、どうにか3期頼みます!

 

 

第10位 なんかちいさくてかわいいやつ

第1話~第5話

 めざましテレビ内の1コーナーで尺も3分そこらなのでここに入れるかは迷ったけど、まあアニメではあるし面白かったし入れとくか……の枠。

 原作漫画はとにかく面白く、不条理×ホラー×可愛いマスコット×日常×成長ドラマという無二のバランスが存分に発揮されていて、毎回Twitterに最新話が上がる度に気持ちが揺さぶられてしまう。ただ、それ故に朝の番組のコーナーという枠でちゃんとその面白さを再現してくれるか(「かわいい」部分だけを抜き出されないか)心配だったのだけれど、「なっちゃったからには……もう……ネ……」や「なんとかバニア」編など、その辺を緩いテイストながらもしっかり「怖く」映像化してくれたことで信頼度が限界突破しました。

 「ひとりごつ」をしっかり新曲で作ってエンディングに採用する、しかもそのエピソードまでは歌をカラオケバージョンにして隠しておくなど、原作を前提としたアニメ化としてもあまりに全体の展開が上手すぎるので、これからも視聴が楽しみです。しばらくは金曜の昼休みはちいかわアニメに心を癒される日々が続くかもしれない。

 

 

第9位 機動戦士ガンダム 水星の魔女

PROLOGUE

 リアルタイムで視聴できる新作ガンダムということで、とにかく期待しかなかった作品。プロローグの時点ではただならぬ重厚SFの気配が漂っていましたが、蓋を開けてみたらとんでもない癖強アニメでした。

 正直、登場人物がほぼ全員死んだプロローグからの「決闘が日常的に行われており、それを用いた賭けで全てが決定する」というIQ3(に初見は見えてしまう)設定を根幹に据えた学園ドラマ、という展開の方向転換に悪い意味で「なんか違うな」となってしまったり、5・6話のエラン関連のエピソードはエランのスレッタへの感情やそもそもの背景の描写が足りてなくていまいちだったり、割と見ていて疑問符が浮かぶ展開も多い。ただそれすらも個性のひとつと思わせるような雑多な魅力がこの番組にはある、と感じていて。

 上手く言語化はできないんですけど、難解なSFと若干後ろ向きな学園ドラマ、そしてそれらを実際に形にするテンポ遅めの番組進行と、個々で見るとマイナスになりかねない要素が、奇跡的に噛み合ってるように感じるんですよね。どの話を見ても、『水星の魔女』の味~!濃~!と癖になってくるというか。あまりにベタな造詣過ぎてみんな好きになるグエル先輩を中心とした、インパクトと人間味の強いキャラクター達がそれらを織りなしていくことで、不思議と全部の要素がある程度接着して見えるというか。

 なんだかめんどくさい理屈を捏ねてしまったが、普通に面白いです、『水星の魔女』。めっちゃかっこいい戦闘シーン(5話の電磁ビームVS接近攻撃は終始画が良かった)や8・9話のシャディク編のどうしようもなさと切なさの伴った、青春……な内容はめっちゃ好きだし、積み重なっていってるプロスぺラとスレッタの関係の欺瞞も爆発する時を今か今かと楽しみにしています。1クール目で一旦話が切れてしまうのが歯がゆい……。

 


第8位 ポプテピピック

#12「Endless Love」

 例のクソアニメが帰ってきた。

 毎話のように挿入されるスクエニ公式とのコラボコーナーは普通に面白くなかったし(そもそも「公式じゃないのにアウト気味なパロをやる」というのが「クソアニメ」たる所以だったので公式とガッツリ手を組んじゃいけないだろとなる)、僕はよく分からないがアマプラ独占配信になったのも文句を言われていた。正直、「クソアニメ」という肩書きを真っ当(?)していた1期に比べると、商業的な要素が強くなっていた感は否めない。

 ただ、それはそれとして引き続きアホみたいな一発ネタをとんでもないクオリティのアニメーションや紙芝居でやり切っていくこと自体が映像作品として普通に楽しかった(アニメとしてはアレかもしれないけど、1話全部を紙芝居でやった回はAC部の凄さに圧倒されてしまうので好き。山ちゃんもえぐい)し、元々原作がちゃんとクレイジーギャグとして面白いしで、満足いく部分は非常に多かったです。

 また、初回と最終話で展開された特撮…というか平成ライダーパロもオタクとして楽しくて、特に最終回の全話丸々使っての悪ふざけには謎の感慨を覚えてしまいました。ちゃんとロケ地や監督が平成ライダーなのが笑うし、「様々なキャラデザのポプ子とピピ美を出し、それぞれの声優をこれまでのオールスターにする」という展開がシンプルに良くて膝を叩いた。そいつらが出てくる時に明らかにディケイド的なオーロラを介するのも好き。なんだかんだ、ちゃんとクレイジーパロギャグアニメとして面白かったなと。

 ただ、星色ガールドロップがなくなったのは悲しい! 「Endless Love」が今期のその枠なんだろうけど! ポプテピピックを見るモチベの3割が星色ガールドロップの予告だったので!! (局所的な)需要あるので復活してくれ!!!!

 

 

第7位 ウルトラマンデッカー

ウルトラマンデッカーBlu-ray BOX Ⅰ (特装限定版)

 『トリガー』の終盤があまりにそのダメさを体現していて悲しくなってしまったこと。最初の2話が全く同じ「王道風だけど基本が抑えられていないので中身スッカスカのテンプレなぞっただけのお話にしか見えない」(1話は一般人でしかないカナタがスフィアに立ち向かうまでの心情描写が……町が破壊されるのを大回しで映してカナタが叫ぶ、とかそういう明確な「きっかけ」「奮起の瞬間」を演出しないと成り立たないシチュエーションなのに……全く気持ちが乗らない……2話もその展開やるなら主要3人の関係性をもうちょい掘り下げてくれ……)という形でつまらなくなっていたこと。

 主に上記の二つの理由で2話以降を1クール近く放置してしまったのですが、重い腰を上げて視聴を再開してみたら、ちゃんと面白くてドハマりしました。個人的に好きだったのが1クール目の単発回で、4話の「宇宙怪獣通信販売」や5話の「スフィア襲来に居合わせたせいで地球に閉じ込められた異星人」など、各々の話の中核に独自のSF要素があるのがとても良い。そのSF要素はコミカルな部分もあるんだけど、そのコミカルさが順当にほっこりなオチに落ち着いたり、逆にコミカル故の空恐ろしさに繋がったり、非常にバリエーション豊かな面白さを提供してくれる。

 あとその立ち位置で言うと、『トリガー』の続編としても現状完璧だよなあと。そもそもの舞台設定でトリガーの格を保持しつつ『デッカー』の物語にちゃんと絡めていく手腕もさることながら、やはり『トリガー』好きとしては7・8話で無茶苦茶やってたのが印象深いです。

 直前の話までちゃんとしてたのに急にリアリティラインやお話の緩さが『トリガー』のそれまで急降下するのはまあ普通にダメなんだけど、クライマックスのカルミラ復活&共闘の無法ぶりや、「Trigger」が完璧なタイミングかかる演出(ウルトラマンは『ゼット』のジード客演時など主題歌を雑にバンバン流してしまうイメージがあったんですけど、今回ばかりは初登場時に安易に流すことを避け、さらに「Wake up Decker!」を挟んで満を持してから、というのが最高)でマイナスは完全に帳消しになる。なんなら印象としては『トリガー』終盤の残念さも吹き飛んでプラスに傾いた。それほどまでに濃く、良い『トリガー』客演回だった。

 2クール目のアガムス周りの展開には未来要素の唐突さやアガムスの行動原理の気持ちの乗らなさに若干不安を覚える部分もありますが、僕としては『トリガー』を成仏させてくれただけで『デッカー』には感謝しかないです。それらの不安もほんの些細なものなので、このまま真っ当に面白い、かつ『トリガー』の続編として終盤を駆け抜けてくれるだろうと思います。ありがとう、面白いぞ、『デッカー』。

 

 

第6位 仮面ライダーBLACK SUN

第五話

 仮面ライダー生誕50周年の企画の一つとして打ち上げられた、あの白石和彌の撮る「仮面ライダー」。情報発表の段階ではその気合いの入り方にひたすら脱帽するばかりでしたが、実際の作品はこう、なんというか……といった趣でした。

 いや、その、好きなんですよ!! 上の方にいますから!! ただ、「差別」というデリケートな問題を取り扱う割に描写が粗雑に過ぎるとか、「差別」はあくまで舞台設定であり核にあるのは光太郎と信彦の因縁だと考えてもそれならそれでもっと二人の関係を掘り下げるべきだろとか、シンプルにキングストーンの描写がぼんやりし過ぎてわかりにくいとか、物語の根幹に関わる部分への文句が山ほどあるのは事実で、だから感想を書こうとするとどうしても最初に不満が出てくるというか……。

 ただやはり、それでも僕はこの作品が好きで。あまりに歪であまりに粗削りだけど、豪華キャストによる渾身の演技合戦や、外部のスタッフが関わっているからこそロケーションや方向性がオンリーワンの個性を発揮しているアクション面、制作陣が『BLACK』にハマってしまった結果生まれたと考えられるストーリーや「変身」周りの描写の手触りなど、光る面は本当に眩しいまでに輝いてたと思うんですよね。最終回の光太郎と信彦の決戦は変身シーンからライダーキック・パンチに至るまで終始見惚れてしまうほど良いし、『BLACK』へのオマージュに関しては自分が原作を視聴すればもっと味が出てくるような気がしている。

 「完成度が高い」と「好き」は必ずしも一致するものではないけれど、ここまで乖離している例も珍しいな……と。不満は山ほど思い浮かぶのに、それでも好きなシーンは鮮烈に頭の中に残っている……光太郎と信彦の鏡合わせの同時変身を何度も見返してしまう……。好きです。

 

 

第5位 チェンソーマン

第12話 日本刀VSチェンソー

 ここまで上の順位なのにまだ文句を言うのかと怒られそうなんですけど、この作品に関しても複雑な心境なんですよね。あの大傑作漫画『ファイアパンチ』の作者である藤本タツキ先生が、その作家性をエンタメに100%昇華したネクスト傑作漫画。そのアニメ化なら、もうちょい面白くできたんじゃないか……特にチェンソー状態での戦闘の盛り上がらなさ(単純にチェンソーCGの造形も動きも面白くないのが辛い、デカブツ相手だと本当に見応えがない)は……あとエンディング毎週変更に関しては「話題性」以外の理由が1ミリも感じられない……せめて毎週その話の余韻に合うような、それこそ中盤で一瞬見せた方向性をずっとやってくれれば……。

 が、終わり良ければ総て良しじゃないけれど、その不満の半分くらいは最終回で浄化されてしまっているんですよね。人間大サイズでの斬り合いだからか、チェンソーVSサムライソードはチェンソー状態の戦闘なのに物凄い迫力とカタルシスがあったし、最後に流れた「ファイトソング」はタイミングもお話の余韻へのマッチ具合も完璧だった。

 また、牛尾憲輔さんによる最強の劇伴や、それぞれのキャラクターで100%魅せてくれた声優さんの演技、それらと実写映画指向の演出の組み合わせによる戦闘なし回の異常な面白さと、先述の不満以外は満足度の高い部分が多く、総合的には良いアニメ化だったんじゃないかなと思います。今回の良いところを伸ばして欠点を排したくらいの、それこそ最終回のようなバランスでレゼ編が見たいぜ……!

 

 

第4位 仮面ライダーギーツ

仮面ライダーギーツ VOL.1 [DVD]

 諸事情あって『リバイス』は年明けから見れていなかったので、自分としては大分お久しぶりな仮面ライダー作品。『エグゼイド』『ゼロワン』の高橋脚本と、『キバ』『オーズ』『鎧武』の武部Pということで、作品や内容の傾向を見ると期待できる(『ゼロワン』だけが不安要素)布陣だったので、ライダーへのブランクもあって放送を楽しみにしていた作品。そして、実際に視聴してみても、ちゃんと面白くて自分の中の日曜日への期待を高めてくれました。

 まず1話で即「ライダーの死」「ゲームの終了と世界の創造」を描く思い切りの良さに痺れたし、その後のゲストを一切呼ばずにゲーム内容とライダー達の戦いだけで番組を回していく方針には新鮮な作劇の面白さを感じられました。「邂逅」編の終盤に関しては流石に呆気なさすぎるだろとは思ってしまったけど、続く「陰謀」編では「邂逅」編で積み上げたものを下敷きにしながらも、前のめりなゲーム展開と英寿とデザグラというお話の中心にある要素への踏み込んだ描写で、ちゃんと気持ちを元に振り戻してくれる。

 ギミックやキャラクターをゴリ押すのではなく、「世界を救い願いを叶える」デザグラで戦いを通して、12話と16話の英寿・景和に台詞に表れているような、ライダー達の「願い」の強さと尊さをテーマとして描いているのもめっちゃ好きです。最新話の種明かしで、その「願い」を巡る戦いが第三者達のエンタメとなっていた、という構図が判明するのも含め、テーマと連続ドラマとしてのヒキ、仮面ライダー的なバトルの要素が見事に噛み合っているなあと。この安心感ある番組があと9か月も続くの、精神衛生に良すぎますね……。

 

 

第3位 風都探偵

第9話『閉ざされたk/究極は二人で一人』

 今思い返しても、面白かったな……。

 『風都探偵』の大本にある『ダブル』は、平均の打点がえげつなく高くてなおかつ節目節目の盛り上がりも凄く当然のようにキャラクターも魅力的という、エンタメのお手本のような作品だったけど、その完成度の高さを引き継いだ正当続編が、120点のクオリティで映像化していました。

 まず仮面ライダードーパントを作画で描くというのに度肝を抜かれたし、それによる戦闘の迫力をこれでもかと見せつけてきた1話冒頭のビギンズナイトを見て変な声が出そうになったし、2話で戦闘だけでなく「変身」もとんでもない気合いを入れて描いたのを見て勝利を確信した。他にも、「W-G-X」を戦闘用の挿入歌にとっておきなおかつOPの「Private Eye」を最終回で流す音響の「わかってる」感に、ダブルプリズムエクストリームによる決着&ときめの過去への一時的な決着&裏風都サイドの絆の描写&圧倒的なヒキの強さ、を併せ持った5巻をラストエピソードにするために4巻をカットできる制作陣の判断力と、とにかくあらゆる面で素晴らしいアニメ化だったと確信している。

 2期の続報は今のところ一切出されていないけど、一度こんなの出されたら続きも見たくなるに決まってるので、なんとかして制作にこぎつけて欲しいですね。頑張ってU-NEXTも入るしさ……何故かYoutubeでビギンズナイトをカットした1話を配信するという性格が捻じくれた宣伝のことも忘れるからさ……頼んます……。

 

 

第2位 平家物語

平家物語 アニメーションガイド

 アニメは好きだけど年に気になったのを6タイトル見るくらいだし、そんな自分がこんな表現を使ってはいけないかもしれないけど、今年、いやここ数年でも屈指の傑作アニメーションだった…。

 原作は歴史的名作なので内容は当然保証されてるとして、主人公のびわ(=琵琶法師?)に関連するオリジナル要素、人の未来と過去を見ることが出来る「傍観者」たるびわが平家の姿を近くで見届け、その物語を祈りをもって語ったのが「平家物語」かもしれない…という構造が本当に素晴らしかったです。

 特に、その構成を活かして所々場面で未来のびわ平家物語の原文を「語り」として入れる演出の迫力や、最終回の登場人物達が「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」と誰もが知っている一文を語って締めくくるラストには、思わず涙を零しそうになってしまいました。

 また、単純にアニメーションとして作画と演出のクオリティが高く、見ていてこんなに心地良くなれる映像はそうそうないよな、と。平家物語だからと日本伝統の楽器のみを使うのでなく、普通にロックなどポップな音楽をとり入れながら、しかし物語にしっかり沿って、張り詰めるような感覚も同時に孕んだような劇伴も好きだし、具体的な台詞では全てを語らない、暗喩や視覚的な表現に満ちた映像は本当に最高だし。とにかく、あらゆる面において完成度が高い作品だった……。

 

 

 

 

 

そして、栄えある(?)第一位は……

 

 

 

 

 

 

第1位 暴太郎戦隊ドンブラザーズ

スーパー戦隊シリーズ 暴太郎戦隊ドンブラザーズ Blu-ray COLLECTION 1

 井上敏樹脚本という点に興味を引かれながらも、前作の『ゼンカイジャー』と自分の相性が引くほど悪かったトラウマもあって、スルーする予定だった『ドンブラザーズ』。しかし、戦隊好きな友人に激推しされ、仕方なく騙されたと思って3話まで見たら……ハマってしまった……今年一面白かった番組だと断言できるほどに、好きになってしまった……。

 ネジが飛んでるとしか思えない発想やアイデアから生まれたキャラクター達が、各々の人格でぶち抜いた行動をとって突き進み、その結果何故か縦軸の話が意外性と納得を伴って進行したり、びっくりするほど綺麗なオチに着地したりする。暴れ野郎としか言いようがない進行と、正反対の方向性を持った着地点、それらを織り成す個性的過ぎるキャラクター達……どの味も色も濃いのに、どういうわけか奇妙に共存している。

 この唯一無二のバランスが、とにかく見ていて癖になるんですよね。僕が特に好きなのが先代サルブラザーや怪盗志望の女の子が出てくる回のようなゲストエピソードで、狂った過程の果てに提示されるオチの清涼感と余韻が本当に良い……。

 普通じゃ成り立たないような構造のエンタメが、巧な脚本とそれを理解したスタッフとキャスト陣の怪演で成立してしまっている。ので、オールスター要素が入っている意味がほとんどない(『ゼンカイジャー』もそうだけど、わざわざオールスター要素を入れるならちゃんと話の本筋に絡めてレジェンドも出して欲しい、それ以外だったら一切触れるべきではないと思う)とか、ロボ戦の消化試合感が尋常じゃないとか、そんな細かい欠点も帳消しになるんですよね。印象としては、見終えた後には激しすぎる展開の楽しさとオチの衝撃or余韻だけが残る。

 もう、最高に面白いとしか言いようがないです。多分自分は戦隊と相性が悪いんだけど、それを越えてくる面白さ。苦手意識を塗り替えてくれるほどの面白さ。もうすぐ『ドンブラザーズ』は終わってしまうけど、その怒涛(になるであろう)クライマックスが、楽しみで仕方がないです。

 

 

 

 

 

 というわけで、とりあえず、テレビ編でした。文句を言いつつも大半の作品は楽しめたし、特に1位に関しては生涯にわたって見返すような作品に出合えたという感覚があるので、なんだかんだ今年も良い年でした。

 大分駆け足で書いたので内容は薄いですが、一旦、ここで筆を置かせていただきます。あとは映画編……いけるのか……?

 

 

 

間に合いました。

sasa3655.hatenablog.com

 

感想『小説 仮面ライダークウガ』 13年越しに描かれた「理」と「現実」

sasa3655.hatenablog.com

 原点にして頂点、様々な個性を持った平成ライダー作品群の中でも一際異彩を放つ作風で、一種の伝説のような存在になっている番組。ファンの間でのリスペクトも公式の取り扱いも、どこか以降の作品と一線を画すような雰囲気をまとった、最初の「平成ライダー」……『仮面ライダークウガ』。

 

 今年の3月、全話を完走し感想ブログにまとめた際の記憶を辿ると、僕の中で『クウガ』で最も強く印象に残った特徴は、作中におけるロジックを徹底的に突き詰め、どこまでも現実に近い世界を描こうとすることだったのだと思う。

 「子ども向けの特撮ヒーロー番組」という自らの立ち位置に甘えることなく、ヒーローが自己犠牲とも捉えかねない行動をとる理由を、怪人の出現が人間社会に与える影響を、ヒーローと怪人という超常的な存在に対する警察の対応を、「怪人は倒されると爆発する」ということの意味を、ヒーローと怪人の戦闘の中で展開される攻防のロジックを、真摯に取り扱い作劇に反映し続ける。作品のリアリティに、展開に宿る「理」に一切妥協しないその姿勢は、わかりやすいエンタメ要素の排除などの弊害を伴いながらも、最後まで貫かれ続けることで無二の個性として成立した。その個性こそが、『クウガ』が多くのファンの心を未だ離さない理由でもあった。

 また僕自身も、そんな『クウガ』の作風に相性的な問題を感じつつも、ヒーローが怪人を排除する手段もまた暴力でしかないという葛藤、数多のヒーロー番組が抱える根本的なジレンマすらも「理」をもって描くその覚悟に、作中における五代くんの決意に被って見えるようなそれに、最後には心まで感服してしまった。率直に言えば、『クウガ』という作品を、心の底から好きになってしまった。

 

 そして、である。ここから本題なのだが、そんな『クウガ』には後日談に位置する作品が存在する。現在絶賛連載中の『風都探偵』のような、公式による正当続編といった立ち位置とまではいかないが、確かにあの劇的な結末の「後」を描いた作品。それが、今回感想を書く『小説 仮面ライダークウガ』である。

 

 『クウガ』がその内容でもって特撮ヒーローの世界に新たな道を切り開き、五代くんがその涙で悲痛なまでの覚悟を示してから13年後に発売された、続編。長い時間を経たこの現実において、『クウガ』はどのような物語を展開したのか。かつて多くの人を熱狂させた『クウガ』の「理」を追求する姿勢は、現代において、作品が一度完結した後の状態において、どのように描き出されるのか。

 『クウガ』を見終えてから数か月が経ったある日、ふと思い立って『小説 仮面ライダークウガ』をAmazonで購入し、その到着を待って日常生活を過ごす中、常に頭の片隅に上記のような疑問が浮かんでいた。それはある種の不安である以上に、期待としての感情としての側面大きかったのだろう。そこに、『クウガ』が「理」の追求を行わず安易な「続き」を作ってしまうのではないかという懸念は、1ミリたりとも存在しなかった。『クウガ』がそんなことをするはずがないと、きっと何か新しい形で「理」の伴ったメッセージを提示してくれるだろうという思いを大前提として、僕は届いた『小説 仮面ライダークウガ』の頁をめくり始めた。

 

 

 

 

(以下、『小説 仮面ライダークウガ』のネタバレありです)

 

 

 

 

 

小説 仮面ライダークウガ (講談社キャラクター文庫)

 まず、読み終えた時の印象を一言で言えば、「期待通り」の作品だった。先述の自分の期待を全く裏切らず、むしろこちらの想像を上回るような熱量で、『小説 仮面ライダークウガ』は「理」を持った物語を描いていた。

 その「理」の例としては、本当に様々なものを上げることができる。小説という媒体を活かし未確認への対応の特例化を認めたマルエム法の条文を本文にそのまま羅列してみたり、よくツッコまれる一条さんが携帯が鳴って未確認に見つかってしまう大ポカに一応の理屈をつけてみたり。この二つの行っている「本編の補完」以外のベクトルでも、未確認が虐殺を行う際の方法を科学的な用語を用いて丁寧に説明する(「怪人にこういう能力があってそれで殺されてしまう」で済まさない)部分なんかは、非常に濃い『クウガ』らしさを感じることができた。

 

 しかし、だ。とりあえずいくつか具体例を挙げてはみたが、『小説 仮面ライダークウガ』における「理」の本懐はそれらの中にはない。それらはあくまで細かい部分部分の作り込みであって、読後感として強烈な『クウガ』らしさを印象に残せるものではない。

 僕が『小説 仮面ライダークウガ』を読んで最も『クウガ』らしさを感じたもの。それは、物語の内容とそれを作っていく描写、その両者に見られる共通の方向性だった。

 いや正確に言えば、安直に『クウガ』らしいなんて言うのははばかられるような、見方によってはテレビ本編に反するような内容こそが、最も印象に残った。ある意味では『クウガ』らしくないけど、別の視点ではとても『クウガ』だ。一見『クウガ』らしくないように思えるその姿勢が、突き詰めて考えると最も『クウガ』らしい。

 その方向性とは即ち、「理」を追求する姿勢、その過程で行われるテレビ本編の「余白」への明確な言及である。

 

 

その後のライダー作品と比べると『クウガ』は勧善懲悪的に見えるという意見は、僕も理解できるし、そういう考え方もあるんだなあとは思うんですよ。

 突然引用したのは、2013年に発行された平成ライダーのムック本『永遠の平成仮面ライダーシリーズ 語ろう! クウガ アギト 龍騎』中の、評論家の切通理作氏が『クウガ』について述べている一文だ。

 切通理作氏が言っているように、『仮面ライダークウガ』という作品は、その構図や台詞を見ると非常に「勧善懲悪」な作品に見える。グロンギは許されざる絶対悪であり、それを打ち倒す警察とクウガは正義の味方。バラのタトゥーの女は人間がグロンギのようになりうる可能性を指摘したが、その言葉を受け止めたのは一条さんだけであり、ほとんどの登場人物は自分達の行動に確信を持っている。五代くんを戦わせてしまったことに後悔があったとしても、未確認を全滅させたことの是非は作中で問われることは一切ない。

 ただ、最初にこの文を読んだ時、自分は違和感と驚きを感じた。未確認を全滅させることが民族虐殺のように見える、という批判への反論の文脈の中ではあるけれど、「勧善懲悪」という言葉がいまいち『クウガ』にしっくり来なかった。

 この言葉の後、切通理作氏は未確認の描き方から「勧善懲悪」を読み取る解釈に、ラヴクラフト的な闇の存在への畏敬の表現を根拠に反論しているが、自分の場合は異なる理由から「勧善懲悪」に違和感を覚えていた。テレビ本編の『クウガ』が、非常に「余白」のある物語と映像を提供していたから、そこに声に出されている台詞の「勧善懲悪」性に反するものが描かれていたから、僕は『クウガ』は本質的には勧善懲悪ではないと感じたのだ。

 

 

EPISODE 49 雄介

 「余白」。足りないところや描かれてないところがあるという意味ではなく、明確に言葉にしない部分があるという意味での、余白。総括ブログでは触れなかったが、僕にとって『クウガ』は、「理」を追求する物語であると同時に、とても豊かな「余白」を持った作品だった。

 

 その「余白」の最も大きな例として、『クウガ』終盤の「暴力」というテーマへの向き合い方がある。

 先述したように、特撮ヒーローにおけるお約束ごとをなあなあにせず、むしろリスペクトすら持ってリアリティを付与していく『クウガ』は、終盤に来て、全てのヒーローが抱える「結局は暴力で解決してしまっているヒーローも悪なのではないか」という矛盾すらも取り上げた。グロンギを殺害するために強力すぎる兵器を作り出した人間は、グロンギと道を同じくするだろう。クウガの持つ最強の形態は、ン・ダグバ・ゼバと同じ「究極の闇」の力。グロンギと人間、クウガが本質的には同じものだという構図をとることで、『クウガ』はシビアな問いを投げかける。

 その果てに五代くんは理性を保ったまま「凄まじき戦士」に変身してダグバを撃破し、一条さんもバラのタトゥーの女の言葉を聞きながらもグロンギのようにはならないと決意する。そんな形で悪と正義の境界線は引かれるが、その根本にあるもの、五代くんが苦しみ続けた「暴力」の辛さと苦しみは、明確な台詞の形をとって、明確な終止符を打つことはない。

 いや、正確に言えば、中盤の椿の「俺を殴って、どんな気がした? 嫌な感じがしただろう。それをあいつはずっとやってるんだよ」、一条さんの「こんな寄り道をさせたくなかった」など、周りが彼を気遣う描写ははっきりと描かれる。ただ、五代くん自身が暴力の苦しみにどう決着をつけたのか、という本質の部分の解釈は、ある程度視聴者に任されているのだ。変身解除した五代くんが見せた涙、遠い国の海岸で彼が自分の拳を見つめる描写。たったそれだけの少ないヒントに、「余白」に、むしろ作品の結論を雄弁に語らせている。

 そんな「余白」で多くのものを語っている『クウガ』だからこそ、具体的に現れている描写を拾うと勧善懲悪な作品に感じる。神崎先生関連のエピソードに見える微妙な説教臭さや、主要人物の多くがグロンギと道を同じくする危険性を認知しない展開、最終回の「悪の権化を倒して一条さんに別れを告げた五代くんは冒険野郎に戻った」という筋への多くの登場人物の認識のみを考慮すると、グロンギとの決着は画一的な「正しさ」「ヒーロー性」で相手を「悪」とみなして行われた虐殺とも捉えられかねない。

 逆説的に言えば、「余白」で語られている五代くんの苦しみと答えこそが、『クウガ』の本質なのだ。一見した「勧善懲悪」性よりも、「余白」で見せた葛藤や結論こそが、決して善悪の一線で分けて暴力を肯定することはしないのが、『仮面ライダークウガ』という作品なのだ。そしてそんな本懐の部分を明確な台詞にせず、「余白」に委ねる手法そのものが、『クウガ』の特徴の一つ、一種の『クウガ』らしさなのだ。そう、僕は思う。

 

 

EPISODE 43 現実

 しかし、『小説 仮面ライダークウガ』は、そんな「余白」に対して様々なものを書き足していく。続編である以上は最低限消化すべきというラインを超えて、いっそ賛否すら別れそうなほどに、強く踏み込んでいく。

 「悪の権化を倒して一条さんに別れを告げた五代くんは冒険野郎に戻った」という登場人物の認識、僕も一応は受け止めていた展開にも、鋭いメスが入れられた。五代くんが別れを告げて旅に出たのいうのは、一条さんの嘘。本当は、五代くんは一人で雪山から消えたのだ。確かに不自然ではあった(48話ラストの鮮烈で悲劇を予感させる結末からは穏やかな旅立ちは想像しがたい)、しかしそういう描き方をすることで救いになっていた最終回の真実を、『小説 仮面ライダークウガ』は描いた。それどころか、海辺でサムズアップする五代くんすら一条さんの夢だったかもしれないと、作品の最後を締めくくったシーンにまでも現実的な可能性を仄めかす。

 他にも、様々な形で『小説 仮面ライダークウガ』は本編の絶妙な距離のとり方を覆していった。本編ではあくまで一条さんの過去と信念を描くための道具に留まった(その想いが成就しないであろうことはお話の主題にはならなかった)望見の恋心も、「暴力」というテーマへの繋ぎになりつつも物語として明確な和解や決着を見せなかったEPISODE 43の一条さんと実加の関係も、重苦しいまでのリアリティでもって取り上げた。本編の結末が「グロンギのようにはならないように」という決意で終わった、未来への希望だったのに対して、『小説 仮面ライダークウガ』は「13年間の歳月」という、かつて未来だった「今」の現実を、嫌というほど見せつけてきた。


 それを、『クウガ』らしくない試みだと感じた。実は以前に別の平成ライダー小説の感想を漁っていた際に偶然『小説 仮面ライダークウガ』への賛否を目にしたことがあったのだが、その記憶が大きな納得と共に蘇った。

 これは確かに、賛否が別れるだろう。というか自分自身、最終回の五代くんが夢に過ぎなかったかもしれないという描写に、彼が再び拳を握らなければならないということに、あの結末から再び戦いが始まってしまうというそもそもの前提に、拒否反応を覚えてしまっている。特に最初のものに関しては、五代くんが拳を見つめるようなカットがちゃんとあった(完全に元通りでハッピー、なんてオチではないと示していた)ことも考えると、わざわざ夢想に落とすことはなかったのではないかと、そういう疑念を抱いてしまっている。

 

 

S.H.フィギュアーツ 仮面ライダークウガ マイティフォーム

 ただ、それと同時に、これこそが『クウガ』だろうと、何よりも『クウガ』らしい続編だと、そう思っている自分もいるのだ。

 確かに、描き方のアプローチという面では、少し本編とは異なるかもしれない。この物語の存在そのものが、本編の結末を壊してしまっているかもしれない。そういう意味では、『小説 仮面ライダークウガ』は『クウガ』らしくはないのかもしれない。しかし、かつて描かれなかった「余白」にメスを入れ、リアリティを伴った「続き」を描くのも、『クウガ』本編に見られた「理」への追求の姿勢の延長だと、そうは考えられないだろうか。

 

 先述した通り、自分にとって『クウガ』は、神経質なまでに「理」を追い求める番組だった。EPISODE 48の五代くんの涙に彼の決意を感じ、さらにその「暴力で敵を排除している」ことから逃げない姿勢に番組のお約束をお約束で片付けない方向性を重ねて勝手に滂沱の涙を流したほど、『クウガ』を見ていて「理」が印象に残ったのだ。「余白」の豊かさや登場人物達の暖かな関係、未来への希望に満ちた結末も好きだったが、「逃げない」ことこそがそれ即ち『クウガ』だったのだ。

 それ故に、『小説 仮面ライダークウガ』の余白を「理」と現実で塗り潰していく作り方に、究極の『クウガ』らしさを見出してしまった。かつて一度描ききったものだなんて、そのうえで委ねた部分があったなんて関係ない。当時の結末が、希望とイコールだったなんて関係ない。あれから13年が経って、私達は未だに動乱から抜け出せていない。未確認生命体との戦いほどではないにしても、現実には暴力と理不尽が溢れている。時間が全てを良い方に持って行ってくれるとは限らないし、間違いなんて何度繰り返したかわからない。

 そんな当然の現実をもって描くのなら、未確認がより狡猾なやり方で人を殺すことも、五代くんが再び戦ってしまうことも、本来の姿の「凄まじき戦士」が現れてしまうことも、全て納得がいく。むしろそうなってしかるべきだと、そんなことさえ思う。

 

 「13年越しの続編」という事実、それを踏まえたうえでの「理」の追求の最たるものが、終盤のゴ・ライオ・ダが実加に投げかけた台詞なのだろう。ある意味で一線すら超えてしまっている言葉が、日本に生きる人なら誰もが意識する現実に(解釈次第では倫理に反しているとすら言える形で)触れた文章が、この作品の方向性を端的に表しているのだろう。たとえ否定のニュアンスがあったとしてもあのような形であの出来事を取り上げることの是非を考えざるをえないけど、少なくとも、そのアプローチ自体は、「現実」に触れることを恐れない姿勢は、ヒーローものとして災害という「現実」から逃げることをよしとしない生真面目さは、とても『クウガ』らしい。

 

 また、『小説 仮面ライダークウガ』が描いた「理」、13年後の「今」は、絶望にのみ彩られていたわけじゃない。今作のラスト、海ほたるでのクウガとライオの戦い。ついに姿を現し変身した五代くんを追って、一条さんは決戦の地に辿り着く。かつての仲間達、その全員の助けを受けた彼は、ライダーキックを受けてなお余裕の笑みを浮かべる敵にクウガが再び拳を叩き込む直前、超高圧ライフルでもってライオにとどめを刺した。最後の一撃を決めたのは、五代くんではなく一条さんだった。

 一条さんは五代くんを冒険野郎のままにしてあげることはできなかった。また戦わせてしまった。それでも、決定的に命を奪う瞬間を、「暴力」の苦しさの一部を、肩代わりすることは出来たのだ。暴力そのものの是非の視点ではなく、彼というヒーローにそんな危ういものの一切を任せてしまっていた13年前から、一つ変わることができたのだ。それはほんの些細な違いで、実際最後の一条さんも大きな後悔を抱えたままだったが、たとえ小さくとも一歩は進んだ。それは、再び変身した五代くんに、少しは報いられたということではないのか。

 きっと前に進めている。全てを解決できたわけじゃないけど、13年の一切が間違っていたなんて、そんなことはない。2022年の「今」であっても、きっと。

 

 

 余白や希望を現実的な理屈でほとんど塗り潰してしまったという意味では、『クウガ』らしくない。でも、それだけの代償を払ってまで「理」を求める姿勢は、とても『クウガ』らしい。

 いつものように長々と述べてしまったが、つまりはそういうことなのである。そして僕にとっての『クウガ』らしさでは、「理」に重きが置かれていた。だから率直に言うと、平成ライダーの全媒体でのエピソードの中でも指折りに、今作を好きになってしまった。かつての自分という伝説を塗り替えた『クウガ』は、『小説 仮面ライダークウガ』は、間違いなく傑作だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



(いや、ほんとに、傑作なんですよ。テーマや作品のカラーとは別の話だから言わなかったけど、やっぱり作者がプロの小説家さんじゃないからどうしても文章に不自然さやくどさが生まれてしまいがちな平成ライダー小説とは思えないほどしっかり「小説」してたし、白いクウガの正体の種明かしも「おお〜!」ってなったし、終盤の満を持して現れる五代くんとか、その後基本4フォームを見事に使い分けてライオを追い詰めるところとか、五代くんに戦いをさせてしまったという事実があっても、それ以上にめっちゃかっこよすぎて、こう、涙出てきたんすよ…面倒な理屈を捏ねまくったけど、『小説 仮面ライダークウガ』、マジで傑作なのでオススメです…)

(あとこう、あの出来事に関する手触りにはやはり若干の懸念があるんですけど、それに触れるって行為自体は感動してしまうかな……方向性は違えど、根本の姿勢自体は『平成ジェネレーションズFOREVER』に近いところがあって……『ジオウ』公式読本で白倉さんが言ってたことと重なる部分もなくはなくて……いやアプローチ自体は本当に真逆なのでほとんどこじつけレベルなんだけど、やっぱり平成ライダー……ってなる……あっはいこれで終わりですありがとうございました……)